2025年1月31日金曜日

のんびり南島散策 (10) 「東側は今日も荒れ模様」

マッチ船長のプレジャーボートはツアー客を乗せて南島から出航しました。まずは鮫池から出るところから……です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

鮫池の真ん中……とは言わないまでも、陸地から少し離れたところに無人のボートが停泊しているように見えるのですが、これってどういうことなんでしょう? どうやって人が乗り降りするのか、気になるんですが……(ロープで引っ張るとか?)

2025年1月30日木曜日

のんびり南島散策 (9) 「人類にとって偉大な一歩」

ボートが主の帰りを待っている「鮫池」に向かって歩を進めます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

上陸地点の東側には小さな入江のような場所があるのですが……

2025年1月29日水曜日

のんびり南島散策 (8) 「陰陽池と南島の植生」

「陰陽池」にやってきました。南島に観光目的で上陸した場合の最北端の場所です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

この「陰陽池」は、海蝕洞で海とつながっている「扇池」や、実は海そのものである「鮫池」とは異なり、南島の内陸部に存在し海との接点を持たない「池」です。元々は越波などで運ばれた海水が溜まってできたようで、池の水は淡水ではなく塩分を含んでいるものの、海水と比べると塩分濃度は低いとのこと。

2025年1月28日火曜日

のんびり南島散策 (7) 「千年前のカタツムリ」

エメラルドブルーの水が美しい「扇池」の話題を続けます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「扇池」と「扇浜」というネーミングですが、これは「池」の形が扇に見えるからなんでしょうね。

2025年1月27日月曜日

のんびり南島散策 (6) 「南島 360°」

高台のビュースポットから扇池と砂浜を望みます。
よく見ると砂浜の端のほうにツアー客がいるのですが、どうやらマッチさんはそのことを把握していたようで、ビュースポットへの登頂を先にしたみたいです。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

扇池は海蝕洞によって海とつながっています。扇池の底は白砂が堆積しているからか、水の色がひときわ美しく見えますね。

2025年1月26日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1206) 「紋別・インダタラ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

紋別(もんべつ)

mo-pet
穏やかな・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
大樹町と広尾町の境界を「紋別川」が流れていて、紋別川の南側が広尾町紋別です。十勝バス広尾線に「紋別入口」というバス停があったのですが、twitter で「紋別市と間違えて来てしまった」という tweet が話題になった後、いつの間にか名前が変更されてしまいました。

陸軍図では紋別川の北、かつて国鉄広尾線の「石坂駅」があったあたりが「紋別」となっています。「石坂」という地名は開拓功労者の石坂善七を記念して名付けられたとのこと。このあたりは歴舟川とともに砂金が採れたことで知られ、明治時代は大樹の中心部よりも栄えていたのだそうです。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「モンヘツ」という川が描かれています。『北海道実測切図』(1895 頃) にも「モンペッ」とあり、アルファベットでは Mompet と描かれています。

『東蝦夷日誌』(1863-1867) には次のように記されていました。

モンベツ〔紋別〕(川幅六間)遲流の義なり(川番ウサメウチ申口)。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.272 より引用)
また『十勝地名解』(1914) には次のように記されていました。

モン・ベツ
  流の静なる川との義なり。胆振国紋鼈、北見国紋別、日高国捫別、皆同じ。
(井上寿・編著『十勝アイヌ語地名解』十勝地方史研究所(帯広) p.99 より引用)
両者は差異があるように感じられるかもしれませんが、本質的には同一で、mo-pet で「静かな・川」と見て良いかと思われます。この「静かな」という解釈には含意があり、「静か」は「荒れることが無い」(=「穏やか」)、あるいは「病気が少ない」(=「病魔が荒れない」)などを意味する場合があるとのこと。「静かな川」とするよりは「穏やかな川」としたほうが良いかもしれませんね。

インダタラ川

e-en-tat-ta??
頭(先端)・尖っている・肩・にある
(?? = 旧地図に記載あり、独自説、類型未確認)

2025年1月25日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1205) 「カムイエクウチカウシ山」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

カムイエクウチカウシ山

kamuy-e-kut-ika-us-i?
神(熊)・そこで・岩崖・踏み外す・いつもする・ところ
(? = 旧地図で未確認、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
中札内村と新ひだか町の境界となる脊梁山脈にある山で、頂上付近には「札内岳」という名前の一等三角点(標高 1979.2 m)もあります(三角点の所在地は新ひだか町)。国土数値情報によると、カムイエクウチカウシ山の北東を「カムイエクウチカウシ川」が流れていることになっているのですが、地理院地図では「八ノ沢」と表記されています。謎ですね……。

北海道実測切図』(1895 頃) には標高と思しき数値が描かれているものの、山名については記載がありません。ただ『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「カモイノホリ」という山が描かれていて、これが現在の「カムイエクウチカウシ山」である可能性があります。

