2024年10月31日木曜日

レンタカーで父島一周 (26) 「種子除去装置の使い方」

「小港海岸入口」のロータリーには、妙なものが置かれていました。手前に置かれているのは、店の軒先で良く見かける、靴底の泥を払う「ブラシマット」のようです。
実はこの「ブラシマット」、中央山の手前でも一度見かけていたんですよね。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

マットの横には「種子除去装置の使い方」と書かれた箱が置かれていて、はこの周りにはいくつもの霧吹きが置かれています。どうやら箱の中には「コロコロ」が入っているようです。

2024年10月30日水曜日

レンタカーで父島一周 (25) 「ハイビスカスとクジラのバス停」

都道 240 号・通称「小港道路」を歩いて「小港海岸」に向かっているのですが、路側の崖にも見事に咲き誇った花の姿が。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

この花も Google レンズによると「ブーゲンビリア」ではないかとのこと。普通に自生して多くの花を咲かせていますが、元はと言えば外来種なんですよね。

2024年10月29日火曜日

レンタカーで父島一周 (24) 「ブーゲンビリアとブーゲンビル島」

何故か「小港海岸」から 650 m ほど山手にある「小港駐車場」に車を置いて、海岸まで歩くことにしました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

駐車場の南側(都道を挟んで向かい側)は園地として整備されていて、ちょっと大きめの東屋もあります。シュロの木が並んでいて南国気分が高まりますね。

2024年10月28日月曜日

レンタカーで父島一周 (23) 「東京都最南端のバス停」

都道 240 号「父島循環線」、通称「夜明道路」区間を西に向かいます。前方にトンネルが見えてきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

長谷ながたにトンネル」という名前で、そこそこ新しそうに見えますが……

2024年10月27日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1181) 「冨付牛」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

冨付牛(とんけし)

to-ohunkes?
沼・尻
(? = 記録あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
大津漁港と長節湖の間の丘の上にある三等三角点の名前です(標高 47.4 m)。なお「点の記」によると「冨」(トン)「付」(ケ)「牛」(シ)とのこと。

北海道実測切図』(1895 頃) には「トーウンケシ」(「ン」は小書き)と記されていて、『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「トンケシ」と描かれていました。登別市の「富岸とんけし」との類似性が気になるところですね。

「沼の端」説

『初航蝦夷日誌』(1850) には次のように記されていました。

壱り斗行
     トンケン
トノケンなるか。沼の端と訳る也。平坦。平砂浜にし而道よろし。
松浦武四郎・著 吉田武三・校註『三航蝦夷日誌 上巻』吉川弘文館 p.358 より引用)
なんとなく加藤和彦榎本健一を想起させますが、おそらく無関係でしょう(無関係ですね)。

「海の端の山の崎」説

『十勝地名解』(1914) にも次のように記されていました。

ドンケシ
 海端なる山の崎という意なり、釧路の頓化(トンケシ)とまた同じ義なり。
(井上寿・編著『十勝アイヌ語地名解』十勝地方史研究所(帯広) p.71 より引用)※ 原文ママ
おお、そう言えば釧路にも「頓化トンケシ」という地名がありましたね。釧路川河口の北岸の地名で、現在の「浪花町」のあたりの海沿い一帯に相当するでしょうか。

「沼の尻の末」説

『十勝地名解』の脚注には「トー・ウン・ケシ(沼・尻・の末端)の意味である」と記されていました。知里真志保山田秀三共著の「室蘭・登別のアイヌ語地名」では「富岸」の解として to-um-kes で「沼・尻・の末」としていましたが、この解と同じではないか……ということですね。

um という語は『──小辞典』には立項されていませんが、『釧路地方のアイヌ語語彙集』によると「とも」(船の後方、船尾)を意味するとのこと。

「沼の尻」でいいのでは?

知里真志保著作集』(1973) の「人間編」には「みみたぶ」を意味する kisara-ohonkes という語が記載されていました。

( 5 ) kisara-ohonkes (-i)〔ki-sá-ra-o-hòŋ-keš キさラ・オほンケㇱ〕[kisara(耳)+ohunkes(尻)]《シラウラ》
(知里真志保『知里真志保著作集 別巻 II「分類アイヌ語辞典 人間編」』平凡社 p.399 より引用)
注目したいのは ohunkes 自体が「尻」を意味するとされている点で、これを「トンケシ」に当てはめた場合、to-ohunkes で「沼・尻」と解釈できる可能性が出てきます(kisara-ohonkes という語が樺太の白浦で採取されたという点はあえて無視で)。

そして「トーウンケシ」が「沼の端」であるとした松浦武四郎の記録は大正解だったことになりますし、「トノケン」という謎の記録も to-{not-kew} で「沼・{あご}」と解釈できたりするかもしれません。

「頓化」と「富岸」について

問題はむしろ「富岸」(登別市)と「頓化」(釧路市)のほうで、どちらも近くに沼があったようには思えません。「頓化」については釧路湿原を巨大な沼に見立てるというアクロバット的解釈ができなくは無いのですが、「富岸」については謎のままです。

