2025年3月9日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1218) 「シュマラウス」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

シュマラウス

suma-ran-us-i?
石・降る・いつもする・ところ
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
広尾音調津から国道 336 号「黄金道路」を南に向かうと「音調津覆道」がありますが、覆道、あるいはその西の「烏山」三角点のあたりの地名……だとされています(地理院地図の「地名情報」に記載あり)。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい地名が見当たりません。ただ『北海道実測切図』(1895 頃) には「ヒマラニシ」という地名?が描かれていました。

野塚!?

手元の資料を眺めてみたところ、『北海道地名誌』(1975) に次のような記述がありました。

 シュマラウス 野塚川の北海岸。
 島臼 (しまうす) 野塚川口の北海岸。アイヌ語「シュマ・ウシ」で, 石が多いの意。
(NHK 北海道本部・編『北海道地名誌』北海教育評論社 p.628 より引用)
あれ……。「野塚川口」と言えば、音調津よりも遥かに北のあたりです。確かに『北海道実測切図』には「エツキサイ」と「野塚」の間に「シュマウシ」という地名が描かれています。

行政区は音調津

ところが『角川日本地名大辞典』(1987) にはこんな記述も。

 しまらうす シマラウス <広尾町>
〔近代〕昭和23年~現在の広尾町の行政字名。もとは広尾町大字広尾村の一部。アイヌ語で岩,下り道のある所の意による地名。行政区は音調津(おしらべつ)。
(『角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)』角川書店 p.672 より引用)
お。「行政区は音調津」と書いてありますね。どことなく「比例は○○党」のような印象が

果たして「シュマラウス」という地名は実在するのか、また実在するのであればそれはどこにあるのか……というレベルからのスタートになってしまったのですが、『北海道地名誌』の「野塚川の北海岸」説はトラップの可能性がありそうに思えてきました。

「シュマラウス」を探す

ということで、改めて手元の資料で「音調津」と「ビタタヌンケ」の間に記された地名をまとめてみました。

大日本沿海輿地全図
(1821)
ヨシランヘ川タン子イシヨホンヒタ子シケ
蝦夷地名考幷里程記
(1824)
ヲシランベツルベシベツビタヽヌンケ
初航蝦夷日誌
(1850)
ヲシラベツフトルベシベシ
ヱコアヱウタ
チカフシウシ
ソウウシベ
タン子シヨ
チヨマナイ
レフシベ
トモチクシ
ビタヽヌンケフ
竹四郎廻浦日記
(1856)
ヲシラヘツヲクチシ峠
ヒナイ
ヒタヽヌンケ
辰手控
(1856)
ヲシラヘツヲクチシ峠
ルヘ(シ)ヘツ
ヲクチシ崎
ヒナイ
ヒタタヌンケ
午手控
(1858)
ヲシラルンベサトシランベヒタヽヌンケ
東西蝦夷山川地理取調図
(1859)
ヲシラルシベツムエケシ
ルウクシ
カムイサンヌイワ
アエワタラ
エマコエウク
チカフンウシ
ソウウシベ
タン子エシヨ
チヨマナイ
レフシ
トモチクシ
ヒタヽヌンケ
東蝦夷日誌
(1863-1867)
ヲシラベツブトレフンシユマ
ムエケシ
ルベシベツ
ヒナイ
エコアエウシ
ホロイソ
ソウウシベ
タンネソウ
チヨマナイ
レフシヘ
トムチクシ
ホントモチクシ
ビタヽヌンケ
改正北海道全図
(1887)
音調津ルウシ
ヒナイ
ビタヽヌンケ
永田地名解
(1891)
オシラルンベオㇰチシ
モイケシ
ルペㇱュベ
アイワタラ
チカㇷ゚ウシ
ト゚モチクシ
ピタタヌンケㇷ゚
北海道実測切図
(1895 頃)
オシラルンペ川ヒマラニシ
モイケシ
ルペㇱュペ
チカㇷ゚ウシ
ルーラノシ
ヨコマ
サマイクニプ
タン子ソー
シモチクワㇰカ
エクシペワタラ
ト゚モチクシ
オタオッチシ
ピタタヌンケㇷ゚川
十勝地名考
(1914)
オシラルンベヒマラヌシ
モイ・ケシ
ルペシンペ
チカプ・ウシ
ローラノシ
ヨロマ
サマイクンプ
タンネ・ソ-
シモチク・ワッカ
ドモチケン
オタ・オツ
ピ・タタ・ヌンゲプ
陸軍図
(1925 頃)
音調津オシラベツムイケシ
ルベシベツ
タニイソ
ピタタヌンケ
地理院地図音調津字シュマラウス
モエケシ
ルベシベツ
タンネソ
ビタタヌンケ

