(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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シュマラウス
suma-ran-us-i?
石・降る・いつもする・ところ
石・降る・いつもする・ところ
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
広尾町音調津から国道 336 号「黄金道路」を南に向かうと「音調津覆道」がありますが、覆道、あるいはその西の「烏山」三角点のあたりの地名……だとされています(地理院地図の「地名情報」に記載あり)。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい地名が見当たりません。ただ『北海道実測切図』(1895 頃) には「ヒマラニシ」という地名?が描かれていました。
野塚!?
手元の資料を眺めてみたところ、『北海道地名誌』(1975) に次のような記述がありました。シュマラウス 野塚川の北海岸。
島臼 (しまうす) 野塚川口の北海岸。アイヌ語「シュマ・ウシ」で, 石が多いの意。
(NHK 北海道本部・編『北海道地名誌』北海教育評論社 p.628 より引用)
あれ……。「野塚川口」と言えば、音調津よりも遥かに北のあたりです。確かに『北海道実測切図』には「エツキサイ」と「野塚」の間に「シュマウシ」という地名が描かれています。行政区は音調津
ところが『角川日本地名大辞典』(1987) にはこんな記述も。しまらうす シマラウス <広尾町>
〔近代〕昭和23年~現在の広尾町の行政字名。もとは広尾町大字広尾村の一部。アイヌ語で岩,下り道のある所の意による地名。行政区は音調津(おしらべつ)。
(『角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)』角川書店 p.672 より引用)
お。「行政区は音調津」と書いてありますね。果たして「シュマラウス」という地名は実在するのか、また実在するのであればそれはどこにあるのか……というレベルからのスタートになってしまったのですが、『北海道地名誌』の「野塚川の北海岸」説はトラップの可能性がありそうに思えてきました。
「シュマラウス」を探す
ということで、改めて手元の資料で「音調津」と「ビタタヌンケ」の間に記された地名をまとめてみました。大日本沿海輿地全図 (1821) | ヨシランヘ川 | タン子イシヨ | ホンヒタ子シケ |
---|---|---|---|
蝦夷地名考幷里程記 (1824) | ヲシランベツ | ルベシベツ | ビタヽヌンケ |
初航蝦夷日誌 (1850) | ヲシラベツフト | ルベシベシ ヱコアヱウタ チカフシウシ ソウウシベ タン子シヨ チヨマナイ レフシベ トモチクシ | ビタヽヌンケフ |
竹四郎廻浦日記 (1856) | ヲシラヘツ | ヲクチシ峠 ヒナイ | ヒタヽヌンケ |
辰手控 (1856) | ヲシラヘツ | ヲクチシ峠 ルヘ ヲクチシ崎 ヒナイ | ヒタタヌンケ |
午手控 (1858) | ヲシラルンベ | サトシランベ | ヒタヽヌンケ |
東西蝦夷山川地理取調図 (1859) | ヲシラルシベツ | ムエケシ ルウクシ カムイサンヌイワ アエワタラ エマコエウク チカフンウシ ソウウシベ タン子エシヨ チヨマナイ レフシ トモチクシ | ヒタヽヌンケ |
東蝦夷日誌 (1863-1867) | ヲシラベツブト | レフンシユマ ムエケシ ルベシベツ ヒナイ エコアエウシ ホロイソ ソウウシベ タンネソウ チヨマナイ レフシヘ トムチクシ ホントモチクシ | ビタヽヌンケ |
改正北海道全図 (1887) | 音調津 | ルウシ ヒナイ | ビタヽヌンケ |
永田地名解 (1891) | オシラルンベ | オㇰチシ モイケシ ルペㇱュベ アイワタラ チカㇷ゚ウシ ト゚モチクシ | ピタタヌンケㇷ゚ |
北海道実測切図 (1895 頃) | オシラルンペ川 | ヒマラニシ モイケシ ルペㇱュペ チカㇷ゚ウシ ルーラノシ ヨコマ サマイクニプ タン子ソー シモチクワㇰカ エクシペワタラ ト゚モチクシ オタオッチシ | ピタタヌンケㇷ゚川 |
十勝地名考 (1914) | オシラルンベ | ヒマラヌシ モイ・ケシ ルペシンペ チカプ・ウシ ローラノシ ヨロマ サマイクンプ タンネ・ソ- シモチク・ワッカ ドモチケン オタ・オツ | ピ・タタ・ヌンゲプ |
陸軍図 (1925 頃) | ムイケシ ルベシベツ タニイソ | ピタタヌンケ | |
