2025年2月20日木曜日

小笠原海運「おがさわら丸」スイート乗船記(バス・トイレ編)

「おがさわら丸」の特等室(スイート)には、部屋の入口のすぐ横にバス・トイレも用意されています。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

バス・トイレの扉の横にはダイキンエアコンのスイッチ(オフィスなどで良く見かけるアレ)が設置されていて、空調の設定を変更できるのですが……

2025年2月19日水曜日

小笠原海運「おがさわら丸」スイート乗船記(お部屋編)

外部デッキから船室内に戻ってきました。7 デッキの階段の上部はこんなに反射率の高い素材だったんですね……(現場では気にしなかったのですが)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「特等室」(スイート)は 7 デッキの最前部にあります。船の前後方向の中心から離れた場所にあるということは、ピッチングによる上下動が大きいということにもなるのですが……。

2025年2月18日火曜日

小笠原海運「おがさわら丸」スイート乗船記(外部デッキ編)

父島・二見港を出航後の「お祭り」がようやく落ち着いたので、部屋に戻る前に軽く外部デッキを歩き回ることにしました。これは 7 デッキ最後部のテラスっぽいエリアですが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

よく見ると椅子に「ススにご注意!」と貼ってあります。ここはファンネル(煙突)よりも後ろにあるので、気象条件によっては煤煙をかぶることもあるのかも……

2025年2月17日月曜日

小笠原海運「おがさわら丸」スイート乗船記(巡視船「さんぐらす」編)

「おがさわら丸」の隣を並走していた 5 隻のプレジャーボートとクルーザー、まず黒いボートから人が海に飛び込み、次に白いクルーザーから、そして緑のクルーザーと黄色いクルーザーから続けて「飛び込みパフォーマンス」が行われました。
あっ、黄色いクルーザーの後ろにいるこの船は……(!)

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

赤いクルーザー

5 隻いたプレジャーボートとクルーザーも、気がつけば(「おがさわら丸」から最も遠いところを並走していた)赤いプレジャーボート小ぶりなクルーザーだけになりました。

2025年2月16日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1212) 「広尾」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

広尾(ひろお)

pir-or?
蔭・ところ
pira-or?
崖・ところ
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問点あり、類型あり)

2025年2月15日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1211) 「札楽古川・カムイオロクベ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

札楽古川(さつらっこ──)

sum-kus-{rap-kor-pet?}?
西・通る・{楽古川}
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
広尾町ラッコベツのあたりで南から「楽古川」に合流する支流です。『北海道実測切図』(1895 頃) には「シュムクㇱュラㇰコペッ」と描かれています。

「シュムクㇱュラㇰコペッ」がいつの間にか「札楽古川」に変わってしまったことになるのですが、陸軍図には川沿いに「札樂古」という地名が描かれていました。

また「広尾町史」では当初から「札楽古」という集落が存在していたことになっていて、「シュムクㇱュラㇰコペッ」から「札楽古川」に変化した経緯は確認できませんでした。

北海道地名誌』(1975) には次のように記されていたのですが……

 札楽古川 (さつらっこがわ) 楽古川中流右から入る川。アイヌ語の乾く楽古川の意。
(NHK 北海道本部・編『北海道地名誌』北海教育評論社 p.626 より引用)
ただ sat- を冠していたと思われる川名の記録が見当たらないという重大な問題が残ります。

ちょっと気になるのが、陸軍図では現在の「パンケ札楽古川」流域(道道 987 号「豊似広尾線」沿い)を「樂古別」として、北隣が「札樂古」で更に北の楽古川沿いを「上樂古」としている点です(しかも 1980 年代の土地利用図では「上楽古」ではなく「中楽古」になっていたりしますが)。

「札楽古川」の旧名が「シュムクㇱュラㇰコペッ」であることは確実で、sum-kus-{rap-kor-pet?} で「西・通る・{楽古川}」と解釈できます。「札楽古」が「乾いた楽古川」である可能性もあるのですが、確実な記録が見つからないので保留……ですね。

ただ、改めて地理院地図を見てみると、「パンケ札楽古川」が途中から点線で描かれていました。これは伏流の可能性を窺わせるものですが、ここまで大規模に点線で描かれているのも珍しいような……。

「──実測切図」では「シュムクㇱュラㇰコペッ」の支流には川名の記入がないのですが、もしかしたら「パンケ札楽古川」に相当する川が sat-(乾いた)を冠した川名だった可能性もあるかもしれません。

