2024年12月31日火曜日

ガイドさんと回る母島半日ツアー (9) 「桑ノ木山」

「新夕日ヶ丘」から更に北に進み、「桑ノ木山入口」にやってきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

都道から小径が分岐していて、毎度おなじみの足拭きマットも置かれています(種子類や微生物の持ち込み・持ち出しを避けるためのもの)。

2024年12月30日月曜日

ガイドさんと回る母島半日ツアー (8) 「電気牧柵」

高台を通る道路から「向島」「平島」「姉島」を遠望できる「新夕日ヶ丘」ですが、山手の斜面にはなにやら不穏なプレートが掲げられた柵が……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「電気牧柵」「きけん」とあり、その横には感電した手を模したピクトグラム風が描かれています。あっ、これが噂の……と思ったのですが……

2024年12月29日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1198) 「ヌーナイ川・ピョウタン」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ヌーナイ川

nu(-an)-nay?
豊漁(・である)・川
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
中札内村南札内で札内川に合流する北支流です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ユウナイ」という支流が描かれていますが、南北が逆になっている(南支流として描かれている)ようにも見えます。

戊午日誌 (1859-1863) 「報十勝誌」には次のように記されていました。

またしばし過る哉凡一里計と云
     ユウナイ
左りの方小川。其名義は此川上に一ツの水溜り有りて、其処より水わき出すによつて号るとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上』北海道出版企画センター p.256 より引用)
「温泉」を意味する yu という語があるので、yu-nay で「湯・川」と考えた可能性がありそうですね。

ところが永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Yu nai   ユー ナイ   豊漁川 此處温泉ナシ、アイヌ云フ「ヌアンナイ」ト同義ニテ豐漁川ノ意ナリト即チ「イオナイ」ノ轉訛ナリ
(永田方正『北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.314 より引用)
うーん、ちょっと謎な書きっぷりですね。「此處温泉ナシ」と明記していて、松浦武四郎の「湯・川」説?を否定しているところまでは理解できるのですが……。

北海道実測切図』(1895 頃) を見ると、現在の名前と同じく「ヌーナイ」と描かれています。線がつながってきた感がありますが、どうやら本来は nu(-an)-nay で「豊漁(・である)・川」だったのが、いつの間にか「ユーナイ」に転訛してしまったので、本来の名前に訂正した……ということでしょうか。

もしそうだとすれば、本来の地名(川名)を取り戻したという珍しい成功事例になるのですが、この川が本当に「豊漁の川」だったのかどうか、ちょっと気になるところです。

永田地名解が「即ち『イオナイ』の転訛」としているのも気になるところで、i-o-nay であれば「アレ・多くいる・川」と読めます。「アレ」は蛇やマムシを指すこともあればクマを指すこともあるのですが、実は「豊漁の川」でもなんでもなくて、蛇やマムシ、あるいはクマの出る川だったんじゃないでしょうか。

本来は i-o-nay で「アレが良く出る川」だったのを、その事実自体を忌避するために nu(-an)-nay で「豊漁の川」と呼び習わすようになった……というオチもありそうな気がします。

ピコッタン川(ピョウタン)

{pi-ota}-un(-nay)
{砂}・ある(・川)
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)

2024年12月28日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1197) 「ペペキキ川・オショショナイ川・ヌプカクシュナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ペペキキ川

不明
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
道道 55 号「清水大樹線」の「中島橋」の 0.3 km ほど南(上流側)で戸蔦別川に合流する東支流だとされています。ただ、資料によって異同があるので、早速ですが表にまとめてみることにしましょう。

午手控 (1858)ヲショショケナイ(右小川)※ 正確な位置は不明
戊午日誌 (1859-1863)ヲシヨシヨケナイ(右のかた小川)※ 正確な位置は不明
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)ヲシヨシヨケナイ(西支流)※ 正確な位置は不明
北海道実測切図 (1895 頃)オショショキナイリーピラチョロポㇰクㇱュペッ
北海測量舎図オショショキナイクーピラチヨロポㇰシュナイ
陸軍図 (1925 頃)--
2.5万地形図-十勝清川 (1985)--
2.5万地形図-十勝清川 (2000)ペペキキ川オショショナイ川
国土数値情報オシヨシヨナイ川ペペキキ川
地理院地図ペペキキ川オショショナイ川
三線橋 銘板ペペキキ川-
西戸蔦橋 銘板-オショショナイ川

明らかに奇妙なのが国土数値情報の川名で、「ペペキキ川」と「オシヨシヨナイ川」が地理院地図と逆になっています。Google ストリートビューで確認したところでは、地理院地図が「ペペキキ川」とする川を渡る「三線橋」に「ペペキキ川」の銘板があり、同様に「西戸蔦橋」には「オショショナイ川」の銘板がありました。

これを見る限り「国土数値情報がまたやりおったわ」案件なのですが、よく見ると国土数値情報が「オシヨシヨナイ川」とする川が、北海道実測切図でも「オショショキナイ」と描かれているのですね。つまり、北海道実測切図を正とした場合、国土地理院が川名を取り違えた……と見ることもできます(真相は謎ですが)。

なお『北海道実測切図』が記録した「リーピラチョロポㇰクシュペッ」なる川名は、(実測切図を参考にしたと思しき)『北海測量舎図』以外では確認できないという点も注意が必要です。ri-pira-charo-pok-kus-pet であれば「高い・崖・入口・下・横切る・川」と読めそうな感じです。

ここまで見た限りでは、「ペペキキ川」という川名は戦前に遡って確認することができません。またそのままではアイヌ語で解釈することも困難なため、今回は「不明」という扱いとするしか無さそうです。