地形図での初出は 1956(昭和 31)年測量の「5 万地形図-札内川上流」で、現在と同じく「カムイエクウチカウシ山」と描かれています。

鎌田正信さんの『道東地方のアイヌ語地名』(1995) には次のように記されていました。

 カムィ・エクチカ・ウㇱ・イ「kamuy-ekuchika-us-i 神(熊)が・岩崖を踏みはずして落ちる・のが常である・所(山)」の意で、それほど険しい山である。
(鎌田正信『道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】』私家版 p.67 より引用)
kamuy-ekuchika-us-i で「神(熊)・岩崖を踏み外して下へ落ちる・いつもする・ところ」ということですね。

ekuchika を分解すると

ekuchika については『地名アイヌ語小辞典』(1956) に詳しく記されていました。

ekuchika エくチカ 《完》岩崖を踏みはずして下へ落ちる。[<e-kut-ika(岩段からまたぐ)。
(知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.25 より引用)
まず全体的な語意を示した上で、ekuchika は次のように分解できるとしています。

e-「そこにおいて」「そこから」。ika「またぐ」。e-ika「そこにおいて・またぐ」「そこから・またぐ」。kut e-ika「岩段 そこから・またぐ」「岩段・から・またぐ」。この補語の kut を動詞の語体の中に取りこんだ古い綜合的な云い方が e-kut-ika すなわち ekuchika である。]
(知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.25 より引用)
なるほど……。本来は kut-e-ika という語順になるべきところを e-kut-ika になっているが、これは古い形だ……ということですね。

久保寺逸彦さんの「アイヌ語・日本語辞書稿」にも次のように記されていました。

e-ni-ika 樹をふみはずす
 = ni-e-ika 樹に於いて踏み外す
(久保寺逸彦『アイヌ語・日本語辞典稿』草風館 p.64 より引用)
見事なまでに、ほぼ一致していますね……! 「カムイエクウチカウシ」は kamuy-e-kut-ika-us-i で「神(熊)・そこで・岩崖・踏み外す・いつもする・ところ」と解釈してよさそうです。

「カムイエクウチカウシ山」の成立年代

残る問題点として、「カムイエクウチカウシ山」という名称の成立年代があるのですが、前述の通り「東西蝦夷──」には「カモイノホリ」とあり、これを「カムイエクウチカウシ山」の前身であると見ることが(一応は)可能です。

ただ典拠が「東西蝦夷──」のみというのは、ちょっと「弱い」印象もあったのですが、『改正北海道全図』(1887) では「サッナイ川」の上流に「神威岳」と描かれていました。

歴舟中の川」を遡った先の、大樹町と浦河町の境に「神威岳」がありますが、『改正北海道全図』には該当する位置に山名の記入が無く、また『北海道実測切図』では(大樹町と浦河町の境の)「神威岳」の位置には「カムイヌプリ」と描かれていました。

ここまで見た限りでは、『改正北海道全図』が「神威岳」の位置を誤った可能性も否定はできないものの、『改正北海道全図』の「神威岳」の位置が「東西蝦夷──」の「カモイノホリ」と大枠で一致することから、札内川上流部 kamuy- を冠する山が存在した……と考えたいところです(もっともその場合、三角点名が「札内岳」となっている点に疑義が生じるわけですが)。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2025年1月24日金曜日

のんびり南島散策 (5) 「ビュースポット」

ガイドのマッチさんの先導で南島を歩きます。南島上陸は「東京都自然ガイド」の同行が必要で、定められたルート以外は立入禁止となっています。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

おや、この石は一体……?

2025年1月23日木曜日

のんびり南島散策 (4) 「南島に上陸!」

南島の上陸地点が近づいてきました。自然環境保護のためか、南島には「桟橋」が無く、上陸の際はボートの舳先から岩に飛び移る必要があります。
実際にガイドのマッチさんからのメールにも「ボートの舳先から岩場に乗り移り悪路を歩きます」とあり、「足腰の悪い方や脚力体力がない方はボートで待っていただく場合があります」との注釈もあります。この点については乗船時にも軽くスクリーニングがあり、「ボートに飛び移ってくださいね~。これができないと南島上陸は難しいですよ~」みたいな感じだったような記憶が。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

桟橋代わりの岩場

上下船の際に利用する「桟橋代わりの岩場」はこんな場所です。階段が二手に別れているのが謎ですが……

2025年1月22日水曜日

のんびり南島散策 (3) 「鮫池へ」

ガイドのマッチさんを含めて 6 人を乗せたプレジャーボートは、南島上陸に向けて島の西側を南に向かっていました。進行方向左側に「穴」が見えてきましたが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「穴」を横目に、うねる……うねって、ますよね……海を南に向かいます。

2025年1月21日火曜日

のんびり南島散策 (2) 「島と岩の狭間で」

出航して 10 分ほどが経過しました。振り返れば遥か遠くにふるさと「おがさわら丸」が見えます。それにしても、「おが丸」が停泊しているだけで謎の安心感があるのは何故なんでしょう……?
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

遠くに「西島」が、そしてずっと手前の右側には「烏帽子岩」が見えています。ちょうど二見港の「出口」とも言える場所ですが……

2025年1月20日月曜日

のんびり南島散策 (1) 「いざ南島へ!」

ハイエース(だと思う)にて移動すること数分で、大村海岸と二見港の間にある防波堤にやってきました。「B.I.T.C. 小笠原生協」の横の道を海側に向かい、旧・青灯台の脇を通り過ぎたところです。
後部のトランクにはゴム製?の衣服と三脚などが置かれています。ガイドのマッチさんの Web サイトは https://hoshizorayasan.com/ で、Web サイトのメニューには「星空のツアー」が一番上に位置しています。三脚は「仕事道具」なのでしょうね(貸出用かな?)。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

毎度おなじみのバケツ

この日は「おがさわら丸」の出港日ですが、出航は 15 時なので、午前中はこのボートで南島に上陸します。見た感じではかなり新しそうなボートですね。

2025年1月19日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1204) 「ピラトコミ山・ポロシリ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ピラトコミ山

pet-e-u-ko-hopi-i?
川が・そこで・互い・に・捨て去る・ところ
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)