カムイオロクベ

kamuy-chorpok-i-{usam-rok}-i??
神(熊)・の下・アレ・{並んで座っている}・ところ
(?? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問点あり、類型未確認)

2025年2月14日金曜日

小笠原海運「おがさわら丸」スイート乗船記(飛び込み!編)

父島・二見港から出航した「おがさわら丸」の横を 5 隻のプレジャーボートとクルーザーが並走して手を振ってくれているのですが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

主役は遅れてやってきた

ふと二見港のほうを振り返ると、凄い勢いで追いかけてくるボートが……

2025年2月13日木曜日

小笠原海運「おがさわら丸」スイート乗船記(ボートとクルーザー編)

父島・二見港を出航して 3 分ほどが経過しました。「おがさわら丸」に寄り添うように、2 隻のプレジャーボートと 1 隻のクルーザーが並んで航行しています。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

青灯台の横の岸壁(午前中に「のんびり南島散策」でボートに乗り降りした場所です)にも「おがさわら丸」を見送る人の姿が。

2025年2月12日水曜日

小笠原海運「おがさわら丸」スイート乗船記(怪奇!瞬間移動する太鼓編)

「おがさわら丸」は定刻の 15 時に出航しました。一部の人が「立入禁止」の黄色い線を越えて船に近づきます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

そして「立入禁止」の線は有名無実なものとなり、多くの人が船に近づいて全力で「行ってらっしゃい」のお見送りです。

2025年2月11日火曜日

「日本奥地紀行」を読む (174) 黒石(黒石市) (1878/8/5(月))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第三十信」(初版では「第三十五信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

生霊と幽霊(続き)

「生霊と幽霊」と題されたセンテンスが続きます。とても長く、イザベラの「分析」は読み応えのあるものですが、「奥地紀行」とは直接関係が無いからか、「普及版」では完全にカットされている部分です。

 私が思うには、「若い日本国」は、その迷信をばかにして笑っているふりをするけれど、下層階級のすべての女たちと大半の男たちは、一般的な生活の中での迷信を信じています。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.126 より引用)
今にして思えば、性差別一歩手前の表現ですが……。「若い日本国」は原文では "Young Japan" で、明治時代の「若き知識人」を指しているようです。当時の「知識人」は「男性」であるという固定観念があった……というよりも、女性が高等教育を受けることは事実上叶わなかった、と見るべきなのでしょう。

イザベラは、「迷信」には地方独特のものがあるとした上で、「切った爪や髪をかまどや囲炉裏に投げ込むと大きな災が降りかかる」というものは「どこでも出くわした」としています。

もう一つは、「シ」には、一つには死の意味があるので「シ」の音節を含む言葉を元旦には一切使ってはいけないというものでした。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.126 より引用)
これは「迷信」と言うよりは「縁起を担ぐ」ものだと思いますが、イザベラの認識では両者は区別されていなかったということでしょうか。……ん、これは元旦に「お年玉」と口にできないことになるような……?

楽しい迷信(?)

イザベラは「迷信のなかには楽しいものもあります」と前置きした上で、次のようなものを紹介していました。

人々はいつも家に入るとき土間に履物を脱いでおくのですが、うんざりした客の履物の裏でモグサを燃やすと、その客を追い払うことが出来ると信じられている。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.126 より引用)
これはまぁ、微笑ましいと言えば微笑ましいですが、少々えげつない印象も……(汗)。似たような話をどこかで目にしたなぁと思ったのですが、知里真志保「分類アイヌ語辞典」の『植物編』(1976) に次のような記述がありました。

 また,これわ人の氣をも鎭める力を有している。例えば誰か怒っている人の所え行く際わ,その家の近くまで行ったらイケマを噛んで,密かにその人の名を呼びながら,
  e-ramu    お前の心を
  an-rayke   殺したぞ!
と唱えて吹きつける (epuruse) と,相手の氣わ鎭まっているものだとゆう(眞岡)。
(知里真志保『知里真志保著作集 別巻 I「分類アイヌ語辞典 植物編」』平凡社 p.43 より引用)※ 原文ママ
改めて比べてみると、そんなに似てないかも……? ただ「本人の与り知らぬ形での(ある種の)呪詛」という点は共通しているかな……と。

紫あるいはスミレ色は、結婚式では、花嫁、花聟のどちらも着てはいけません。それは、これらの色がどの色より早く褪せる色なので、早く離婚するといけないからです。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.126 より引用)
うわー、これは昨今においては「マナー講師」が突然言い出しそうなネタですね。奈良時代から平安時代あたり?の貴族社会でも「紫はもっとも高貴な色」という考え方がありましたが、実は似た由来だったりして……?

