母島に来る前にいくつか写真を見ていて、「あっ、ここいいな」と思ったのがこの「北港」だったのですが、ついにここまで来ることができました……!
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桟橋は木製かと思ったのですが、その辺に転がってそうな丸石を積んでセメントで固めたような構造なんですね。
資材になりそうな石は海岸からいくらでも拾えそうな感じです。
ンゴ……?
ただ、よく見るとこんなものも……。これ、サンゴのようにも見えるのですが……。桟橋はずっと雨や波に洗われてきたからか、石や砂利が露出気味ですが、金属の痕跡もありました。ロープの支柱か何かの跡でしょうか……?
桟橋の先端にはゴロゴロした石が水没しています。桟橋の一部だった石が風化などで崩壊したのでしょうか……?
放置された「北港」
この「北港」は「沖港」以上に「天然の良港」と言えそうな地形ですが、小笠原がアメリカから返還された後も整備されること無くそのまま放置されています。すぐ近くに「東港」を整備したのでもう必要ない……という判断かもしれませんが、あるいは漁船の喫水を考えると、北港の水深ではやや心許ないという判断もあったのかもしれません。都道の西側を川が流れていますが、河口は砂利で埋まっていました。島の中では比較的飲水を確保しやすい場所だったのでしょうか。
昔の北村の様子
都道 241 号「沖港北港線」の終点のすぐ傍には立派な休憩舎もあります。休憩舎の脇には「大沢海岸」に向かう遊歩道の案内と、「昔の北村の様子」と題された案内板が立てられていました。
「戦前の北村の集落」と題された写真が 2 枚紹介されているのですが、1 枚めには「小学校校庭」が映っています。石段と「製糖石ローラー」を積み重ねた門柱も見えるのですが、あの鬱蒼とした森がかつてはこんなに開けた校庭だったというのは……衝撃的ですね。
戦前の「北村」は小学校があるくらい開けていたのに、何故現在は無人なのか、理由をガイドさんに聞いてみた(ちょっとした疑問をその場で質問できるのはガイドツアーの良さですよね)のですが、「戻ることが許されなかったから」とのことでした。「小笠原支庁(母島)50年の記録」というスライド資料にも「1 島 1 集落の政策」とあり、母島では旧・沖村にリソースを集中させるという政策判断があった……ということのようです。
似たような話で、八丈島の西に「八丈小島」という島があり、かつては定住人口もあったのですが、八丈島と比べてインフラの整備が遅れたことで、生活水準の開きが看過できなくなったとして集団離島したとのこと。旧・沖村のインフラを集中的に整備すれば旧・北村も似たようなことになっていた筈なので、妥当な判断だったと言えるのかもしれません。
大沢海岸(徒歩30分)
「昔の北村の様子」の近くには「母島エリアマップ」も立てられていました。南向きに立てられているので、地図の向きも南北がほぼ逆になっています。「北港」の駐車場脇にも「大沢海岸」とありますが、「(徒歩30分)」と付け加えられているのは良心的ですね。地理院地図でざっくりと距離を測ると 1~1.5 km ほどに見えるので、この「徒歩30分」は「片道」と見ていいかと思われます。
「大沢海岸」に行くには、この崖の上を歩いていくことになるのですが、この時点で 12:50 で、「ははじま丸」の出航が 14:00 なので……どう考えても無理ですね。
「日帰り観光」で大沢海岸まで行くのであれば、「ロース記念館」や「都道最南端」をスルーして、原チャあたりでまっすぐ「北港」に行けば良いのかもしれません。
道路終点
「道路終点」という珍しい標識もありました(都道 241 号「沖港北港線」終点)。「道路終点」から都道 241 号「沖港北港線」を望みます。このあたりは頑丈そうなコンクリート舗装なんですね。
父島でも見かけた「バイオトイレ」がありました。木質チップを使用したメンテナンスフリーのトイレとのことですが、どういった理屈で汚物が浄化されるのか、ちょっと気になるところです。
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