ただ、改めて『北海道実測切図』を眺めてみたところ、現在の「富岸川」が「ワシペツライハ川」となっていて、それとは別に胆振幌別川の支流である「ヤンケシ川」に相当する位置に「トーウンケㇱュ川」が描かれていました。

当時の胆振幌別川(ポロペツ)はかなり河口が(沿岸流の流砂で)南西に流されていたらしく、河口付近の流れがまるで沼のように淀んでいたことが推察されます。このことから河口付近の一帯を「沼の尻」と呼んだということかもしれません。

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2024年10月26日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1180) 「打内川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

打内川(うつない──)

ut-nay
あばら・川
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
豊頃町北部で十勝川に合流する西支流です。『北海道実測切図』(1895 頃) には「トーナイ」と描かれていました。そう言われてみれば、川沿いの地名も「統内」です。

打内川の北で利別川が十勝川に合流していて、利別川沿いの豊頃町と池田町の境界近くに「打内太」という名前の二等三角点(標高 10.2 m)が存在します。三角点の南東に名称不明の河川(旧利別川の西支流)が存在するのですが、陸軍図ではこの名称不明の河川(旧利別川の旧河道)の近くに「打内太」と描かれていました。

改めて『北海道実測切図』を見てみると、旧利別川(当時は十勝川)の旧河道にできた三日月湖に「ペカンペクトー」と「ポロトー」と描かれていて、「トーナイ」(現在の「打内川」)はこの三日月湖に注いでいました。そして三日月湖は「ウッナイ」を経由して十勝川(現在の旧利別川)に注いでいました。

十勝川(現在の旧利別川)から遡ると、十勝川 → ウッナイ → ポロトー → トーナイとなるのですが、どこかのタイミングで「ウッナイ」が上流側の「トーナイ」を乗っ取ってしまった、ということのようです。

「深い」?

戊午日誌 (1859-1863) 「報十勝誌」には次のように記されていました。

また辰より卯に向三丁計りを過て
     ウツナイフト
右のかた小川也。其両岸蘆荻原也。ウツナイとは深きと云儀なり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.349 より引用)
え??? 「深い」と言えば ooooho、あるいは rawne ですが……。

「脇川」?

ただ、『十勝地名解』(1914) には次のように記されていました。

ウチナイ・ブト
 「ウヅナイ・ブト」にして、「ウヅナイ」とは脇川、「ブト」とは川尻の地の義なれば、沼か川か、あるいはまた山か、そのほかなに物にても、この地において著じるしきものある、その脇を流るる川尻の地といえる義なり。
(井上寿・編著『十勝アイヌ語地名解』十勝地方史研究所(帯広) p.71 より引用)※ 原文ママ
「ウヅナイ」とありますが、これは「ウツ゚ナイ」の可能性がありそうな気もします。ut-nay が「肋・川」で、本流に対して直角に近い角度で合流する川のことを「あばら骨川」と呼ぶ、というのが定説とされています。

「あばら川」と「川の波立つ浅瀬」

地名アイヌ語小辞典』(1956) には次のように記されていました。

ut-uay, -e うッナィ ① 脇川; 横川。もと‘あばらぼね川’の義で,沼などから流れ出た細長い川が海まで行かずに途中で他の川の横腹に肋骨がくっつくように横から注いでいるようなのを云う。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.139-140 より引用)
ただ ut-nay の項の上に utka の項があり、次のように記されています。

utka うッカ 川の波だつ浅瀬;せせらぎ。 ──本来はわき腹の意で, そのように波だつ浅瀬をさす。
(知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.139 より引用)
松浦武四郎の各種の記録を見ると、ututka を略したものと捉えていた節が見受けられます(そして多くの場合、その解釈で合っていたと考えられます)。ただ今回の「打内太」の場合は、どう見ても「川の波立つ浅瀬」とは言えない地形だったため、「ウツナイとは深きと云儀なり」と書いてしまったのかもしれません。

「脇川」のオリジナルは?

ut-nay が「肋・川」だと言うのは知里真志保が提唱した……と勘違いしていたのですが、実際には永田地名解 (1891) に「脇川」という記録が大量に見つかりました。もっとも永田地名解では「直角に合流する」と読めるケースは稀で、斜里の「ウッ ナイ」の項に「本流ノ脇ニ横注スル川ナリ」とあるのが目立つくらいでしょうか(当該書 p.495)。

『十勝地名解』に(現在でも通用する)「脇川」という表現がありましたが、これは『十勝地名解』を監修した安田巌城のオリジナルではなく、永田地名解の影響を受けていた可能性がありそうですね。

実は「諸説あります」?

山田秀三の『北海道の地名』(1994) には、十勝川河口部の「ウツナイ川」の項で次のように記してありました。

 諸地のウッナイを見て来たが,実際は何と解していいか困る場合が多く,時々アイヌ系古老に聞いたが人により意見が違う。だいたいは低湿地の小流で,ここでは上原氏の枝川でまあまあ書いて置きたい。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.291 より引用)
ちょっと意外な感じもしますが、これがリアルな認識だったのかもしれませんね。

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2024年10月25日金曜日

レンタカーで父島一周 (22) 「ノヤギとの遭遇」

都道 240 号「父島循環線」の「夜明道路」を南に向かいます。ノヤギ・ノネコの侵入防止用フェンスの横には「あかぽっぽ」(アカガシラカラスバト)が描かれた「動物注意」の標識が。
この「あかぽっぽ」デザインの標識は前にも見かけましたが、そう言えばフルカラーなんですよね。フルカラーの警戒標識というのは割と珍しいのでは……?

