2024年9月30日月曜日

レンタカーで父島一周 (4) 「『ねこ隊』の罠」

「三日月山園地展望台」に向かう道を歩きます。右側に見えるのは「タコノキ」(小笠原固有種)でしょうか。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

枝が派手に切り払われた樹木がありました。見たところ、かなりの老木にも見えますが、どんな理由で枝が切られたのでしょう……? 「岩倉の乳房杉」には負けますが、かなりミステリアスな形ですね。

2024年9月29日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1173) 「下頃辺」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

下頃辺(したころべ)

{si-tat}-kar(-us)-pe?
{ウダイカンバの樹皮}・採る(・いつもする)・ところ(川)
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
「下頃辺川」は JR 根室本線・新吉野駅の西を流れる川で、かつては浦幌川の西支流でした(現在は河川改修の結果、浦幌十勝川に合流しています)。「新吉野駅」の旧名は「下頃駅」で、『北海道駅名の起源』(1973) には次のように改名の理由が記されていました。

  新吉野(しんよしの)
所在地 (十勝国)十勝郡浦幌町
開 駅 明治43年 1 月 7 日
起 源 もと「下頃部(したころべ)」といったが、読みにくいので昭和17年 4 月 1 日、近くに吉野桜に似た山桜があったのでこれにちなんで、「新吉野」と改められた。
(『北海道駅名の起源(昭和48年版)』日本国有鉄道北海道総局 p.126 より引用)
1942(昭和 17)年頃からの数年間はアイヌ語由来の地名・駅名が多く失われた時期でもあります。ただ「新吉野駅」の場合は、駅周辺の「下頃」という地名が 1929(昭和 4)年に「吉野」に改められていて、13 年後の 1942(昭和 17)年に駅名が「下頃」から「吉野」に改められているので、戦中の改名ラッシュの先鞭をつけたケースだったのかもしれません。

駅名が「吉野」ではなく「新吉野」となったのは、既に近鉄の「吉野駅」があったため、重複を回避したものでしょうか。

なお旧地名と川名が「下頃」で旧駅名が「下頃」ですが、「下頃」は三等三角点(標高 20.4 m)として健在です。

「犬を生んだところ」説

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Shita koro be   シタ コロ ベ   犬ヲ産ミタル處 土言犬ヲ「シタ」ト云フ
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.298 より引用)
seta-kor-pe で「犬・持つ・ところ」と考えたのでしょうか。更科源蔵さんが全力で否定しそうな解ですね……。

「ウダイカンバを持つ川」説

ということで『アイヌ語地名解』(1982) を見てみると……

下頃部はアイヌ語のシタッ・コル・ペで、のある川の意と思う。
(更科源蔵『更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解』みやま書房 p.240 より引用)
{si-tat}-kor-pe で「{ウダイカンバの樹皮}・持つ・もの(川)」ではないか……という説ですね。なお続きもあり……

これをシタコロベで犬が子を産んだ処などと訳したことがある。
(更科源蔵『更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解』みやま書房 p.240 より引用)
意外や意外、「そういった説があった」という紹介に留まっていますね(「浦幌町五十年沿革史」でも「犬を生んだ処」とするも「意義は詳らかでない」としています)。更科さんは旧・阿寒町の「舌辛」の項では次のように記していたのですが……

シタまたはセタが犬であるので、犬が子を産んだところなどと訳した人もあるが、それではシタカラという地名はいたるところにあるはずである。
(更科源蔵『更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解』みやま書房 p.263 より引用)
今回もこのレベルのツッコミを期待していたのですが、少々当てが外れたようです。

やはり「ウダイカンバ・持つ・もの」と見るべきなのかな……と思いつつ、何故 kor なのだろうという若干の疑問も残っていました。これは旧・阿寒町の「舌辛」のように {si-tat}-kar で「{ウダイカンバの樹皮}・採る」が転訛したと考えるとクリアできそうでしょうか。この場合、{si-tat}-kar(-us)-pe で「{ウダイカンバの樹皮}・採る(・いつもする)・ところ(川)」ということになりますね。

「ゴボウの多いところ」説

ただ『十勝地名解』(1914) には別の方向から kor 問題を消化した解が記されていました。

シタ・コロベ
 牛蒡(ごぼう) の多きところという義なり。元来土語に、款冬(ふき) を「コロコロニ」ととなえ、牛蒡を犬款冬すなわち「シタコロコロニ」と称す。
(井上寿「十勝アイヌ語地名解」十勝地方史研究所 p.74 より引用)
{sita-korkoni}-us-pe で「{ゴボウ}・ある・ところ」と考えた……ということでしょうか。知里さんの『植物編』(1976) にも次のように記されていました。

§ 12. ゴボォ(牛蒡)Arctium Lappa L.
( 1 ) seta-korkoni(se-tá-kor-ko-ni)「セたコㇽコニ」[seta(犬)korkoni(蕗)] 葉柄 《幌別
( 2 ) sita-korkoni(si-tá-……)「シたコㇽコニ」[sita(犬)korkoni(蕗)] 葉柄 《樣似,足寄芽室屈斜路美幌
(知里真志保『知里真志保著作集 別巻 I「分類アイヌ語辞典 植物編」』平凡社 p.11 より引用)
setasita になるのは道東方面で多く記録されているようで、その点でも矛盾はありません。問題は sita-korkoni(-us)-pe だと「シタコㇽコニペ」となる点ですが、『植物編』によると korkoni は合成語の要素としては kor になるとのこと。

kor は「葉」で korkoni は「葉柄」とされているので、korkoni = kor というのは少々乱暴な解釈でもあるのですが、この(ちょい乱暴な)ロジックからは sita-korkonisita-kor に略された可能性も浮上するかな……と考えてみました。この場合、{sita-kor}(-us)-pe となりそうですね。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2024年9月28日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1172) 「カルシナイ川・御音内」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