南端を「ビタタヌンケ」に置いたのは完全な失敗でしたね(汗)。まぁ、こんな日もあります。ということで「音調津」と「ルベシベツ」の間に絞ってみると……

大日本沿海輿地全図 (1821)ヨシランヘ川---
蝦夷地名考幷里程記 (1824)ヲシランベツ--ルベシベツ
初航蝦夷日誌 (1850)ヲシラベツフト--ルベシベシ
竹四郎廻浦日記 (1856)ヲシラヘツヲクチシ峠--
辰手控 (1856)ヲシラヘツヲクチシ峠-ルヘ(シ)ヘツ
午手控 (1858)ヲシラルンベ---
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)ヲシラルシベツ-ムエケシルウクシ
東蝦夷日誌 (1863-1867)ヲシラベツブトレフンシユマムエケシルベシベツ
改正北海道全図 (1887)音調津---
永田地名解 (1891)オシラルンベオㇰチシモイケシルペㇱュベ
北海道実測切図 (1895 頃)オシラルンペ川ヒマラニシモイケシルペㇱュペ
十勝地名考 (1914)オシラルンベヒマラヌシモイ・ケシルペシンペ
ルペシペツ
陸軍図 (1925 頃)音調津オシラベツ-ムイケシルベシベツ
地理院地図音調津字シュマラウスモエケシルベシベツ

随分とスッキリしたでしょうか。「ヲクチシ峠」と「ムエケシ」あるいは「モイケシ」が目立ちますが、「ムエケシ」あるいは「モイケシ」は現在の「字モエケシ」のことだと考えられます。

となると「ヲクチシ峠」は「音調津」と「モエケシ」の間と考えられるのですが、これは ok-chis で山の鞍部を意味すると思われるので、黄金道路の「モイケシ第1覆道」の南西あたりの可能性がありそうでしょうか。現在「字シュマラウス」とされる場所より南に位置するのではないかと想像されます。

「レフンシユマ」を探す

やはり有力情報としては『北海道実測切図』の「ヒマラニシ」ですが、東蝦夷日誌の「レフンシユマ」も気になるところです。

東蝦夷日誌には次のように記されていました。

(六丁卅間) ムエケシ(小澤、漁場) 灣の端と云儀。海中大岩有、是をレフンシユマと云。名義、沖の岩と云義。濱まで(二十丁三十間)ヲシラベツブトに到る。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.255-258 より引用)
「濱まで(二十丁三十間)」とありますが、二十丁三十間はだいたい 2.2 km ほどで、これは現在の「モエケシ」と「音調津」の間の距離とおおよそ一致します。

なお「ルベシベツ」と「ムエケシ」(=モエケシ)の間の距離も「六丁卅間」とあり、これも約 0.7 km ほどなので、このあたりの記録はかなり信用できそうに思えます。

陸軍図によると、「音調津」と「ムイケシ」の間には「海中の大岩」が複数存在していたように見えます。

音調津のすぐ南にある「海中の大岩」は、現在の「字シュマラウス」の位置とほぼ一致するのですが、南にも「海中の大岩」が描かれていますし、何よりも現在の「地理院地図」では更に多くの「海中の大岩」が描かれているので、残念ながら「レフンシユマ」の位置の特定は難しそうですね。

落石注意!

残された最有力情報は『北海道実測切図』の「ヒマラニシ」ですが、北海測量舎図には「ヒラニシ」と描かれていました。また『十勝地名考』には次のように記されていました。

ヒマラヌシ
 山あるいは岸などの高きところより、石の落ち来るところとの義なり。
(井上寿・編著『十勝アイヌ語地名解』十勝地方史研究所(帯広) p.94 より引用)
……何なんでしょうこれ。「ヒマラ」の部分が意味不明ですが、「ヒマラヌシ」が「シュマラウス」のことだとすると……あ! suma-ran-us だとすれば「石・降りる・いつもする」と読めるような……!