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

中央山にやってきました。父島の最高峰で標高は 319.4 m とのこと。「夜明道路」は標高 277 m あたりを通っているので、その気になれば頂上まで歩けそうな感じです。例によって駐車場は存在しないのですが、看板の先に車を停められそうなスペースがあると言えばある……ようです。

2024年10月24日木曜日

レンタカーで父島一周 (21) 「落下物注意」

問題の「二宮金次郎像」のある「夜明山(夜明平)」の駐車場から、再びレンタカーで「夜明道路」を南に向かいます。今度は「落下物注意」の標識ですが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

タコノキから実が落下していますね。実際に大きなタコノキの横に標識を立てるあたり、これは単なるネタでは無さそうな予感も……(本当にタコノキの実が道路に落ちることがある?)

2024年10月23日水曜日

レンタカーで父島一周 (20) 「愛とは決っして」

「初寝浦展望台」にやってきました。「初寝浦」は「はつねうら」と読むみたいですが、「初音」ではなく「初寝」なのが面白いですよね。
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「展望台」と言うものの、これまで見てきた展望台とは違って柵も無ければ東屋もありません。

2024年10月22日火曜日

レンタカーで父島一周 (19) 「父島海軍航空隊送信所跡」

いかにもかつての軍関係の施設らしき建造物の横には「立入禁止」の札が立っていましたが、立ち入らずとも中を覗くことは可能なわけで……(汗)
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

中は吹き抜けになっていて、巨大な柱が屋根を支えていました。

2024年10月21日月曜日

レンタカーで父島一周 (18) 「戦跡ガイド」

巨大なアンテナ(鉄塔)と「時空を超えて──」の石碑の立つ夜明山にやってきました。「小笠原諸島父島コースガイド」では 15 番目のスポットです。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

この「コースガイド」の看板は道路脇に立っているのですが、その横に「初寝浦展望台」の看板が立っていました。本来は道路の進行方向に向かって立っている類の看板ですが、明らかに 90 度横を向いてしまっています。

2024年10月20日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1179) 「久保川・オタトンベツ沢川・薄別」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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久保川(くぼ──)

ku-o?
仕掛け弓・そこにある
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
牛首別川の南支流です。本来の牛首別川は現在の「下牛首別川」を経由して十勝川に合流していましたが、1955(昭和 30)年頃に「牛首別新川」が開削されて、「農野牛川」の下流部分を乗っ取る形で十勝川に注ぐように河川改良されました。

この河川改良に伴い、旧牛首別川(=下牛首別川)に合流していた久保川も「牛首別新川」(=牛首別川)に合流するように流路の付け替えが行われています。久保川の中流域には「二宮」集落がありますが、かつては「久保」と呼ばれていました。

北海道実測切図』(1895 頃) には「ウペットㇺ子ㇷ゚」という名前の川が描かれていました。東隣に「モウペットㇺ子ㇷ゚」という川が描かれていて、こちらは現在の「砂川」に相当すると考えられます。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「モウヘツトル」(=牛首別川と思われる)とその支流が描かれていますが、「ウペットㇺ子ㇷ゚」と思しき川名は見当たりません。

「久保」は和名のようにも思えますが、『十勝地名解』(1914) には次のように記されていました。

ク ボ
 「クオ」の誤称にして、機弓すなわちアマッポーのことれば、ここ古昔これを仕掛けて熊などを取りしところなるべし。
(井上寿・編著『十勝アイヌ語地名解』十勝地方史研究所(帯広) p.71 より引用)※ 原文ママ
ほう……。確かに壮瞥町の「久保内」も ku-o-nay で「仕掛け弓・そこにある・川」だとされていたので、同型の地名ではないか……ということですね?

前述の通り、『北海道実測切図』にはそれらしい川名が見当たりません。「久保」が ku-o で「仕掛け弓・そこにある」としたのも『十勝地名解』だけなので、少々疑わしい感じもあるのですが、よく見ると「東西蝦夷──」には「クカルシナイ」という支流が描かれていて、永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。

Ku kar'un nai   ク カルン ナイ   弓ヲ作ル澤 水松多シアイヌ伐リテ弓ヲ作ル
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.304 より引用)
ただ『北海道実測切図』では「ウシㇱュペッ」(=牛首別川)の上流と、「パナクシウシㇱュペッ」(=小川)の上流にそれぞれ「クカルウㇱュナイ」という支流が描かれていて、これは「久保」ではないかと思われる「ウペットㇺ子ㇷ゚」とはかなり位置が離れています。

2024年10月19日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1178) 「礼文内」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
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礼文内(れぶんない)

rep-un-nay??
沖(東)・にある・川
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)

