2024年9月20日金曜日

父島さんぽ (20) 「大村地区を歩く」

父島での初日で体力を使い切るわけにもいかないので、「清瀬隧道」の途中で引き返すことにしました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

トンネル出口に水道管(だと思う)の端部があるのですが、トンネルの開通(1937(昭和 12)年では、とのこと)当初からこの構造だったのか、個人的にはやっぱり疑わしい感じが残ります。コンクリートを掘るわけにもいかないので仕方なく地上に出したようにも見えるんですよね……。

2024年9月19日木曜日

父島さんぽ (19) 「清瀬トンネルと謎の『木の扉』」

村役場などがある「大村地区」と、東隣の「奥村地区」を結ぶトンネルがあります。二見港を出てすぐのところにあるので気になっていたのですが……
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このトンネルは「大村隧道」(60 m)で、すぐ先に「清瀬隧道」(120 m)が続いています。「清瀬地区」はやや山側に位置する集落で、小笠原高等学校があるほか、住宅地が広がっています。

2024年9月18日水曜日

父島さんぽ (18) 「二見港船客待合所」

二見港の「船客待合所」にやってきました。いわゆる「フェリーターミナル」相当の場所ですが、「おがさわら丸」はフェリーではない(車輌が船内に自走できない)ので……ちょっと他にいい表現が出てこないですね。
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ちなみにお隣は「小笠原海運株式会社」の「父島営業所」です。小笠原海運の文字は、この業界では珍しくシンプルな太ゴシックなのですが、父島営業所の看板もちゃんと太ゴシックですね(気持ちライトウェイトかもしれませんが)。

2024年9月17日火曜日

父島さんぽ (17) 「祭りの後」

「ペリー提督来航記念碑」の横には錨(のオブジェ?)が置かれていました。
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ところで、この葉っぱにボリューム感のある木は何でしょう……? ググると「クサトベラ」ではないかと出ましたが……

2024年9月16日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (167) 黒石(黒石市) (1878/8/3(土))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十九信」(初版では「第三十四信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

変装して散歩

偶然にも流し?の人力車をつかまえて黒石入りを果たしたイザベラは、黒石の町が気に入ったらしく二泊することになるのですが、ちょうど夏祭りの日だったらしく……

その晩は太鼓の音がひっきりなしで、私が床につくとまもなく伊藤が来て、実に面白いものが見られるという。そこで私は着物キモノを着て、帽子をかぶらず出かけた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.319 より引用)
イザベラは「キモノ」を着て外に出たわけですが、これは着物を気に入っていたというよりは、「変装」のためだったようです。変装の効果は覿面で、イザベラが「外国婦人」であることはバレなかったとのこと。

黒石は街灯のない町で、私は、転んだり躓いたりしながら急いだ。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.319 より引用)
時代が時代ですからね。さすがにガス灯は無かったのでしょうけど、「篝火」も無い漆黒の闇だったということでしょうか。

そのとき、頑丈な腕っぷしの男が、人をかき分けてやって来た。宿の主人が提灯をもって現われたのである。非常にきれいな提灯で、手に提灯の竿を持ち、提灯を地面すれすれに下げていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.319 より引用)
宿のご主人は更にポイントを上げた……と言ったところでしょうか。万事そつが無い伊藤にしては珍しいチョンボですね。

七夕祭り

イザベラは宿の主人に手渡された提灯片手に、祭の行列を眺めるために一時間近くも立ち尽くしていました。この祭は八月の第一週に毎夜七時から十時まで町中を練り歩くものだったとのこと。

行列は大きな箱《というよりむしろ金箱》を持って進む。その中には紙片がたくさん入っていて、それには祈顧が書かれている《と私は聞いた》。毎朝七時に、これが川まで運ばれ、紙片は川に流される。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.319 より引用)
この「七夕祭り」では短冊を集めて川に流してしまうのですね。まぁ、何らかの方法で処分する必要があるわけですが……。

それから何百という提灯が運ばれて来る。それはいろいろな長さの長い竿につけ中央の提灯のまわりについて来る。竿は高さが二〇フィートもあり、提灯それ自体が六フィートの長さの長方形で、前部と翼部がある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.320 より引用)
「20 フィート」は約 6 m で、「前部と翼部がある」は with a front and wings でした。時岡敬子さんはこれを「前と横にも提灯がついていて」と訳出しています。

