2024年10月6日日曜日

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北海道のアイヌ語地名 (1175) 「幾千世・イクシエ川」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

幾千世(いくちせ)

yuk-chise
鹿・家
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
下頃辺川上流域の地名です。字も読みも同じ「幾千世」が沙流郡日高町にも存在するのですが、字と読みの一致が偶然なのだとしたら、ちょっと奇跡的な感じもありますね。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしき川名・地名は見当たりませんが、『北海道実測切図』(1895 頃) には現在の「幾栄川」の位置に「ユㇰチセ」と描かれていました。面白いことに、かつての「ユㇰチセ」の中流部(道道 597 号「十弗浦幌線」沿い)の地名は「幾栄いくえい」で、「幾千世」という地名も「幾栄川」が「下頃辺川」に合流した先の地名として健在です。

「幾千世」が(更に瑞祥地名っぽい)「幾栄」になったのではなく、「幾千世」と「幾栄」が現在に至るまで共存しているのですが、『角川日本地名大辞典』(1987) には次のように記されていました。

 いくえい 幾栄 <浦幌町>
〔近代〕昭和28年~現在の行政字名。はじめ浦幌村,昭和29年からは浦幌町の行政字。もとは浦幌村字下頃辺・シタコロベの各一部。
(『角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)』角川書店 p.105 より引用)
あれ、もとは「幾千世」では無かったということ……?

地名は川名にちなむ。
(『角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)』角川書店 p.105 より引用)
「幾栄川」の元の名前は「ユㇰチセ」だったと見られるのですが……。

ただ「浦幌村五十年沿革史」には「上、下幾千世部落誌」との項がありました。

   上、下幾千世部落誌
 幾千世部落はもと下頃邊と稱した一部で、東西は丘陵を以て圍まれ、西寄にシタコロベ川が貫流する帶狀地帶である。
(浦幌村社会教育協会『浦幌村五十年沿革史』浦幌村役場 p.326 より引用)
ふむふむ。この記述を見る限り、「幾千世」集落は既に現在の位置(=「幾栄川」沿いではなく「下頃辺川」沿い)のことを指していたみたいですね。

「幾千世」の由来についても次のように言及がありました。

 幾千世の部落名はユㇰチシュから起こつたもので、その義は「鹿の家」又は「鹿の住む險しい道路」ということである。何れにしても、本書の他に紹介した初期入植者の談話から推して、同地には夥多の鹿が生棲していたと云う事實から、前説が妥當の樣にも考えられる。
(浦幌村社会教育協会『浦幌村五十年沿革史』浦幌村役場 p.326-327 より引用)※ 原文ママ
「ユㇰチセ」は yuk-chise で「鹿・家」と見て良いと思うのですが、chise ではなく chis ではないか……という説もあったのですね(ok-chis だと「峠」を意味することから chis を「険しい道路」と類推した……ということでしょうか)。

更科源蔵さんの『アイヌ語地名解』(1982) には次のように記されていました。

アイヌ語のユㇰ・チセで鹿の家の意。いつも鹿が沢山集っているところであるという。
(更科源蔵『更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解』みやま書房 p.240 より引用)
やはり yuk-chise と見て良さそうな感じですね。

イクシエ川

yuk-chise???
鹿・家
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
浦幌町幾千世から道道 1146 号「瀬多来吉野線」に沿って北上したところで下頃辺川に合流する西支流です(地理院地図では何故か「幾栄川」の下流部が「下頃辺川」になっているので要注意)。

この川は、『北海道実測切図』(1895 頃) に「ポンシタコロペ」と描かれている川に相当するように見られます。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にも「ホンシタコロヘ」と描かれています。

戊午日誌 (1859-1863) 「報十勝誌」には次のように記されていました。

 またしばしにて
      ホンシタコロヘ
 右のかたに有。是より本川は左りえ入込也。其後ろはヤーラと合して、テレケフの川すじと向背する也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.363 より引用)
「テレケフ」は池田町を流れる「十一線川」のことらしいのですが、実際には間に「ユㇰチセ」(=幾栄川)が流れています。「下頃辺川」と流域を接した池田町側の川は「毛根別川」と「コタノロ川」なので、この説明はいくつかの誤謬を含んでいると見て良さそうな感じですね。

そもそも記録にある川名は「ホンシタコロヘ」なので、現在の川名「イクシエ川」の出どころは不明です。「幾千世」が転訛したように見えて仕方がないのですが、似て非なる変な形の川名となったのは謎です。

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