2024年10月18日金曜日

レンタカーで父島一周 (17) 「時空を超えて」

「旭平展望台」から南の方を眺めると、とても形の良い山が見えています。あれが「夜明山」でしょうか?
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車に戻り、「夜明道路」を南に向かいます。

2024年10月17日木曜日

レンタカーで父島一周 (16) 「旭平展望台」

「長崎展望台駐車場」を出発して、都道 240 号「父島循環線」の「夜明道路」区間に戻ります。前方に「長崎トンネル」が見えてきました。このトンネルはループを構成していて、これからトンネルの上に見えている区間に進むことになります。


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トンネルを抜けてからも左カーブが続きます。


「長崎トンネル」の上を通過して、次の目的地である「旭平展望台」に向かいます。ちょっと見慣れない標識が立っていますが……
こ、これは……。「動物注意」と「落石注意」とありますが、その上の標識には崖から石を蹴り落とすヤギ(だと思う)の姿が。「動物注意」と「落石注意」というニュアンスを見事に融合させちゃいましたね……。

2024年10月16日水曜日

レンタカーで父島一周 (15) 「長崎展望台」

「長崎展望台」にやってきました。雨は降っていませんでしたが、生憎の曇り空です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

火山性っぽい岩の上を歩いて展望台の端に向かいます。

2024年10月15日火曜日

レンタカーで父島一周 (14) 「都レンジャー!」

都道 240 号の「夜明道路」区間で左に道が別れていたので、左折して狭い道を進んだところ、1~2 分で終点に到着しました。終点は駐車場になっていて、2~3 台の車が駐車できるようになっています。そして駐車スペースには「先客」がいたのですが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

この軽自動車、よく見ると「TOKYO RANGER」のロゴが描かれています。小笠原ビジターセンターで紹介されていた「東京都レンジャー」の車のようです。まさかこんなところで実物にお目にかかるとは……!

2024年10月14日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (169) 黒石(黒石市) (1878/8/5(月))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第三十信」(初版では「第三十五信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

午後の訪問客

三時間以上も隣家の覗き観察を続けたイザベラの元に、突然訪問客がやってきました。黒石から 13 km ほど離れた弘前から、三人の「クリスチャンの学生」がイザベラに会うためにやってきたとのこと。

 三人ともすばらしく知性的な顔をしていて、きれいな身なりの青年であって、全部が少しばかり英語を話せた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.323-324 より引用)
これは……もしかしたら、ちょっと、あるいはかなり贔屓目入ってませんか……?

その中の一人は、私が今まで日本で見たうちで最も明るく最も知性的な顔をしていた。彼らは士族サムライ階級に属していた。そのことは、彼らの顔や態度がすぐれていることから当然悟るべきであったろう。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.324 より引用)
これは非常に問題のある表現ですね。明らかにある種の身分差別であり、現代ではとても受け入れられるものではありません。

あえてイザベラの主張に対して反論するならば、「士族」はこれまで出自によって得られていた特権(逆差別とでも言うべきか)を失いつつあり、民衆に対して支配的な立場で居続けるために何らかの後ろ盾を必要にしていた……と見ることもできそうな気がします。後の「帝国軍人」が太平洋戦争に敗北した後、占領軍にゴマをすって取り入ったのと似た構図にも思えるのです。

キリスト教信者

イザベラは牧師の娘で、『日本奥地紀行』では教会筋と政府筋から支援を受けていました。そのため「初版」である「完全版」では「スポンサー向け」の内容も少なからず含まれていて、それらは「普及版」では見事にカットされているのですが、以下の一節は「普及版」でも残されていました。

 弘前はかなり重要な城下町で、ここから三里半はなれている。旧大名が高等の学校〈あるいは大学〉(東奥義塾)を財政的に援助していて、その学校の校長として二人の米国人(イングとダヴィッドソン)が引き続いて来ている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.324 より引用)
「イングとダヴィッドソン」という補足は「完全版」には存在せず、代わりに二人の名前は「普及版」ではカットされた部分に明記されていたので、この補足は「完全版」を編集した際に付け加えられたものかもしれません。「東奥義塾」は現在も存在する学校ですが、「私立学校東奥義塾」は 1872(明治 5)年に創設されたとのこと。その 6 年後にイザベラが黒石にやってきたことになります。

これらの紳士は、そのキリスト教的教育において精力的であると同時に、クリスチャンとしての生活態度もきわめてりっぱなものだったにちがいない。というのは、その教えに従って三十人も若者がキリスト教を信ずるに至ったからである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.324 より引用)
入れ歯でなくても歯が浮きそうな文章ですね……。

これらすべてが充分な教育を受けて、数人は教師として政府に雇われることになると聞いているので、彼らが「新しい道」(キリスト教)を受け入れたということは、この地方の将来にとって重要な意義をもつことであろう。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.324 より引用)
日本が「国家神道」というカルトにのめり込んで太平洋戦争で完膚なきまでの敗北を喫したのは嘆き悲しむべきことですが、一方でキリスト教による「侵略」を跳ね返したという点では(極めて不本意ながら)評価せざるを得ないようにも思えます。「キリスト教」は謂わば「侵略的外来種」と同じで、受け入れたが最後、欧米の植民地化が一気に進んでいた可能性が高いためです。