2025年1月18日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1203) 「クチャウシュナイ沢・コイカクシュサツナイ川・ピコイトッピ沢」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

クチャウシュナイ沢

kucha-us-nay
山小屋・ついている・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
札内川ダムのダム湖「とかちリュウタン湖」(「リュウタン」はアイヌ語由来では無いとのこと)に北から注ぐ支流です。地理院地図には「クチャウシュナイ沢」と描かれていますが、不思議なことに国土数値情報には見当たらない川です。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川が見当たりませんが、『北海道実測切図』(1895 頃) には「クチャウㇱュナイ」という川が描かれていました。

鎌田正信さんの『道東地方のアイヌ語地名』(1995) には次のように記されていました。

 クチャ・ウㇱ・ナィ(kucha-us-nay 狩小屋・ある・川) の意で、この川筋には、かつて狩猟用の仮小屋が、設けられていたのであった。
(鎌田正信『道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】』私家版 p.64 より引用)
そんなところでしょうね。kucha-us-nay で「山小屋・ついている・川」と見て良いかと思われます。

地名では「小屋」を意味する語が複数見られるのですが、kas が一時的な「仮小屋」を意味するのに対し、kucha は常設の「小屋」を意味する……とされます(時折例外もあるみたいですが)。「クチャウシュナイ沢」の近くには「常設の小屋」を意味する kucha があった、と見るべきなのでしょうね。

コイカクシュサツナイ川

koyka-kus-{sat-nay}
東・通る・{札内川}
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)

2025年1月17日金曜日

小笠原の旅 2024/春 (5) 「Day 5 開始」

小笠原の旅 2024/春」も、ついに小笠原での最終日となる Day 5 に突入しました。メインタイトルの連番を増加させてゆくと数字が大きくなってしまうので、今回はサブタイトルを積極的に使ってみたのですが、結果としてメインタイトルの連番が殆ど伸びないことに……(そしてメタ的な記事が大半を占める結果に)。
ということで小笠原最終日の朝ですが、生憎の雨模様となってしまいました。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

朝食は「本館」で朝 7 時からです。行かなくちゃ……飯を食いに行かなくちゃ……(いや、傘はちゃんと持ってましたが)。

2025年1月16日木曜日

父島さんぽ (22) 「三日月 on 三日月山」

「ははじま丸」から下船して、部屋に戻るために湾岸通りを歩いています。父島や母島には、路上の至るところに絵入りのタイルがあるのですが、村の鳥「ハハジマメグロ」のタイルもありました。
母島日帰り観光では、何度か「ハハジマメグロがいますよ」と教えてもらったのですが、写真に収められなかった……というか、実物をちゃんと認識できなかったような気もします。現時点では生息個体の存在が確認されているので、運と経験次第かもしれませんが、母島に通えばいつかは目にすることができるのでしょう。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

毎度おなじみ「小笠原諸島父島コースガイド」と駐車場の車のツーショットです。この地図で見ると「大村地区」がいかに島の北西に偏っているか良くわかりますね。

2025年1月15日水曜日

父島さんぽ (21) 「湾岸通り」

16 時ちょうどに伊豆諸島開発「ははじま丸」から下船しました。父島での乗船時や、母島での下船時・乗船時と比べると「祭りの後」のような雰囲気が感じられるかも……。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

乗客が下船した後の「ははじま丸」では、積み荷の上陸作業が行われていました。「ははじま丸」に大口貨物(自動車・建設資材・引越荷物など)を積載する場合は 2 日前までに連絡が必要で、これらの大口貨物は「おがさわら丸」との接続便には積載できないのだそうです。

2025年1月14日火曜日

伊豆諸島開発「ははじま丸」乗船記(二見港・入港編)

「ははじま丸」の客室前方にある電光掲示板に「父島二見港に到着」の文字が表示されました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

手前に見えている山は「大根山おおねやま」で、そのずっと先に見えているのが……

2025年1月13日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (173) 黒石(黒石市) (1878/8/5(月))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第三十信」(初版では「第三十五信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

生霊と幽霊(続き)

イザベラは、民衆に広く信じられている「迷信」について概略を記した上で、「心霊降神術」の詳細を記し始めました。

 心霊降神術、つまり幽霊を呼び出す一つの様態は日本では昔から企てられてきました。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.125 より引用)
この手の話題としては「恐山のイタコ」が有名ですが、かつては至るところで行われていた……ということなのでしょうか。

院内で、私は、一人の女の人が(霊媒はいつも女であるが)、彼女の術を行うために、ある家に入っていくのを見ました。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.125 より引用)
「院内」は原文では At Innai とあるので、一般名詞ではなく現在の秋田県湯沢市院内のことですね。「霊媒はいつも女であるが」というのも卑弥呼以来の伝統のようで興味深いのですが……

ある父親は脚気カッケかかっている彼の息子が治るものかどうか知りたがっていました。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.125 より引用)
あー、そういうことですか。脚気がビタミン欠乏症であることは当時まだ知られていなかった(後に海軍で脚気対策に取り組んだ高木兼寛は、1878(明治 11)年時点ではイギリスに留学中だった)ため、「原因不明の奇病」の趨勢を見届けるには「霊頼み」しか無かった……ということですね。