オショショナイ川

o-{sos-sos-ke}-nay?
河口・{ずっと剥げ崩れている}・川
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問点あり、類型あり)

2024年12月27日金曜日

ガイドさんと回る母島半日ツアー (7) 「サイザル麻の花?」

「ははじま丸」(と「第七十八伸光丸」)が停泊中の沖港の前浜に戻ってきました。ここには公衆トイレとシャワーが設置されていて、トイレ休憩タイムとなりました。


足元には絵入りのタイルが 3 つ並んでいて、真ん中が「村の花」「ムニンヒメツバキ」と描かれています。
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左側が「アオウミガメ」で……

2024年12月26日木曜日

ガイドさんと回る母島半日ツアー (6) 「都道最南端」

父島に滞在して母島に日帰り可能なのは「四日目」だけで、母島での滞在時間は 9:30 から 14:00 までの 4 時間半しかありません(帰りの切符の購入などの時間も必要なので、実際には自由時間はもっと短いのですが)。

実質 3 時間半程度で母島の見どころをサクっと回ってしまおう……ということになるので、全てガイドのカノープス母島さんにお任せだったのですが、事前に「ここは見ておきたいなぁ」と思っていた場所が二つほどありました。
ひとつ目がこちらの「都道最南端」です。都道 241 号「沖港北港線」(通称「南進線」)の最南端なんですが、つまり数ある都道の中でもっとも南に位置する……ということになります。まぁ、ただそれだけなんですが……(汗)

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「都道最南端」からも歩道(南崎線)が南に伸びていて、南崎方面に向かうことができます。コンクリート製の控えめな車止めが置かれていて、「都道最南端 母島南崎」の案内と「小富士」「蓬莱根海岸」「南崎線歩道」への案内が立っているのですが……

2024年12月25日水曜日

ガイドさんと回る母島半日ツアー (5) 「万年青橋」

都道 241 号「沖港北港線」の通称「南進線」区間を南に向かい、「万年青おもと橋」というところにやってきました。ここから遊歩道を 280 m ほど歩けば「万年青浜」ですが、標高差が 50 m ほどあるので、行きは良くても帰りがつらい系かも……。
ちなみに「万年青」で「おもと」と読むのですが、「オモト」という日本原産の多年草があるそうで。

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南崎遊歩道

遊歩道の入口は駐車場になっていて……

2024年12月24日火曜日

ガイドさんと回る母島半日ツアー (4) 「竈とレモンとマニラ麻」

「ロース記念館」の外に戻ってきました。あれっ、よく見ると石積みの小屋のような建物がありますね……。
現地では気づかなかったのですが、ストリートビューで確認すると、扉の外側に「WC」とあったので、どうやらトイレのようですね。

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貨幣石(猪熊谷産)

良志羅留晋ロルフスラルフ 之像」の横には石が置かれていますが、これは貝殻の化石のようですね。説明には「貨幣石(猪熊谷産)」とあり、父島を訪れた(若き日の)昭和天皇は、貨幣石を見るために母島に足を伸ばしたのだとか。

2024年12月23日月曜日

ガイドさんと回る母島半日ツアー (3) 「母島開拓の歴史をなぞる」

母島・元地の「ロース記念館」の話題を続けます。網や浮きなどが展示されているのですが、「ゾウリエビ」というエビの存在は初めて知りました。この「ゾウリエビ」、食用として漁獲されるらしいですが、市場にはあまり出回らないとのこと。
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漁具のお隣はクワやナタ、ハンマーなどが展示されています。

2024年12月22日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1196) 「オケネ川・岩内川・廹別」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

オケネ川

o-kene(-us-i)
河口・ハンノキ(・多くある・もの)
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
道道 62 号「豊頃糠内芽室線」の「第二大川橋」の北で札内川に合流する西支流です。『北海道実測切図』(1895 頃) では「オケ子」と描かれていますが、「実測切図」ではイトーヨーカドーの東のあたりで札内川に合流していたことになっています。

現在は「売買川放水路」の開削などもあり、オケネ川の流路は短縮されていますが、陸軍図ではかつてのオケネ川と思しき流路が確認できます。この川は現在の「機関庫の川」だと考えられますが、「機関庫の川」は札内川ではなく売買川に合流しているという点で違いがあります。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川名が見当たりませんが、戊午日誌 (1859-1863) 「報十勝誌」には次のように記されていました。

また十丁も上りて
     ヲケ子
同じく左りの方也。ヲケ子とは赤楊多きよりして号しもの也。本名はヲケ子ウシのよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.248 より引用)
o-kene(-us-i) で「河口・ハンノキ(・多くある・もの)」と見て良さそうですね。「売買川」では幾通りもの解釈がありかなり苦しんだので、この調子で行きたいものです……(汗)

岩内川(いわない──)

iwa-nay
霊山・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)

2024年12月21日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1195) 「売買川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
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売買川(うりかり──)

ur-ekari??
丘・を回る
(?? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問点あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
道道 151 号「幕別帯広芽室線」の「札内清流大橋」のあたりで札内川に合流する西支流で、かつて札内川と売買川に挟まれた一帯に「賣買村」が存在していました(1902(明治 35)年~ 1915(大正 4)年)。なお現在の河道は改修されたもので、陸軍図では根室本線の北側で札内川と合流していたことが確認できます。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ウレカリ」という名前の川が描かれていました。『北海道実測切図』(1895 頃) には「賣買」(村)とあり、現在の「売買川」に相当する位置には「ウウェカリㇷ゚」と描かれていました。