流石に浮いた歯が上空に消え失せそうになったことに気づいたか、この先の文章は「普及版」ではカットされていました。

 キリスト教の発展のために、日本でなされた最も重要な仕事は、全く、伝道諸組織の外、しかも伝道といったものが定着することが許されない地域でなされたということは、独特な事実です。
(高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』中央公論事業出版 p.121 より引用)
少し奇妙な感じのする文章ですが、原文を忠実に訳したが故のようですね。その具体例として札幌農学校におけるウィリアム・スミス・クラーク博士による伝道などが紹介されていました。

話は「三人のクリスチャンの学生」に戻ります。

 これら 3 人の学生たちは、脇山ワキヤマ、アカマ[山鹿]、山田ヤマダと名前を教えてくれたが、彼らははるばるここに説教するために来たということです訳注 2
(高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』中央公論事業出版 p.121 より引用)
原文では Waki-yama, Akama and Yamada となっていました。「山鹿」が「アカマ」になっているのは面白いですが、彼らの素性が明らかになっているということ自体が面白いですね。なお「訳注 2」には次のようにありました。

[訳注 2] イザベラ・バードに会ったのは、現在の日本基督教団弘前教会で洗礼を受けた東奥義塾の学生である。脇山(義保)元五所川原警察署所長、山鹿は山鹿素行(山鹿流軍学の始祖)の直系、山田(源次郎・寅之助(青山学院教授)兄弟のどちらか)という経歴を持つ。
(高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』中央公論事業出版 p.122 より引用)
また「彼らははるばるここに説教するために来たということです」とありますが、これはイザベラに説教するためではなく、辻説法のためなのでしょうね。彼らの辻説法は警察に妨害されることは無いとしつつも、「人々はもはや神様について話を聞くことには関心がない」と嘆いていたとのこと。

私が、仏教や神道のお坊さんや神主が妨害するからなのかと訊くと、彼らはそんなことはないが、でも人々は昔からの宗教にほとんど飽きているが、だからといって新しい宗教を欲しがってはいないと言うのです。
(高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』中央公論事業出版 p.121 より引用)
これは興味深い指摘ですね。日本人はそもそも宗教を必要としない……というのは言い過ぎですが、他の国や地域と比べると「宗教への需要が低い」と言えそうにも思えます。それは何故なのか、良くわからないのですが……。

彼らは、明らかに優秀な若者たちでしたが、彼らの英語はとても不正確なのです。
(高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』中央公論事業出版 p.121 より引用)
確かに their English was very imperfect とありますね。だったら素直に通訳を介せばいいのに……と思ったのですが……

キリスト教を嫌っている伊藤は、夢中でアンズの煮込みに完全に入れあげていると明言して、近づいて来もしないし、通訳もしませんでした。
(高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』中央公論事業出版 p.121 より引用)
明らかに伊藤は職務放棄を決め込んだっぽいですが、理由が「アンズを煮込むのに夢中だから」というのは傑作ですね。それを許容した(?)イザベラも、なかなか良い雇用主と言えるのでは……。

後で、伊藤は私をアカマのとても感動的な熱のこもった講演を聴いている約 100 人の「キリスト教のお芝居[キリスト教ごっこ]」を見るようにと呼びました。
(高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』中央公論事業出版 p.121 より引用)
明治時代の「現代っ子」だった伊藤らしいエピソードですね。「冷笑系」というスタイルは決して褒められたものではありませんが、伊藤がキリスト教の偽善性を見抜いていたのだとすれば、これは十分理解できるものです。

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2024年10月13日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1177) 「旅来」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

旅来(たびこらい)

tap-kon-nay??
肩・所有する・川
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
カンカンビラの北にも山が出崎のように張り出したところがあり、岬に相当する部分に「旅来神社」が存在します。「旅来」はこのあたりの地名で、国道 336 号の渡船があったところとしても有名かもしれません。

「タツコフイ」? 「タフコライ」?

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「タツフコイ」と描かれていました(地名か川名か、あるいは山名かは不明)。『北海道実測切図』(1895 頃) には「タㇷ゚コライ」の下に漢字で「旅来」とあり、 1868(明治元)年から 1906(明治 39)年までは「旅来村」が存在したようです。それにしても、素敵な字を当てたものですよね。

『午手控』(1858) には次のように記されていました。

タフコライ 右小川。此処え土人等逃来り居る也。一丁計下谷地多し。ヒラより水落る。小川多し。惣て此谷地より水落る辺りの惣名か
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編『松浦武四郎選集 六』北海道出版企画センター p.112 より引用)
また次のような記述もありました。

タフコライ
 此上の山の上に丸小屋を立、合戦の時居りしより也
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編『松浦武四郎選集 六』北海道出版企画センター p.430 より引用)
戊午日誌 (1859-1863) 「登加知留宇知之誌」にも「タフコライ」とあるので、「東西蝦夷──」の「タツフコイ」は転記ミスの可能性も考えたくなります。

「タㇷ゚コㇷ゚ライ」?