虫の知らせ?

また「虫の知らせ」系の「迷信」も紹介されていました。

歩いている間に鼻緒が身体の前方で切れると、履いている人の敵に災いがかかり、鼻緒が身体の後方で切れると、履いている人自身に災いがかかる前兆であるとされています。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.126 より引用)
これは迷信と言えばそれまでですが、「油断は禁物なので、改めて気を引き締めよう」という自己啓発的な注意喚起なのでしょうね。

私たちの国でもそうですが、塩には、多くの不可思議な意味があると考えられています。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.126 より引用)
ほほう……。流石にイギリスには「盛り塩」のような習慣は無いと思いますが、塩に「霊力」を認めるのは日本に限った話では無いのですね。……あ、「盛り塩」の起源は西晋の司馬炎の時代にある……という説もあるみたいで。

夜に塩を買ってはいけないし、日中に買ったときは、不運や家族のうちわもめを避けるために、そのひとつまみを火に投げ入れなければなりません。また葬式の後では、門口の辺りにも撒かれます。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.126-127 より引用)
葬式の後に塩を撒くのは「浄め塩」だと思うのですが、「夜に塩を買ってはいけない」とか「塩のひとつまみを火に投げ入れる」というのは初めて聞いたような……。

駄洒落……?

イザベラの「迷信コレクション」が続きます。

 もし漁師が油に行く途中で坊さんに出会ったら、その日は一匹も魚がとれないと予想されます。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.127 より引用)
これは……(笑)。「客が来ない状態」を指す隠語に「坊主」というものがありますが、これは「もう毛が無い」=「儲けが無い」というダジャレに由来するらしいですね。「坊主」という表現は普通に見聞きしていましたが、まさかこんなダジャレに由来するとは……。

生活の知恵?

また、「大火事の前兆」として「犬が家の屋根に上がる」「イタチが一度鳴く」「朝に雄鳥が鳴く」と言ったものを紹介しています。面白いのは「対策」も定義されていることで、

この災いを避けるためには、左手に柄杓を持ち、柄杓にいっぱいの水を 3 回撒かなければなりません。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.127 より引用)
確かに水を撒けば発火の可能性は下がるので、これは割と現実に即した「生活の知恵」だった可能性もありそうですね。

 北部の人々の間では、いたるところに迷信があります。もし、茶碗のなかに茶の茎が落ち、一瞬茶柱が立ち、それが倒れると、その方角から客がくると期待されると考えられています。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.127 より引用)
茶柱が立つというのは「吉兆」ですが、こんなダウジングのような機能?があったとは……

ぼんやりして、急須の注ぎ口以外のところからこぼしてお茶を注ぐと、それは坊主が近づいているしるしなのです。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.127 より引用)
妙に「坊主」が出てくる率が高い印象がありますが、こういった文脈で出てくる「坊主」は、もしかして「凶報」に近かったりするのでしょうか。

障子に映った鳥の影はきっと客が訪ねて来るという「予兆しるし」です。ここでは、これらのことがあまりに固く信じられていますので、娘たちは、そのどれか一つでもが起こると、髪に何か小さな髪飾りをつけ加えるほどです。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.127 より引用)
「迷信」には何らかの教訓めいたものが含まれている……と考えたいのですが、これを教訓だと考えるならば、どう言い換えられるでしょう。「イケメンは突然やってくる」とかでしょうか(どこが教訓なんだか)。

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2025年2月10日月曜日

小笠原海運「おがさわら丸」スイート乗船記(出航直前編)

「祈 航海安全 皆再会」と書かれた幕がかけられた太鼓の前には……思いっきり「立入禁止」ゾーンに入っちゃってる気もしますが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

出航の 13 分前に、「小笠原ぼにん囃子」の太鼓の演奏が始まりました。勇壮で重みのある太鼓の音が響き渡ります。

2025年2月9日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1210) 「オピツマナイ川・平尾取・鳥干麻」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

