2025年3月9日日曜日

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北海道のアイヌ語地名 (1218) 「シュマラウス」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

シュマラウス

suma-ran-us-i?
石・降る・いつもする・ところ
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
広尾音調津から国道 336 号「黄金道路」を南に向かうと「音調津覆道」がありますが、覆道、あるいはその西の「烏山」三角点のあたりの地名……だとされています(地理院地図の「地名情報」に記載あり)。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい地名が見当たりません。ただ『北海道実測切図』(1895 頃) には「ヒマラニシ」という地名?が描かれていました。

野塚!?

手元の資料を眺めてみたところ、『北海道地名誌』(1975) に次のような記述がありました。

 シュマラウス 野塚川の北海岸。
 島臼 (しまうす) 野塚川口の北海岸。アイヌ語「シュマ・ウシ」で, 石が多いの意。
(NHK 北海道本部・編『北海道地名誌』北海教育評論社 p.628 より引用)
あれ……。「野塚川口」と言えば、音調津よりも遥かに北のあたりです。確かに『北海道実測切図』には「エツキサイ」と「野塚」の間に「シュマウシ」という地名が描かれています。

行政区は音調津

ところが『角川日本地名大辞典』(1987) にはこんな記述も。

 しまらうす シマラウス <広尾町>
〔近代〕昭和23年~現在の広尾町の行政字名。もとは広尾町大字広尾村の一部。アイヌ語で岩,下り道のある所の意による地名。行政区は音調津(おしらべつ)。
(『角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)』角川書店 p.672 より引用)
お。「行政区は音調津」と書いてありますね。どことなく「比例は○○党」のような印象が

果たして「シュマラウス」という地名は実在するのか、また実在するのであればそれはどこにあるのか……というレベルからのスタートになってしまったのですが、『北海道地名誌』の「野塚川の北海岸」説はトラップの可能性がありそうに思えてきました。

「シュマラウス」を探す

ということで、改めて手元の資料で「音調津」と「ビタタヌンケ」の間に記された地名をまとめてみました。

大日本沿海輿地全図
(1821)
ヨシランヘ川タン子イシヨホンヒタ子シケ
蝦夷地名考幷里程記
(1824)
ヲシランベツルベシベツビタヽヌンケ
初航蝦夷日誌
(1850)
ヲシラベツフトルベシベシ
ヱコアヱウタ
チカフシウシ
ソウウシベ
タン子シヨ
チヨマナイ
レフシベ
トモチクシ
ビタヽヌンケフ
竹四郎廻浦日記
(1856)
ヲシラヘツヲクチシ峠
ヒナイ
ヒタヽヌンケ
辰手控
(1856)
ヲシラヘツヲクチシ峠
ルヘ(シ)ヘツ
ヲクチシ崎
ヒナイ
ヒタタヌンケ
午手控
(1858)
ヲシラルンベサトシランベヒタヽヌンケ
東西蝦夷山川地理取調図
(1859)
ヲシラルシベツムエケシ
ルウクシ
カムイサンヌイワ
アエワタラ
エマコエウク
チカフンウシ
ソウウシベ
タン子エシヨ
チヨマナイ
レフシ
トモチクシ
ヒタヽヌンケ
東蝦夷日誌
(1863-1867)
ヲシラベツブトレフンシユマ
ムエケシ
ルベシベツ
ヒナイ
エコアエウシ
ホロイソ
ソウウシベ
タンネソウ
チヨマナイ
レフシヘ
トムチクシ
ホントモチクシ
ビタヽヌンケ
改正北海道全図
(1887)
音調津ルウシ
ヒナイ
ビタヽヌンケ
永田地名解
(1891)
オシラルンベオㇰチシ
モイケシ
ルペㇱュベ
アイワタラ
チカㇷ゚ウシ
ト゚モチクシ
ピタタヌンケㇷ゚
北海道実測切図
(1895 頃)
オシラルンペ川ヒマラニシ
モイケシ
ルペㇱュペ
チカㇷ゚ウシ
ルーラノシ
ヨコマ
サマイクニプ
タン子ソー
シモチクワㇰカ
エクシペワタラ
ト゚モチクシ
オタオッチシ
ピタタヌンケㇷ゚川
十勝地名考
(1914)
オシラルンベヒマラヌシ
モイ・ケシ
ルペシンペ
チカプ・ウシ
ローラノシ
ヨロマ
サマイクンプ
タンネ・ソ-
シモチク・ワッカ
ドモチケン
オタ・オツ
ピ・タタ・ヌンゲプ
陸軍図
(1925 頃)
音調津オシラベツムイケシ
ルベシベツ
タニイソ
ピタタヌンケ
地理院地図音調津字シュマラウス
モエケシ
ルベシベツ
タンネソ
ビタタヌンケ