ところが永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Tapkop rai   タㇷ゚コㇷ゚ ライ   戰死ノ小丘 戰場ナリ○旅來村タビコオイト稱ス松浦地圖「タプコイ」トアルニ據リテ誤ル
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.304 より引用)
「東西蝦夷──」には「タツフコイ」とあるのですが、ここでは「タプコイ」と描かれていたことになっていますね。

「タプカルライ」?

豊頃町史』(1971) には次のように記されていました。

タビコライ(旅来)
 「タプ・コプ・ライ」と発音すると「タプ・コプ」は「丸山」、「ライ」は「死んだ」、すなわち「丸山で死んだ」となる。
(豊頃町史編さん委員会『豊頃町史』豊頃町役場 p.59-60 より引用)
本当に「丸山で死んだ」となるのか、個人的には疑問も残るのですが……。

 しかし別に「タプカル・ライ」と発音したものとすると「タプカル」は「踏舞する」の意で、地名解にも「夷婦ノ踏舞ヲタプカルトイフ」……とある。
(豊頃町史編さん委員会『豊頃町史』豊頃町役場 p.60 より引用)
おっ、ここで突然の変化球ですね。まるで更科源蔵さんみたいです。

「ライ」は「死んだ」の意味で、「タプカル・ライ」とは「踏舞して死んだ(ところ)」の意味になる。
(豊頃町史編さん委員会『豊頃町史』豊頃町役場 p.60 より引用)
実際にそういう意味になるのかどうか、ちょっと確証が持てなかったりするのですが……

 当地には旅来コタンのアイヌと日高アイヌが戦った折りに、戦に傷つき死にのぞんで踏舞した酋長の伝説がある。
(豊頃町史編さん委員会『豊頃町史』豊頃町役場 p.60 より引用)
今際の際に踏舞したというのはちょっと(いや、かなり)理解に苦しみます。「旅来」という珍妙な地名の由来を聞かれて、面白おかしく物語を拵えたよう思えて仕方がありません。

崩された丘?

本家本元(?)の更科源蔵さんは、『アイヌ語地名解』(1982) にて次のように記していました。

アイヌ語のタㇷ゚コㇷ゚ライで、タㇷ゚コㇷ゚は瘤のような山、ライは死ぬこと。
(更科源蔵『更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解』みやま書房 p.238 より引用)
そして永田地名解の説を紹介した上で、「タㇷ゚コㇷ゚ライで戦死ノ小丘と訳するのはどうかと思う」と否定的な見解を示していました。更科さんの考えでは

古川をライペッ(死川)とよぶようにくずされた丘に名付けられたのではないかと思う。
(更科源蔵『更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解』みやま書房 p.238 より引用)
とのことですが……。

肩を所有する川?

感覚に頼って物事を考えるのは良くないですが、どうにも違和感の残る地名です。改めて戊午日誌(など)の「タフコライ」という記録を念頭に置いて地形図を眺めてみたのですが、tap-kor-nay で「肩・所有する・川」とは考えられないでしょうか(音韻変化を考慮すると tap-kon-nay と発音される筈)。

旅来神社の南麓を流れる川は「カンカン川」ですが、上流部は「旅来川」という名前です。河川改修の結果、中流部で「カンカン川」に川名を乗っ取られたようになっていますが、もともとは「旅来川」として十勝川(大津川)に合流していたものと思われます。

tapkop という語自体、知里さんtap-ka-o-p で「肩・の上・にある・もの」かもしれないと考えていたようで、ここでは語源に立ち返ったような感じで tapkoptap に略されたのでしょうか。あるいはもっと単純に、肩を怒らせたような形の山の麓を流れていたからかもしれませんが……。

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2024年10月12日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1176) 「長臼・シモオキウス川・カンカンビラ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
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長臼(おさうす)

o-sa-us-i
尻・浜・つけている・もの
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
十勝川(大津川)の河口付近にある豊頃町大津(かつての大津村)から道道 911 号「大津旅来線」を北西に向かうと、国道 336 号との交点から 1 km ほど先に「シモオキウス川」と「上長臼川」が流れています。現在は「豊頃町旅来たびこらい」の一部ですが、かつては「豊頃町長臼」と呼ばれていたところです。

消滅地名は扱わないというポリシーですが、現在も「上長臼川」という川や「長臼山」という三角点が存在するため、事実上の現存地名として扱います。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヲサリケウシ」と「ヲシヤリニ」という川?が描かれていました。少々謎な感じのする記録ですが、戊午日誌 (1859-1863) 「登加知留宇知之誌」には次のように記されていました。

同じく三丁計下り
     ヲシヤリニ
右の方茅原にして湿地なるを云。此上平山樹木原有。また弐丁計下りて小川、其処を
     ヲサウシ
左り茅原、右の方川端に山有を云り。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上』北海道出版企画センター p.236 より引用)
この記録は武四郎の旅程と同じく、上流側から下流側に向かう順序で著されています。「東西蝦夷──」の「ヲサリケウシ」は「ヲサウシ」の間違いと見て良さそうでしょうか。

北海道実測切図』(1895 頃) には「オサンウシ」という川名?とともに「長臼」という地名(たぶん村名)が記されていました。「長臼」は「オサウシ」と思われるので、o-sa-us-i で「尻・浜・つけている・もの」と読めそうですね。