霊媒はいつも特別の形にまとめられた小さな箱を持ち歩き、軽い木の皮の帽子を、頭には被らずに手に持っています。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.125 より引用)
この「小さな箱」の中身は持ち主(=霊媒)以外誰も知らないとされ、中には「殺された犬の頭(のミイラ)が入っている」などといった説を唱えるものもいたのだとか。

イザベラと伊藤は「心霊降神術」が行われる現場に同席していたようで(その割に院内に滞在した際の「日記」には言及が無かったような?)、例によって霊媒の一挙手一投足が詳らかに記されていました。

霊媒は彼女の前に箱を置いて坐り、蓋の上で、絶え間なく、小さな弓の弦をブーンと鳴らしました。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.125 より引用)
この手の所作や小道具は儀式の神秘性を高める上で重要なのでしょうね。

依頼者は彼女の反対側に坐りました。それから、彼女は、小さな茶碗から彼に向かい水を投げかけました。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.125 より引用)
イザベラによると、この動作は「降ろすもの」が「死者の魂」なのか、あるいは「生きている人の霊」なのかによって異なるとのこと。

霊媒が依頼者に対してする唯一の質問は彼が面談したいのは生きている人か死んでいる人かを訊ねるだけです。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.125 より引用)
こういった「霊降ろし」の作法は昔から何世代にも亘って受け継がれてきたものだと思うのですが、元をたどれば誰かの創作……ということになるんでしょうか。「優秀な霊媒」の所作が見様見真似で広まった……ということかもしれませんが。

イザベラと伊藤が同席した場では「死者の霊」が呼び出されたとのこと。

伊藤(彼は懐疑論者なのだが)は、新潟で、自分が内陸を抜けるこの旅行を安全に終えることが出来るかどうかを、自分の死んだ父親の霊に聞いてくれるように、霊媒に頼んだと告白しました。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.125-126 より引用)
これも伊藤らしいというか、興味深い話ですね。イザベラの通訳にして極めて優秀な付き人でもある伊藤は、「そんなの迷信ですよ」と斜に構えて見せるキャラでありながら、ところどころで日頃の言動と矛盾する行動を見せているんですよね。この行動も、伊藤にとっては整合性の取れたものだったのか(あるいは一時の気の迷いだったのか)、気になるところです。

イザベラは、続けて「船乗りたちの間に伝わる化け物」の話を記していました。

 船乗りたちが信じているいろいろな化け物のなかの一つには悪意のある者が一人います。彼は、とても礼儀正しく、彼らのところにやってきて、柄杓を貸してくれるようにたのみます。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.126 より引用)
この「化け物」は悪霊で、柄杓を渡してしまうと船内に水を汲み入れて船を沈めてしまうとのこと。船を沈めさせないためにはどうすれば良いかと言うと……

一方、もし底が急に抜けて、その柄杓が彼に向かって投げつけられると、彼は消えうせてしまいます訳注 1
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.126 より引用)
ちょっと意味の取りづらい訳文になっていますね。原文を見てみると……

but if the bottom be hastily knocked out, and the dipper be thrown to him, he disappears;
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
高畑さんが、原文に忠実な形で和訳していることが良くわかります。一方で時岡敬子さんはこれを次のように訳出していました。

底をとっさに抜いたひしゃくを投げつければ、お化けは消えてしまうのです。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 上』講談社 p.462 より引用)
日本語としてのリズム(?)を考えると、このほうが意味を理解しやすいかもしれませんね。ただ、この「化け物」を退治するためには「底を抜いた柄杓を投げつける」と同時に呪文を唱える必要があり、それに失敗すると「化け物」は「河童」に変身し、河童は船を海の底に引きずり込んでしまうのだとか。

訳注 1 には「竹原春泉斎『絵本百物語』」とあるのですが、こういった物語は「船上においては一刻たりとも気を抜くべきではない」という教訓を伝えている……ということなのでしょうか。

湊(土崎湊)では、私は小さな寺で、船乗りたちが奉納した供物と共に、柄杓の悪霊から彼らを護ってくれると信じている神が架けられているのを見ました。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.126 より引用)
こういった「悪霊」(の伝承)は船乗りたちを団結させる効果もあったのかな、とふと思ったりしました。あと、化け物をその場で「退治」する手順がちゃんと示されていて、「日頃の行いを良くしましょう」という教訓めいた話になっていないというのも、ちょっと面白いですよね。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2025年1月12日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1202) 「トムラウシ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

トムラウシ川

tomo-rap-us-i??
中間・両翼・ついている・もの
(?? = 旧地図に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
道道 111 号「静内中札内線」の「ピョウタンゲート」から更に西に進むと、いくつかの覆道を抜けた先で「富良牛橋」で「トムラウシ川」を渡ります。「富良牛橋」は「とむらうしはし」ですが、「ふらうし──」と誤読する人もいるかも……?