オピツマナイ川

o-pis-oma-nay
河口・浜・そこにある・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
国道 336 号の「楽古橋」のすぐ西で楽古川に合流する南支流です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヲヒシヨマナイ」という川が描かれていて、『北海道実測切図』(1895 頃) には「オピシュオマナイ」という川が描かれていました。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

O-pish oma nai   オピㇱュ オマ ナイ   濱川 海濱ノ方ヘ向テ流ル川「オピショマナイ」ト云フハ急言ナリ
(永田方正『北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.292 より引用)
o-pis-oma-nay で「河口・浜・そこにある・川」と読めそうですね。「『オピショマナイ』と言うは急言なり」とありますが、今や「シ」が「ツ」に化けてしまい、見る影もありません。

鎌田正信さんの『道東地方のアイヌ語地名』(1995) には次のように記されていました。

 松浦山川取調図、官林境界図、実測切図(北海道庁発行20万分図、明治26年)はいずれも楽古川の支流として記入されているが、地理院 5 万分図(大正 9 年測量、昭和53年編集)は、川口近くで楽古川に沿って流れてから、直接太平洋に流入しており、これが地名と合致している。現在は楽古橋のすぐ上手から、楽古川に入っている。
(鎌田正信『道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】』私家版 p.32 より引用)
えっ、と思って確かめてみたのですが、確かに 1978(昭和 53)年の 5 万分 1 地形図では「楽古川」と並んで「楽古橋」をくぐり抜けた後、楽古川に合流せずに海に向かっていました。

ちなみに 1978(昭和 53)年の時点で既に「オピマナイ川」となっていて、それ以前の地形図では川名が確認できません。興味深いのは 1955(昭和 30)年測量の 2 万 5 千分 1 地形図で、現在の「楽古橋」に相当する橋が存在せず、現在の国道 336 号に相当する道は「オピツマナイ川」と「楽古川」をそれぞれ別の橋で渡っていました。

「オピツマナイ川」が「楽古橋」の西で「楽古川」に合流する形で固定されたのは、「楽古橋」の整備に伴うものだった可能性がありそうです。

平尾取(読み不明)

pira-uturu
崖・間
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)

2025年2月8日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1209) 「楽古川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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楽古川(らっこ──)

rap-kor-pet??
両翼・持つ・川
(?? = 旧地図に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
広尾の市街地の北を流れる川です。中流部で南支流の「札楽古川」が合流していて、楽古川と札楽古川に挟まれたエリアは「広尾郡広尾町字ラッコベツ──」です。

海に注ぐいうこともあり、古くから記録が豊富な川です。これは表にまとめるのが良さそうですね。

東蝦夷地名考 (1808)ラツコベツラツコは落なり。又獣のラツコも──
大日本沿海輿地全図 (1821)ラツコ川-
蝦夷地名考幷里程記 (1824)ラツコ獵虎流れ寄りしより
初航蝦夷日誌 (1850)ラツコベツ此名定而昔ラツコに
而も揚りしより
竹四郎廻浦日記 (1856)ラツコヘツ昔し野火の有て此辺の
山々を皆焼尽せしが──
午手控 (1858)ラツコ-
戊午日誌 (1859-1863)ラツコ-
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)ラツコ-
東蝦夷日誌 (1863-1867)ラツコ獵虎が流れよりしが故、
奥の方の山燒來り此處にて留りし
改正北海道全図 (1887)ラツコ-
永田地名解 (1891)ラㇰ コ ペッ火消川
北海道実測切図 (1895 頃)ラツコペッ-
北海道地形図 (1896)ラㇰコペツ-
十勝地名考 (1914)ラッコ原称は「ラック・ベツ」。
山火この川に至りて止みたるより
陸軍図 (1925 頃)樂古川-
北海道の川の名 (1971)楽古川(東蝦夷日誌のラッコ説を引用)
アイヌ語地名解 (1982)楽古火消川とラッコ伝説があるが、
いずれも信じがたい
北海道の地名 (1994)楽古ラッコ説(上原熊次郎の記録と
東蝦夷日誌に言及)

「ラッコ」は「ラッコル」?

