2024年9月16日月曜日

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「日本奥地紀行」を読む (167) 黒石(黒石市) (1878/8/3(土))

 

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十九信」(初版では「第三十四信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

変装して散歩

偶然にも流し?の人力車をつかまえて黒石入りを果たしたイザベラは、黒石の町が気に入ったらしく二泊することになるのですが、ちょうど夏祭りの日だったらしく……

その晩は太鼓の音がひっきりなしで、私が床につくとまもなく伊藤が来て、実に面白いものが見られるという。そこで私は着物キモノを着て、帽子をかぶらず出かけた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.319 より引用)
イザベラは「キモノ」を着て外に出たわけですが、これは着物を気に入っていたというよりは、「変装」のためだったようです。変装の効果は覿面で、イザベラが「外国婦人」であることはバレなかったとのこと。

黒石は街灯のない町で、私は、転んだり躓いたりしながら急いだ。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.319 より引用)
時代が時代ですからね。さすがにガス灯は無かったのでしょうけど、「篝火」も無い漆黒の闇だったということでしょうか。

そのとき、頑丈な腕っぷしの男が、人をかき分けてやって来た。宿の主人が提灯をもって現われたのである。非常にきれいな提灯で、手に提灯の竿を持ち、提灯を地面すれすれに下げていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.319 より引用)
宿のご主人は更にポイントを上げた……と言ったところでしょうか。万事そつが無い伊藤にしては珍しいチョンボですね。

七夕祭り

イザベラは宿の主人に手渡された提灯片手に、祭の行列を眺めるために一時間近くも立ち尽くしていました。この祭は八月の第一週に毎夜七時から十時まで町中を練り歩くものだったとのこと。

行列は大きな箱《というよりむしろ金箱》を持って進む。その中には紙片がたくさん入っていて、それには祈顧が書かれている《と私は聞いた》。毎朝七時に、これが川まで運ばれ、紙片は川に流される。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.319 より引用)
この「七夕祭り」では短冊を集めて川に流してしまうのですね。まぁ、何らかの方法で処分する必要があるわけですが……。

それから何百という提灯が運ばれて来る。それはいろいろな長さの長い竿につけ中央の提灯のまわりについて来る。竿は高さが二〇フィートもあり、提灯それ自体が六フィートの長さの長方形で、前部と翼部がある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.320 より引用)
「20 フィート」は約 6 m で、「前部と翼部がある」は with a front and wings でした。時岡敬子さんはこれを「前と横にも提灯がついていて」と訳出しています。

ところで、これはもしかして……という話なのですが、

それにはあらゆる種類の奇獣怪獣が極彩色で描かれている。事実それは提灯というよりもむしろ透し絵である。それを取り囲んでいるのは何百という美しい提灯で、あらゆる種類の珍しい形をしたもの──扇や魚、鳥、凧、太鼓などの透し絵がある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.320 より引用)
「提灯よりもむしろ透かし絵」というところでピンと来たのですが、これ、もしかして「ねぶた祭り」だったんでしょうか。ここは青森ではなく黒石なので、有名な「青森ねぶた祭」とは別物だと思われますが……。

何百という大人や子どもたちがその後に続き、みな円い提灯を手に持っていた。行列に沿った街路の軒端には、片側に巴を描き、反対側には漢字を二つ書いた提灯が列をつくってかけてあった。私は、このように全くお伽噺の中に出てくるような光景を今まで見たことがない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.320 より引用)
どうやら「黒石の夏祭り」はイザベラの琴線に触れたようですね。キモノで変装して町に繰り出した甲斐があったというものです。

サトウ氏の評判

イザベラは黒石の「七夕祭り」を堪能したものの、一方で祭りについての知識が得られないことに不満を感じていたようです。

この祭りは七夕タナバタ祭、あるいは星夕セイセキ祭と呼ばれる。しかし私は、それについて何の知識も得ることができない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.320 より引用)
何故かこの日は伊藤にいつもの利発さが欠けていたのか(疲れていたのかも)、「七夕の意味は知っているが説明できない」と匙を投げてしまったとのこと。

困ったときにいつも彼はつけ加えて言う。「サトウさん(後の英国公使、日本通)なら、そのことは何でも教えてくれるでしょうが」。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.320 より引用)
困った時のアーネスト・サトウなんですね。アーネスト・サトウは幕末の 1862 年に横浜の駐日公使館に着任し、1875(明治 8)年にイギリスに帰国、そして 1877(明治 10)年 1 月に再来日していました。1878(明治 11)年の時点で滞日 10 年以上だったことになりますね。

織姫

イザベラは「七夕祭りについての知識を得られない」と零し、伊藤には「サトウさんに聞いたら」と投げやりに返されてしまったものの、イザベラは後にフレデリック・ヴィクター・ディキンズからこの祭りについての詳細を聞いたとのこと。以下の「原注」は初版の「完全版」に記載され、「普及版」ではカットされています。

七夕タナバタは文字通り、7 月 7 日の置き換えである。星夕セイセキも同様に星の夜の意味として知られている。この日の夜に、奉納物が作られ、織女ショクジョ星=ベガと牽牛ケンギュウ星=牧夫[ひこ星]──ある者は鷲座の星アルタイアだと言い、他の者は山羊座と射手座の一部だと言う──が祭られる。
(高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』中央公論事業出版 p.120 より引用)
「織姫と彦星」の祭りであることに言及した上で、これは「中国に起源を持つ伝説」だとしています。伝説の詳細が語られた上で、次のように続けています。

 この晩に、二つの星──織女ショクジョ星と牽牛ケンギュウ星として日本人に知られているの出会いを見ることができた者は、もし 1 年以内に実現しなくても、3 年以内に彼らの望みがかなう。
(高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』中央公論事業出版 p.120 より引用)
「もし 1 年以内に実現しなくても」と気を持たせるあたり、なかなかマーケティングセンスがありますね……(汗)。

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