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川名が見当たりませんが、『北海道実測切図』(1895 頃) には「トㇺラウシ」という川が描かれていました。

大雪山系南部の「トムラウシ山」と同名ですが、両者は直線距離でも 100 km 以上離れているので、直接の関係は無さそうです。

「東西蝦夷──」には描かれていないものの、戊午日誌 (1859-1863) 「報十勝誌」には次のように記されていました。

またしばしを過て
     トンラウシ
右の方小川、其名義はしれず。此辺え到るや両岸峨々たる高山にして樹木多し。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.256 より引用)
「右の方」とありますが、このあたりの戊午日誌「報十勝誌」の記録もほぼ左右が逆になっているので、「トンラウシ」は上流に向かって左側(南側)を流れていたと見て良いかと思われます。

諸説あります

鎌田正信さんの『道東地方のアイヌ語地名』(1995) には次のように記されていました。

 トムラウシ川は新得町十勝川支流のトムラウシ川、芽室町美生川支流のトㇺラウシ川と、ここをふくめて 3 筋あるが、諸説あって確定的なものはない。→トムラウシ(120㌻)
(鎌田正信『道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】』私家版 p.64 より引用)
常に断定調でズバっと記している印象の強い方ですが、珍しく「諸説あります」で締めていますね。参照先には次のように記されていました。

 十勝支庁管内にはトムラウシの地名は美生川上流と札内川上流の三筋がある。いずれの川にも共通することは急流である。新得町役場の調べでは「ミズゴケのある川」あるいは「湯花のある川」と記した。バチェラー辞典はトム(tom 花、輝ケル)とし、またトンラは(tonra 水草の類)とある。ウシ(us 多くある)を意味しているが、確定的な解には至っていない。
(鎌田正信『道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】』私家版 p.120 より引用)
確かにその通りで、ほぼ同じ内容が山田秀三さんの『北海道の川の名』(1971) や『北海道の地名』(1994) にも記されています。ただ不思議なことにバチェラーの『蝦和英三對辭書』(1889) にはそれらしき記述を見つけることができませんでした(TomanashToponra で「水草の名」を意味するとの記載あり)。

三つのトムラウシ

十勝エリアに三つの「トムラウシ」があるというのは、意味を考える上ではありがたい話です。たとえば「湯花のある川」という解は「新得のトムラウシ」には通用する考え方ですが、「芽室のトムラウシ」と「中札内のトムラウシ」には通用しない可能性が高そうなので、一旦後回しにできます。

鎌田正信さんは「いずれの川にも共通することは急流である」としましたが、他にもヒントが無いか、地形図を見てみましょうか。まずは全国的な知名度のある「新得のトムラウシ」から。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
続いては「芽室のトムラウシ」です。現在は「トヤマ川」の北隣を流れる「ニタナイ川」が、かつて「トムラウシ」と呼ばれていた川の可能性がありそうです。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
最後が「中札内のトムラウシ」です。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

二手に分かれる川?

これらの地形に共通点が見いだせるか……という話なのですが、やはり特徴的なのは「新得のトムラウシ」でしょうか。新得の「トムラウシ川」は「十勝川」の支流ですが、川を 2 km ほど遡るとすぐに「トムラウシ川」と「ポントムラウシ川」に分かれています。

芽室の、かつて「トムラウシ」だったと思しき「ニタナイ川」は「美生びせい川」の支流ですが、これも川を 3 km ほど遡ったところで「トヤマ川」が分岐しています。

ところが中札内の「トムラウシ川」は見事なまでに一本道で、途中で二手に分かれることがありません。ただ、別の見方をしてみると、「札内川」と「トムラウシ川」が二手に分かれている……と言えそうな気もします。

となると「二手に分かれる」の定義が問題になってきます。たとえば「札内川」と「カルペシナペ川」も札内川園地のところで二手に分かれていると言えるのでは無いか……という話になるのですが、これについては「ですよねー」で済ませるしか無いというのが正直なところでしょうか。

悪あがきをしてみると「二手に分かれた後の谷の幅に決定的な差が無い」といった後づけの定義も考えてみたくなりますが、その定義だと本家?の「新得のトムラウシ」が NG になりそうな感じもします。逆に「カルペシナペ川の周辺も『トムラウシ地形』と言える(が他の名前があったのでそれが優先された)」と開き直ったほうがいいかもしれません。

両翼の中間(に接した川)?

「トムラウシ地形」なる謎の概念を脳内で組み立てつつあるのですが、tomo-rap-us-i で「中間・両翼・ついている・もの」と考えられないかなぁ……という話です。

地名アイヌ語小辞典』(1956) には rap-us-i は「降り道のある所」とありますが、rap は「おおぜい降りる」という完動詞以外にも「羽」や「翼」と言った名詞と見ることもできます。また「両翼を張ったように突出ている出崎」ともあるのですが、これを「川の左右に迫る山」と捉えられないかなぁ、と。

もっとも、この仮説には「トムラウシは川なのか、それとも川と川の間の山なのか」という問題が出てくるのですが、tomo-rap だけで「両翼の中間」(=山)と見ることもできそうなので、tomo-rap-us-i で「両翼の中間(=山)に接したもの(=川)」と見ることができるかもしれません。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2025年1月11日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1201) 「チセナイ川・カルペシナペ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

チセナイ川

chise-un-nay???
家・に入る・川
(??? = 旧地図で未確認、既存説に疑問点あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
札内川の北支流で、「オソノウシ川」の西(上流側)を流れています。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川が見当たらず、また『北海道実測切図』(1895 頃) には川が描かれているものの、残念ながら川名の記入がありません。

鎌田正信さんの『道東地方のアイヌ語地名』(1995) には次のように記されていました。

チセナイ(地理院・営林署図)
(鎌田正信『道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】』私家版 p.64 より引用)
営林署図でも「チセナイ」なのですね。国土地理院の 1/25000 地形図を確認したところでは、 1976(昭和 51)年版と 1994(平成 6)年版では「チセナイ沢」で、2000(平成 12)年版で「チセナイ川」となっていました。