秦檍麻呂の『東蝦夷地名考』には少々興味深いことが書かれていました。

 一 ラツコベツ
  ラツコは落なり。瀧をラツキベと云。キコ通音。又獣のラツコも海岸の岩に上り居る處へ蝦夷舟至れハ落る如くに海底に入を以てラツコルと云しを、語略してラツコと云。
(秦檍麻呂『東蝦夷地名考』草風館『アイヌ語地名資料集成』p.30 より引用)
「ラツコは落なり」というのは、当時はアイヌ語が日本語の方言の一つと考えられていたこともあってか、「落(らく)」と「ラツコ」の音が似ていることから生じた解釈のようにも見えます。ただ、よく見るとこれは ratki(垂れ下がる、または落ちる)を意味しているようです。

「滝をラツキベと言い」とありますが、手元の資料を眺めた限りでは so-ratki で「滝が落ちる」とする文例が見られました。興味深いのは「岩場にいるラッコに舟で近づくと海に逃げる」ことを「ラツコル」(ratki-wor で「落ちる・水」か)と呼び、それを略して「ラッコ」になった……とある点です。

知里さんの『動物編』(1976) にはそのような記載は無かったのですが、代わりに次のような記述がありました。

補註 1.──ビホロの古老,菊地儀之助翁の言によれば,ラッコのことを,ふだんは atuy-esaman と言うのだが,その語は夜間に使ってはいけないことになっていた。夜間にその語を口にするとカワウソがばけて出てくるからというのだ。それで,夜は atuy-esaman と言わずにもっぱら rakko とよび,いまではそれが一般に通用するようになってしまったのだという。
(知里真志保『知里真志保著作集 別巻 I『分類アイヌ語辞典 動物編」』平凡社 p.148 より引用)
あー。これは海の上では「ウサギ」ではなく「トゥキサルㇱ」(tu-kisar-us)と言うのと似てる……というか、そっくりですね。tu-kisar-us は「二つの・耳・ついている」で、いかにも隠語らしい言い回しです。ratki-wor が「水に落ちる」を意味するのであれば、これもいかにも隠語らしく思われるのですね。

「ラッコ」という言い方が「沖ことば」に由来するかもしれない……という話はさておき、本題に戻ります。「楽古川」は rakko-pet で「ラッコ・川」ではないか……ということになりますね。rakko-pet の間には -us や、あるいは -ot あたりがあったのかもしれません。

「野火止」説

「ラッコ見たからラッコベツ♪」というお気楽な解釈が幅を利かせる中で、『竹四郎廻浦日記』が突如として次のような新解釈を記録していました。

此地名昔し野火の有て此辺の山々を皆焼尽せしが此処にて留りしと云事なる由。
松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読『竹四郎廻浦日記 下』北海道出版企画センター p.475 より引用)
不思議なことに、松浦武四郎は後の『東蝦夷日誌』では「ラッコ説」と「野火止説」の両論併記に「後退」しています。

ラツコ〔臘狐、樂古〕(川幅十七八間、舟渡し也)名義、昔し爰へ獵虎が流れよりしが故に號く(地名解)。また奥の方の山燒來り、此處にて留りしに依ても言傳ふ(惣乙名そうおとなハユヘク申口)。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.263 より引用)
出典が明記されているのはありがたいですね。どうやら「ラッコ説」は旧記からの引用で「野火止説」は武四郎自身がヒアリングしたもののようです。

永田地名解にも次のように記されていました。

Rak ko pet   ラㇰ コ ペッ   火消川 北地ヨリ山火燃エ來リ此川ニ至リテ消滅セリ故ニ名クト「アイヌ」云フ
(永田方正『北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.292 より引用)
これも「野火止説」そのものですね。『竹四郎廻浦日記』で突如としてデビュー?した後、一気に市民権を得たようにも見えるので、頭ごなしに否定する訳にもいかないのですが……。

「ラㇰ コ」あるいは「ラック」とは

『十勝地名解』(1914) は「ラッコ説」を否定した上で、次のように続けていました。

じつは然らず、山火この川に至りて止みたるより、「ラック・ベツ」と唱うるを正なりとす。
(井上寿・編著『十勝アイヌ語地名解』十勝地方史研究所(帯広) p.98 より引用)
「ラッコ」「ラㇰ コ」あるいは「ラック」をどう解釈すれば「火消し」になるのかが謎なのですが、ジョン・バチェラーの『蝦和英三對辭書』(1889) には rak の意味として次のように記されていました。

