(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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豊似湖(とよに──)
to-y-o-i??
沼・(挿入音)・ある・もの
沼・(挿入音)・ある・もの
(?? = 旧地図に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
猿留川の南支流である「豊似川」の流域に存在する、ハート型をしていることで知られる湖です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) では「トヨニトウ」が描かれていますが、現在の位置とはかなり異なっています。『北海道実測切図』(1895 頃) では、現在の位置に「トヨニトー」が描かれていました。湖の東の尾根には山道が描かれていますが、地理院地図には「∴」マーク(史跡・名勝・天然記念物を意味する)つきで「猿留山道」と記されています。
神霊有て──
『竹四郎廻浦日記』(1856) には次のように記されていました。ト ヨ イ「此上の山をトヨイノホリと云。神霊有て──」とあるのが気になりますが、東蝦夷日誌 (1863-1867) に詳細が記されていました。
峻嶮暫くにして(一里半)南山峨々たる間に一つの沼有。是をトヨイと云。深き沼也。其上なる蹊より見るに至て清く見ゆ。此上の山をトヨイノホリと云。神霊有てむかしより此山へ夷人共鹿を追て上りし時に暴雨甚敷、雷電厳敷、よつて早々帰り来りしとかや云伝ふ。少々行峠。トウブチ峠ともまた沼見峠とも云よし。前後の眺望よろし。
予此岳に登ん事を弘化度通行の時謀りしに、支配人なる者の談に、文化頃、或役人此岳に登り給ひしや、五六分にして晴天忽ち暗 り、此沼より雲立上り、大雷坤軸 を碎く如く、雨車軸 を流がし、其頂を窮めずして下り給ひぬ。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.237 より引用)
「昔、ある役人が豊似岳に登ろうとしたところ、途中で急に曇り空になり、沼から雲が湧き出て酷い雷雨になってしまったので諦めた」とのこと。それだけなら良かったのですが、話は更に膨らみ……其後天保頃なりしが、松前の家來此岳に上らんと、土人の斷 を強て案内申附上り給ひしが、二三合目にしてまた空かき暗 り、大雨盆を傾け、自ら戰栗 して上り給はず、其御方三日を過て死し給ひしと聞。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.237 より引用)
ついに「其御方三日を過て死し給ひし」という話になっています。都市伝説のような趣も感じられますが、更に続きがあり……其故土人も甚恐るゝ由申けるまゝ空しく心を齎 て有しが、去々辰年〔安政三年〕又登山の事を謀しに、一昨寅年〔安政元年〕堀使君〔利煕〕の御家來登山の事を被二仰付一候問、無レ據案内者を出せしが、是また果して大雷大雨にて上り給はず下り給ひぬ。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.237 より引用)
二年前の 1856 年にも当時の箱館奉行だった堀利煕が登山を試みたものの、またしても酷い雷雨で登山を断念していたとのこと。「豊似岳やべえ」という話は地元民にも知れ渡っていたのか、
依て土人其山靈の著 に恐れて、案内を申付といへども逃去りて、來る者無よしを以て答るが故、又空敷 過たる、おかしくぞ有ける。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.237-238 より引用)
ガイドを依頼しても逃げ去ってしまうようになっていたのだとか。豊似岳の神
ところが、(よせばいいのに)松浦武四郎も「豊似岳」への登山を敢行してしまうのですが、出発前に「豊似岳の神」が夢に出てきて、「豊似岳の神」が言うには「最近のアイヌは武四郎は「豊似岳の神」の言う通りに木幣と酒を捧げて、無事に登山に成功するのですが、この山(トヨニヌプリ)は現在の「豊似岳」ではなく、2 km ほど東(豊似湖に近い)の「観音岳」のことみたいです。
カムイトウ
本題に戻りますが、「豊似湖」については次のように記されていました。從レ峠右の山の半腹の狹き道行に、(左り)カムイトウ〔神湖〕(周廻一里餘) と云、其深知る者なし(從二往來一水際まで貳百餘問)。水色如レ藍、山の懷 に在る故、周圍高けれども其水増減なく、又流口もなし。是久摺 領なる摩周岳 の湖と同じ。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.240 より引用)
どうやら湖は「カムイトウ」と呼ばれていたとのこと。「豊似湖」あるいは「豊似岳」の由来が見えてきませんが、戊午日誌 (1859-1863) 「登武智志」に次のように記されていました。トウフチノホリはホロヰツミ領分にして、サルヽ番屋を出立し、弐里半にしてトウフチ峠有。是則トウフチ山のつゞきなるが故に此名有るなり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.381 より引用)
「豊似湖」の南に猿留山道の峠があるのですが、この峠が「トウフチ峠」とのこと。松浦武四郎は「トウフチ峠」の東に「トウフチ山」があるとして、峠の名前を「トウフチ山」に求めていますが、もっとストレートに to-puchi で「沼・口」と考えたくなります(但し「峠」を puchi とする用例を知らないのですが)。「トヨニ」と「トフチ」
東蝦夷日誌には「トヨニ〔豐似〕峠(左りトヨニ〔豐似〕岳、右トフチ岳)」とあり、「豊似峠」は「豊似岳」と「トフチ岳」の間に存在するとしています。戊午日誌「登武智志」に次のように記されていました。其峠の峯つゞきにして北面に当り、峨々たる一ツの峻嶺にして、其名義は此麓にカモイトウと云る周り凡一里計の深き沼有。よつて此名有りと。トウフチとは沼端と云儀也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.381 より引用)
「トウフチとは沼端と云儀」とありますが、この考え方には疑問が残ります。pet-cha で「川・岸」を意味するのですが、to-pet-cha であれば「沼・川・岸」となりますし、そもそも「カムイトウ」には流出河川がありません。「トヨイ」は「トオイ」?
『竹四郎廻浦日記』は「一つの沼有。是をトヨイと云」と記していて、沼の名前が「トヨイ」だったと示唆していますが、「トヨイ」は to-o-i で「沼・ある・もの」だったのかもしれません。『北海道地名誌』(1975) にも次のように記されていました。
こちらの山は「ト・オ・イ」で沼ある所と解されている。東裾にカムイトウ(神の沼)と呼んだ豊似湖がある山。
(NHK 北海道本部・編『北海道地名誌』北海教育評論社 p.582 より引用)
ただ、それだと「トヨイ」の「ヨ」の音が出所不明になるので、to-e-o-i で「沼・頭・ある・もの」あたりの可能性も考えてみたのですが、to-y-o-i で「沼・(挿入音)・ある・もの」と考えるほうが現実的でしょうね(-y は意味を持たない)。いずれにせよ、沼は to でしか無いので(あるいは kamuy-to)、「トヨイ」が沼の名前だったと考えることはナンセンスだとは言えそうです。
「トヨ
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