戊午日誌 (1859-1863) 「報十勝誌」には次のように記されていました。

     ウレカリ
左りの方小川。其名義不解也。川端には柳と赤楊はん多しとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.248 より引用)
うーん、残念ながら「意味は良くわからない」とありますね。

永田地名解 ①

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Uwegarip   ウウェガリㇷ゚   集場 數個所ニ捕リタル魚ヲ此處ニ集ム故ニ名クト云フ○賣買ウリカヒ村ト稱ス
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.313 より引用)
uwekari-p で「集まる・ところ」でしょうか。uwekari は『アイヌ語沙流方言辞典』(1996) によると u-w-ekari で「互い・(挿入音)・の方に向かって」とあります。永田方正は「集まるところ」に「市場」の機能があるとして「売買」という字を充てた……と考えたのかもしれませんが、ちょっと話が出来すぎている感もありますね。

十勝地名解 ①

かなり謎な感じの地名ですが、安田巌城『十勝地名解』(1914) には詳らかに記載がありました。

ウリガリップ
  原称「ウリ・カリップ」なり。「ウリペ」とは笹の実、「カリップ」とは取るということにしてこの地方笹の実多かりしかば、アイヌ等は毎年これを取りしより、かくは名ぜるなり。
(井上寿・編著『十勝アイヌ語地名解』十勝地方史研究所(帯広) p.30-31 より引用)
「『ウリペ』とは笹の実」とありますが、知里さんの『植物編』(1976) を見てみると、確かに次のようにあります。

( 6 ) uripe(u-ri-pe)「ウりペ」[<ur-ipe 笹葉(の)・食物]種實《北海道全地》  注  3.──古い語だったと見え幌別の樣に別の語を使う所でもこの語わ通じる。
(知里真志保『知里真志保著作集 別巻 I「分類アイヌ語辞典 植物編」』平凡社 p.221 より引用)

十勝地名解 ②

『十勝地名解』には続きもあり……

一説には「ウレ・カリプ」にして、「ウレ」とは足裏、「カリプ」とは足跡をたずねて歩くという義にして、古昔石狩のアイヌ、十勝のアイヌを襲ひて、宝物を掠奪せんとの希図を抱き、雪中一人あり、ひそかに来りてその動静を偵察す、たちまち十勝アイヌの悟る所となりて追跡せらる、石狩アイヌことの急なるをしり、足に穿つところのカンジキをさかさに穿ちて走る。十勝アイヌ等これを知らずついに逃すと。
(井上寿・編著『十勝アイヌ語地名解』十勝地方史研究所(帯広) p.31 より引用)
「石狩アイヌ」と「十勝アイヌ」のスパイ・アクションが展開された土地なのだ……という説でしょうか(汗)。萱野さんの辞書にも「ウレ」は「足」とあり、ure-asam で「足の裏」を意味するとのこと。

「『カリプ』とは足跡をたずねて歩くという義」とありますが、これも萱野さんの辞書に kari が「徘徊する,回る」とあるので、ure-kari-p で「足跡・徘徊する・ところ」と解釈できる……のでしょうか。

永田地名解 ②

更に続きがありまして……

 あるいはいう、原称は「ウレンカベ」にして、平安のところと訳すべし。
(井上寿・編著『十勝アイヌ語地名解』十勝地方史研究所(帯広) p.31 より引用)
だんだん裏を取るのが面倒になってきましたが……(汗)。この解については知里さんの『アイヌ語入門』(1956) にて、次のように指摘されていました。

  Urengabe;ウレンガベ;平安ノ処(地名解 315)。urenka は「揃える」ということ。従って「ウレンガベ」が「平安ノ処」という意味になるとも思われぬ。ただ,語形の方は当然 Urenka-p となる筈。
(知里真志保『アイヌ語入門 復刻─とくに地名研究者のために』北海道出版企画センター p.31 より引用)
え? 永田地名解が元ネタなんですか? 慌てて p.315 を見てみたところ……

Urengabe   ウレンガベ   平安ノ處 「アイヌ」某ハ「ウリカベ」ト呼ブ「ウル、イカペ」ノ急言ニシテ丘ヲ迂リ越ス處ノ意ナレトモ未詳
(永田方正『北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.315 より引用)
あらら、本当ですね。前述の通り、『永田地名解』には p.313 に「ウウェガリプ」の記載があり(①)、p.315 には「ウレンガベ」と記載されていることになります(②)。前者(①)は「河西郡」の項で、後者(②)は「サッナイ川筋」(=札内川筋)「帶廣川筋」なので、札内川の西にある「賣買村」は「ウレンガベ」(②)であるようにも思えますが、ところが「賣買村」は「ウウェガリプ」(①)だと明記されているんですよね。

永田地名解 ③

まぁ「平安の所」という考え方は色々とびみょうだと言うことなので、サクっと先に進みましょう。また更に続きがありまして……

またあるいは「ウリカベ」と唱うるものあり。「ウリカベ」はすなわち「ウル・イカべ」の急言にして、丘をまわり越すところの意なりと。
(井上寿・編著『十勝アイヌ語地名解』十勝地方史研究所(帯広) p.31-32 より引用)
これは永田地名解 ② の「ウレンガベ」の注釈にあった「某は──」に続く内容のことなので、これもオリジナル?は永田地名解ということになりますね。ur-ika-pet で「丘・越える・川」ではないかとのこと。これはつまり、藤山一郎ですね……(違)。