カルシナイ川

ku-kar-us-nay?
弓・つくる・いつもする・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
道東自動車道・浦幌 IC の東に「オーラポロ橋」という橋がありますが、オーラポロ橋の下を「カルシナイ川」が流れています。

北海道実測切図』(1895 頃) では該当する川が見当たらないのですが、川の流れる向きから考えると「ヌプリケソマナイ」が現在の「カルシナイ川」に相当する可能性がありそうです。nupuri-kes-oma-nay で「山・末端・そこにある・川」と読めそうでしょうか。

『北海道実測切図』ではごく短い川として描かれていて、代わりに南隣の「オン子ナイ」(=浦幌オンネナイ川)が実際よりも長く描かれています。「実測」とは言うもののこの程度の誤りはちょくちょく見られるので、注意が必要ですね。

また『北海道実測切図』では、現在「ミフネの沢川」とされる川の位置に「コカルシナイ」と描かれていました。どうやらこれが「カルシナイ川」の元ネタ?のような感じですね。

ko-kar-us-nay で「粉・つくる・いつもする・川」と読めなくもないですが、おそらく ku-kar-us-nay で「弓・つくる・いつもする・川」ではないでしょうか。弓の原材料となる樹木が豊富な川だったのかもしれません。

どこかのタイミングで「ク」が「コ」と転訛、あるいは誤記されて、「コカルシナイ」では意味が通じないということで頭の「コ」が削られた……とかでしょうか。

御音内(おんねない)

onne-nay
老いた・川
(記録あり、類型多数)

2024年9月27日金曜日

レンタカーで父島一周 (3) 「展望地まで約 650 m」

「ウェザーステーション展望台」で「イソヒヨドリ」の撮影に成功して早くも気分が舞い上がり気味ですが、ここまで来たなら「三日月山展望台」に行かない手はありません。
いい感じに撮影できたので、トリミングした写真も載せておきます。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

駐車場に戻り、そのまま公衆トイレのほうに向かいます。トイレの横にも東屋があるのですね。

2024年9月26日木曜日

レンタカーで父島一周 (2) 「ウェザーステーション展望台」

「ウェザーステーション展望台」にやってきました。乗用車で出入りできる場所としては父島で最西端の場所……だと思います。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「ウェザーステーション展望台」は「三日月山園地」の入口に位置していて、陸上からホエールウォッチングできる(かもしれない)というスポットです。

2024年9月25日水曜日

レンタカーで父島一周 (1) 「ガンジーのところ」

Day 3 は、当初は「おがまるパック」のオプショナルツアーである「クルーズ一日観光」に充てるつもりでいたのですが、申込みの際に何故か断られてしまったので(詳細)、レンタカーで父島を一周することにしました。

父島にはレンタカー会社が 3 社ある……と思っていたのですが、改めて小笠原村観光協会の「レンタカー」のページを見ると 4 社あるみたいですね。宿(別館)のすぐ近くに「ササモクレンタカー」の事務所があるので、「おが丸」のチケットを確保後すぐにメールを出したのですが返信が無く……。

ちなみに宿(別館)のすぐ前から「ササモクレンタカー」があるとされる方角を眺めたのですが……
http://www.sasamoku.co.jp/rent/index6f.html の写真を見ると、1F の雨戸の下に「ササモクレンタカー」という看板がついているのですが、この写真では看板は見当たりません。

2024年9月24日火曜日

小笠原の旅 2024/春 (3) 「Day 2 終了、Day 3 開始」

父島さんぽ(と言っても歩いたのは大村地区のみですが)を終えて、部屋のある「別館」に戻ってきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

部屋は単身者用アパートを改装したと思しき作りで、台所と冷蔵庫も使用可能です。流石に電子レンジはありませんが……。

2024年9月23日月曜日

北海道のアイヌ語地名 (1171) 「川流布・浦幌オンネナイ川・貴老路」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

川流布(かわるっぷ、かわりゅうふ)

kapar-o-p?
水中の平岩・そこにある・もの(川)
kapar-hup??
平たい・トド松
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
浦幌町北部で浦幌川に合流する東支流の名前で、「川流布かわるっぷ川」の中流域には「川流布かわりゅうふ」という地名もあります。川流布川支流の「ポン川流布沢」を遡った先には「川流布かわるっぷ山」もあり、また「川流布川」河口の南には「川流布かわるっぷ」という名前の四等三角点(標高 191.1 m)もあります。グランドスラムですね……。

「ヤムロウ」=「カバロウ」?

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヤムロウ」という川が描かれていて、おそらくこれが「川流布川」を指していると思われます。というのも、戊午日誌 (1859-1863) 「報十勝誌」には次のように記されているからで……

それを過て
      ヘテウコヒ
 此処二股に成る也。其よりして二川に成り其右のかたなる川を
      カバロウ
 と云り。其名義は不解也。また其川すじを山間にしばし入りて
       モウカハロウ
  と云て小川有る也。是小さきカハロウ也と云事。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.368 より引用)
この「カバロウ」が「川流布川」だと考えられます。「カ」を「ヤ」、「バ」を「ム」に誤記して「ヤムロウ」になった可能性がありそうです。『北海道実測切図』(1895 頃) には、現在の「川流布川」の位置に「カパルフㇷ゚」と描かれていました。

アイヌ語由来なのは間違いないが……

「浦幌村五十年沿革史」には次のように記されていました。

地名に就て色々考證を試みて見たが遂に判然としなかつた。然しアイヌ語から生じたことは疑いない。
(浦幌村社会教育協会『浦幌村五十年沿革史』浦幌村役場 p.309 より引用)※ 原文ママ
「アイヌ語に由来することは確かだが良くわからない」とのこと。下手に珍妙な説を開陳されるより遥かに助かりますね。

「平岩の川」?