 チセ・ウン・ナィ(chise-un-nay 家・ある・川) の意で、「ウン」がぬけた形であろう。ここでいう家とは仮小屋か、あるいは熊の穴があったのかもしれない。
(鎌田正信『道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】』私家版 p.64 より引用)
そんなところでしょうね。ただ改めて地形図を眺めてみると、「チセナイ川」の流域はかなり四角形に近いように見えます。東西と北側の山を「チセ」(=家)に見立てて、chise-un-nay で「家・に入る・川」と呼んだ可能性も考えたいところです。

ただ、「チセナイ」という川名の存在をどこまで遡れるかが少々問題で、軽く調べた限りでは 1976(昭和 51)年の 1/25000 地形図よりも前には遡れないのですね。アイヌ語の語彙で構成された川名なので「アイヌ語地名」と見て良いと思われますが、古い記録を確認できないので「要精査」扱いになりそうです。

カルペシナペ川

yuk-ru-pes-pe?
鹿・路・それに沿って下る・もの(川)
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問点あり、類型あり)

2025年1月10日金曜日

伊豆諸島開発「ははじま丸」乗船記(ポスターバトル編)

「ははじま丸」が母島・沖港を出港して 1 時間半ほどが過ぎました(いつの間に)。船内は往路でおおよそ見て回った筈ですが、せっかくなので(?)ポスター類の紹介です。
母島の「沖港船客待合所」にも貼ってあったポスターですが、デザインとネーミングが出来すぎているが故にあらぬ誤解をしてしまうんですよね。これは苗木を母島に持ち込む際の施設で、温泉や銭湯の案内ではありません。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ポスターバトル勃発?

隣のポスターも「沖港船客待合所」で見かけたものです。こちらはペットを小笠原に持ち込む際のルール(条例)の紹介です。

2025年1月9日木曜日

伊豆諸島開発「ははじま丸」乗船記(沖港・出港編)

母島・沖港からは、伊豆諸島開発の「ははじま丸」に乗って父島・二見港に戻ります。出航 20 分ほど前ですが、乗船待ちの船客の姿は疎らです。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ところが乗船タラップの前に向かったところ……なるほど、そういうことですか。「人の姿」は疎らですが、しっかりと手荷物が列をなしていました。

2025年1月8日水曜日

ガイドさんと回る母島半日ツアー (14) 「ツアー終了!」

母島で「ここは見ておきたかった」と思っていた「北港」をしっかりと堪能したので、あとは「ははじま丸」が待つ沖港に戻るだけです。時間は既に 12:52 で、出航まであと 1 時間ちょいしかありません。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

Google マップによると、「母島北港」から「沖港船客待合所」までは 10.2 km(「静沢の森」経由)で車での所要時間は約 24 分とのこと。最悪、出航 15 分前まで沖港に着けばいいので、なんとか間に合いそうでしょうか。


ガイドのカノープス母島さんは、流石は慣れたもので「まぁ間に合うでしょう」と口にしつつ、「間に合わなかった場合でも、別の方法があると言えばあります」とおっしゃいます。えっ……と思って詳細を伺ったところ、「漁船をチャーターすればいいんです」とのこと(笑)。

ちなみにお値段は十数万円とのこと(記憶違いだったらすいません)。現実的では無いものの、後払いでいいなら払えない額でも無いところがポイントでしょうか。ちなみに法的なあれこれをクリアしているかどうかは聞きそびれました。

お金の話と言えば、母島ではガソリンがリッター 284 円なのだそうです(!)。「父島では 210 円でしたよ」と話したところ、やはり「えーっ」という反応が。輸送費が上乗せされるので高くなるのは当然なんでしょうけど、それにしても差が大きいですよね。需要や備蓄量の違いがそのまま価格に反映しているのでしょうか。それにしてもあまりに酷いので、(父島も含めて)減税や免税も必要なのでは……?

母島には専業のガイドさんはいないとのことで、カノープス母島さんも介護施設で働きながらガイドをされているとのこと。介護施設で高齢の方から聞いた話をガイド業に活かしているのだそうです。そういった背景もあってか、話題の引き出しも豊富で、北港から沖港まではひたすら移動するだけだったのですが、その間も退屈させられることが無かったのは流石でした。

カメの産卵場

30 分ほどで北港から「ははじま丸」の待つ沖港に戻ってきました。岸壁の内側は漁港になっていて、漁船が出入りしています。

2025年1月7日火曜日

ガイドさんと回る母島半日ツアー (13) 「北港・道路終点」

ガイドさんの車で都道 241 号「沖港北港線」の終点に位置する「北港きたこう」にやってきました。
母島に来る前にいくつか写真を見ていて、「あっ、ここいいな」と思ったのがこの「北港」だったのですが、ついにここまで来ることができました……!