ところで、これはもしかして……という話なのですが、

それにはあらゆる種類の奇獣怪獣が極彩色で描かれている。事実それは提灯というよりもむしろ透し絵である。それを取り囲んでいるのは何百という美しい提灯で、あらゆる種類の珍しい形をしたもの──扇や魚、鳥、凧、太鼓などの透し絵がある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.320 より引用)
「提灯よりもむしろ透かし絵」というところでピンと来たのですが、これ、もしかして「ねぶた祭り」だったんでしょうか。ここは青森ではなく黒石なので、有名な「青森ねぶた祭」とは別物だと思われますが……。

何百という大人や子どもたちがその後に続き、みな円い提灯を手に持っていた。行列に沿った街路の軒端には、片側に巴を描き、反対側には漢字を二つ書いた提灯が列をつくってかけてあった。私は、このように全くお伽噺の中に出てくるような光景を今まで見たことがない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.320 より引用)
どうやら「黒石の夏祭り」はイザベラの琴線に触れたようですね。キモノで変装して町に繰り出した甲斐があったというものです。

サトウ氏の評判

イザベラは黒石の「七夕祭り」を堪能したものの、一方で祭りについての知識が得られないことに不満を感じていたようです。

この祭りは七夕タナバタ祭、あるいは星夕セイセキ祭と呼ばれる。しかし私は、それについて何の知識も得ることができない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.320 より引用)
何故かこの日は伊藤にいつもの利発さが欠けていたのか(疲れていたのかも)、「七夕の意味は知っているが説明できない」と匙を投げてしまったとのこと。

困ったときにいつも彼はつけ加えて言う。「サトウさん(後の英国公使、日本通)なら、そのことは何でも教えてくれるでしょうが」。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.320 より引用)
困った時のアーネスト・サトウなんですね。アーネスト・サトウは幕末の 1862 年に横浜の駐日公使館に着任し、1875(明治 8)年にイギリスに帰国、そして 1877(明治 10)年 1 月に再来日していました。1878(明治 11)年の時点で滞日 10 年以上だったことになりますね。

織姫

イザベラは「七夕祭りについての知識を得られない」と零し、伊藤には「サトウさんに聞いたら」と投げやりに返されてしまったものの、イザベラは後にフレデリック・ヴィクター・ディキンズからこの祭りについての詳細を聞いたとのこと。以下の「原注」は初版の「完全版」に記載され、「普及版」ではカットされています。

七夕タナバタは文字通り、7 月 7 日の置き換えである。星夕セイセキも同様に星の夜の意味として知られている。この日の夜に、奉納物が作られ、織女ショクジョ星=ベガと牽牛ケンギュウ星=牧夫[ひこ星]──ある者は鷲座の星アルタイアだと言い、他の者は山羊座と射手座の一部だと言う──が祭られる。
(高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』中央公論事業出版 p.120 より引用)
「織姫と彦星」の祭りであることに言及した上で、これは「中国に起源を持つ伝説」だとしています。伝説の詳細が語られた上で、次のように続けています。

 この晩に、二つの星──織女ショクジョ星と牽牛ケンギュウ星として日本人に知られているの出会いを見ることができた者は、もし 1 年以内に実現しなくても、3 年以内に彼らの望みがかなう。
(高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』中央公論事業出版 p.120 より引用)
「もし 1 年以内に実現しなくても」と気を持たせるあたり、なかなかマーケティングセンスがありますね……(汗)。

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2024年9月15日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1169) 「活平・オップシナイ沢川・仁生川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

活平(かつひら)

yuk-e-pira?
鹿・食う・崖
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
浦幌留真の北で浦幌川が凄まじく蛇行しているのですが、川を遡り蛇行区間を抜けたところが「活平」です。「ポンカツヒラ川」「コカツヒラ沢川」「カツヒラ沢川」「ペケレカツヒラ沢川」「ペケレカツヒラ小沢川」などの川も流れています。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川が描かれておらず、『北海道実測切図』(1895 頃) には「ユケピラ」という地名が描かれていました。

更科源蔵さんの『アイヌ語地名解』(1982) には次のように記されていました。

もともと浦幌川の川岸のユク・ピラ(鹿の崖)という崖の名に、活平と当て字をし、無理に「いくびら」とよましたのが、次第に変化したものである。
(更科源蔵『更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解』みやま書房 p.241 より引用)
なんと……! あわてて陸軍図を確かめてみると「活 ペイ」とルビが振ってあったり、三角点の名前も「活平かつぺい」だったり「活平山かっぺいやま」だったりします。元は「いくびら」だったとは……!