更科源蔵さんの『アイヌ語地名解』(1982) には次のように記されていました。

 川流布(かわろっぷ)
 浦幌川上流の部落名。浦幌川の支流、川流布川からでたもので、原名はアイヌ語のカパルㇷ゚で底が平岩の川と思う。
(更科源蔵『更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解』みやま書房 p.241 より引用)
読みが「かわっぷ」なのが少々気になるところですが、山田秀三さんの『北海道の地名』(1994) には次のように記されていました。

川流布 かわりゅうふ,かわるっぷ
 浦幌川上流の東支流の川名,地名。明治の地図ではカパルフプと書かれ,また「かわろっぷ」とも呼ばれた。それに川流布と当て字されたものであろう。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.289 より引用)
これを見る限りでは、どうやら「かわろっぷ」と読む場合もあったみたいですね。ただ「浦幌村五十年沿革史」の p.424 には「川流布(カワルップ)」とあり、やはり元々は「かわるっぷ」と読ませていたように思わせます。

山田さんは『北海道の地名』にて「かわろっぷ」説を追記していますが、旧著の『北海道の川の名』(1971) には言及がありません。山田さんが『北海道の地名』を執筆するにあたり更科さんの『アイヌ語地名解』を参照したかもしれないので、『アイヌ語地名解』の誤記または誤植が追認されてしまった可能性もあるかも……?

「平べったいトド松」?

肝心の地名解ですが、山田さんは次のように考えていたようです。

 カパルフプならカパル・フプ(平べったい・椴松)と聞こえる(そんな椴松があったろうか?)。あるいはカパルプ「kapar-u-p 平たい岩(の処)・にある・もの(川)」ででもあったろうか。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.289-290 より引用)
「カパルフㇷ゚」を素直に解釈するとそうなりますね。kapar-hup で「平たい・トド松」と考えたくなりますが、山田さんが懸念するとおり、そのようなトド松が実在していたかどうかが疑わしいところです。

「平岩のある川」?

kapar-iso で「海中の平岩」を意味することから、kapar 単独でも「水中の平岩」を意味する場合もあったようです。山田さんが記した kapar-u-p はおそらく kapar-o-p で、「水中の平岩・そこにある・もの(川)」ということでしょう。意味としては違和感のない解ですが、「カパルフㇷ゚」と kapar-o-p の違いが気になるのも確かです。

浦幌オンネナイ川

onne-nay
老いた・川
(記録あり、類型多数)

2024年9月22日日曜日

「日本奥地紀行」を読む (168) 黒石(黒石市) (1878/8/5(月))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日からは、普及版の「第三十信」(初版では「第三十五信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

婦人の化粧

8/3(土) に黒石に到着したイザベラは「二泊三日滞在した」と記していますが、第三十信には「黒石にて 八月五日」と記してあります。もちろん午後に出発したという可能性もあるのですが、ちょっとした記憶違いの可能性もありそうですね。

「明るくて清潔である部屋」での楽しんでいたイザベラですが、他にも気に入ったところがあったようで……。なんと、イザベラは隣家の御婦人を覗く眺めるという蛮行に出ていました(汗)。

例えば、私の隣の人を見下ろすことができるので、婦人が結婚式へ出かけるために化粧をしているのを見ることができた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.321 より引用)
イザベラは「黒い漆の化粧箱」や「磨かれた金属製の鏡」を見たと記しているのですが、この家は富裕な家だったのでしょうか。

髪結い

イザベラの渾身の覗きお化粧レポートが続きます。

女髪結いがその婦人の後ろに立って、櫛で梳いたり、分けたり、髪を結んだりしている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.321 より引用)
結婚式に出席するらしいので、しっかり化粧して髪も結って行く……ということなんでしょうね。この「髪結い」の女性は召使なのか、それともプロの髪結いがいたのでしょうか。

結った髪は一つの建築物であり一つの完璧な美術品である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.321 より引用)
最近は少なくなったかもしれませんが、和装した花嫁さんはすごい髪型をしてますよね。

長い漆の箱から入れ毛をいくつか取り出し、多量の香油や中まで堅い詰め物を使って、ふつうのなめらかな丸髷まるまげができる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.321-322 より引用)
ふむふむ。いわゆる「ちょんまげ」が廃止されたのは 1871(明治 4)年ですが、女性の「丸髷」は廃止されなかったので、普通に正装として健在だった……ということでしょうか。

髪を結う型は一定している。それは女の子の年齢とともに変わってくる。既婚と未婚とで、髪型が少し異なる。しかし頭の頂で三つに髪を分けることと、丸髯を結うことは決して変わらない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.322 より引用)
ひゃー……。相変わらず良く見てますね。こういった違いは一目瞭然だったのか、それとも伊藤や「日本通」の知人から情報を得ていたのでしょうか。

戸外では決して頭にかぶりものをしないから、髪を固めることが必要となっている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.322 より引用)
なるほど……そんな実用的なメリットがあったのですね。

このようにしっかり髪を固めておけば、木枕のおかげで、一週間以上も髪が崩れずにもつのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.322 より引用)
げげっ。油で固めた髪型で一週間以上ですか……。そりゃまあ毎日髪を結うのも大変ですし、髪を結わないと外を出歩けないとなれば、髪を結ったまま暮らすというのも当然の結末かもしれませんが……。

がんこな眉は残るところなく全部剃り落としてしまい、こめかみや頸に残っている生毛うぶげはみな毛抜きで引き抜いてしまった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.322 より引用)
眉毛を抜くというのは今も普通に行われますが、これっていつ頃から始まったものなんでしょうね。