どうやら「レフンシユマ」(沖にある岩)は「シュマラウス」とは無関係で、更に言えば『北海道地名誌』の記述はやはりトラップだったようです。「シュマラウス」は、おそらく海沿いの「落石注意!」な場所をそう呼んだということなのでしょうね。suma-ran-us-i で「石・降る・いつもする・ところ」と考えられそうです。

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2025年3月8日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1217) 「音調津・コイカクシエオシラベ川・シンノシケオシラベ・コイポクオシラルンベ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
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音調津(おしらべつ)

o-sirar-un-pet
河口・水中の岩盤・ある・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
広尾町南部の地名です。いつも思うのですが当て字が見事だなぁ……と。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヲシラルシベツ」と描かれています。『北海道実測切図』(1895 頃) には「オシラルンペ川」と描かれていました。

海沿いの地名で記録が豊富だと思われるので、今回も例によって表にまとめてみましょう。

大日本沿海輿地全図 (1821)ヨシランヘ川-
蝦夷地名考幷里程記 (1824)ヲシランベツヲとは有るの訓。シラリは潮の事。
初航蝦夷日誌 (1850)ヲシラベツフト-
竹四郎廻浦日記 (1856)ヲシラヘツ-
辰手控 (1856)ヲシラヘツ-
午手控 (1858)ヲシラルンベ-
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)ヲシラルシベツ-
東蝦夷日誌 (1863-1867)ヲシラベツブト-
改正北海道全図 (1887)音調津ヲシラルシ川
永田地名解 (1891)オシラルンベ磯多キ處
北海道実測切図 (1895 頃)オシラルンペ川-
十勝地名考 (1914)オシラルンベ岩石多き磯
陸軍図 (1925 頃)音調津オシラベツ-

全体的に予想以上にブレが少なく、若干拍子抜けでしょうか。伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』に「シランヘ川」とあるのが目を引きますが、これは「ヲ」を「ヨ」に誤記したと言うことでしょうね。

永田地名解には次のように記されていました(改めて引用するほどのボリュームでも無いのですが)

O-shirar’un be   オシラルン ベ   磯多キ處
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.291 より引用)
o-sirar-un-pe で「河口・磯(水中の岩盤)・ある・もの(川)」と読めそうでしょうか。山田秀三さんの『北海道の地名』(1994) にも次のように記されていました。

今の音調津の音は,たぶんオシラルンペッ(o-shirar-un-pet 川尻に・岩・がある・川)あるいは un を省いたオシラル・ペッの形から残った名であろう。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.332 より引用)
そうですね。永田地名解は -un-pe としましたが、-pet の形での記録も多いですし、『東西蝦夷山川地理取調図』では -us-pet で記録されています。

行ったら,海に岩が見えないのでおやと思ったが,聞いて見ると漁港のテトラポッドが積んであるのは岩礁の上だし,それから南は海難があって恐れられていた大岩礁だとのことであった。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.332 より引用)
陸軍図でも「津」の字の南に岩礁が描かれていますし、地理院地図でも「音調津覆道」の東に岩礁が描かれています。河口から少し離れているのが気になりますが、o-shirar-un-pet で「河口・水中の岩盤・ある・川」と見て良さそうに思えます。

コイカクシエオシラベ川

koyka-kus-{o-sirar-un-pet}
東(北)・通る・{音調津川}
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)

2025年3月7日金曜日

小笠原海運「おがさわら丸」スイート乗船記(まだ見ぬ硫黄島編)

4 デッキのエントランス(3 デッキに向かう階段の横)には、青い間接照明で彩られた船内案内図があります。ド派手な演出ですが、乗船してすぐのところに巨大な船内案内図があるというのは理にかなっていますよね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

左舷側にも同様に、ド派手な間接照明で彩られたガントチャートがあります。

2025年3月6日木曜日

小笠原海運「おがさわら丸」スイート乗船記(船内うろうろ編)

引き続き船内をウロウロすることにします。6 デッキのエレベーター横には新幹線の車内とかで見かける電光掲示板が設置されていました。
この手の電光掲示板は、テキストデータを用意するだけで手軽に情報提供できそうなイメージがあります。デジタルサイネージと違って手間暇がそれほどかからないのがメリット……でしょうか?

