2024年10月19日土曜日

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北海道のアイヌ語地名 (1178) 「礼文内」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

礼文内(れぶんない)

rep-un-nay??
沖(東)・にある・川
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
「10 $ 持って旅に出よう」でおなじみの(?)JR 根室本線・十弗駅の 2 km ほど南(豊頃寄り)を「礼文内川」という川が流れています。豊頃町礼文内は礼文内川の流域一帯の地名です。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「リフンイ」という名前の川が描かれていました。「ライ」が「ナイ」の聞き間違いだとしたら、「旅来たびこらい」の解にも影響がありそうで、ちょっと気になるところです。

北海道実測切図』(1895 頃) には、現在の「礼文内川」の位置に「レㇷ゚ウンナイ」という川が描かれていました。rep-un-nay であれば「沖・に行く・川」ということになりますし、{rep-un} を「沖の」と解釈すれば「{沖の}・川」ということになります。

「レプ」=「部落から遠いほうの」?

礼文内から太平洋までは、直線距離で 20 km ほど離れているため、rep-un を「沖の」と解釈するのは無理がありそうにも思えます。謎な地名ですが、「豊頃町史」には次のように記されていました。

 「レプ・ウン・ナイ」と発音する。
 「レプ」とは「沖の方にいる、部落から遠い方の……」の意味であり、「ウン」は「そこにある、そこに入る」の意味で「ナイ」は「川」、すなわち「レプ・ウン・ナイ」とは「部落から遠い方のそこに入る(そこにある)川」という地名で、ここで「部落」とはどこのコタンを指すものか不明である。
(豊頃町史編さん委員会『豊頃町史』豊頃町役場 p.62 より引用)
「レプ」を「部落から遠いほうの」と解釈するのは……どうなんでしょう。『地名アイヌ語小辞典』(1956) には「①沖; 岸から遠い海面。②川岸から見て川の中央に近い部分。③炉ぶちから見て炉の中心に近い部分」とあり、「部落から遠いほうの」とする考え方は見いだせません。もちろん『小辞典』に記載のない用法もいくらでも存在する筈なので、一概に「間違い」と決めつけることはできないのですが。

 また「ナイ」を「ライ」とした場合「死んだ川(川を生物と見ている)」を意味し、アイヌはしばしば「古川」にこうした名を付けることがある。
(豊頃町史編さん委員会『豊頃町史』豊頃町役場 p.62 より引用)
これは「東西蝦夷──」に「リフンライ」とあるのを念頭に置いた補足でしょうか。確かにその通りなのですが、いずれにせよ「礼文」が謎のままであることに変わりはありません。

「陸のほうにある川」について

ここで思い出されるのが標茶厚岸にまたがる「チャンベツ川」です。『角川日本地名大辞典』(1987) には次のように記されていたのですが……

チャンベツはアイヌ語のヤワアンペツ(内陸にある川の意)から転化したものという(北海道の地名)。
(『角川日本地名大辞典』編纂委員会・編『角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)』角川書店 p.1036 より引用)
この『北海道の地名』(1994) は山田秀三さんの『北海道の地名』を指していると思われるのですが、不思議なことに草風館版『北海道の地名』にはそれらしい記述が見当たらないのですね。

『東蝦夷日誌』(1863-1867) には現在の「沖万別」(厚岸町)のあたりに「ヤワアンベツ」という川が記録されていて、この川名と「チャンベツ川」が混同された可能性もあります。ただいずれにせよ ya-wa-an-pet で「陸のほう・に・ある・川」という川が厚岸の近くに存在したと考えられるのですね。

厚岸のどこかに存在したと思しき「陸のほうにある川」ですが、これは釧路のあたりから見て「手前側(=内陸側)にある川」というニュアンスだったとされます。

「koy-ka」と「koy-pok」

アイヌ語地名においては直接「南北」を意味する語は存在しないとされていて、koy-kakoy-pok などの「東西」に類する語についても、土地によって指す方位が異なっていたりします。

一見ばらばらに思える koy-kakoy-pok の指す方位ですが、実は海岸線基準での「東」と「西」に対応しているとされます。具体的に言えば日高地方では koy-ka が「南東」(=襟裳岬方面)で、白糠のあたりでは koy-ka は「北東」(=千島方面)を指すと考えられます。

「東方上位」という考え方

アイヌには「東方上位」という考え方があるとされ、たとえばチセ(アイヌの住居)の「神窓」は多くの場合、東側に設けられていたとされます。

知里さんの「アイヌ住居に関する若干の考察」には次のように記されています。

この東の窓は非常に神聖な所とされ,うっかりそこから覗きこんだりしようものなら,厳重な抗議を申込まれ,賠償品を出して謝罪しなければならない破目に陥るのである。それはこゝがカムイ・クㇱ・プヤル(kamuy-kus-puyar「神の・通る・窓」)と呼ばれ,アイヌの家の表玄関に当る大事な所だからである。
(知里真志保『知里真志保著作集 3』平凡社 p.228-229 より引用)
アイヌは「神聖な方角」であり、日の出る方向でもある「東」を koy-ka(波の)とし、反対の方角を koy-pok(波の)と呼び習わしていました。前述の通り、koy-kakoy-pok は海岸線基準の方角と思われる節があるため、十勝太のあたりでは koy-ka は「北東」を指していたと考えられます。

西には陸があり、東には海がある

更に突き詰めた考え方をすれば、道東においては「西」(koy-pok とは異なる純然たる「西」)は陸地であり、「東」(koy-ka とは異なる純然たる「東」)は海ということになります。そのため「内陸側(西側)にある川」や「沖合側(東側)にある川」という呼び方が発生したのではないでしょうか。

つまり、rep-un-nay は「沖・にある・川」で、その含意は「東にある川」ではないかと考えてみました。

ん、「神窓」の話は何だったんでしょう。今にして思えば必要なかったかも?(ぉぃ

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