このように短い毛を全部とってしまうと、頭に生えている自然の髪までもかつらをつけているように見えてくる傾向がある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.322 より引用)
あははは(笑)。丸髷っていかにも「かつら」っぽいですもんね。

白粉と化粧品

「イザベラは見た!」シリーズは一向に終わる気配を見せないまま、まだまだ続きます(汗)。

次にその婦人は白粉の箱を取り出し、顔や耳、頸に塗りたくり、彼女の皮膚は仮面をつけているように見えた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.322 より引用)
白粉もいつから存在していたのか気になるところですが、Wikipedia の「おしろい」の記事によると日本には 7 世紀ごろに中国からもたらされたとのこと。「日本書紀によると、692年には国産品が作られていた記録がある」ともあります。

それから彼女は駱駝の毛でつくった刷毛で瞼に少し水薬を塗り、きれいな眼がいっそうきれいに見えるようにした。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.322 より引用)
「駱駝」は「ラクダ」ですが、「駱駝の毛でつくった」というのは本当なんでしょうか(「麒麟」と「キリン」が別物のように、「駱駝」と「ラクダ」も実は別物なのかもしれませんが)。そしてイザベラはどこから「駱駝の毛でつくった」という情報を仕入れてきたのでしょうか……?

歯を黒く染めたが、もう一度黒くしたというべきである。これは羽毛の刷毛を五倍子ふしの粉と鉄の鑢屑やすりくずの溶液の中に浸してから塗る──手間のかかる嫌な作業で、何度も繰り返し行なわれる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.322 より引用)
「お歯黒」というのも現代人にとっては意味不明な風習ですが、もしかしたら呪術的な効果があったとかでしょうか。ふと思ったのですが、アイヌ女性の sinuye と根っこが近かったりしないかな……などと。

「五倍子」と書いて「ふし」と読むのですが、漢字三文字で読みが二音というのは「百舌鳥もず」だけじゃ無かったのですね。

次に彼女は下唇の上に紅をべったりつけた。その効果は決して見て気持ちよいとはいえないが、女はそう思っていないとみえて、髪をいろいろ鏡に向けて全体の効果をたしかめ、満足げに、にっこりした。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.322-323 より引用)
イザベラ姐さん……。覗き趣味の上に dis りまで入りましたか……(汗)。しかも「その後の化粧は、全部で三時間もかかったが、一人でやっていた」との追い打ちも。三時間……ずっと覗いでいたんですね……。

彼女がまた姿を現わしたとき、無表情な木製の人形が盛装してきわめて上品に、しずしずと出てきたように見えた。これは日本女性の服装の特色をそのまま表わしている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.322-323 より引用)
「木製の人形」と言われると、つい「ニポポ人形」のような木彫りの人形を思い出してしまいますが、これはきっと「日本人形」のことですよね。「まるでお人形さんみたい」という褒め言葉(だと思う)がありますが、当時の日本女性は時間さえかければお人形さんになれた……とも言えるのかもしれません。

三時間以上も隣家の覗きを続けたイザベラですが、女性の服装について次のような考察を記していました。

 日本では上流も下流も貞淑な女の服装と、だらしない女の服装は、厳格な礼儀作法によって、越えることのできない区別の一線が引かれている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.323 より引用)
これは服装にも身分による違いがあるということか……と誤読したのですが、良く読むと「上流も下流も」とありますね。となるとこれは「流行に左右されない」という意味なんでしょうか。

恥ずかしい事実であるが、英国では、女性の服装の流行の大部分は、私たちが遺憾に思うような立場にある女性がはじめたもので、それをわが国のあらゆる階級の女性がご丁寧に真似をする。このような風潮は日本女性の間に見られない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.323 より引用)
ふむふむ。いわゆる「派手好きな女性」の服装を庶民から上流階級までが後追いするということですね。今の日本はようやくイギリスに追いついたのかもしれませんが、一方で入社式における新入社員の服装とか、全体主義的な風潮に逆戻りしつつあるようにも思えます。

めちゃくちゃ単純に今の話をまとめるならば、女性が抑圧されているか否かということになりそうですね。そして日本社会は再び抑圧的なものに回帰しつつある、とも言えそうです。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2024年9月21日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1170) 「オップニショウ川・コタロニショウ沢川・ケッチャウシ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

オップニショウ川

{o-pus}-{nisey-o}???
{音伏(山)}・{仁生川}
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
浦幌川の東支流である「仁生川」に合流する南支流です。浦幌川から見ると「支流の更に支流」ということになりますね。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川が描かれていませんが、『北海道実測切図』(1895 頃) には「エパノマニシヨ」という名前で描かれていました。e-pana-oma-{nisey-o} で「頭(水源)・海寄り・そこにある・{仁生川}」と読めるのですが、これは「オップニショウ川」を遡ると南(海寄り)に向かうことを指していると考えられます。空知郡上富良野町の「江花」と似た川名ですね。

現在は何故か「オップニショウ川」と呼ばれているのですが、「オップニショウ川」を遡った(=南に向かった)先に「音伏山おつぷしやま」という三等三角点(標高 406.5 m)があり、何らかの関連性が疑われます。

問題はこの「音伏山」という三角点名で、三角点の 1.5 km ほど南を「オップシ小川」(オップシナイ沢川の支流)が流れているので、それに由来する可能性があるかもしれません。ただ「1.5 km ほど南」というのがちょっと離れすぎているところが気になるところです。

「オップニショウ川」は o-pus-{nisey-o} で「河口・破裂する・{仁生川}」と読めなくもないのですが、「音伏山に向かう仁生川(支流)」と考えたほうが良さそうにも思えます。{o-pus}-{nisey-o} で「{音伏(山)}・{仁生川}」となりそうで、どちらもアイヌ語由来の山名・川名ではあるのですが、アイヌ語地名の流儀からはちょっと外れた形です。