伏古アイヌの伝承

それにしても、いやー、見事に百花繚乱ですねぇ。更科源蔵さんの『アイヌ語地名解』(1982) では永田地名解(その1)の「ウウェガリㇷ゚」説を紹介していて、山田秀三さんの旧著『北海道の川の名』(1971) でも永田地名解 ① の「ウウェガリプ」説と、十勝地名解 ② に相当する説が紹介されていました。

微妙に差異がありそうなので、改めて引用しておきますと……

〔伏古アイヌの伝承〕(要約)日高のシピチャリコタンの敵衆六十人が掠奪団トパツトミを組んで、伏古に押しよせた時に、土地のアイヌは神の加護を得て、敵を沼に追い落して殺した。その中で只一人がそのことを故郷に知らせようと逃れ、かんじきを逆にはいて足跡をくらまし、この川を上って脱走することができた。ウレヒとは踵(かかと)、カレヒとは追跡の事で、それからウレカレヒと呼ばれた。これ今の売買村とぞ。(吉田巖先生記録から)
(山田秀三『北海道の川の名』モレウ・ライブラリー p.129 より引用)
手元の辞書類で調べてみましたが、「カレヒとは追跡の事」については裏付けが得られませんでした。一般的には nospa が「追跡する」を意味するようですね。

十勝史

『角川日本地名大辞典』(1987) には、これまで見てきた解とは異なるものが記されていました。

地名の由来には,「原称ウリアリップと称す……杖の跡を踏み来る鹿と云ふ意義なりと云ひ伝ふ」という説(十勝史),「ウウェガリㇷ゚,集場。数個所ニ捕リタル魚ヲ此処ニ集ム故ニ名クト云フ」という説(北海道蝦夷語地名解)がある。
(『角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)』角川書店 p.202 より引用)
「ウリアリップ」で「杖の跡を踏み来る鹿」と言うのですが、どこをどう読めばそういう解釈になるのか、ちょっと良くわからないですね……(ガス欠)。

まとめ

同じく山田秀三さんの『北海道の地名』(1994) では、永田地名解 ① と伏古アイヌの伝承を紹介し、伏古アイヌの伝承と似た十勝地名解 ② についても言及した上で次のように続けていました。

 松浦図ではウリカベである。音だけでいうなら,ウルカ・ペッ(urka-pet 丘の・川),あるいはウリカペッ(ur-ika-pet 丘を・迂回する・川)のような形の名であったのかもしれない。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.310 より引用)
えーと、これは永田地名解 ③ のことですね。明らかにタイミングを逸した感がありますが、表にしてみましょうか……。

概要山田秀三
北海道の
川の名
(1971)
更科源蔵
アイヌ語
地名解
(1982)
帯広市史
(1984)
角川
日本地名
大辞典
(1987)
山田秀三
北海道
の地名
(1994)
永田地名解
(1891) ①
ウウェガリㇷ゚
(集まる所)
永田地名解
(1891) ②
ウレンガベ
(平安の所)
----
永田地名解
(1891) ③
ウリカベ
(丘を越える所)
----
十勝地名解
(1914) ①
ウリガリップ
(笹の実を取る所)
----
十勝地名解
(1914) ②
ウレカリプ
(足跡を探し歩く所)
---
伏古アイヌ
の伝承
ウレカレヒ
(踵を追跡する所)
--
十勝史ウリアリップ
(杖の跡を踏み来る鹿)
----

永田地名解 ① の「ウウェガリㇷ゚」に人気が集まっている(?)のと、「ウリアリップ」のユニークさが光りますね。なお『十勝地名解』を再刊した『十勝アイヌ語地名解』(1985) の脚注では「ウル・イカ・ペツ(丘を・迂回する・川) ではないかと考えられる」とあり、永田地名解 ③ に一票(?)が追加されています。

ur-ika-pet で「丘・越える・川」という考え方は実際の地形にもマッチしているように思えます。ただ松浦武四郎が記録した「ウレカ」との整合性という面で若干難があるでしょうか。

松浦武四郎の「ウレカリ」を重視するならば、ur-e-kari(-pet) で「丘・そこで・回っている」あたりが無難かもしれませんね。あるいは ekari で「回る」と見ることもできるので、ur-ekari で「丘・を回る」と捉えることもできます。

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2024年12月20日金曜日

ガイドさんと回る母島半日ツアー (2) 「ロース記念館」

カノープス母島さんと回る島内日帰り観光で、最初に訪れたのが「ロース記念館」です。
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「ロース記念館」の建物は石積で、屋根はシュロの葉を葺いたものです。

2024年12月19日木曜日

ガイドさんと回る母島半日ツアー (1) 「『カノープス母島』さん」

「ははじま丸」を下船します。手前には外来種などの持ち込みに目を光らせている「都レンジャー」の方の姿も見えますね。
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恐ろしくリーズナブルな話

この日の「ははじま丸」が母島・沖港に入港したのが 9:30(+10 min)で、折り返しの父島行き「ははじま丸」は 14:00 に母島・沖港を出港予定です。母島の滞在時間は最大でも 4 時間半ということになります。

そして、これは意外と知られていないのですが™、母島は意外と大きかったりします。母島は南北に都道 241 号「沖港北港線」が通っているのですが、北端から南端までは 13.4 km ほどあります。仮に 4 時間フルに歩いたとしても片道 8 km 程度だと思われるので、徒歩での観光には限界があります。

となるとレンタルバイクかレンタカーということになるのですが、レンタカーは 5 時間で 5,500 円とのこと(参考)。ところが母島観光協会の Web ページを見てみると、父島からの日帰りでも参加できる「島内観光」が、なんと 5,000 円~ らしいのですね。