地理院地図 | 音調津 | 字シュマラウス モエケシ ルベシベツ タンネソ | ビタタヌンケ |
南端を「ビタタヌンケ」に置いたのは完全な失敗でしたね(汗)。まぁ、こんな日もあります。ということで「音調津」と「ルベシベツ」の間に絞ってみると……
大日本沿海輿地全図 (1821) | ヨシランヘ川 | - | - | - |
---|---|---|---|---|
蝦夷地名考幷里程記 (1824) | ヲシランベツ | - | - | ルベシベツ |
初航蝦夷日誌 (1850) | ヲシラベツフト | - | - | ルベシベシ |
竹四郎廻浦日記 (1856) | ヲシラヘツ | ヲクチシ峠 | - | - |
辰手控 (1856) | ヲシラヘツ | ヲクチシ峠 | - | ルヘ |
午手控 (1858) | ヲシラルンベ | - | - | - |
東西蝦夷山川地理取調図 (1859) | ヲシラルシベツ | - | ムエケシ | ルウクシ |
東蝦夷日誌 (1863-1867) | ヲシラベツブト | レフンシユマ | ムエケシ | ルベシベツ |
改正北海道全図 (1887) | 音調津 | - | - | - |
永田地名解 (1891) | オシラルンベ | オㇰチシ | モイケシ | ルペㇱュベ |
北海道実測切図 (1895 頃) | オシラルンペ川 | ヒマラニシ | モイケシ | ルペㇱュペ |
十勝地名考 (1914) | オシラルンベ | ヒマラヌシ | モイ・ケシ | ルペシンペ ルペシペツ |
陸軍図 (1925 頃) | - | ムイケシ | ルベシベツ | |
地理院地図 | 音調津 | 字シュマラウス | モエケシ | ルベシベツ |
随分とスッキリしたでしょうか。「ヲクチシ峠」と「ムエケシ」あるいは「モイケシ」が目立ちますが、「ムエケシ」あるいは「モイケシ」は現在の「字モエケシ」のことだと考えられます。
となると「ヲクチシ峠」は「音調津」と「モエケシ」の間と考えられるのですが、これは ok-chis で山の鞍部を意味すると思われるので、黄金道路の「モイケシ第1覆道」の南西あたりの可能性がありそうでしょうか。現在「字シュマラウス」とされる場所より南に位置するのではないかと想像されます。
「レフンシユマ」を探す
やはり有力情報としては『北海道実測切図』の「ヒマラニシ」ですが、東蝦夷日誌の「レフンシユマ」も気になるところです。東蝦夷日誌には次のように記されていました。
(六丁卅間) ムエケシ(小澤、漁場) 灣の端と云儀。海中大岩有、是をレフンシユマと云。名義、沖の岩と云義。濱まで(二十丁三十間)ヲシラベツブトに到る。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.255-258 より引用)
「濱まで(二十丁三十間)」とありますが、二十丁三十間はだいたい 2.2 km ほどで、これは現在の「モエケシ」と「音調津」の間の距離とおおよそ一致します。なお「ルベシベツ」と「ムエケシ」(=モエケシ)の間の距離も「六丁卅間」とあり、これも約 0.7 km ほどなので、このあたりの記録はかなり信用できそうに思えます。
陸軍図によると、「音調津」と「ムイケシ」の間には「海中の大岩」が複数存在していたように見えます。
音調津のすぐ南にある「海中の大岩」は、現在の「字シュマラウス」の位置とほぼ一致するのですが、南にも「海中の大岩」が描かれていますし、何よりも現在の「地理院地図」では更に多くの「海中の大岩」が描かれているので、残念ながら「レフンシユマ」の位置の特定は難しそうですね。
落石注意!
残された最有力情報は『北海道実測切図』の「ヒマラニシ」ですが、北海測量舎図には「ヒヒマラヌシ
山あるいは岸などの高きところより、石の落ち来るところとの義なり。
(井上寿・編著『十勝アイヌ語地名解』十勝地方史研究所(帯広) p.94 より引用)
……何なんでしょうこれ。「ヒマラ」の部分が意味不明ですが、「ヒマラヌシ」が「シュマラウス」のことだとすると……あ! suma-ran-us だとすれば「石・降りる・いつもする」と読めるような……!どうやら「レフンシユマ」(沖にある岩)は「シュマラウス」とは無関係で、更に言えば『北海道地名誌』の記述はやはりトラップだったようです。「シュマラウス」は、おそらく海沿いの「落石注意!」な場所をそう呼んだということなのでしょうね。suma-ran-us-i で「石・降る・いつもする・ところ」と考えられそうです。
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