Rak, v.i. To settle as rubbish in water. Jap. Odomeru. 澱メル。
ka, v.t. To set to settle as muddy water. Jap. Sumaseru. 澄マセル。
Rak, v.i. To pass away as clouds from the horizon. See Rak-rak. Jap. Kumo Ga Sanjiru. 雲カ散シル。
(ジョン・バチェラー『蝦和英三對辭書』国書刊行会 p.195 より引用)
どれも「火消し」では無いようにも思えますが、「雲が散じる」は「晴れる」ということなので、rak-pet で「(火を)晴らした・川」なのかもしれません。

「バチェラーの辞書に典拠を求めるのはちょっと……」と思われるかもしれませんが、『藻汐草』(1804) にも「ラク」は「清し」とあり、また萱野さんの辞書にも次のように記されていました。

ラㇰラㇰパイェ【rak-rak-paye】
 晴れてゆく [ユ].
(萱野茂『萱野茂のアイヌ語辞典』三省堂 p.459 より引用)
[ユ]とあるのは「ユカㇻによく見られる表現」とのこと。古い表現と見て良さそうな感じですね。

「ラッカ」という語も

ただ「古い表現」という話になると、『藻汐草』に次のような語の存在が示されていました。

  • ラッカ 1
 ① 瀬 ② 川ノ浅瀬(rakka)
  • ラッカ 2
 ① 冽(きよし)(※きよい、水が澄んでいる─白浜注) ② 澄マセル(泥水ヲ)(rakka)
(平山裕人『アイヌ語古語辞典』明石書店 p.336 より引用)
「ラッカ」で「川の浅瀬」を意味するとのこと。まぁ川に浅瀬があるのは当たり前とも言えそうですが……。

「両翼を持つ川」説

ここでふと閃いたのですが()、rap-kor-pet で「両翼・持つ・川」だった可能性は考えられないでしょうか。地名における rap は「両翼を張ったように突出ている出崎」とされますが、「楽古川」も中流部あたりで左右(南北)を山に挟まれる形になります。

川を遡ると字ラッコベツのあたりで「楽古川」と「札楽古川」に別れ、「札楽古川」は「ペンケ札楽古川」と分かれます。「札楽古川」は「楽古川」と「ペンケ札楽古川」に挟まれる形になる、とも言えますね。

……と考えた上で『アイヌ語古語辞典』(2013) を見てみたところ……

  • ラップ 1
① 箭羽 ② 羽、炭(ラㇷ゚)
  • ラップ 2
① 猟虎(子) ②〈動物〉ラッコ(子)(ラップ)
  • ラップ 3
① 鳥の羽 ② 羽、翼(ラㇷ゚)
(平山裕人『アイヌ語古語辞典』明石書店 p.336 より引用)
なんと raprakko が繋がってしまいました(!)。これはまぁ偶然の一致でしょうが、地名の変遷における一つの可能性を示すものと考えると興味深いですね。

最大の問題は、楽古川の南北の山が「両翼」と呼べるか、というところですが……(正直、ちょいと厳しい感じも)

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2025年2月7日金曜日

小笠原海運「おがさわら丸」スイート乗船記(出航 15 分前編)

「おがさわら丸」の出航まで、あと 35 分ほどとなりました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

埠頭では「小笠原建設(有)」の文字の入ったフォークリフトがコンテナを運んでいました。

2025年2月6日木曜日

小笠原海運「おがさわら丸」スイート乗船記(いきなり乗船編)

宿の人に二見港まで送っていただき、14:10 過ぎに二見港船客待合所に到着しました。チケット売り場には長蛇の列ができているかと思ったのですが……
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あれ?

2025年2月5日水曜日

父島さんぽ (23) 「最後の『父島さんぽ』」

「半日南島ツアー」は「旧青灯台」の近くで現地解散となりました。あとは部屋に戻って荷物をまとめて、本館まで徒歩で移動すれば、あとは車で二見港まで送ってもらえる段取りになっています。
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これは公衆トイレの横にある小屋のような建物ですが、なぜこんな写真を撮影したかと言うと……

2025年2月4日火曜日

のんびり南島散策 (12) 「二見港帰還」

海上での「イルカ探し」を 20 分ほど楽しんで、これで「のんびり南島散策とイルカ探しの遊覧」のメインイベントは終了です。あとは二見港に戻るだけ……ですね。
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帰りも行き同様に、野羊山の北を通ります。

