2025年2月22日土曜日

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北海道のアイヌ語地名 (1213) 「茂寄・ヲソウシ・ツチウシ」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

茂寄(もより)

moy-or
湾・のところ
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
広尾の市街地の南を「広尾川」が流れていますが、河口からわずか 0.3 km ほどで「西広尾川」と「東広尾川」に分岐しています。

「西広尾川」が北側、「東広尾川」が南側を流れているのですが、これはアイヌ語における「コイカ」(=千島側)「コイポㇰ」(=函館側)とも一致しない、不思議な考え方の命名です。あえて類例を探せば知床半島における「西蝦夷地」(北西側)と「東蝦夷地」(南東側)に近いと言えるかもしれませんが、広尾と知床には地形上の類似点も見いだせないのでおそらく無関係かと……。

広尾町茂寄は東西広尾川の合流点の西側、西広尾川と東広尾川の間に位置しています。陸軍図では「中廣尾」とされていて、1980 年代の土地利用図でも同様に「中広尾」となっています。

陸軍図では「?山」(現在の「丸山」)の西に「茂寄原野」とあり、『北海道実測切図』(1895 頃) では現在の「大丸山」のあたりに、一帯の大地名として「茂寄」と描かれていました。

山田秀三さんの『北海道の地名』(1994) には次のように記されていました。

茂寄 もより
 広尾町内の地名,旧村名。広尾の出岬があるので,その北がゆるい入江の形になっている。その部分がモヨロ「モイ・オロ moi-or。入江の・処(内部)」と呼ばれ,それが茂寄村となり,その辺一帯の称となっていた。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.330 より引用)
あー。「実測切図」での描かれ方は「茂寄村」だったことを表していたのですね。「広尾の出岬」と言うのは、現在では「広尾灯台」から北東に伸びる防波堤の一部となっている地形のことで、「モヨロ」は現在の「広尾町会所前」に相当すると考えられます。であれば、やはり moy-or で「湾・のところ」と見て良さそうな感じですね。

『北海道実測切図』には「茂寄」とあるもののルビは振られておらず、また『角川日本地名大辞典』(1987) によると「明治 9 年以前は茂代呂村とも書いた」とあります。現在の「もより」という読みは漢字に由来する誤読の可能性が高そうですね。

あと、今頃気づいたのですが、崖の下の海側(広尾町会所前一帯)が moy-or で「湾のところ」で、崖の上の市街地が pira-or で「崖のところ」だったと見ることが可能なのではないでしょうか。つまり「広尾」と「茂寄」は対になる地名だったのではないか、と……。

ヲソウシ

o-so-us-i
河口・滝・ついている・もの(川)
(旧地図に記載あり、既存説、類型多数)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
「丸山」の南西で、南西から「西広尾川」に合流する「オソウシ川」という川があります。地理院地図の地名情報(居住地名)によると、オソウシ川の北、西広尾川の南沿いの一帯が「広尾町字ヲソウシ」とのこと。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ソウシ」と描かれていて、『北海道実測切図』(1895 頃) には「ソウシ」という名前の川が描かれていました。「ヲソウシ」が「オソウシ」に進化?したにもかかわらず、再び「ソウシ」に戻った理由は不明ですが……。

『東蝦夷日誌』(1863-1867) には次のように記されていました。

川筋、左にキムンベツ、過て兩方に瀧多し。ヲソウシ(大瀧)、其上アチリヤリ岳と云より來る。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.259 より引用)
「アチリヤリ岳」というのが謎ですが、「東西蝦夷──」には「アチヤリノホリ」という山が描かれていました。ただこの山は日高山脈の位置に描かれているのですが、現在の「オソウシ川」はそこまで長い川では無いため、何らかの誤謬が含まれているように見えます。

「ヲソウシ」は o-so-us-i で「河口・滝・ついている・もの(川)」と見て間違いなさそうな感じですね。現在の「オソウシ川」を地理院地図で見てみると、河口に近いところに滝があるように描かれています。ちょっと出来過ぎのような気もしますが……。

ツチウシ

chis-us-i??
立岩・ある・ところ
(?? = 旧地図で未確認、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
国道 336 号の「広尾橋」から南に進むと、いわゆる「黄金道路」の入口である「ツチウシ覆道」に入ります。「ツチウシ」はいかにもアイヌ語っぽい語感がありますが、どうにも意味が掴めないので、困ったときの定番として表にまとめてみました。