更科さんは yuk-pira で「鹿・崖」としましたが、『北海道実測切図』では「ユケピラ」となっているので、yuk-e-pira で「鹿・食う・崖」か、あるいは yuk-e-ran-pira で「鹿・そこで・落ちる・崖」あたりの可能性がありそうです。

『北海道実測切図』に「ユケピラ」と描かれていたのは、集落のあるあたりではなく、道道 56 号「本別浦幌線」の「朝日橋」の西、浦幌川がヘアピンカーブを描いているあたりの西側でした。現在は「コカツヒラ沢川」が流れているあたりなのですが、「ユケピラ」の「ユ」と「コカツヒラ沢川」の「コ」が似ているのは、偶然……ですよね。

オップシナイ沢川

o-pus-nay?
河口・破裂する・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2024年9月14日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1168) 「オタコブシ沢川・ヤリ沢川・瀬多来川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

オタコブシ沢川

o-tapkop-us-i??
河口・円山・ついている・もの(川)
(?? = 記録未確認、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
留真川の中流あたりで東から合流する支流です。「オタコブシ沢川」の河口付近で北から合流する「ポンオタコブシ沢川」という支流(留真川から見ると支流の支流)も存在します。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には該当する川は描かれておらず、また『北海道実測切図』(1895 頃) には川は描かれているものの川名が見当たりません。

「北海道地名解」には次のように記されていました。

 オタコブシ沢 留真川上流,左小川の沢。アイヌ語で,川口に瘤山あるの意。
(NHK 北海道本部・編『北海道地名誌』北海教育評論社 p.653 より引用)
どうやら o-tapkop-us-i で「河口・円山・ついている・もの(川)」と見て良さそうな感じですね。

ただ、このあたりは山の中で tapkop っぽい「円山」があるかと言われると少々微妙なのですが、『地名アイヌ語小辞典』(1956) には次のように記されていました。

tapkop, -i たㇷ゚コㇷ゚ ①離れてぽつんと立っている円山;孤山;孤峰;②尾根の先にたんこぶのように高まっている所。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.128 より引用)
ふむふむ。どうやら「オタコブシ沢」の場合は「②」に該当しそうですね。

タロンノ沢川

「オタコブシ沢川」と「ポンオタコブシ沢川」の北に、「タロンノ沢川」「モウタロン沢川」「ソノタロン沢川」という川(いずれも留真川の東支流)が存在します。

「モウタロン沢川」は mo-o-taor-un(-nay) で「小さな・河口・川岸の高所・そこに入る(・川)」と読めそうな気もしますが、そもそもアイヌ語に由来するか自体が疑わしいというのが正直なところです(「太郎の沢」である可能性もあるので)。

ヤリ沢川

yar??
破れる
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)

2024年9月13日金曜日

父島さんぽ (16) 「素晴らしい B. I. T. C.」

学校のような建物が見えてきました。ただよく見ると手前の駐車場には黄色い特殊車輌っぽいものも見えます。この建物は「東京都小笠原支庁」の建物とのこと。
小笠原警察署の向かい(この写真には映っていないですが、右側)に「小笠原総合事務所」がありますが、これは「小笠原支庁」ではなく、国土交通省の現地行政機関だったんですね(都ではなくて国の行政機関)。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

建築計画のお知らせ

「東京都小笠原支庁」の隣が「小笠原小中学校」でした。「建築計画のお知らせ」が立っていますが……

2024年9月12日木曜日

父島さんぽ (15) 「東京←→父島」

「小笠原ビジターセンター」の展示を一通り見終えました。小笠原についての理解を深めたいという期待をしっかりと叶えてくれる場所でした。個人的には「父島は『乾性低木林』が多く母島には『湿性高木林』がある」というのが「へぇー」でしたね。
初めて小笠原に渡航した人は、「小笠原ビジターセンター」と「小笠原世界遺産センター」を真っ先に訪問すると良いと思います(どちらもオススメです!)。

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今更ですが、入口には「ご利用案内」が出ていました。開館日が「入港日~出航日」というのはいかにも小笠原風で、出航日と次の入港日の間が「休業日」になっているケースがとても多いのですね。「おが丸」が事実上「暦」の代わりになっているのです。

2024年9月11日水曜日

父島さんぽ (14) 「触れたくない話題」

「南洋踊り」の展示の横にはガラスケースが置かれていて、中には飛行機などの模型が置かれていました。
父島と言えば、後にアメリカ合衆国 41 代大統領となるジョージ・H・W・ブッシュが搭乗する雷撃機が撃墜されたことでも知られていますが、ブッシュが搭乗したのと同型の TBM アベンジャーの模型もありますね。

