2024年11月24日日曜日

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北海道のアイヌ語地名 (1188) 「歴舟中の川・遅牛山・留取岳」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

歴舟中の川(れきふねなかのがわ)

ru-utur-oma-p
路・間・そこにある・もの(川)
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
ヌビナイ川と同じ場所で歴舟川に合流する支流です。陸軍図では「中川」(=歴舟中の川)が「ヌビナイ川」に合流していて、「ヌビナイ川」と「ヤオロマップ川」(=歴舟川)が「日方川」(=歴舟川)に合流するように描かれています。同じ場所を流れている筈なのに、「ヌビナイ川」以外は軒並み何かしらか変更されているところが面白いですね。

陸軍図の「中川」は『北海道実測切図』(1895 頃) では「ルーウㇳ゜ルオマㇷ゚」となっていました。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) でも「ルウトロマフ」と描かれています。

山田秀三さんの『北海道の地名』(1994) には、次のように記されていました。

 中ノ川(右股)の旧名はルウトゥロマㇷ゚「ru-utur-oma-p 道の・間に・ある・もの(川)」と呼ばれた。川の両側に道があったのであろうか。
山田秀三『北海道の地名』草風館 p.328 より引用)
ふむふむ、そのように考えることもできるのですね。ここでちょっと気になったのが「パンケタイキ川」の旧名が「パンケウシュマル」だったことで、-ru が川の名前に転用されていたようにも見える(断言はできないですが)ところです。

数ある川の中でも、川沿いに路のついた川のことを ru(本来は「路」を意味する)と呼び表す慣習があったとすれば、「ヤオロオマㇷ゚」(=歴舟川)と「ヌピナイ」(=ヌビナイ川)の間を流れる川なので ru-utur-oma-p で「路・間・そこにある・もの(川)」だったんじゃないかな、とも思えてきます。

この考え方を現在風にアレンジして「中の川」と呼ぶようになったんじゃないかな……と想像していたりもします。

被岩(ひいわ)

道道 1002 号「光地園尾田線」の「中の川大橋」の北西の台地の上に「被岩ひいわ」という名前の四等三角点が存在します(標高 262.6 m)。

この「被岩(ひいわ)」ですが、「被岩」を「かむいわ」と読ませた可能性があるんじゃないか……と思えて仕方がありません(「被る」は「かぶる」あるいは「かむる」とも読めるので)。

残念ながらそれらしい記録を見つけられていないので、想像でしか無いのですが……(どなたか情報をお持ちであれば是非ご教示いただきたく……)。

遅牛山(おそうしやま)

o-so-us-i?
河口・滝・ある・もの(川)
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
歴舟中の川の南支流「コウエイ川」を遡った先に「遅牛山」という名前の二等三角点が存在します(標高 477.7 m)。

北海道実測切図』(1895 頃) には「遅牛山」と関連のありそうな地名・川名が見当たりませんが、『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ルウトロマフ」(=歴舟中の川)の支流として「ヲソウシ」という川が描かれていました。

「ヲソウシ」は山奥の川だった

もっとも、この「ヲソウシ」が「遅牛山」の元となったと考えるには、若干の……いや、かなり不審な点もあります。戊午日誌 (1859-1863) 「東部辺留府祢誌」には「ルウトロマフ」の支流として以下の川が記されていました。

ルウトロマフ是中の川也
ハンケホロナイ左りの方小川也。此川すじ三股より上にては
第一番に大きなるが故に此名有るとかや。
ヘンケホロナイ左りの方小川也。是上の大川と云儀也。
クトン子ヘツ左りの方小川。此名義恐らくはクン子ベツ
シケレベウシナイ左りの方小川。其辺峨々たる高山なり。
ヲソウシ左りの方小川。其辺高山也。

最初の支流として記録された「ハンケホロナイ」は、歴舟中の川の支流の中ではもっとも大きいとあり、これは「中の川大橋」の上流で歴舟中の川に合流する「コウエイ川」のことである可能性があります。

「ヲソウシ」は「ルウトロマフ」(=歴舟中の川)の支流の中では最後の支流として、次のように記されていました。

またしばしを過て
     ヲソウシ
同じく左りの方小川。其辺高山也。是迄堅雪の時はタイキより凡一日半にて行、其よりまた山の絶頂まで二日も懸るといへり。其名義は不解也。源高山のうしろウラカワ領ホロヘツの水源カモイノホリと同枕するよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.232-233 より引用)
問題は「源高山のうしろカモイノホリ」とある点で、これが『北海道実測切図』にて「カムイヌプリ」として描かれた山と同一なのであれば、支流「ヲソウシ」の水源も日高山脈に接した山であると考えられます。

ところが二等三角点「遅牛山」は日高山脈の山々からは 15 km 以上東に離れているので、松浦武四郎が記録した「ヲソウシ」が近くを流れていたと考えるのは、流石に無理がありそうな気もします。

消えた「支流の名前」

ただ、面白いことに『北海道実測切図』には「ルウㇳ゜ルオマㇷ゚」(あるいは「ルーウㇳ゜ルオマㇷ゚」が描かれているものの、その支流の描写は南隣の「ヌピナイ」と比べると明らかに少なくなっています。

また、「ヌピナイ」の支流として「パンケポロナイ」「ペンケポロナイ」「オソーウㇱュナイ」が描かれていて、これは松浦武四郎が記録した「ルウトロマフ」の支流の名前といずれも一致しています。ただ「シケレベウシナイ」と一致する川は見当たらないため、偶然の一致と見るべきかもしれません。

何らかの事情で「ルウㇳ゜ルオマㇷ゚」の支流の川名が散逸し、松浦武四郎の記録を元に「復元」を試みたと仮定すれば、本来は山奥の川名だった「ヲソウシ」が東寄りに「移転」してしまった可能性も出てくるかもしれません。

いずれにせよ「ヲソウシ」は o-so-us-i で「河口・滝・ある・もの(川)」だと考えられますが、so は「水中のかくれ岩」を意味する場合もあるので、必ずしも滝があったとは断定できないという点に注意が必要です。

留取岳(るとるだけ)

ru-utur-oma-p
路・間・そこにある・もの(川)
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
歴舟中の川」の上流部、ペテガリ岳の東南東に「留取岳るとるだけ」という名前の三等三角点があります(標高 1,350 m)。「点の記」にも所在の欄に「俗稱ルートルマップ」とあり、「歴舟中の川」の旧称「ルーウㇳ゜ルオマㇷ゚」に由来する名前と見て良さそうです。

ru-utur-oma-p で「路・間・そこにある・もの(川)」ということになりますね。環境に優しいコピペでお送りしました。

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