2025年3月29日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1223) 「豊似湖」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

豊似湖(とよに──)

to-y-o-i??
沼・(挿入音)・ある・もの
(?? = 旧地図に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
猿留川の南支流である「豊似川」の流域に存在する、ハート型をしていることで知られる湖です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) では「トヨニトウ」が描かれていますが、現在の位置とはかなり異なっています。

北海道実測切図』(1895 頃) では、現在の位置に「トヨニトー」が描かれていました。湖の東の尾根には山道が描かれていますが、地理院地図には「∴」マーク(史跡・名勝・天然記念物を意味する)つきで「猿留山道」と記されています。

神霊有て──

『竹四郎廻浦日記』(1856) には次のように記されていました。

     ト ヨ イ
峻嶮暫くにして(一里半)南山峨々たる間に一つの沼有。是をトヨイと云。深き沼也。其上なる蹊より見るに至て清く見ゆ。此上の山をトヨイノホリと云。神霊有てむかしより此山へ夷人共鹿を追て上りし時に暴雨甚敷、雷電厳敷、よつて早々帰り来りしとかや云伝ふ。少々行峠。トウブチ峠ともまた沼見峠とも云よし。前後の眺望よろし。
松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読『竹四郎廻浦日記 下』北海道出版企画センター p.485 より引用)
「此上の山をトヨイノホリと云。神霊有て──」とあるのが気になりますが、東蝦夷日誌 (1863-1867) に詳細が記されていました。

予此岳に登ん事を弘化度通行の時謀りしに、支配人なる者の談に、文化頃、或役人此岳に登り給ひしや、五六分にして晴天忽ちくもり、此沼より雲立上り、大雷坤軸ちじくを碎く如く、雨車軸しやじくを流がし、其頂を窮めずして下り給ひぬ。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.237 より引用)
「昔、ある役人が豊似岳に登ろうとしたところ、途中で急に曇り空になり、沼から雲が湧き出て酷い雷雨になってしまったので諦めた」とのこと。それだけなら良かったのですが、話は更に膨らみ……

其後天保頃なりしが、松前の家來此岳に上らんと、土人のことわるを強て案内申附上り給ひしが、二三合目にしてまた空かきくもり、大雨盆を傾け、自ら戰栗せんりつして上り給はず、其御方三日を過て死し給ひしと聞。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.237 より引用)
ついに「其御方三日を過て死し給ひし」という話になっています。都市伝説のような趣も感じられますが、更に続きがあり……

其故土人も甚恐るゝ由申けるまゝ空しく心をもちて有しが、去々辰年〔安政三年〕又登山の事を謀しに、一昨寅年〔安政元年〕堀使君〔利煕〕の御家來登山の事を被仰付候問、無レ據案内者を出せしが、是また果して大雷大雨にて上り給はず下り給ひぬ。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.237 より引用)
二年前の 1856 年にも当時の箱館奉行だった堀利煕が登山を試みたものの、またしても酷い雷雨で登山を断念していたとのこと。

「豊似岳やべえ」という話は地元民にも知れ渡っていたのか、

依て土人其山靈のいちじるしきに恐れて、案内を申付といへども逃去りて、來る者無よしを以て答るが故、又空敷むなしく過たる、おかしくぞ有ける。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.237-238 より引用)
ガイドを依頼しても逃げ去ってしまうようになっていたのだとか。

豊似岳の神

ところが、(よせばいいのに)松浦武四郎も「豊似岳」への登山を敢行してしまうのですが、出発前に「豊似岳の神」が夢に出てきて、「豊似岳の神」が言うには「最近のアイヌは木幣イナウや酒を持ってこなくなった。もし木幣と酒を捧げてくれたら来年の大漁を約束し、疾病も流行しないようにする」とのこと。要は誰も酒を持ってこなくなったのでブチギレていたということに

武四郎は「豊似岳の神」の言う通りに木幣と酒を捧げて、無事に登山に成功するのですが、この山(トヨニヌプリ)は現在の「豊似岳」ではなく、2 km ほど東(豊似湖に近い)の「観音岳」のことみたいです。

カムイトウ

本題に戻りますが、「豊似湖」については次のように記されていました。

峠右の山の半腹の狹き道行に、(左り)カムイトウ〔神湖〕(周廻一里餘) と云、其深知る者なし(從往來水際まで貳百餘問)。水色如レ藍、山のふところに在る故、周圍高けれども其水増減なく、又流口もなし。是久摺くすり領なる摩周ましゆうたけの湖と同じ。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.240 より引用)
どうやら湖は「カムイトウ」と呼ばれていたとのこと。「豊似湖」あるいは「豊似岳」の由来が見えてきませんが、戊午日誌 (1859-1863) 「登武智志」に次のように記されていました。

トウフチノホリはホロヰツミ領分にして、サルヽ番屋を出立し、弐里半にしてトウフチ峠有。是則トウフチ山のつゞきなるが故に此名有るなり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.381 より引用)
「豊似湖」の南に猿留山道の峠があるのですが、この峠が「トウフチ峠」とのこと。松浦武四郎は「トウフチ峠」の東に「トウフチ山」があるとして、峠の名前を「トウフチ山」に求めていますが、もっとストレートに to-puchi で「沼・口」と考えたくなります(但し「峠」を puchi とする用例を知らないのですが)。

「トヨニ」と「トフチ」

東蝦夷日誌には「トヨニ〔豐似〕峠(左りトヨニ〔豐似〕岳、右トフチ岳)」とあり、「豊似峠」は「豊似岳」と「トフチ岳」の間に存在するとしています。戊午日誌「登武智志」に次のように記されていました。

 其峠の峯つゞきにして北面に当り、峨々たる一ツの峻嶺にして、其名義は此麓にカモイトウと云る周り凡一里計の深き沼有。よつて此名有りと。トウフチとは沼端と云儀也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.381 より引用)
「トウフチとは沼端と云儀」とありますが、この考え方には疑問が残ります。pet-cha で「川・岸」を意味するのですが、to-pet-cha であれば「沼・川・岸」となりますし、そもそも「カムイトウ」には流出河川がありません。

「トヨイ」は「トオイ」?

『竹四郎廻浦日記』は「一つの沼有。是をトヨイと云」と記していて、沼の名前が「トヨイ」だったと示唆していますが、「トヨイ」は to-o-i で「沼・ある・もの」だったのかもしれません。

北海道地名誌』(1975) にも次のように記されていました。

こちらの山は「ト・オ・イ」で沼ある所と解されている。東裾にカムイトウ(神の沼)と呼んだ豊似湖がある山。
(NHK 北海道本部・編『北海道地名誌』北海教育評論社 p.582 より引用)
ただ、それだと「トヨイ」の「ヨ」の音が出所不明になるので、to-e-o-i で「沼・頭・ある・もの」あたりの可能性も考えてみたのですが、to-y-o-i で「沼・(挿入音)・ある・もの」と考えるほうが現実的でしょうね(-y は意味を持たない)。

いずれにせよ、沼は to でしか無いので(あるいは kamuy-to)、「トヨイ」が沼の名前だったと考えることはナンセンスだとは言えそうです。

「トヨ」が「トヨ」に化けたのは、広尾の「豊似」も同様ですが、そもそもの地名の由来は全く関係無さそうです(偶然の一致)。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


0 件のコメント:

コメントを投稿