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触れたくない話題

模型は航空機だけではなく、若き昭和天皇が小笠原にやってきた時の「御召艦」だった戦艦「山城」の模型もあります。その横になにやら説明が見えますが……

2024年9月10日火曜日

父島さんぽ (13) 「明治以降の自然破壊」

「小笠原ビジターセンター」の「歴史コーナー」の話題を続けます。
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「歴史年表」が貼られていました。「小笠原の主な出来事」は 1500 年からで、項目としては 1543 年の「スペイン船『サン・ファン号』が火山列島(硫黄列島)発見命名する(上陸なし)」が最初です。

2024年9月9日月曜日

父島さんぽ (12) 「なめられペリー」

「小笠原ビジターセンター」の「自然・動物コーナー」と「企画展示室」を一通り見て、カヌーが置かれたエントランスに戻ってきました。
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「島内案内」と題されたコーナーには、父島と母島の地図が左右に配置されていました。中央に 20 個のボタンがあり、中央のディスプレイに解説が表示される仕組みだったみたいです(うっかりスルーしちゃいました)。

2024年9月8日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1167) 「オムオロ川・オサップ川・留真」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

オムオロ川

o-mu-oro??
河口・塞がっている・その中
(?? = 記録未確認、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
浦幌常室にある「常室神社」の南を流れ、東から浦幌川に注ぐ支流です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川が描かれておらず、また『北海道実測切図』(1895 頃) にも(川としては)見当たりません。

「オムオロ」をそのまま読み解けば o-mu-oro で「河口・塞がっている・その中」となるでしょうか。河口部は浦幌川の氾濫原なので、オムオロ川は河口が塞がれる、あるいは伏流する川だったのかもしれません。

オサップ川

o-sat-pe??
河口・乾いている・もの(川)
(?? = 記録未確認、類型あり)

2024年9月7日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1166) 「ケナシ川・ソウウンベツ川・ワツカシャクベツ川・クオタナイ沢川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ケナシ川

kenas-chimi-p?
灌木の木原・左右にかき分ける・もの(川)
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
道道 500 号「音別浦幌線」の「憩橋」のすぐ下流側で「常室とこむろ川」に合流する西支流です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川が見当たりませんが、『北海道実測切図』(1895 頃) には「ケナシチミㇷ゚」と描かれています。戊午日誌 (1859-1863) 「報十勝誌」には「トコムロ」の支流の情報も記されていますが、残念ながら該当する川の情報はありません。

「ケナシチミㇷ゚」を素直に読み解くと kenas-chimi-p で「灌木の木原・左右にかき分ける・もの(川)」となるでしょうか。この川は下流部で大きな S 字状のカーブを描いていて、そのことを指し示した川名だった可能性がありそうです。

なお『東西蝦夷山川地理取調図』には「トコムロ」(=常室川)と「ウラホロ」(=浦幌川)の間に「メナシチヒリ」と描かれていました。位置的には「ウラホロ」の支流だと思われますが、「ケナシチミㇷ゚」との類似性が高いので気になるところです。

ソウウンベツ川

so-un-pet?
水中のかくれ岩・そこに入る・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2024年9月6日金曜日

父島さんぽ (11) 「クジラ展 2024」

「企画展示室」では「クジラ展 2024」が開催されていました。入口には巨大なザトウクジラの頭部が飾られています。あえて部屋からはみ出して置くことでインパクトを高めようという算段ですね……?
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「ザトウクジラ」は漢字では「座頭鯨」なんですね。出生時の重さが「1t」というのは驚きですが、成体だと「30~40t」らしいので、「1t」程度だと全然大したこと無い、ということなんですね……。

2024年9月5日木曜日

父島さんぽ (10) 「東京都レンジャーだからこそスゴロク」

「小笠原ビジターセンター」の話題を続けます。ずっと続けてしまっていますが、もう少しお付き合いください。ここは「海洋島のなりたち」というコーナーですが、何故かフォントのチョイスが他と異なりますね……。
「西之島」と言えば活発な火山活動で知られる島で、最近でも何度か噴火によって沖合に「新島」が誕生しています。これらの「新島」は最終的に「西之島」と陸続きになり現在に至ります。「西之島」自体が近年に形成された「新島」ということではなく、1702 年に「発見」された記録があるとのこと(もちろんそれ以前から島として存在していたと思われます)。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ただ「西之島」では「火山島の形成」が現在進行系で進んでいるとも言えるのも事実で、父島や母島もこうやって形成されたのだろうな……との想像が広がりますね。いつか動植物が豊かな島になるのでしょうか。