「尻を浜につけているもの」とはナンジャソレ……と思ってしまいますが、山田秀三さんの『北海道の地名』(1994) には次のように記されていました。

 長臼 おさうす,おさうし
 大津川を川口から約 7 キロ上った処の地名。オ・サ・ウㇱ・イ「o-sa-ush-i(山の)尻が・浜(大川端)に・ついている・処」ぐらいの意であったろう。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.291 より引用)
ということで、平たく言い直せば「山が川に迫っているところ」と言ったところでしょうか。実際にこのあたりは山が川のすぐ近くまで迫っている地形です。

余談気味に続けますが、山田さんは sa を「浜(大川端)」と記していました。この sa(浜)は ota(砂浜)とは異なり、概念としての「浜」であったり「海側」を意味すると考えられます。これは kim(山)と nupuri(山)の違いと似たものなのでしょうね。

kim については『地名アイヌ語小辞典』(1956) に次のような説明がありました。

「爺さんが山へ柴刈りに行った」などという時の「山」の観念に当る。従ってこの kim は聳えることができない。それが nupuri「山」との差である。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.48 より引用)

シモオキウス川

o-sa-us-i?
尻・浜・つけている・もの
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2024年10月11日金曜日

レンタカーで父島一周 (13) 「青看板の『おにぎり』」

レンタカーで「宮之浜」から都道 240 号「父島循環線」に戻ってきました。このあたりは「行文道路」と呼ばれる(通称?)区間ですが、なんでも珍妙な青看板があるという話を twitter で聞いたのですね。これなんですが……。
普通は国道番号が入る筈の、通称「おにぎり」の中に、何故か「都道」と「村道」の文字が入っています。小笠原には国道は通っていないのですが、こんなところに「おにぎり」があったんですね。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ここは閑静な住宅街™と言うべきところで、車の流れが多いところではありません(路駐の車が目立ちますが、近くで工事をしていたので工事関係者の車かも)。

2024年10月10日木曜日

レンタカーで父島一周 (12) 「宮之浜園地」

「宮之浜園地」にやってきました。対岸に「兄島」を望む北海岸で、湾状の入江には砂浜が広がっています。
宮之浜海岸と兄島の間には「滝之浦湾」が広がっていて、2 km ほど離れています。ただ宮之浜の東には「兄島瀬戸」と呼ばれる海峡があり、最狭部は 0.5 km ほどの幅しかありません。架橋の構想があったのも納得ですね。

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波打ち際に出るウッドデッキの手前には大小二つの看板が立っていました。

2024年10月9日水曜日

レンタカーで父島一周 (11) 「モモタマナ?」

レンタカーに戻ります。勾配を強調するためにアングルを盛ったようにも見えますが、後ろの標識の角度を見ると、その疑いも晴れるかもしれません。停車であっても P レンジは必須ですね……。
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坂を下ります。ちょうど正面に停泊中の「おがさわら丸」が見えますね。

2024年10月8日火曜日

レンタカーで父島一周 (10) 「四五式十五糎加農砲 砲座跡」

「ウェザーステーション展望台」駐車場近くの東屋まで戻ってきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「この先二見湾を一望できます」と記された「三日月山園地 案内図」の右側にはルートマップが出ていました(今更ですが……)。2 箇所のビュースポット(展望台と兄島・西島を眺めることができるスポット)が「撮影ポイント」として紹介されているほか、途中で見ることのできる植物が紹介されています。

2024年10月7日月曜日

レンタカーで父島一周 (9) 「気になるタコノキ」

「三日月山園地展望台」から階段を下りて、地下壕前の東屋(休憩舎)に戻ってきました。展望台と休憩舎の間は階段があるだけなので、およそ 1~2 分で移動できます。
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「休憩舎」は鞍部に位置していたようで、ここからしばらくは上り坂となります。

2024年10月6日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1175) 「幾千世・イクシエ川」

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幾千世(いくちせ)

yuk-chise
鹿・家
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
下頃辺川上流域の地名です。字も読みも同じ「幾千世」が沙流郡日高町にも存在するのですが、字と読みの一致が偶然なのだとしたら、ちょっと奇跡的な感じもありますね。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしき川名・地名は見当たりませんが、『北海道実測切図』(1895 頃) には現在の「幾栄川」の位置に「ユㇰチセ」と描かれていました。面白いことに、かつての「ユㇰチセ」の中流部(道道 597 号「十弗浦幌線」沿い)の地名は「幾栄いくえい」で、「幾千世」という地名も「幾栄川」が「下頃辺川」に合流した先の地名として健在です。

「幾千世」が(更に瑞祥地名っぽい)「幾栄」になったのではなく、「幾千世」と「幾栄」が現在に至るまで共存しているのですが、『角川日本地名大辞典』(1987) には次のように記されていました。

 いくえい 幾栄 <浦幌町>
〔近代〕昭和28年~現在の行政字名。はじめ浦幌村,昭和29年からは浦幌町の行政字。もとは浦幌村字下頃辺・シタコロベの各一部。
(『角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)』角川書店 p.105 より引用)
あれ、もとは「幾千世」では無かったということ……?