ちょっと変な喩えをすると、昔、JR 北海道が「トマムサホロエクスプレス」という車輌を走らせていたのですが、この「トマムサホロ」は「アイヌ語地名」なのかどうか……という話と似ているかもしれません。「トマム」も「サホロ(佐幌)」もアイヌ語由来の地名ですが、では「トマムサホロ」がアイヌ語地名かと言うと、それは違うようにも思えるのですね。

「オップニショウ川」にも似たような据わりの悪さを感じるのです。本来は「エパノマニシヨ」と呼ばれていたこともあるので、「オップニショウ」は明治以降に、既存のアイヌ語地名を合成して呼ばれるようになったのでは……と考えてみました。

コタロニショウ沢川

kuttar-{nisey-o}??
イタドリ・{仁生川}
(?? = 記録未確認、類型あり)

2024年9月20日金曜日

父島さんぽ (20) 「大村地区を歩く」

父島での初日で体力を使い切るわけにもいかないので、「清瀬隧道」の途中で引き返すことにしました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

トンネル出口に水道管(だと思う)の端部があるのですが、トンネルの開通(1937(昭和 12)年では、とのこと)当初からこの構造だったのか、個人的にはやっぱり疑わしい感じが残ります。コンクリートを掘るわけにもいかないので仕方なく地上に出したようにも見えるんですよね……。

2024年9月19日木曜日

父島さんぽ (19) 「清瀬トンネルと謎の『木の扉』」

村役場などがある「大村地区」と、東隣の「奥村地区」を結ぶトンネルがあります。二見港を出てすぐのところにあるので気になっていたのですが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

このトンネルは「大村隧道」(60 m)で、すぐ先に「清瀬隧道」(120 m)が続いています。「清瀬地区」はやや山側に位置する集落で、小笠原高等学校があるほか、住宅地が広がっています。

2024年9月18日水曜日

父島さんぽ (18) 「二見港船客待合所」

二見港の「船客待合所」にやってきました。いわゆる「フェリーターミナル」相当の場所ですが、「おがさわら丸」はフェリーではない(車輌が船内に自走できない)ので……ちょっと他にいい表現が出てこないですね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ちなみにお隣は「小笠原海運株式会社」の「父島営業所」です。小笠原海運の文字は、この業界では珍しくシンプルな太ゴシックなのですが、父島営業所の看板もちゃんと太ゴシックですね(気持ちライトウェイトかもしれませんが)。

2024年9月17日火曜日

父島さんぽ (17) 「祭りの後」

「ペリー提督来航記念碑」の横には錨(のオブジェ?)が置かれていました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ところで、この葉っぱにボリューム感のある木は何でしょう……? ググると「クサトベラ」ではないかと出ましたが……

2024年9月16日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (167) 黒石(黒石市) (1878/8/3(土))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十九信」(初版では「第三十四信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

変装して散歩

偶然にも流し?の人力車をつかまえて黒石入りを果たしたイザベラは、黒石の町が気に入ったらしく二泊することになるのですが、ちょうど夏祭りの日だったらしく……

その晩は太鼓の音がひっきりなしで、私が床につくとまもなく伊藤が来て、実に面白いものが見られるという。そこで私は着物キモノを着て、帽子をかぶらず出かけた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.319 より引用)
イザベラは「キモノ」を着て外に出たわけですが、これは着物を気に入っていたというよりは、「変装」のためだったようです。変装の効果は覿面で、イザベラが「外国婦人」であることはバレなかったとのこと。

黒石は街灯のない町で、私は、転んだり躓いたりしながら急いだ。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.319 より引用)
時代が時代ですからね。さすがにガス灯は無かったのでしょうけど、「篝火」も無い漆黒の闇だったということでしょうか。

そのとき、頑丈な腕っぷしの男が、人をかき分けてやって来た。宿の主人が提灯をもって現われたのである。非常にきれいな提灯で、手に提灯の竿を持ち、提灯を地面すれすれに下げていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.319 より引用)
宿のご主人は更にポイントを上げた……と言ったところでしょうか。万事そつが無い伊藤にしては珍しいチョンボですね。

七夕祭り

イザベラは宿の主人に手渡された提灯片手に、祭の行列を眺めるために一時間近くも立ち尽くしていました。この祭は八月の第一週に毎夜七時から十時まで町中を練り歩くものだったとのこと。

行列は大きな箱《というよりむしろ金箱》を持って進む。その中には紙片がたくさん入っていて、それには祈顧が書かれている《と私は聞いた》。毎朝七時に、これが川まで運ばれ、紙片は川に流される。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.319 より引用)
この「七夕祭り」では短冊を集めて川に流してしまうのですね。まぁ、何らかの方法で処分する必要があるわけですが……。

それから何百という提灯が運ばれて来る。それはいろいろな長さの長い竿につけ中央の提灯のまわりについて来る。竿は高さが二〇フィートもあり、提灯それ自体が六フィートの長さの長方形で、前部と翼部がある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.320 より引用)
「20 フィート」は約 6 m で、「前部と翼部がある」は with a front and wings でした。時岡敬子さんはこれを「前と横にも提灯がついていて」と訳出しています。

ところで、これはもしかして……という話なのですが、

それにはあらゆる種類の奇獣怪獣が極彩色で描かれている。事実それは提灯というよりもむしろ透し絵である。それを取り囲んでいるのは何百という美しい提灯で、あらゆる種類の珍しい形をしたもの──扇や魚、鳥、凧、太鼓などの透し絵がある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.320 より引用)
「提灯よりもむしろ透かし絵」というところでピンと来たのですが、これ、もしかして「ねぶた祭り」だったんでしょうか。ここは青森ではなく黒石なので、有名な「青森ねぶた祭」とは別物だと思われますが……。