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

桟橋は木製かと思ったのですが、その辺に転がってそうな丸石を積んでセメントで固めたような構造なんですね。

2025年1月6日月曜日

ガイドさんと回る母島半日ツアー (12) 「北村小学校跡」

「東港」から都道 241 号「沖港北港線」に戻って、「北村小学校跡」にやってきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「北村小学校跡」は「北港」に向かう最後の下り坂の途中(の右側)にあります。石積みの階段などが残っていて、ここに学校があったことを今に伝えています。

2025年1月5日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1200) 「オソノウシ川・カラノ沢・ペンケオトシノ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

オソノウシ川

o-so-us-i?
河口・滝・ついている・もの(川)
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
ペンケオマナイ川」から 2.3 km ほど上流側で札内川に合流する北支流です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい名前が見当たらず、『午手控』(1858) や『戊午日誌』(1859-1863) 、『東蝦夷日誌』(1863-1867) などでも言及が見当たりません。

北海道実測切図』(1895 頃) には「オソーウシ」という川と、その東隣(下流側)に「ポンオソーウシ」という川が描かれていました。どうやら「オソウシ川」は「オソウシ」の転記ミスっぽい感じで、また「ポンオソーウシ」ではなく「オソーウシ」のほうが現在の「オソノウシ川」に該当しそうに見えます。

鎌田正信さんの『道東地方のアイヌ語地名』(1995) では次のような言及がありました。

オソーウシ
オソノウシ〔沢〕(地理院・営林署図)
(鎌田正信『道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】』私家版 p.63 より引用)
ああ、やはり「オソーウシ」=「オソノウシ」のようですね。o-so-us-i で「河口・滝・ついている・もの(川)」と見て良さそうな感じです。

 オソーウシ川の川尻は、札内川本流のダムによって造られた、湖に没してしまった。
(鎌田正信『道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】』私家版 p.63 より引用)
え……と思ったのですが、地理院地図を良く見てみると、確かに堤高があまり無さそうな、頭首工のようなダムがあります。なお陸軍図にはダムは描かれていませんが、オソーウシの河口に滝があったようには見えません。

so は一般的に「滝」と解釈されることが多いのですが、知里さんの『地名アイヌ語小辞典』(1956) には次のようにあります。

so そ(そー) ①水中のかくれ岩。②滝。③ ゆか(床)。④めん(面); 表面一帯。
(知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.125 より引用)
このように、so は「水中のかくれ岩」と解釈することもできそうなので、必ずしも落差があったとは言えない……という点に留意する必要がありそうです。今回は慣例?で「滝」としていますが、o-so-us-i は「河口・水中のかくれ岩・ついている・もの(川)」となる可能性が高いかもしれません。

カラノ沢

ku-kar-us-nay??
弓・作る・いつもする・川
(?? = 旧地図で未確認、既存説に疑問点あり、類型あり)

2025年1月4日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1199) 「ペンケオシトノオマナイ川・ペンケオマナイ川・ニナラパオマナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ペンケオシトノオマナイ川

panke-osmak-oma-nay?
川下側の・後ろ・そこに入る・川
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
「ピコッタン川」の合流点から 1.5 km ほど上流側で札内川に合流する北支流です(いつものことですが過不足無く説明文を綴るのって難しいですよね)。西隣に「ペンケオマナイ川」が流れています。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい名前が見当たりませんが、『北海道実測切図』(1895 頃) には「ペンケオシノオマナイ」と描かれていました

鎌田正信さんの『道東地方のアイヌ語地名』(1995) に言及がありました。

パンケオシマノオマナイ
ペンケオトシノオマナイ(営林署図)
ペンケオシマノオマナイ
パンケオトシノオマナイ(営林署図)
 ヌーナイ沢の2.5キロ上流を、北西側から流入しているのがパンケ(panke 下手の)で、すぐ上流がペンケ(penke 上手の)沢である。営林署図は、パンケとペンケが、入れ違いになっている。
(鎌田正信『道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】』私家版 p.62-63 より引用)
「パンケ」と「ペンケ」が逆になっているというのは御愛嬌ですが、いいヒントを頂きました。『北海道実測切図』には「ペンケオシナノオマナイ」という川が描かれていますが、これはどうやら現在の「ペンケオマナイ」のことらしいのですね。東隣に無名(配置スペースのせいか)の短い川が描かれているのですが、これが現在の「ンケオシノオマナイ川」だったみたいです。

川名もびみょうに錯綜しているので、ちょっと表にまとめてみましょう。下流側から、即ち東から西の順です。

北海測量舎図パンケオシ??オマナイペンケオシトノオマナイ
北海道実測切図 (1895 頃)-ペンケオシノオマナイ
営林署図ンケオノオマナインケオノオマナイ
国土数値情報ンケオシトノオマナイ川ペンケオマナイ川

なお前掲書の鎌田さんは、この川名の解として次のように記していました。

 オ・シスマ・オマ・ナィ(o-sisuma-oma-may 川尻に・大石・ある・川) の意。川尻の札内川には、大きな転石が見られた。
(鎌田正信『道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】』私家版 p.63 より引用)
これは「ピコッタン川」の解と併せて考えると納得感のある解です。si-suma は『地名アイヌ語小辞典』(1956) にも言及があります。

ただ、個人的にはちょっと違う可能性を考えたいところです。osmak-oma-nay で「後ろ・そこに入る・川」だったのでは無いでしょうか。鎌田さんは見出しに「パンケオシマノオマナイ」と記しているのですが、これは帯広営林支局の官林境界図から採録したものでしょうか。

この場合、「オシマ」の「ノ」が「ク」の誤記だとすれば osmak-oma-nay となり、実際の川の流れもそれっぽい(主観たっぷりの曖昧な表現だね)印象があります。現在の「ンケオシトノオマナイ川」は panke-osmak-oma-nay で「川下側の・後ろ・そこに入る・川」だったのではないでしょうか。

ペンケオマナイ川

penke-osmak-oma-nay?
川上側の・後ろ・そこに入る・川
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)

2025年1月3日金曜日

ガイドさんと回る母島半日ツアー (11) 「人の気配が薄すぎる『東港』」

「石門入口」の、まるで海を見渡すためのお立ち台のような場所(水を流すカルバートだったでしょうか)の横には、何やら珍妙なものが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

これは「マルハチ」と呼ばれる木生シダ(ヘゴの一種)です。小笠原亜熱帯農業センターでも見かけましたが、随分と印象が違うような……?(経年の違い?)