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

懐かしの 5 デッキ

階段を降りて 5 デッキに向かいます。

2025年3月5日水曜日

小笠原海運「おがさわら丸」スイート乗船記(デジタルサイネージ編)

ショップ ドルフィンのある 6 デッキに戻ってきました。デジタルサイネージではポケモンのイラスト入りのマンホール(ポケふた)が紹介されていました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

デジタルサイネージの右隣の「小笠原村観光協会(父島)」と題された地図には父島の観光スポットがリストアップされていました。

2025年3月4日火曜日

小笠原海運「おがさわら丸」スイート乗船記(スカイデッキ編)

7 デッキの外部デッキとの出入り口には「スカイデッキ」と題された額が掲げられていました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

外部デッキは出航の際に散々歩き回ったのですが、「スカイデッキ」という場所には記憶がありません。

2025年3月3日月曜日

小笠原海運「おがさわら丸」スイート乗船記(ミニサロン南島編)

4 デッキ右舷側にある「自動販売機コーナーの一角に、こんな張り紙がありました。
コーヒー・ココア・スープ・お茶などの温かい商品が「3 デッキ後部 サロン南島にて販売中」とあります。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

竜宮城への道

ということで、4 デッキ最後部にやってきました。「ミニサロン南島」の案内があります。あ、「サロン」じゃなくて「ミニサロン」なんですね。

2025年3月2日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1216) 「ヲナヲベツ・オリコマナイ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ヲナヲベツ

inaw-kor-pe?
木幣(イナウ)・持つ・もの(川)
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
広尾美幌の南、黄金道路沿いの地名です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヲナヲヘツ」とあり、『北海道実測切図』(1895 頃) には「オナウケオッペ」と描かれています。黄金道路の「泉浜覆道」の西には「雄名尾別」という名前の四等三角点(標高 190.5 m)もあります。

また国土地理情報では「ヲナヲベツ」の南、音調津よりも更に南のモエケシに何故か「オナオベツ川」があるということになっていますが、これは錯誤の可能性が高そうな……?

手元の資料では以下の記述が見つかりました。「ヲナヲベツ」が「ヲナウヘツ」に化けて、「エナヲベツ」から「オナウケオッペ」に変化を遂げたものの、何故か「ヲナヲベツ」に先祖返りを果たしています。

初航蝦夷日誌 (1850)ヲナヲベツ川有。歩行渉り。上ニ滝有。
竹四郎廻浦日記 (1856)ヲナウヘツ-
辰手控 (1856)ホンヲナウヘツ-
東西蝦夷
山川地理取調図 (1859)
ヲナヲヘツ-
東蝦夷日誌 (1863-1867)エナヲベツ小川 ここにて木幣を作り神に手向し故此名有
改正北海道全図 (1887)ヲナヲコツヘ-
永田地名解 (1891)オナウケオッペ蔓掛ツルカケ
北海道実測切図 (1895 頃)オナウケオッペ-
十勝地名考 (1914)オナヲベツ「オナウケ・オツ・ベ」で「蔓掛け」
陸軍図 (1925 頃)オナオベツ-
北海道地名誌 (1975)オナオベツ「オナウケオッペ」(そこに鈎をおくところ)
地理院地図ヲナヲベツ-

「イナウの川」説

まず『東蝦夷日誌』ですが、次のように記されていました。

過てエナヲベツ(小川)、寛政度近藤最上此處より新道を切初しが故に、ここにて木幣を作り神に手向し故此名有と。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.258 より引用)
inaw-pet で「木幣・川」では無いかとのこと。文法的には若干の違和感がありますが、-us あたりが中略されたと考えれば違和感はクリアできそうです。

「蔓を掛けるところ」説

一方で永田地名解ですが……

O-nauke ot pe   オ ナウケ オッ ペ   蔓掛ツルカケ 往時山道ノ入口ナル瀧ノ傍ニ葡萄蔓ヲ懸ケ之レヲ攀援シテ上下セシ處ナリト「アイヌ」云フ「オナウコツペ」ハ「オ、ナウケ、オツ、ペ」ノ急言、「」ハ山腰「ナウケ」ハ掛ケル、「オツペ」ハ在ル處ノ義
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.291 より引用)
永田さんが熱弁を振るっている……ということは、自信のなさの現れだったりして……()。nawke ではなく nawkep であれば、『地名アイヌ語小辞典』(1956) に次のように記されていました。

nawkep, -i なゥケㇷ゚ 木かぎ。──自然の木の枝をそのまま利用してつくる。これで高い所にある枝を引きよせて果実を採集したり,山中で魚(マスなど)をとったが容器も縄もないというようなばあいに即席に木の枝を切ってこれを作り,5 本でも 10 本でもそれに剌して引いて来たりする。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.63 より引用)
永田方正は「ナウケ」を動詞と見ていますが、nawkepnawke-p だとすれば nawke という動詞的用法もあったのかもしれません。