ガイドさん選び

レンタカーとほぼ同コストでガイドさんと車がついてくるというのは恐ろしくリーズナブルな話なので、見逃す手はありません。母島観光協会の「ツアー」のアイコンをクリックすると「ガイド紹介」のコーナーがあり、9 人のガイドさんが紹介されています(2024 年 12 月時点)。

あとはこの中から選ぶだけなのですが、実は「半日観光」を行っていないガイドさんもいらっしゃいます。「母島ガイドマップ」にも「陸のガイド連絡先」というリストがあり、これが見やすいのですが……

2024年12月18日水曜日

伊豆諸島開発「ははじま丸」乗船記(母島・沖港編)

父島・二見港を出港して 2 時間近くが過ぎ、間もなく「ははじま丸」は母島・沖港に到着します。
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電光掲示板には「本日はありがとうございました」の文字が。いえいえこちらこそありがとうございます。

2024年12月17日火曜日

伊豆諸島開発「ははじま丸」乗船記(島が見えた!編)

父島・二見港を出港してから 1 時間 20 分ほどが経過したところで、前方に島が見えてきました(!)。
客室のガラス越しに撮影したので、窓に付着した水しぶきにピントが合ってしまうという痛恨のミスをやらかしてしまったわけですが……。

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気を取り直してもう一度。島が見えているのですが、なんか想像以上にデカいような……?

2024年12月16日月曜日

伊豆諸島開発「ははじま丸」乗船記(カツオドリ編)

「ははじま丸」は父島・二見港を出港して、(父島の南西にある)南島の沖合を航行中です。
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沖合から見た「南島」

南島のまわりには岩礁レベルの島?が多く存在しています。やや右寄りに見える一際大きな島が「南島」です。

2024年12月15日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1194) 「ウツベツ川・一己川・オンベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ウツベツ川

ut-pet
肋・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
緑ケ丘公園の西を流れ、帯広市役所の北西で帯広川に合流する支流です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には描かれていませんが、『北海道実測切図』(1895 頃) には「ウッペッ」と描かれていました。

戊午日誌 (1859-1863) 「登加知留宇知之誌」には次のように記されていました。

三四丁を上りてヲツベツ(ウツペツ)、左りの方に(有)遅流にして深し。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上』北海道出版企画センター p.225 より引用)※ ルビは解読者による
山田秀三さんの旧著『北海道の川の名』(1971) には次のように記されていました。

 帯広川の南支流。帯広市街の西辺、市街と競場場の間を流れている川の名。ウツベツの原形はウッ・ペッ(Ut-pet あばら骨・川)で、大きな川や沼に、「肋骨のような形についている川」だという。
(山田秀三『北海道の川の名』モレウ・ライブラリー p.131 より引用)
ut-pet で「肋・川」と見て良さそうな感じですね。ただ山田さんは少々引っかかるものを感じたらしく、『北海道の地名』(1994) では次のように記していました。

 帯広川の南支流。ウッ・ペッ(ut-pet 肋骨・川)の意であるが,ここでもどうして肋骨なのだか見当がつかない。昔河跡沼でもあって,それにあばら骨のように横から繋がってでもいたのか?
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.311 より引用)
改めて『北海道実測切図』を見てみると、当時は大外から回り込む形で帯広川(オペレペレケㇷ゚)に合流していたように描かれています。このことを形容したネーミングだったかもしれません。

なお,全道的にはウッ・ナイの名が多く,ウッ・ペッの形のもので目立つのはこの川と,旭川近文のウッペッぐらいだろうか。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.311-312 より引用)
そう言われてみれば……という話ですね。nay は全道的には pet より小ぶりな谷川を指すことが多いのですが、現在の十勝川の河口付近はかつて「大津川」と呼ばれ、『東西蝦夷山川地理取調図』では「ヲホツ」と描かれています。十勝は何かと独立独歩の気風がありますが、petnay の使い分けも他とはひと味違っていたのかもしれません。

一己川(いっちゃん──)

ichan-nay?
サケマスの産卵穴・川
(? = 旧地図で未確認、既存説、類型あり)

2024年12月14日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1193) 「イタラタラキ川・ペベギリ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

イタラタラキ川

i-tar-tar-ke-i??
人・踊り・踊り・させる・ところ
(?? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問点あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
幕別町との町境近く、十勝スピードウェイの西を流れる川です。現在は「猿別川」の支流という扱いですが、陸軍図では「サッチャルベツ川」の支流として描かれていました。

北海道実測切図』(1895 頃) にも「イタラタラキ」と描かれていました。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「イタラタラキ」に相当する名前の川は見当たりませんが、似た位置に「ヌウヘハナ」という川が描かれていました。

『十勝地名解』(1914) には次のように記されていました。

イタラタラキ
  原称は「イタラタラゲイ」なり。動揺する地との意にして、この地は湿地にしてその上を歩行すれば、大地動揺するより名づく。
(井上寿・編著『十勝アイヌ語地名解』十勝地方史研究所(帯広) p.54 より引用)
そして脚注には次のように記されていたのですが……

 イ・タラ・タラ・キイ(そこが・踊り・踊りするところ) と解釈できる。
(井上寿・編著『十勝アイヌ語地名解』十勝地方史研究所(帯広) p.54 より引用)
あれ? そう言えばどこかで聞いた話ですね。

漢字で似平をあてた。
(井上寿・編著『十勝アイヌ語地名解』十勝地方史研究所(帯広) p.54 より引用)※ 原文ママ
あー。帯広空港の北から東にかけて「平町」という場所があるのですね。帯広空港の敷地内?には「平遺跡」があるので、「似平」も誤字では無いのかもしれません。