何百という大人や子どもたちがその後に続き、みな円い提灯を手に持っていた。行列に沿った街路の軒端には、片側に巴を描き、反対側には漢字を二つ書いた提灯が列をつくってかけてあった。私は、このように全くお伽噺の中に出てくるような光景を今まで見たことがない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.320 より引用)
どうやら「黒石の夏祭り」はイザベラの琴線に触れたようですね。キモノで変装して町に繰り出した甲斐があったというものです。

サトウ氏の評判

イザベラは黒石の「七夕祭り」を堪能したものの、一方で祭りについての知識が得られないことに不満を感じていたようです。

この祭りは七夕タナバタ祭、あるいは星夕セイセキ祭と呼ばれる。しかし私は、それについて何の知識も得ることができない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.320 より引用)
何故かこの日は伊藤にいつもの利発さが欠けていたのか(疲れていたのかも)、「七夕の意味は知っているが説明できない」と匙を投げてしまったとのこと。

困ったときにいつも彼はつけ加えて言う。「サトウさん(後の英国公使、日本通)なら、そのことは何でも教えてくれるでしょうが」。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.320 より引用)
困った時のアーネスト・サトウなんですね。アーネスト・サトウは幕末の 1862 年に横浜の駐日公使館に着任し、1875(明治 8)年にイギリスに帰国、そして 1877(明治 10)年 1 月に再来日していました。1878(明治 11)年の時点で滞日 10 年以上だったことになりますね。

織姫

イザベラは「七夕祭りについての知識を得られない」と零し、伊藤には「サトウさんに聞いたら」と投げやりに返されてしまったものの、イザベラは後にフレデリック・ヴィクター・ディキンズからこの祭りについての詳細を聞いたとのこと。以下の「原注」は初版の「完全版」に記載され、「普及版」ではカットされています。

七夕タナバタは文字通り、7 月 7 日の置き換えである。星夕セイセキも同様に星の夜の意味として知られている。この日の夜に、奉納物が作られ、織女ショクジョ星=ベガと牽牛ケンギュウ星=牧夫[ひこ星]──ある者は鷲座の星アルタイアだと言い、他の者は山羊座と射手座の一部だと言う──が祭られる。
(高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』中央公論事業出版 p.120 より引用)
「織姫と彦星」の祭りであることに言及した上で、これは「中国に起源を持つ伝説」だとしています。伝説の詳細が語られた上で、次のように続けています。

 この晩に、二つの星──織女ショクジョ星と牽牛ケンギュウ星として日本人に知られているの出会いを見ることができた者は、もし 1 年以内に実現しなくても、3 年以内に彼らの望みがかなう。
(高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』中央公論事業出版 p.120 より引用)
「もし 1 年以内に実現しなくても」と気を持たせるあたり、なかなかマーケティングセンスがありますね……(汗)。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2024年9月15日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1169) 「活平・オップシナイ沢川・仁生川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

活平(かつひら)

yuk-e-pira?
鹿・食う・崖
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
浦幌留真の北で浦幌川が凄まじく蛇行しているのですが、川を遡り蛇行区間を抜けたところが「活平」です。「ポンカツヒラ川」「コカツヒラ沢川」「カツヒラ沢川」「ペケレカツヒラ沢川」「ペケレカツヒラ小沢川」などの川も流れています。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川が描かれておらず、『北海道実測切図』(1895 頃) には「ユケピラ」という地名が描かれていました。

更科源蔵さんの『アイヌ語地名解』(1982) には次のように記されていました。

もともと浦幌川の川岸のユク・ピラ(鹿の崖)という崖の名に、活平と当て字をし、無理に「いくびら」とよましたのが、次第に変化したものである。
(更科源蔵『更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解』みやま書房 p.241 より引用)
なんと……! あわてて陸軍図を確かめてみると「活 ペイ」とルビが振ってあったり、三角点の名前も「活平かつぺい」だったり「活平山かっぺいやま」だったりします。元は「いくびら」だったとは……!

更科さんは yuk-pira で「鹿・崖」としましたが、『北海道実測切図』では「ユケピラ」となっているので、yuk-e-pira で「鹿・食う・崖」か、あるいは yuk-e-ran-pira で「鹿・そこで・落ちる・崖」あたりの可能性がありそうです。

『北海道実測切図』に「ユケピラ」と描かれていたのは、集落のあるあたりではなく、道道 56 号「本別浦幌線」の「朝日橋」の西、浦幌川がヘアピンカーブを描いているあたりの西側でした。現在は「コカツヒラ沢川」が流れているあたりなのですが、「ユケピラ」の「ユ」と「コカツヒラ沢川」の「コ」が似ているのは、偶然……ですよね。

オップシナイ沢川

o-pus-nay?
河口・破裂する・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2024年9月14日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1168) 「オタコブシ沢川・ヤリ沢川・瀬多来川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

オタコブシ沢川

o-tapkop-us-i??
河口・円山・ついている・もの(川)
(?? = 記録未確認、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
留真川の中流あたりで東から合流する支流です。「オタコブシ沢川」の河口付近で北から合流する「ポンオタコブシ沢川」という支流(留真川から見ると支流の支流)も存在します。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には該当する川は描かれておらず、また『北海道実測切図』(1895 頃) には川は描かれているものの川名が見当たりません。

「北海道地名解」には次のように記されていました。

 オタコブシ沢 留真川上流,左小川の沢。アイヌ語で,川口に瘤山あるの意。
(NHK 北海道本部・編『北海道地名誌』北海教育評論社 p.653 より引用)
どうやら o-tapkop-us-i で「河口・円山・ついている・もの(川)」と見て良さそうな感じですね。