山田秀三さんの『北海道の地名』(1994) にも、『東蝦夷日誌』と永田地名解の内容を承けた上で次のように記されていました。

ナウケという語を知らないが,木のまたを利用して作り,物を引っかける道具をナウケ・ㇷ゚という処から見ると,永田氏の書いたような意味があったのであろうか。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.332 より引用)
そうですね。その可能性もありそうです。

消えた「オナウケオッペ」の謎

ただ地味に気になるのが、永田方正の「オナウケオッペ」説は広汎に支持されているにもかかわらず、いつの間にか「ヲナヲベツ」に戻っている点です。これは地元では「『オナウケオッペ』じゃない『ヲナヲベツ』だ!」と認識されていたに他ならないと思われるのですね。

また nawke-ot という表現も個人的には違和感があったのですが、o-terke-ot-pe で「そこから・飛び越す・いつもする・ところ」という地名(現在の美深大手)があるので、o-nawke-ot-pe という地名があっても不思議はありません。

となると「オナウケオッペ」が何故「ヲナヲベツ」に「戻った」のかを考えたくなるのですが、o-nawke-ot-peo-nawke-pe になったとしても、「ヲナヲベツ」から「ケ」が消えたことが説明できないという問題が残ります。

「そこでいつも徒渉する川」?

さてどうしたものか……と思ったのですが、萱野さんの辞書には yanawe で「上った」を意味するとありました。そういえば wa で「徒渉する」という語もあったなぁ……と思って『──小辞典』を眺めてみたところ、

wa わ 【H 北;K】《不完》 水中を歩いてわたる; 徒渉する; かちわたりする。nay ~ 川を徒渉する。
(知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.142 より引用)
このように記されていました。主に北方で使われる用法っぽいところが気になりますが、o-{nay-wa}-ot-pet で「そこで・{徒渉する}・いつもする・もの」と読めたりしないかな……と。

「イナウを持つもの」?

ただ、ここで立ち塞がったのが『改正北海道全図』(1887) の「ヲナヲコツヘ」という記載です。数年の差しか無いとは言え、永田方正が「オナウケオッペ」という新解釈を持ち込む前に「コ」の音が記録されているところが(個人的には)重くのしかかります。

「ヲナヲコツヘ」自体はやや意味不明な感じもしますが、inaw-kor-pe で「イナウ・持つ・もの(川)」と読めそうにも思えるのですね。転訛に転訛を重ねて「ヲナヲコツヘ」となったところに、永田方正が「それらしい解釈の語」を合わせてきたのではないか……と。

オリコマナイ

ur-ka-oma-nay?
丘・上・そこに入る・川
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問点あり、類型あり)

2025年3月1日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1215) 「エビニマイ・美幌」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

エビニマイ

e-pinni-oma-i?
頭(てっぺん)・ヤチダモの木・そこにある・ところ
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
国道 336 号「黄金道路」の「フンベ第 1 隧道」の南側の地名です(地理院地図の「地名情報」に記載あり)。海沿いの地名だけあって記録も豊富なので、早速ですが表にまとめてみました。

大日本沿海輿地全図 (1821)フンヘヲマモイ-ビホロ川
蝦夷地名考幷里程記 (1824)--ビボロ
初航蝦夷日誌 (1850)フンベヲマナイヱヒヲアエヒヨロ
竹四郎廻浦日記 (1856)フンベマモイイヘニマヱヒホロ
辰手控 (1856)フンヘマモイイヒニマイ(山道)ヒホロ
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)フンヘヲマナイヌヒンナイヒホロ
東蝦夷日誌 (1863-1867)フンベマムイ(岩岬)エヘニマイ(岩山幷び)ビボロ
改正北海道全図 (1887)フンヘモイ-美幌
永田地名解 (1891)フンベ オマ ナイイベニ マイピ ポロ
北海道実測切図 (1895 頃)ワッカチヨコキイイペニマイピポロ川
北海道地形図 (1896)ワㇰカチヨコキイ-ピポロ川
十勝地名考 (1914)フンベエビニマイ-
陸軍図 (1925 頃)濱フンベ-美幌
地理院地図(地名情報)フンベ字エビニマイ
字エヒニマイ
美幌