南端を「ビタタヌンケ」に置いたのは完全な失敗でしたね(汗)。まぁ、こんな日もあります。ということで「音調津」と「ルベシベツ」の間に絞ってみると……

大日本沿海輿地全図 (1821)ヨシランヘ川---
蝦夷地名考幷里程記 (1824)ヲシランベツ--ルベシベツ
初航蝦夷日誌 (1850)ヲシラベツフト--ルベシベシ
竹四郎廻浦日記 (1856)ヲシラヘツヲクチシ峠--
辰手控 (1856)ヲシラヘツヲクチシ峠-ルヘ(シ)ヘツ
午手控 (1858)ヲシラルンベ---
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)ヲシラルシベツ-ムエケシルウクシ
東蝦夷日誌 (1863-1867)ヲシラベツブトレフンシユマムエケシルベシベツ
改正北海道全図 (1887)音調津---
永田地名解 (1891)オシラルンベオㇰチシモイケシルペㇱュベ
北海道実測切図 (1895 頃)オシラルンペ川ヒマラニシモイケシルペㇱュペ
十勝地名考 (1914)オシラルンベヒマラヌシモイ・ケシルペシンペ
ルペシペツ
陸軍図 (1925 頃)音調津オシラベツ-ムイケシルベシベツ
地理院地図音調津字シュマラウスモエケシルベシベツ

随分とスッキリしたでしょうか。「ヲクチシ峠」と「ムエケシ」あるいは「モイケシ」が目立ちますが、「ムエケシ」あるいは「モイケシ」は現在の「字モエケシ」のことだと考えられます。

となると「ヲクチシ峠」は「音調津」と「モエケシ」の間と考えられるのですが、これは ok-chis で山の鞍部を意味すると思われるので、黄金道路の「モイケシ第1覆道」の南西あたりの可能性がありそうでしょうか。現在「字シュマラウス」とされる場所より南に位置するのではないかと想像されます。

「レフンシユマ」を探す

やはり有力情報としては『北海道実測切図』の「ヒマラニシ」ですが、東蝦夷日誌の「レフンシユマ」も気になるところです。

東蝦夷日誌には次のように記されていました。

(六丁卅間) ムエケシ(小澤、漁場) 灣の端と云儀。海中大岩有、是をレフンシユマと云。名義、沖の岩と云義。濱まで(二十丁三十間)ヲシラベツブトに到る。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.255-258 より引用)
「濱まで(二十丁三十間)」とありますが、二十丁三十間はだいたい 2.2 km ほどで、これは現在の「モエケシ」と「音調津」の間の距離とおおよそ一致します。

なお「ルベシベツ」と「ムエケシ」(=モエケシ)の間の距離も「六丁卅間」とあり、これも約 0.7 km ほどなので、このあたりの記録はかなり信用できそうに思えます。

陸軍図によると、「音調津」と「ムイケシ」の間には「海中の大岩」が複数存在していたように見えます。

音調津のすぐ南にある「海中の大岩」は、現在の「字シュマラウス」の位置とほぼ一致するのですが、南にも「海中の大岩」が描かれていますし、何よりも現在の「地理院地図」では更に多くの「海中の大岩」が描かれているので、残念ながら「レフンシユマ」の位置の特定は難しそうですね。

落石注意!

残された最有力情報は『北海道実測切図』の「ヒマラニシ」ですが、北海測量舎図には「ヒラニシ」と描かれていました。また『十勝地名考』には次のように記されていました。

ヒマラヌシ
 山あるいは岸などの高きところより、石の落ち来るところとの義なり。
(井上寿・編著『十勝アイヌ語地名解』十勝地方史研究所(帯広) p.94 より引用)
……何なんでしょうこれ。「ヒマラ」の部分が意味不明ですが、「ヒマラヌシ」が「シュマラウス」のことだとすると……あ! suma-ran-us だとすれば「石・降りる・いつもする」と読めるような……!

どうやら「レフンシユマ」(沖にある岩)は「シュマラウス」とは無関係で、更に言えば『北海道地名誌』の記述はやはりトラップだったようです。「シュマラウス」は、おそらく海沿いの「落石注意!」な場所をそう呼んだということなのでしょうね。suma-ran-us-i で「石・降る・いつもする・ところ」と考えられそうです。

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