2025年2月3日月曜日

のんびり南島散策 (11) 「イルカ探し」

南島の東の沖合を北に向かいます。あとは西があれば完璧だったのですが……(何が)。
海蝕崖の中程に海蝕洞っぽいものが形成されつつありますね。あと数百万年もすれば「扇池」のように島の内側に貫通したりするのでしょうか。

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南島と父島の間の海峡区間を北に進んでいることになりますが、このあたりはかんぬき島を始めいくつもの島や岩礁が点在するため、南島に沿って北上するのがベストな選択肢のようです。海峡の西側を航行するので、結果として父島はやや遠くに見えることになります。

2025年2月2日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1208) 「野塚」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

野塚(のづか)

nupka?
野原
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
豊似川と楽古川の間を「野塚川」が流れていて、かつて国鉄広尾線に「野塚駅」が存在しました。ということでまずは「駅名の起源」を見てみましょう。

  野 塚(のづか)
所在地 (十勝国)広尾郡広尾町
開 駅 昭和7年11月5日 (客)
起 源 アイヌ語の「ヌㇷ゚カ」(野原)から出たものである。
(『北海道駅名の起源(昭和48年版)』日本国有鉄道北海道総局 p.143 より引用)
ほう……と思って『北海道実測切図』(1895 頃) を見てみましたが、確かに「ヌㇷ゚カペッ」(Nupkapet)とあります。

永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。

Nupka pet   ヌㇷ゚カ ペッ   野川 「ノツカベツ」ト云フハ非ナリ
(永田方正『北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.292 より引用)
ご丁寧に「『ノツカベツ』と言うは非なり」という註までついています。ただ『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ノツカ」とあるほか、『大日本沿海輿地全図』(1821) にも「ノツカ川」と記録されています。

「ヌㇷ゚カ」の初出は

今更ながら、表にまとめたほうが良さそうな感じがしてきました。

大日本沿海輿地全図 (1821)ノツカ川
初航蝦夷日誌 (1850)ノツカ
竹四郎廻浦日記 (1856)ノツカ
辰手控 (1856)ノツカ
午手控 (1858)ノツヽ
戊午日誌 (1859-1863)ノツカ
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)ノツカ
東蝦夷日誌 (1863-1867)
改正北海道全図 (1887)野塚川
永田地名解 (1891)ヌㇷ゚カ
北海道実測切図 (1895 頃)ヌㇷ゚カペッ
十勝地名考 (1914)ノッカは「ヌプカ」に由来
陸軍図 (1925 頃)野塚川
植民地区画図 (1932)野塚(ヌプカ川)
北海道駅名の起源 (1973)野塚は「ヌㇷ゚カ」に由来
北海道駅名の起源 (1973)野塚は「ヌㇷ゚カ」に由来

おおよそ想像通りなのですが、「野塚」を「ヌㇷ゚カ」としたのは永田方正で、その後しばらく経って「野塚」表記がしています。注目すべきは伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』にも「ノツカ川」とある点で、これは松浦武四郎以前の記録として貴重なものです。

上表を見ると、永田方正が突然「ヌㇷ゚カ」という解釈を持ち出したようにも見えるのですが、実は『東蝦夷日誌』に次のような記述があります。

ノフカ(小川、此處四丁計の間、小流四すじ有)、大川原になる。名義、野より流れ來る儀なり。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.264 より引用)
松浦武四郎の記録は、この「ノフカ」以外は殆どが「ノツカ」となっているため、「ノカ」は誤字と見たいところですが、「野より流れ来る」というのは nupka 説そのものであるところに注意が必要です。

ただ、最終的に「野塚」という表記が選択されて現在に至るのも事実で、これは「ノフカ」「ヌㇷ゚カ」説が「発見」される前から「ノツカ」と呼ばれていて、地元では「ヌㇷ゚カ」ではなく「ノツカ」だ、という意識が強く存在したことを窺わせます。

「ヌㇷ゚カ」か「ノツカ」か

nupka は「野原」で、あるいは nup-ka で「野・のかみ」とも解釈できるかもしれません。一方、not-ka は「あご・糸」で、「仕掛け弓のさわり糸」を意味するとのこと。仕掛け弓は獲物の通り道に仕掛けておいて、獲物が糸を引っ掛けると自動的に矢(神経毒が鏃に塗られている)が放たれる仕組みのものです。

not は「あご」ですが、地形では「岬」を意味します(「納沙布」や「ノシャップ」、「能取」や「野付」など)。『地名アイヌ語小辞典』(1956) を見ても、not-kenot-kew で「みさき」を意味するとあります。