初航蝦夷日誌 (1850)ビロウヱチコヘフンベヲマナイ
竹四郎廻浦日記 (1856)ビロウベツ-フンベマモイ
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)ヒロウヘツエチコユフンヘヲマナイ
東蝦夷日誌 (1863-1867)ビロウ(川)エチコエ(岩岬)フンベマムイ(岩岬)
永田地名解 (1891)ピルイ ペッ-フンベ オマ ナイ
北海道実測切図 (1895 頃)ピロロ川-ワッカチヨコキイ
十勝地名考 (1914)廣尾チシ・ウス?フンベ
陸軍図 (1925 頃)廣尾-濱フンベ
地理院地図広尾-フンベ

あ……。「十勝地名考」の「チシ・ウス」が「ツチウシ」に該当するかも……?

「フンベ」と「オナヲベツ」の間

「十勝地名考」の「茂寄村」の項の地名を掲載順に並べると次のようになるのですが……

十勝地名考北海道実測切図 (1895 頃)現在の地名
エビニマイイペニマイ美幌の舟上橋のあたり)
フンベワッカチヨコキイフンベ
チシ・ウス
アイノ・コタン
オブソマ・ナイ
オナヲベツオナウケオッペヲナヲベツ
オリコマ・ナイ-オリコマナイ覆道
シモック・ワタラ
オシラルンベオシラルンペ川音調津
ヒマラヌシヒマラニシ(音調津)
モイ・ケシモイケシモエケシ
ルペシンペルペシ?ルベシベツ
チカプ・ウシチカㇷ゚ウシ(旧・黄金トンネル)
ローラノシルーラノシ-
ヨロマヨコマ-
サマイクンプサマイクニプ-
タンネ・ソータン子ソータンネソ
シモチク・ワッカシモチクワㇰカ-
ドモチケント゚モチクシ-
オタ・オツオタオッチシ-
ピ・タタ・ヌンゲプピタタヌンケㇷ゚川ビタタヌンケ

明らかに北から南に向かっているように見えますが、実は一つだけ明らかな例外があります。「エビニマイ」と「フンベ」ですが、「エビニマイ」こと「イペニマイ」は美幌川のすぐ北に位置しているので、これは「フンベ」よりも南に位置することになります。

「エビニマイ」と「フンベ」が逆転した理由は想像するしかないのですが、「──実測切図」の時代には「ピロロ川」(=広尾川)と「ピポロ川」(=美幌川)の間の道路は内陸部を通っていました。そのため「エビニマイ」から北に向かって地名を列挙して、その後「オナヲベツ」から南に向かって地名を列挙したと考えることも(一応は)可能でしょうか。

結果として「フンベ」と「オナヲベツ」の間の地名(「チシ・ウス」を含む)の所在が「不明」ということになってしまうのですが、「チシ・ウス」が「フンベ」の北隣にあったと仮定することも、これまた「一応は可能」ではないかと考えています。

「泣いたところ」?

ということで「十勝地名考」の「チシ・ウス」の項を見てみると……

チシ・ウス
  「チシ」とは泣くことなり。かつて離別を悲みて泣きしところか、あるいは変死人などありて、その遺族の者等の泣きしことなどある地なるべし。
(井上寿・編著『十勝アイヌ語地名解』十勝地方史研究所(帯広) p.93 より引用)
……。ちょっと別の可能性を考えたほうが良さそうですね。

「立岩あるところ」?

chis について、『地名アイヌ語小辞典』(1956) には次のように記されていました。

chis ちㇱ 《完》泣く。
chis, -i ちㇱ ①立岩。②【ナヨロ】岩石の坊主山;丸い岩山。③ 中凹み。
(知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.20 より引用)
ということで、完動詞ではなく名詞のほうの chis と見ることができそうです。chis-us-i で「立岩・ついている・もの」か、あるいは「立岩・ある・ところ」と考えて良いのではないでしょうか。

「『立岩』は広尾灯台の北東にある岩のことでは?」と言う疑問を持たれるかもしれません。地理院地図では現在の「ツチウシ覆道」と「浜フンベ覆道」のあたりには砂浜しか描かれていないものの、陸軍図には岩岬が描かれているので、この岩を指して chis-us-i と呼んだ可能性もあるかな……と考えています。

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