2025年1月2日木曜日

ガイドさんと回る母島半日ツアー (10) 「『タイヨウフウトウカズラ』と『石門入口』」

「桑ノ木山」の話題をもう少しだけ続けます。母島の特徴でもある「湿性高木林」らしい森が広がっていますが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

おやっ、これは何だったでしょう。水やりのための水のストックでしょうか?

2025年1月1日水曜日

「日本奥地紀行」を読む (172) 黒石(黒石市) (1878/8/5(月))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第三十信」(初版では「第三十五信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

生霊と幽霊

日本奥地紀行』普及版の「第三十信」は、後半がほぼまるまるカットされています。ここから始まる「生霊と幽霊」も、普及版では完全にカットされた内容です。イザベラは、幽霊の存在について「世界中のどことも同じく日本でも大いに信じられている」とした上で、次のように続けていました。

そして、彼らは、人間の幽霊に限定しません。雌のムジナやキツネもその体から離れて、彼ら自身が楽しむために戯れるのが好きです。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.124 より引用)
ちょっと不思議な感じの和文になっていますが、原文を見てみると……

and they are not limited to apparitions of human beings, for the she-badger and the fox love to disport themselves after their departure from the body.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
特に不自然な点は見当たりません。時岡敬子さんの訳も確かめてみましたが、she-badger が「狸」となっている以外はそれほど大きな違いはありません。

キツネは、実際に行動でふざけて見せ、人の正気を失わせ、ほとんどいつも美しい女の人の姿をとります。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.124 より引用)
あー、そういえばキツネがガチムチのおっさんに化けることはあまり無いような気もしますね。

キツネはいつも犠牲者(普通は男)の後をつけて行きます。他方ムジナはいつも彼女たちの前を行きます──それはいつも女の人なのですが、麗しい外見をした若者に化けたムジナの彼女に化かされるのです。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.124 より引用)
ん、またしてもちょっと不思議な感じの文になっていますね。原文はこんな風になっているのですが……

The fox always follows his victims, who are usually men; while the badger always goes before hers, who are usually women befooled by her in the guise of loveable young men.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
hersher が何を指すのかをちゃんと理解しないと、正確に意味が読み解けない文章になっているように見えます。高畑さんの訳はおそらく正しいと思われるのですが、hers は「『ルックスの良い男性のふりをした彼女』に騙される女性たち(women)のことで、her は「ルックスの良い男性のふりをした彼女」、即ち「メスのムジナ(タヌキ)」なのでしょうね。

「ムジナ(タヌキ)」が「メス」であることは、数行前に she-badger として明示されているのですが、直近では badger となっているので、そのことをちゃんと把握していないと正確に意味を解せない文章になっちゃっています。別の言い方をすれば「ちゃんと読めば意味が通じる」文章なんですけどね。

彼が愛している娘のことを考えつつその墓の脇を通り過ぎようとしている恋人は、墓地から提灯を持ったとても美しい女の人につけられます。しかし、彼女は第三者には、ぞっとする骸骨にしか見えない。幽霊はさまざまな方法で姿を現すことが出来ます。その幾つかは使い古しのハロウィーンのお化けの仕掛けのようです。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.124 より引用)
改めて考えてみると、日本にも西洋にも「幽霊」がいるわけですが、これは何故なんでしょうね。「幽霊」や「おばけ」、あるいは「祖先の霊」のような概念が一切存在しない文化を共有するグループというのは存在するのでしょうか。もしそういったグループが存在しないのであれば、逆にそれは何故なのか、気になりますよね。

さらに言えば、人間以外の動物で似たような概念を共有する種はあるのでしょうか。猿は「猿の幽霊」の姿を見るのか、鯨は「鯨のご先祖様」に出会うことがあるのか、これも気になるところです。

イザベラはどこで話を仕入れたのか、降霊術?の話を始めました。

一つの方法は、アンドン行灯の中に 100 のかすかな光を入れ、 100 行の呪文を連禱するのです。呪文の各行の終わりに、明かりの一つが取り出されて、幽霊を見たいと希望する者はまだ燃えている一つの明かりを持って外に出て、幽霊が出るべき時になったらそれを吹き消します。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.124-125 より引用)
イザベラによると「恋人を失った娘はしばしばこの黒魔術を行う」とのこと。闇夜はあの世と繋がっている……という考え方は現在でも普遍的だと思われますが、イザベラは「日本人はひどく暗闇を怖がり、最も貧しい人々も一晩中明かりをつけておきます」と記していて、その所為で次のような弊害にも直面していたとのこと。

こちらの地方では、彼らは、暗くなってからは一人では出歩きません。私は、この地方では、いつもやむなく何回も早い時間に宿場に宿入りしなければなりませんでした。なぜなら、馬子マゴは、2 倍払うと言っても、夜、戻る道で、超自然現象に出くわすという危険を犯したくはなかったからです。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.125 より引用)
このことを「昔の人は純朴だった」で済ませることも可能なんでしょうけど、夜の闇の中で行動する危険性が「説話」という形で、時には荒唐無稽に語り継がれてきた「成果」だったのではないかな、と思えたりもします。要は世代を越えた人類の「智慧」の結晶と見るべきなんじゃないかなぁ、と。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International