以平町」のあたりには「イタラタラキ」あるいは「イタラタラキ川」が流れていた訳では無さそうですが、「西十線」の「小豆川」には「イタラタラキ橋」があるとのこと(!)。

更に不思議なことに、更別村の、かつての「イタラタラキ川」(現在は「猿別川」)の流域に「平」という名前の二等三角点(標高 164.5 m)が存在するのですね。

余談ですが、更別村には何故か三角点が 6 つしかありません。これは他の市町村と比べて異様に少ないのですが……。

「以平」は移転地名なのか

(毎度のことですが)訳がわからなくなってきたので、とりあえず表にまとめてみました。

帯広市幕別町更別村
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)---
永田地名解 (1891)---
北海道実測切図 (1895 頃)--イタラタラキ
三角点選点(大正4年)--以平
陸軍図 (1925 頃)似平下似平イタラタラキ川
西似平
地理院地図帯広市以平町幕別町美川イタラタラキ川
その他イタラタラキ橋
(小豆川)
--

「イタラタラキ」という地名・川名は『北海道実測切図』が初出だったように見えます(見落としがあるかもしれませんが)。

また陸軍図によると、現在「幕別町美川」とされるあたりが「下似平」と呼ばれていたみたいです。「下似平」からサッチャルベツ川を遡ると「イタラタラキ川」ですが、両者は直線距離でも 5 km ほど離れています。

明治から大正にかけて、本来の(?)イタラタラキ川の流域から微妙に離れた所に「似平」という地名が *発生した* ようにも見えるのですが、「道北の釣りと旅」さんによると、まず「イタラタラキ川」の流域に「イタラタラキ駅逓所」が設置され、後に「サラベツ川」の流域に「下イタラタラキ駅逓所」が設置されたとのこと。

これまたややこしいことに、幕別町(当時は幕別村)の「下似平」は「猿別川」沿いで、「下イタラタラキ駅逓所」は上流側の「サラベツ川」沿いです。

更別村の「イタラタラキ川」と帯広市の「以平町」の関係ですが、下イタラタラキ駅逓所が帯広市寄りに立地したことで、「似平」という地名が指すエリアが予想外に広くなった……という話なのかもしれません。

「イタラタラキ」とは

そう言えば、そもそも「『イタラタラキ』はどういう意味?」という話だったような気がするのですが(汗)、山田秀三さんの『北海道の地名』(1994) には、『十勝地名解』の解を紹介した上で、次のように続けていました。

 知里博士小辞典には「tattarke-i タッタㇽケイ。水中に岩磐などあって川波の立ちさわぐ所;たぎつせ。〔←tar-tar-ke(踊り・踊り・する)-i(所)〕と書かれている。その語頭にイ(それが)がつくと安田氏の書いた形である。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.307 より引用)
やはりと言うべきか、『十勝地名解』の解釈を是認するしか無さそうな感じですね。i- は第三人称主格で -ke は自動詞を他動詞化させるものなので、i-tar-tar-ke-i で「彼(彼女)・踊り・踊り・させる・ところ」となり、平易な言い方に直せば「人が踊り踊らされるところ」とでも言えそうでしょうか。

ペベギリ川

pe-pe-nay?
水・水・川
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問点あり、類型あり)

2024年12月13日金曜日

伊豆諸島開発「ははじま丸」乗船記(伊豆諸島開発編)

父島・二見港から母島・沖港に向かう「ははじま丸」の出港まで、あと数分となりました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「椅子席」の窓からは、デッキ越しにどんよりと雲が立ち込めた父島の海と山が見えます。

2024年12月12日木曜日

伊豆諸島開発「ははじま丸」乗船記(母島おすすめスポット編)

「ははじま丸」の船室に戻ってきました。「旅客座席」(カーペット席)の前は煙突が通っていて、煙突部分の壁には母島の名所や名物を撮影した写真が飾られていました。
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この鳥は「メグロ」ですね。母島ではあちこちで普通に見かけるみたいですが、果たして半日の日帰り観光で目にすることはできるのでしょうか……?

2024年12月11日水曜日

伊豆諸島開発「ははじま丸」乗船記(外部デッキ編)

「ははじま丸」には客室として「椅子席」と「じゅうたん席」があるほかに、外部デッキにも「デッキ椅子席」が存在します。
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「ははじま丸」の中央部にある「椅子席」に向かう通路の左隣に「外部デッキ出入り口」と書かれた階段があります。

2024年12月10日火曜日

伊豆諸島開発「ははじま丸」乗船記(都レンジャー編)

無事「ははじま丸」の乗船券を購入したので、あとは船に乗り込むだけだったのですが、ここで予期せぬ事態が。東京都の腕章をつけた人に「靴が汚れているので洗ってほしい」と声をかけられてしまったのです。
以前にも触れましたが、父島のマイマイは「ニューギニアヤリガタリクウズムシ」というプラナリアに食べ尽くされて、生息数を激減させてしまいました。このプラナリアは幸いなことに母島では確認されていないため、父島から母島にプラナリアが持ち込まれることが無いように、水際対策が取られているのでした。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

この腕章をつけた人たちは「都レンジャー」の人で、外来種の拡散を防ぐための業務の一環として「ははじま丸出港立会い」を行っているとのこと。事前に乗船待機中の船客の靴をチェックして、土がついている場合は洗い場で土を落とすように指導していた……ということみたいです。

「ははじま丸」の乗船待ち行列のすぐ横に、立派な洗い場が設けられていました。

2024年12月9日月曜日

伊豆諸島開発「ははじま丸」乗船記(乗船券購入編)