2024年9月4日水曜日

父島さんぽ (9) 「過ぎ去った季節の展示」

「小笠原ビジターセンター」の話題を続けます。このコーナーは何故か表題?が隠されていますが、「マボちゃん」の隣の区画です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

小笠原では「ミナミハンドウイルカ」の個体識別を行っている……という話ですが、なるほど、「背びれ」や「皮膚」で見分けているのですね。

2024年9月3日火曜日

父島さんぽ (8) 「今、日本で一番絶滅しそうな鳥」

「小笠原ビジターセンター」の話題を続けます。こちらは「世界自然遺産を守るために」というコーナーです。なんかずーっと自然遺産の話ばかりで食傷気味の方もいらっしゃるかもしれませんが、もう少しお付き合いください。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「小笠原本来の生態系をとりもどすために」というサブタイトルとともに、小笠原の生態系を破壊する「害獣」と「害虫」が紹介されています。種ごとに「どのように持ち込まれたか」「生態系への影響」「取組の成果」がシンプルにまとめられていて、とても参考になりますね。

2024年9月2日月曜日

父島さんぽ (7) 「凄いぞ世界自然遺産!」

それでは、「小笠原ビジターセンター」の「自然・動物コーナー」を見ていきましょう。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

これは受付のクローズアップですが、よく見ると鳥(シロハラミズナギドリ?)が宙を舞っているだけではなく、様々な動植物が「これでもか!」とばかりに並んでいますね。壁に飾られているのは山羊の頭でしょうか……?

2024年9月1日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1165) 「帯富・オップスナイ川・常室」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

帯富(おびとみ)

o-{pet-aw}-ne-p??
河口・{二股}・のような・もの(川)
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
浦幌の市街地の北を「オベトン川」が流れていて、川の北側が浦幌町帯富です。このオベトン川は、元々は浦幌の市街地の東側を北から南に流れていたらしく、現在も「旧オベトン川」が流れています。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヲヘツトン子フ」という川が描かれていて、『北海道実測切図』(1895 頃) では「オペトン子ㇷ゚」という名前で描かれていました。ただ「実測切図」の「オペトン子ㇷ゚」は浦幌の市街地の南側、現在の「旧オベトン川」の東隣で浦幌川に注ぐ川として描かれています(=現在の「村中沢川」)。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Opetunnep   オペト゚ンネㇷ゚   二股川
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.300 より引用)
戊午日誌 (1859-1863) 「報十勝誌」には次のように記されていました。

またしばし過て
     ウベツトン子フ
右のかた小川。其名義不解也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.364 より引用)
また次のような頭注がついていました。

帯 富
o   そこに
pet  川が
un   並んで
ne   いる
p   所
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.364 より引用)
o-pet-un-ne-p で「そこに・川が・並んで・いる・所」だと言うのですが、un に「並んで」という意味があったかどうか、個人的にはちょっと疑問が残ります。

ちなみに「報十勝誌」でも「ウベツトン子フ」は現在の「千草川」に相当する「オㇱュマラペ」の下流側に記されていました。これは現在の「村中沢川」または「旧オベトン川」のいずれかに相当する……ということになります。

永田地名解の「オペト゚ンネㇷ゚ 二股川」という解はちょっと謎だったのですが、「村中沢川」と「旧オベトン川」が近い位置で浦幌川に合流していて、それがあたかも二つの川が枝分かれしているようだ……という話かもしれません。となると o-{pet-aw}-ne-p で「河口・{二股}・のような・もの(川)」と考えられそうですね。

pet-aw は「川・枝」と分解され、「枝川」や「二股」を意味します。川が二手に分岐する地点を指す地名として pet-e-u-ko-hopi-i で「川が・そこで・互い・に・捨て去る・所」がありますが(「ペテウコピ」)、pet-e-u-ko-hopi-i の代わりに pet-aw を使うケースも散見されます。

pet-aw はどちらかと言えば道南エリアで目にすることが多い印象があり、道東では pet-e-u-ko-hopi-i が多い印象もあるのですが、明確にエリアごとに表現が異なるということでも無い……ということでしょうか。「帯富」の場合も、実は pet-aw と同義で少し違った表現があり、それが正解なのかもしれません。

オップスナイ川

hup-us-nay?
トドマツ・多くある・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)