ただ、このあたりは山の中で tapkop っぽい「円山」があるかと言われると少々微妙なのですが、『地名アイヌ語小辞典』(1956) には次のように記されていました。

tapkop, -i たㇷ゚コㇷ゚ ①離れてぽつんと立っている円山;孤山;孤峰;②尾根の先にたんこぶのように高まっている所。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.128 より引用)
ふむふむ。どうやら「オタコブシ沢」の場合は「②」に該当しそうですね。

タロンノ沢川

「オタコブシ沢川」と「ポンオタコブシ沢川」の北に、「タロンノ沢川」「モウタロン沢川」「ソノタロン沢川」という川(いずれも留真川の東支流)が存在します。

「モウタロン沢川」は mo-o-taor-un(-nay) で「小さな・河口・川岸の高所・そこに入る(・川)」と読めそうな気もしますが、そもそもアイヌ語に由来するか自体が疑わしいというのが正直なところです(「太郎の沢」である可能性もあるので)。

ヤリ沢川

yar??
破れる
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)

2024年9月13日金曜日

父島さんぽ (16) 「素晴らしい B. I. T. C.」

学校のような建物が見えてきました。ただよく見ると手前の駐車場には黄色い特殊車輌っぽいものも見えます。この建物は「東京都小笠原支庁」の建物とのこと。
小笠原警察署の向かい(この写真には映っていないですが、右側)に「小笠原総合事務所」がありますが、これは「小笠原支庁」ではなく、国土交通省の現地行政機関だったんですね(都ではなくて国の行政機関)。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

建築計画のお知らせ

「東京都小笠原支庁」の隣が「小笠原小中学校」でした。「建築計画のお知らせ」が立っていますが……

2024年9月12日木曜日

父島さんぽ (15) 「東京←→父島」

「小笠原ビジターセンター」の展示を一通り見終えました。小笠原についての理解を深めたいという期待をしっかりと叶えてくれる場所でした。個人的には「父島は『乾性低木林』が多く母島には『湿性高木林』がある」というのが「へぇー」でしたね。
初めて小笠原に渡航した人は、「小笠原ビジターセンター」と「小笠原世界遺産センター」を真っ先に訪問すると良いと思います(どちらもオススメです!)。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

今更ですが、入口には「ご利用案内」が出ていました。開館日が「入港日~出航日」というのはいかにも小笠原風で、出航日と次の入港日の間が「休業日」になっているケースがとても多いのですね。「おが丸」が事実上「暦」の代わりになっているのです。

2024年9月11日水曜日

父島さんぽ (14) 「触れたくない話題」

「南洋踊り」の展示の横にはガラスケースが置かれていて、中には飛行機などの模型が置かれていました。
父島と言えば、後にアメリカ合衆国 41 代大統領となるジョージ・H・W・ブッシュが搭乗する雷撃機が撃墜されたことでも知られていますが、ブッシュが搭乗したのと同型の TBM アベンジャーの模型もありますね。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

触れたくない話題

模型は航空機だけではなく、若き昭和天皇が小笠原にやってきた時の「御召艦」だった戦艦「山城」の模型もあります。その横になにやら説明が見えますが……

2024年9月10日火曜日

父島さんぽ (13) 「明治以降の自然破壊」

「小笠原ビジターセンター」の「歴史コーナー」の話題を続けます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「歴史年表」が貼られていました。「小笠原の主な出来事」は 1500 年からで、項目としては 1543 年の「スペイン船『サン・ファン号』が火山列島(硫黄列島)発見命名する(上陸なし)」が最初です。

2024年9月9日月曜日

父島さんぽ (12) 「なめられペリー」

「小笠原ビジターセンター」の「自然・動物コーナー」と「企画展示室」を一通り見て、カヌーが置かれたエントランスに戻ってきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「島内案内」と題されたコーナーには、父島と母島の地図が左右に配置されていました。中央に 20 個のボタンがあり、中央のディスプレイに解説が表示される仕組みだったみたいです(うっかりスルーしちゃいました)。

2024年9月8日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1167) 「オムオロ川・オサップ川・留真」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

オムオロ川

o-mu-oro??
河口・塞がっている・その中
(?? = 記録未確認、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
浦幌常室にある「常室神社」の南を流れ、東から浦幌川に注ぐ支流です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川が描かれておらず、また『北海道実測切図』(1895 頃) にも(川としては)見当たりません。

「オムオロ」をそのまま読み解けば o-mu-oro で「河口・塞がっている・その中」となるでしょうか。河口部は浦幌川の氾濫原なので、オムオロ川は河口が塞がれる、あるいは伏流する川だったのかもしれません。

オサップ川

o-sat-pe??
河口・乾いている・もの(川)
(?? = 記録未確認、類型あり)

2024年9月7日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1166) 「ケナシ川・ソウウンベツ川・ワツカシャクベツ川・クオタナイ沢川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ケナシ川

kenas-chimi-p?
灌木の木原・左右にかき分ける・もの(川)
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
道道 500 号「音別浦幌線」の「憩橋」のすぐ下流側で「常室とこむろ川」に合流する西支流です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川が見当たりませんが、『北海道実測切図』(1895 頃) には「ケナシチミㇷ゚」と描かれています。戊午日誌 (1859-1863) 「報十勝誌」には「トコムロ」の支流の情報も記されていますが、残念ながら該当する川の情報はありません。

「ケナシチミㇷ゚」を素直に読み解くと kenas-chimi-p で「灌木の木原・左右にかき分ける・もの(川)」となるでしょうか。この川は下流部で大きな S 字状のカーブを描いていて、そのことを指し示した川名だった可能性がありそうです。

なお『東西蝦夷山川地理取調図』には「トコムロ」(=常室川)と「ウラホロ」(=浦幌川)の間に「メナシチヒリ」と描かれていました。位置的には「ウラホロ」の支流だと思われますが、「ケナシチミㇷ゚」との類似性が高いので気になるところです。