小笠原の旅は Day 4 に入りました。Day 4 は伊豆諸島開発の「ははじま丸」で母島に向かいます。
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母島日帰りができるのは

今更ながらのおさらいですが、「おがさわら丸」は竹芝桟橋を出港後、翌日に父島・二見港に入港し、入港の三日後に二見港を出港して竹芝桟橋に向かうスケジュールが組まれています(多客期を除く)。

2024年12月8日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1192) 「サッチャルベツ川・サッチャロベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
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サッチャルベツ川

sat-{sar-pet}?
乾いた・{猿別川}
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
「サラベツ川」と並んで更別村の中央部を横断して「猿別川」に合流する支流です。陸軍図では「猿別川」の区間が「サラベツ川」との合流点以北となっていて、現在よりも「サッチャルベツ川」の区間が長く描かれています。

「地図・空中写真閲覧サービス」の「国土地理院 オンライン閲覧(地図・空中写真)」で過去の地形図を確かめたところ、1973 年に修正された 2.5 万地形図「駒畠」では「サッチャロベツ川」と描かれていて、1985 年に改測された 2.5 万地形図「駒畠」で当該区間が「猿別川」に変化していました。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) では、「サルフツイトコ」(=「サラベツ川」の源流と見られる)の *北支流* として「サッチャルベツ」が描かれていました。ただ実際には「サラベツ川」よりも南側を流れているので、これは描画のミスか、あるいは何らかの認識違いがあったのかもしれません。

「乾いた河口の川」説

戊午日誌 (1859-1863) 「報十勝誌」には次のように記されていました。

 また少し上りて
      サツチヤルベツ
 右のかた小川也。本名サツテチヤロヘツと云て、乾た川口の川と云儀也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.301 より引用)
sat-char-pet で「乾いた・河口・川」ではないかとのこと。

「茅原の河口の川」説

一方で永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Sat charu pet   サッ チヤル ペッ   茅川口 一説乾口川ノ義ナリト云フ?
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.306 より引用)※ 原文ママ
一見、戊午日誌と同じ解に見えますが、「茅川口」とあるため、これは sar-char-pet が音韻変化して sat-char-pet になった……と考えたようです。ただ「一説」として(松浦武四郎が記録した)「乾いた河口の川」説も併記したところに注意が必要です。

「乾いた・猿別川(支流)」説

山田秀三さんの『北海道の地名』(1994) では、永田地名解の説を紹介した上で、次のように続けていました。

 サッ・サㇽペッ「sat-sarpet 乾く・猿別川(支流)」であったのかもしれない。以上は地名として続けて発音すればどれでもサッチャルペッとなる。一応は現地を歩いて見たが,現在の地形からは何とも判断ができなかった。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.307 より引用)
道庁の「アイヌ語地名リスト」も永田地名解と『北海道の地名』を引用する形で三通りの解を併記していて、「諸説あり特定しがたい」とのコメントがついていました。確かに同感です。

その中から敢えてどれか一つを選ぶならば、最も違和感が無いのが sat-{sar-pet} で「乾いた・{猿別川}」とする山田さんの解でしょうか。

蛇足

個人的には更に解を飛躍させて ar-{sar-pet}(音韻変化で at-{sar-pet} となる)で「もう一つの・{猿別川}」が転訛した……という可能性も考えてみました。「サルベツ川」と「サッチャルベツ川」は規模的に大差ないように見えるので、何らかの識別子となる語を冠した可能性があるんじゃないか、という考え方です(これは山田さんの解と同じ)。

山田さんの解は sat- で「乾いた」を冠したものですが、この場合「サラベツ川」よりも「サッチャルベツ川」のほうが「乾いている」必要があります。一方で ar- を冠した場合は「もう一つの」と解釈できるので、川筋に明確な特異点が必要なくなるというところがお買い得(?)です。

ただ陸軍図を見てみると、「サラベツ川」を合流点から少し遡ったところに湿地帯が描かれていて、一方の「サッチャルベツ川」(=現在は「猿別川」区間)の上流側には湿地帯は描かれていません(支流の「セオ川」流域が湿地として描かれていますが)。だとすると山田さんの解を更に飛躍させる必要性は皆無になるわけで、つまり「個人的には──」以降の駄文は全く必要なかったというオチに……(ぉ)

サッチャロベツ川

sat-{sar-pet}??
乾いた・{猿別川}
(?? = 旧地図で未確認、既存説に疑問点あり、類型あり)

2024年12月7日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1191) 「更別・勢雄・ハシポウシュベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
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更別(さらべつ)

sar-pet
葭原・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
帯広空港の南、中札内村と旧・忠類村の間に存在する村名で、かつて国鉄広尾線に同名の駅もありました。ということで例によって「駅名の起源」を見ておきましょうか。

  更 別(さらべつ)
所在地 (十勝国)河西郡更別村
開 駅 昭和 5 年10月10日
起 源 アイヌ語の「サル・ペッ」(ヨシ原の川)の意で、幕別川の支流の猿別川から出た名であるが、上流の更別村では猿を嫌って更別としたので、駅名はそれによったものである。
(『北海道駅名の起源(昭和48年版)』日本国有鉄道北海道総局 p.141-142 より引用)
幕別町で十勝川に合流する「猿別さるべつ川」が村内を流れているのですが、猿別川が村の南部を流れているのに対して、市街地のすぐ北側を(猿別川の支流の)「サラベツ川」が流れるというややこしいことになっていました。