地名は川名にちなむ。
(『角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)』角川書店 p.105 より引用)
「幾栄川」の元の名前は「ユㇰチセ」だったと見られるのですが……。

ただ「浦幌村五十年沿革史」には「上、下幾千世部落誌」との項がありました。

   上、下幾千世部落誌
 幾千世部落はもと下頃邊と稱した一部で、東西は丘陵を以て圍まれ、西寄にシタコロベ川が貫流する帶狀地帶である。
(浦幌村社会教育協会『浦幌村五十年沿革史』浦幌村役場 p.326 より引用)
ふむふむ。この記述を見る限り、「幾千世」集落は既に現在の位置(=「幾栄川」沿いではなく「下頃辺川」沿い)のことを指していたみたいですね。

「幾千世」の由来についても次のように言及がありました。

 幾千世の部落名はユㇰチシュから起こつたもので、その義は「鹿の家」又は「鹿の住む險しい道路」ということである。何れにしても、本書の他に紹介した初期入植者の談話から推して、同地には夥多の鹿が生棲していたと云う事實から、前説が妥當の樣にも考えられる。
(浦幌村社会教育協会『浦幌村五十年沿革史』浦幌村役場 p.326-327 より引用)※ 原文ママ
「ユㇰチセ」は yuk-chise で「鹿・家」と見て良いと思うのですが、chise ではなく chis ではないか……という説もあったのですね(ok-chis だと「峠」を意味することから chis を「険しい道路」と類推した……ということでしょうか)。

更科源蔵さんの『アイヌ語地名解』(1982) には次のように記されていました。

アイヌ語のユㇰ・チセで鹿の家の意。いつも鹿が沢山集っているところであるという。
(更科源蔵『更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解』みやま書房 p.240 より引用)
やはり yuk-chise と見て良さそうな感じですね。

イクシエ川

yuk-chise???
鹿・家
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)

2024年10月5日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1174) 「チャシュコトンベツ川・フルマントンベツ川・トンベツ川・ナベシトンベツ川」

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チャシュコトンベツ川

chasi-utur-pet?
砦・間・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
下頃辺川の西支流で、下流部は「四号沢川」を経由して下頃辺川に合流しています。

北海道実測切図』(1895 頃) を見ると妙なことに気付かされます。「チャシュコトンペッ」という川が描かれているのですが、どうも現在の「トンベツ川」の位置に描かれているように見えます。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「シタコロベ」(=シタコロベ川)の支流として「チヤシウトル」と「タンタフ」、そして上流側に「ホンシタコロヘ」と「ヲン子シタコロベ」が描かれています。

戊午日誌 (1859-1863) 「報十勝誌」には次のように記されていました。

 またしばし過て
      チヤウトル
 左りの方小川。其名義は不解也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.362 より引用)
「名前の意味はよくわからない」としていますが、「東西蝦夷──」に「チヤシウトル」とあり、これは chasi-utur で「砦・間」と解釈できます。となると chasi-utur-pet で「砦・間・川」のようにも思えますが、「チャシュトンベツ」なので chasi-kot-utur-pet で「砦・跡・間・川」だった可能性もありそうですね。

フルマントンベツ川

hur-oman-utur-pet??
丘・に行く・間・川
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)

2024年10月4日金曜日

レンタカーで父島一周 (8) 「三等三角点『三日月山』」

「三日月山園地展望台」の話題をもう少しだけ続けます。三日月山から「おがさわら丸」を眺めたものですが、海が変色したように見えるところがありますね。あれは何なんでしょうか……?
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

小笠原商事のガソリンスタンドは展望台の手前から見えていましたが、展望台からの眺めは更にワイドなものでした。

2024年10月3日木曜日

レンタカーで父島一周 (7) 「三日月山園地展望台からの眺め」

戦中の「要塞化」の際に掘削された可能性のありそうな「地下壕」(跡?)を出て、東屋(休憩舎)のところに戻ってきました。ゴールの「三日月山園地展望台」はこの先にあります。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

展望台に向かう遊歩道は、ここに来て急な登り坂に差し掛かりました。なんと岩を削って階段が設けられているのですが、もしかしてこの階段も「要塞化」の際に整備されたものなんでしょうか……?

2024年10月2日水曜日

レンタカーで父島一周 (6) 「地下壕の跡?」

「三日月山園地展望台」に向かう途中の広場に東屋(休憩舎)があったのですが、その脇には謎の洞穴が。
例によって何の説明も無ければ「立入禁止」の札も立っていません。となると……やはり、中を覗いてみたくなりますよね。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

四角い断面

洞穴の断面は台形をしています。天然の洞穴だと考えるには不自然な形状です。

2024年10月1日火曜日

レンタカーで父島一周 (5) 「国有財産 貸付地」

「ウェザーステーション展望台」を出発してから 10 分ほど経過しました。道沿いには案内板などは存在しないので、漠然と「そのうち着くだろう」と思いながら歩いていたのですが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

手前の木?がちょっと不思議な感じがしたのですが、これは枯れているんでしょうか?