ソウウンベツ川

so-un-pet?
水中のかくれ岩・そこに入る・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2024年9月6日金曜日

父島さんぽ (11) 「クジラ展 2024」

「企画展示室」では「クジラ展 2024」が開催されていました。入口には巨大なザトウクジラの頭部が飾られています。あえて部屋からはみ出して置くことでインパクトを高めようという算段ですね……?
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「ザトウクジラ」は漢字では「座頭鯨」なんですね。出生時の重さが「1t」というのは驚きですが、成体だと「30~40t」らしいので、「1t」程度だと全然大したこと無い、ということなんですね……。

2024年9月5日木曜日

父島さんぽ (10) 「東京都レンジャーだからこそスゴロク」

「小笠原ビジターセンター」の話題を続けます。ずっと続けてしまっていますが、もう少しお付き合いください。ここは「海洋島のなりたち」というコーナーですが、何故かフォントのチョイスが他と異なりますね……。
「西之島」と言えば活発な火山活動で知られる島で、最近でも何度か噴火によって沖合に「新島」が誕生しています。これらの「新島」は最終的に「西之島」と陸続きになり現在に至ります。「西之島」自体が近年に形成された「新島」ということではなく、1702 年に「発見」された記録があるとのこと(もちろんそれ以前から島として存在していたと思われます)。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ただ「西之島」では「火山島の形成」が現在進行系で進んでいるとも言えるのも事実で、父島や母島もこうやって形成されたのだろうな……との想像が広がりますね。いつか動植物が豊かな島になるのでしょうか。

2024年9月4日水曜日

父島さんぽ (9) 「過ぎ去った季節の展示」

「小笠原ビジターセンター」の話題を続けます。このコーナーは何故か表題?が隠されていますが、「マボちゃん」の隣の区画です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

小笠原では「ミナミハンドウイルカ」の個体識別を行っている……という話ですが、なるほど、「背びれ」や「皮膚」で見分けているのですね。

2024年9月3日火曜日

父島さんぽ (8) 「今、日本で一番絶滅しそうな鳥」

「小笠原ビジターセンター」の話題を続けます。こちらは「世界自然遺産を守るために」というコーナーです。なんかずーっと自然遺産の話ばかりで食傷気味の方もいらっしゃるかもしれませんが、もう少しお付き合いください。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「小笠原本来の生態系をとりもどすために」というサブタイトルとともに、小笠原の生態系を破壊する「害獣」と「害虫」が紹介されています。種ごとに「どのように持ち込まれたか」「生態系への影響」「取組の成果」がシンプルにまとめられていて、とても参考になりますね。

2024年9月2日月曜日

父島さんぽ (7) 「凄いぞ世界自然遺産!」

それでは、「小笠原ビジターセンター」の「自然・動物コーナー」を見ていきましょう。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

これは受付のクローズアップですが、よく見ると鳥(シロハラミズナギドリ?)が宙を舞っているだけではなく、様々な動植物が「これでもか!」とばかりに並んでいますね。壁に飾られているのは山羊の頭でしょうか……?

2024年9月1日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1165) 「帯富・オップスナイ川・常室」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

帯富(おびとみ)

o-{pet-aw}-ne-p??
河口・{二股}・のような・もの(川)
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
浦幌の市街地の北を「オベトン川」が流れていて、川の北側が浦幌町帯富です。このオベトン川は、元々は浦幌の市街地の東側を北から南に流れていたらしく、現在も「旧オベトン川」が流れています。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヲヘツトン子フ」という川が描かれていて、『北海道実測切図』(1895 頃) では「オペトン子ㇷ゚」という名前で描かれていました。ただ「実測切図」の「オペトン子ㇷ゚」は浦幌の市街地の南側、現在の「旧オベトン川」の東隣で浦幌川に注ぐ川として描かれています(=現在の「村中沢川」)。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Opetunnep   オペト゚ンネㇷ゚   二股川
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.300 より引用)
戊午日誌 (1859-1863) 「報十勝誌」には次のように記されていました。

またしばし過て
     ウベツトン子フ
右のかた小川。其名義不解也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.364 より引用)
また次のような頭注がついていました。

帯 富
o   そこに
pet  川が
un   並んで
ne   いる
p   所
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.364 より引用)
o-pet-un-ne-p で「そこに・川が・並んで・いる・所」だと言うのですが、un に「並んで」という意味があったかどうか、個人的にはちょっと疑問が残ります。

ちなみに「報十勝誌」でも「ウベツトン子フ」は現在の「千草川」に相当する「オㇱュマラペ」の下流側に記されていました。これは現在の「村中沢川」または「旧オベトン川」のいずれかに相当する……ということになります。

永田地名解の「オペト゚ンネㇷ゚ 二股川」という解はちょっと謎だったのですが、「村中沢川」と「旧オベトン川」が近い位置で浦幌川に合流していて、それがあたかも二つの川が枝分かれしているようだ……という話かもしれません。となると o-{pet-aw}-ne-p で「河口・{二股}・のような・もの(川)」と考えられそうですね。

pet-aw は「川・枝」と分解され、「枝川」や「二股」を意味します。川が二手に分岐する地点を指す地名として pet-e-u-ko-hopi-i で「川が・そこで・互い・に・捨て去る・所」がありますが(「ペテウコピ」)、pet-e-u-ko-hopi-i の代わりに pet-aw を使うケースも散見されます。

pet-aw はどちらかと言えば道南エリアで目にすることが多い印象があり、道東では pet-e-u-ko-hopi-i が多い印象もあるのですが、明確にエリアごとに表現が異なるということでも無い……ということでしょうか。「帯富」の場合も、実は pet-aw と同義で少し違った表現があり、それが正解なのかもしれません。

オップスナイ川

hup-us-nay?
トドマツ・多くある・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)