2025年3月15日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1219) 「モエケシ・ルベシベツ・タンネソ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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モエケシ

moy-kes
湾・端
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
広尾音調津おしらべつの南、ルベシベツの北西の地名です。1980 年代の土地利用図には「モイケシ」とあり、陸軍図では「ムイケシ」となっていました。

北海道実測切図』(1895 頃) では「モイケシ」で、『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) では「ムエケシ」とあります。

地形図での表記は、揺れはあるものの一貫してカタカナですが、ジェイ・アール北海道バス日勝線のバス停は漢字で「萌岸」となっています。また「モエケシ」集落の西の山上には「岸」という名前の四等三角点(標高 142.1 m)があります。この三角点の読み方は不明ですが、「岸」の誤字である可能性が高そうな……。

松浦武四郎の各種記録では、何故か現在の「モエケシ」に相当する地名はスルーされているケースが多い(近藤重蔵が内陸部のルートを開削したことと関係があるか)のですが、東蝦夷日誌 (1863-1867) には次のように記されていました。

(六丁卅間) ムエケシ(小澤、漁場) 灣の端と云儀。海中大岩有、是をレフンシユマと云。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.255-258 より引用)
永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。

Moi keshi   モイ ケシ   灣端
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.291 より引用)
また『十勝地名考』(1914) にも次のように記されていました。

モイ・ケシ
 「モイ」とは静なるという心にして、ここは湾あるいは港をいう。「ケシ」とは端という意、函館の旧称臼岸(ウスケシ)、又厚岸(アッケシ) のケシと同意義なり。
(井上寿・編著『十勝アイヌ語地名解』十勝地方史研究所(帯広) p.94-95 より引用)
いずれも「湾の端」としています。実際の地形は「湾」と言うほどでは無いかもしれませんが、海岸線は陸側に入り込むような形で円弧を描いています。moy-kes で「湾・端」と見て良いかと思われます。

ルベシベツ

ru-pes-pet
路・それに沿って下る・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
広尾町モエケシの南東の地名で、同名の川も流れています。国道 336 号「黄金道路」は、ルベシベツとビタタヌンケの間を「重蔵トンネル」「黄金トンネル」「宝浜トンネル」などのいくつもの覆道で結んでいた海沿いのルートを廃して、「タニイソトンネル」(2,020 m)と「新宝浜トンネル」(2,438 m)という長大なトンネルで代替しました。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) に「ルウクシ」とあるのが、現在のルベシベツに相当すると思われます。『北海道実測切図』(1895 頃) には「ルペシュペ」という名前の川が描かれていました。陸軍図では(現在と同様に)「ルベシベツ」が地名として描かれています。

「黄金道路」旧ルートのトンネル(名称不詳)の西には「留別」という名前の四等三角点(標高 184.4 m)があり、また現ルートの「タニイソトンネル」の南側出口近くには「留蘂るべしべ」という名前の二等三角点(標高 243.7 m)があります。

この地名については、上原熊次郎の『蝦夷地名考幷里程記』(1824) に言及がありました。

ルベシベツ            番家
  夷語ルーベシペの略語なり。則、道なりに通る所と譯す。扨、ルーとは道の事。ベシとは其なりにと申事。ペは所。ベツは川の事にて、此川のなりに随ひ通路する故、地名になすといふ。
(上原熊次郎『蝦夷地名考幷里程記』草風館『アイヌ語地名資料集成』p.59 より引用)

「近藤氏の山道」

また永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。

Ru pesh be   ル ペシュ ベ   越路 直譯蹊ヲ下ル處近藤氏ノ山道ヲ開クヤ此ノ「ルベシベ」ヨリ針ヲ按シ「ピタタヌンケプ」ニ至ル
永田方正『北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.291 より引用)
「近藤氏」は近藤重蔵のことで、1798 年に国後・択捉を探検した際の帰路で荒天のために広尾で足止めを喰らったことから、私費を投じてルベシベツとビタタヌンケの間の道路を開削していて、これは蝦夷地(=北海道)における道路開削の嚆矢だとされます。

近藤重蔵が企画し下野源助(木村謙次)の指揮で開削した道路は、現在のルベシベツ川沿いを南下し、現在「ヒタタヌンケ川」とされる川の支流(かつて「コイカクㇱュピタタヌンケㇷ゚」と呼ばれた)に抜けたものと考えられます。

陸軍図には、ルベシベツから川沿いを遡り南に向かうルートのほかに、ムイケシ(=モエケシ)の西で山越えをして南に向かうルートが描かれています。

ところが『北海道実測切図』では、モイケシ(=モエケシ)の西で山越えするルートしか描かれていません。このルートは急勾配をものともせずに、最短距離を追求するアイヌ好みのルートのようにも見えます。

果たして「近藤重蔵ルート」はどっちだったのか……という疑問が出てきたのですが、『東蝦新道記』には「自留辺志別」「出鐚田奴月」と明記されていました。やはり「ルベシベツ」から南に向かうルートだったと見て間違い無さそうです。

『北海道実測切図』を見る限り、「近藤重蔵ルート」は音調津からルベシベツ河口まで(従前どおり)海沿いを通ることが忌避されたからか、モエケシの西を通る山越えルートに取って代わられたようにも思えます。この山越えルートも「黄金道路」の開通とともに廃れたようで、現在の地理院地図では一部の区間が描かれていません。

「道に沿って下る川」

閑話休題。永田方正は ru-pes-pe で「路・それに沿って下る・もの(川)」という一般的な形で記録していますが、『蝦夷地名考幷里程記』には「ルベシベツ」とあるので、ru-pes-pet で「路・それに沿って下る・川」と見ても良さそうです。

「ルベシベツ」という地名と「近藤重蔵ルート」の開削の因果関係は不明ですが、当時のアイヌが峠道の存在を知らなかったとは考えづらいので、もともと「ルベシベツルート」が存在し、それを下野源助(木村謙次)の指揮で「改良した」と見るのが自然かと思われます。

タンネソ

tanne-so
長い・水中のかくれ岩
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
広尾町ルベシベツとビタタヌンケの間の地名で、国道 336 号「黄金道路」の新ルートでは「タニイソトンネル」と「新宝浜トンネル」の間で唯一「トンネルではない」区間です。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「タン子エシヨ」とあり、『北海道実測切図』(1895 頃) には「タン子ソー」と描かれています。陸軍図では「タニイソ」という名前の地名として描かれています。

東蝦夷日誌 (1863-1867) には次のように記されていました。

(三丁廿間)タンネソウ(岩磯)、此邊昆布のみならず海草多きよしにて出稼でかせぎ多し。譯は長磯の義也。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.255 より引用)
山田秀三さんの『北海道の地名』(1994) にも、次のように記されていました。

タンネ・ソ(tanne-so 長い・磯岩) の意。海岸に波かぶり岩が並んでいる処の称である。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.333 より引用)
tanne-so で「長い・水中のかくれ岩」と見て良さそうに思えます。「東西蝦夷──」には「タン子エシヨ」とあり、陸軍図では「タニイソ」とありますが、これらは tanne-iso で「長い・水中の波かぶり岩」と認識されていた可能性もありそうですね。まぁ soiso もソー™大差ない……というか、事実上同一と見て良いかと思われます。

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