2024年12月28日土曜日

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北海道のアイヌ語地名 (1197) 「ペペキキ川・オショショナイ川・ヌプカクシュナイ川」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ペペキキ川

不明
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
道道 55 号「清水大樹線」の「中島橋」の 0.3 km ほど南(上流側)で戸蔦別川に合流する東支流だとされています。ただ、資料によって異同があるので、早速ですが表にまとめてみることにしましょう。

午手控 (1858)ヲショショケナイ(右小川)※ 正確な位置は不明
戊午日誌 (1859-1863)ヲシヨシヨケナイ(右のかた小川)※ 正確な位置は不明
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)ヲシヨシヨケナイ(西支流)※ 正確な位置は不明
北海道実測切図 (1895 頃)オショショキナイリーピラチョロポㇰクㇱュペッ
北海測量舎図オショショキナイクーピラチヨロポㇰシュナイ
陸軍図 (1925 頃)--
2.5万地形図-十勝清川 (1985)--
2.5万地形図-十勝清川 (2000)ペペキキ川オショショナイ川
国土数値情報オシヨシヨナイ川ペペキキ川
地理院地図ペペキキ川オショショナイ川
三線橋 銘板ペペキキ川-
西戸蔦橋 銘板-オショショナイ川

明らかに奇妙なのが国土数値情報の川名で、「ペペキキ川」と「オシヨシヨナイ川」が地理院地図と逆になっています。Google ストリートビューで確認したところでは、地理院地図が「ペペキキ川」とする川を渡る「三線橋」に「ペペキキ川」の銘板があり、同様に「西戸蔦橋」には「オショショナイ川」の銘板がありました。

これを見る限り「国土数値情報がまたやりおったわ」案件なのですが、よく見ると国土数値情報が「オシヨシヨナイ川」とする川が、北海道実測切図でも「オショショキナイ」と描かれているのですね。つまり、北海道実測切図を正とした場合、国土地理院が川名を取り違えた……と見ることもできます(真相は謎ですが)。

なお『北海道実測切図』が記録した「リーピラチョロポㇰクシュペッ」なる川名は、(実測切図を参考にしたと思しき)『北海測量舎図』以外では確認できないという点も注意が必要です。ri-pira-charo-pok-kus-pet であれば「高い・崖・入口・下・横切る・川」と読めそうな感じです。

ここまで見た限りでは、「ペペキキ川」という川名は戦前に遡って確認することができません。またそのままではアイヌ語で解釈することも困難なため、今回は「不明」という扱いとするしか無さそうです。

オショショナイ川

o-{sos-sos-ke}-nay?
河口・{ずっと剥げ崩れている}・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
中札内村と帯広市の間にある「戸蔦大橋」のすぐ横で戸蔦別川に合流する東支流とされる川です。ただ「ペペキキ川」の項でも記した通り、この川は『北海道実測切図』(1895 頃) では「リーピラチョロポクシュペッ」とされていました。

「オショショナイ川」の名前と位置について、『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) 『北海道実測切図』「国土数値情報」「地理院地図」でどのように描かれているか、表にしてみました。

東西蝦夷
山川地理取調図
北海道実測切図 (1895 頃)国土数値情報地理院地図
-オショショキナイオシヨシヨナイ川ペペキキ川
-リーピラチョロポㇰクㇱュペッペペキキ川オショショナイ川
イワナイブトイワナイ岩内川岩内川
シヨモヘツ?エオロウㇱュパクシュペッ戸蔦川-
ヲシヨシヨケナイ?-ソウシベツ川ソウシベツ川
注:どちらも右支流(西支流)と描いているが、イワナイブト以遠のトツタヘツ(=戸蔦別川)については多くの川で左右が取り違えられているため、これらの川も左右を取り違えたと推定した

「オショショナイ川」と「ペペキキ川」がどこかのタイミングで取り違えられた可能性については前項で記した通りですが、「東西蝦夷──」の「ヲシヨシヨケナイ」と「──実測切図」の「オショショキナイ」では位置が異なる点も注意が必要です(岩内川よりも川上側か、それとも川下側か)。

結局、この川も本来の位置が不明瞭なままですが、とりあえず「オシヨシヨナイ川」という川名の元になったと思しき「ヲシヨシヨケナイ」については、戊午日誌 (1859-1863) 「報十勝誌」に次のように記されていました。

 またしばしを過て
      ヲシヨシヨケナイ
 右のかた小川。ヲシヨシヨケとは川上に滝有るよりして号しとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.250 より引用)
この松浦武四郎の解も個人的には少々疑問が残ります。ということで永田地名解 (1891) を見てみると……

Oshoshoke nai   オショショケ ナイ   崩崖ノ川 絶崖ノ土石落ルヲ「ショショシケ」ト云フ
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.315 より引用)
ふむふむ、これは納得できる解ですね。『地名アイヌ語小辞典』(1956) にも次のように記されていたので……(もっともこの解が永田地名解を典拠にしている可能性も高いのですが)

sos-sos-ke そㇱソㇱケ 《完》 ずうっと剥げくずれている。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.125 より引用)
「ヲシヨシヨケナイ」は o-{sos-sos-ke}-nay で、「河口・{ずっと剥げ崩れている}・川」と捉えて良いのではないでしょうか。過去の記録に異同が多すぎて、現在のどの川を指してそう呼んだかが不明なのは残念な限りですが……。

ヌプカクシュナイ川

nupka-kus-nay
原野・横切る・川
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
道道 240 号「上札内帯広線」の「上札内橋」の北で札内川に合流する西支流です。国土数値情報では、川名が「ヌプカシュナイ川」となっていました。

上札内橋の北から西札内ダムに向かう村道?には「プカクシュナイ橋」という橋があるため、「ヌプ」が「ヌップ」になるのは理解できるのですが、「シュ」が「シュ」になってしまったのは誤記ですよね。まぁ「ペペキキ川」や「オショショナイ川」のように、どこに存在したかすらあやふやな川と比べると、場所が確定しているだけマシという話もありますが……。

戊午日誌 (1859-1863) 「報十勝誌」には次のように記されていました。

しばしを過て
     ヌブカクシユナイ
右のかた小川也。是野原の中に在る小沢なるが故に号しもの也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.254 より引用)
この川については、更科源蔵さんの『アイヌ語地名解』(1982) にも言及がありました。

 ヌプカクシユナイ
 中札内町の部落名、新札内ともいっている。
(更科源蔵『更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解』みやま書房 p.227 より引用)
地図で確かめてみたのですが、「新札内」は現在の「ヌプカクシュナイ川」よりも北にあります。妙だなぁと思ったのですが、どうやら現在の「ヌプカクシュナイ川」の下流側は人工的に開削された流路のようで、本来はマツダの中札内テストコースの北西を流れていたみたいです(現在も無名の河川が存在します)。

もともと札内川支流の名で、ヌプ・カ・クシ・ナイは原野を通っている川の意である。
(更科源蔵『更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解』みやま書房 p.227 より引用)
nupka-kus-nay で「原野・横切る・川」と見て良さそうな感じですね。

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