永田地名解 (1891) もちょっとだけ妙なことになっていて……

      ○ サルペッ川筋
Sara pet   サラ ペッ   茅川
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.306 より引用)
見事に表記が揺れてしまっています。

北海道実測切図』(1895 頃) では「サラペッ」と描かれていました。陸軍図では現在と同様に「猿別川」ですが、(現在の)町村界のあたりで「サラベツ川」と「サッチャルベツ川」に分かれていて、(現在とは異なり)「猿別川」という名前が消滅しています。

どうやら更別村域では「サラベツ川」あるいは「サッチャルベツ川」が本流相当で、更別村内の「猿別川」は後付けの川名のように見えます。更別村には「猿別川」と「サラベツ川」があるほか、「サッチャルベツ川」と「サッチャロベツ川」があったりして、とてもややこしい……。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「サルフ」とあり、戊午日誌 (1859-1863) 「東部辺留府祢誌」にも「サルブツ」と記されています。これを素直に読むと sar-putu で「葭原・入口」となるのですが、「東西蝦夷──」を良く見ると源流部に「サルフイト?」と描かれているので、「サルフト」は河口の地名ではなく川名と見るのが妥当でしょう。となるとやはり sar-pet で「葭原・川」と考えて良さそうですね。

勢雄(せお)

sey-o-pon-pet?
殻・多くある・小さな・川
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)

2024年12月6日金曜日

小笠原の旅 2024/春 (4) 「Day 3 終了」

レンタカーを返却したので、あとは歩いて部屋に戻ります。おや、何やら妙なマンホールが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

なんとなく、慣れ親しんだ(?)湾岸通りを歩きます。今にして思えば、一筋北にも商店の多い通りがあったのですが……。

2024年12月5日木曜日

レンタカーで父島一周 (50) 「返却!」

ところで、こちらの写真はご記憶でしょうか。「展示館」の入口の前に置いてあったのですが、「次の開館は 15:00~ です」と書かれています。
ところが、何を思ったか「展示館はお休み中です」という文字を見て「ああ、新コロでお休み中なのか」と凄まじい勘違いをしてしまい……

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あと 10 分ほど待てば中に入ることができた筈だったのに、車に戻ってしまったのでした。なんということでしょう~™

2024年12月4日水曜日

レンタカーで父島一周 (49) 「ウミガメの楽園」

まるで「ウミガメの楽園」のような、「小笠原海洋センター」の話題を続けます。
このウミガメも、「やぁ、良く来てくれたね」と言い出しそうな、大人の落ち着きを感じさせるのですが、気の所為……ですよね……?

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「展示館」の裏側にはいくつも水槽があり、水槽ごとに 1~2 匹のカメがのんびりと過ごしていました。

2024年12月3日火曜日

レンタカーで父島一周 (48) 「小笠原海洋センター」

都道 240 号・通称「湾岸通り」を北上して奥村地区に向かいます。ちょうど 14:30 になった頃ですが、次なる目的地の「小笠原海洋センター」に到着しました。
手作り感のある表札がとてもいい味を出していますね。

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この「小笠原海洋センター」は、都道のすぐ傍にあるように見えるのですが、車で移動するには意外と大回りを強いられる場所にあります。


理由は不明なのですが、何故か Google マップのルート検索が地味におかしいですね(何故か扇浦海岸まで歩いて戻ることになってしまっている)。まぁ、そのうち直るでしょう……。まずは駐車場に車を停めて……

2024年12月2日月曜日

レンタカーで父島一周 (47) 「東京都最東端のバス停」

扇浦海岸から都道 240 号・通称「湾岸通り」を北上して「境浦海岸」にやってきました。進行方向右側の駐車場に車を停めます。
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駐車場には電話ボックスがあり(!)、手前には 2 台の原チャが駐車していました。

2024年12月1日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1190) 「忠類・忠類幌内川・コイカクシュトープイ川・セオトープイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
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地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

忠類(ちゅうるい)

chiw-ruy?
水流・激しい
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
かつての「忠類村」で、国鉄広尾線に同名の駅がありました。ということでまずは『北海道駅名の起源』(1973) を見ておきましょうか。

  忠 類(ちゅうるい)
所在地 (十勝国)広尾郡忠類村
開 駅 昭和5年10月10日
起 源 アイヌ語の「チウ・ルイ・ト・プッ」(流れの強い沼川)の上部をとって駅名としたものである。
(『北海道駅名の起源(昭和48年版)』日本国有鉄道北海道総局 p.142 より引用)
東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川を見つけられなかったのですが、『北海道実測切図』(1895 頃) には「チルイトープイ川」という川が描かれていました。

実測切図に描かれた「チエルイトープイ川」は、いつの間にか河川名が取り違えられたようで、現在「セオトープイ川」と呼ばれる川と同一であるように思われます。

改めて考えてみると疑問の残る地名です。chiw-ruy で「水流・激しい」とするのが定説とされていますが、*現在の* セオトープイ川が果たして「水流の激しい川」なのか、ちょっと疑問に思えてきました。

ただ、chiw-ruy に代わる、蓋然性のありそうな解が出てこないのも正直なところです(数時間ほど悩んだのですが)。chi-e-ran-i で「我ら・そこで・降りる・ところ」が転訛した……と想像するのが精一杯でしょうか。

山田秀三さんは、かつて『北海道の地名』(1994) にて

この辺は後の方に調べていただきたい処である。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.327 より引用)
と締めていましたが、めちゃくちゃ納得ですね……。

忠類幌内川(ちゅうるいほろない──)

koyka-kus-{to-pus-i}
東・を通る・{当縁川}
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)