どうやら「エヒヲアエ」「イヘニマヱ」「イヒニマイ」「ヌヒンナイ」「エヘニマイ」「イベニマイ」「イペニマイ」「エビニマイ」「エヒニマイ」というバリエーションが存在するとのこと。サンプル数 10 に対してバリエーションが 9 というのは、中々のバラバラっぷりですね……(汗)。

手元の資料の中では最も古そうな『初航蝦夷日誌』の記述は……

     ヱヒヲアヱ
同じく岩磯なり。其風景さまざま目を驚かせり。
松浦武四郎・著 吉田武三・校註『三航蝦夷日誌 上巻』吉川弘文館 p.353 より引用)
風光明媚な場所っぽいですが、それ以上のことは何もわかりませんね(汗)。

「エビニマイ」の詳細を検討するにあたっては、『東蝦夷日誌』に有力な情報が記されていました。

ビボロ〔美幌〕川を過て小石濱、(七丁五間)マタルクシ(小澤)名義は冬路越と言儀。昔し新道無りし頃に此上を越たる處のよし也。大岩崖の下を過、(一丁十間) エヘニマイ(岩山并び)、小瀧有。そうじて岩に當りて落、頗る風景の趣也。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.259 より引用)
この記述により、ビボロ(美幌)から「エヘニマイ」までの距離がおおよそ「八丁十五間」(約 900 m ?)であることがわかります。『北海道実測切図』では「イペニマイ」は「ピポロ川」のすぐ北に描かれていたので、当初は美幌集落の北端を流れる「舟上橋」のあたりかと想定していたのですが、実際にはもう少し北の、地理院地図の地名情報に「字エビニマイ」あるいは「字エヒニマイ」と表示されているあたりだと考えて良さそうです。

鎌田正信さんの『道東地方のアイヌ語地名』(1995) にも次のように記されていました。

イペニマイ
イベニマイ(営林署図)
 美幌から北へ 0.7 キロの小さな出先付近の地名。
(鎌田正信『道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】』私家版 p.25 より引用)
位置の推定について(0.2 km ほどの誤差があるものの)概ね一致したようです。

永田地名解には次のように記されていました。

Ibeni mai   イベニ マイ   ? 「アイヌ」云墜雪ノ爲メニ行人死シタレバ此名アリト
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.291 より引用)
おお、久しぶりに伝家の宝刀「?」が出ましたね。この解について前述の鎌田さんは次のように評していました。

場所がらこのような事故があることも考えられる地形ではある。イペ・ノ・オマ・イ(食物・充分・にある・所) とも解せそうであるが、どうも現地とあわない。何んともわからない地名である。
(鎌田正信『道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】』私家版 p.25 より引用)
「なんともわからない」というのは同感です。また『十勝地名考』には次のように記されていたのですが……

エビニマイ
 原称は「エベノマイ」にて、真西に向うところとの意なり。
(井上寿・編著『十勝アイヌ語地名解』十勝地方史研究所(帯広) p.92 より引用)
これまた「なんともわからない」ですね……。

ただ幸いなことに「エビニマイ」の場所はおおよそ推定できています。おそらくこのあたりだと思われるのですが……


仮にこの位置で合っているとしたなら、『十勝地名考』の「真西に向かうところ」は地名解ではなく単に場所の特徴を示していただけの可能性もありそうです。

そして「エヒヲアエ」「イヘニマヱ」「イヒニマイ」「ヌヒンナイ」「エヘニマイ」「イベニマイ」「イペニマイ」「エビニマイ」「エヒニマイ」について、鎌田さんが推測した解以外に考えられないか……という話になるのですが、e-pinni-oma-i で「頭(てっぺん)・ヤチダモの木・そこにある・ところ」あたりの可能性は……どうでしょうか?(誰に聞いている

美幌(びほろ)

pi-pi-oro?
小石・小石・ところ
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問点あり、類型あり)