興味深いことに、この not は海に面した「岬」に限定されたものではなく、内陸部の地形でも散見されます。「野塚」も日高山脈から伸びてきた山の先端にあるとも言えるため、not-kenot-kew と呼ばれたとしても(個人的には)不思議ではない地形です。

永田方正が not は海に面した岬に限定されると考えて、「ノツカ」という地名に別の解釈を持ち出した……という可能性に深く傾きつつあったのですが、『東蝦夷日誌』の「名義、野より流れ来る」という一文が重くのしかかった感があります。

しかしながら、永田方正が「提唱」した「ヌㇷ゚カ」という「地名」が程なく廃れたというのも厳然たる事実です。ところがその一方で「『野塚』は『ヌㇷ゚カ』だ」という説明も広く受け入れられているようにも見えます。

個人的には、永田地名解の「ヌㇷ゚カ」説はかなり疑わしいと思えるのですが、その主張を跳ね除けるに値する裏付けを持ち合わせていないというのが正直なところです。

そう言えば……という話ですが、「野塚川」を遡ると日高山脈の「野塚岳」にたどり着くのですが、その西側を国道 236 号の「野塚トンネル」が南北に貫通しています。「野塚トンネル」とかつての「野塚駅」の由来が同じだった可能性が出てくるのですが、これもちょっと意外な感じもします。

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2025年2月1日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1207) 「エツキサイ・フントクシュンナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

エツキサイ

e-chi-kisa-i?
そこで・我ら・こする(火を起こす)・ところ
(? = 旧地図に記載あり、既存説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
豊似川の河口から 1 km ほど南に存在する……とされる地名です(Google Map ではそう表示されます)。この地名は Mapion などでも表示されるのですが、「運輸局住所コード」のデータが改廃されないまま生き残っているだけ……という可能性もあるかもしれません(留萌市の「パンチサルメンコ」などと同様?)。

北海道実測切図』(1895 頃) には「エチキサイ」という川が描かれていました。「エツキサイ」という地名が現在どの程度使用されているのかは不明ですが、由緒正しいアイヌ語地名と言えそうでしょうか。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「エチキシヤ?」と描かれています。最後の「ニ」の字は「エ」のようにも見えますし、あるいは「ヱ」の可能性もあるかもしれません。

「エチキシャニ」を素直に読み解くと e-chi-kisa-ni で「頭・我ら・こする・木」となります。あるいは chikisani で「ハルニレ」を意味するので、e-chikisani だと「頭(水源)・ハルニレ」となるのですが、これに -us-i あたりを補えば e-chikisani-us-i で「頭(水源)・ハルニレ・ある・ところ」となり、地名らしくなりますね。

「ハルニレ」が chikisani なのは、火起こしに便利な木だからとされます。火を起こす際に「木をこする」ので、「我らこする木」と呼ばれた……ということのようです。

あるいは e-chi-kisa-i で「そこで・我ら・こする・ところ」が「エチキサイ」になった……と見ることも一応は可能でしょうか。もっとも、どこで火を起こしても構わないわけで、「火を起こす場所」が地名になるとも考えづらい……と思ったのですが、改めて地形図を見てみると、この川は台地を抉るように流れているので、もしかしたら周りよりも風の影響が少ない故に、火を起こすのに良い場所なのかもしれません。

となると俄然「そこで我らこする(火を起こす)ところ」という解釈の蓋然性が高くなるでしょうか。「実測切図」にも「エチキサイ」と記録されているので、e-chi-kisa-i で「そこで・我ら・こする(火を起こす)・ところ」と考えたくなりました。

……今頃気付いたんですが、なんと永田地名解 (1891) にも記載がありました。

Echi kisa-i   エチ キサイ   火ヲ取リシ處 直譯吾人ガ木片ヲ摩擦シテ火ヲ取ル處往古神アリ火ヲ取リテ「シューキナ」ヲ烹テ食ヒシ處ナリト云フ
(永田方正『北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.292 より引用)
完全に一致……ということでいいでしょうか?(誰に聞いている

フントクシュンナイ川

pon-tukusis-un-nay?
小さな・アメマス・入る・川
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)