2024年9月15日日曜日

次の投稿 › ‹  前の投稿

北海道のアイヌ語地名 (1169) 「活平・オップシナイ沢川・仁生川」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

活平(かつひら)

yuk-e-pira?
鹿・食う・崖
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
浦幌留真の北で浦幌川が凄まじく蛇行しているのですが、川を遡り蛇行区間を抜けたところが「活平」です。「ポンカツヒラ川」「コカツヒラ沢川」「カツヒラ沢川」「ペケレカツヒラ沢川」「ペケレカツヒラ小沢川」などの川も流れています。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川が描かれておらず、『北海道実測切図』(1895 頃) には「ユケピラ」という地名が描かれていました。

更科源蔵さんの『アイヌ語地名解』(1982) には次のように記されていました。

もともと浦幌川の川岸のユク・ピラ(鹿の崖)という崖の名に、活平と当て字をし、無理に「いくびら」とよましたのが、次第に変化したものである。
(更科源蔵『更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解』みやま書房 p.241 より引用)
なんと……! あわてて陸軍図を確かめてみると「活 ペイ」とルビが振ってあったり、三角点の名前も「活平かつぺい」だったり「活平山かっぺいやま」だったりします。元は「いくびら」だったとは……!

更科さんは yuk-pira で「鹿・崖」としましたが、『北海道実測切図』では「ユケピラ」となっているので、yuk-e-pira で「鹿・食う・崖」か、あるいは yuk-e-ran-pira で「鹿・そこで・落ちる・崖」あたりの可能性がありそうです。

『北海道実測切図』に「ユケピラ」と描かれていたのは、集落のあるあたりではなく、道道 56 号「本別浦幌線」の「朝日橋」の西、浦幌川がヘアピンカーブを描いているあたりの西側でした。現在は「コカツヒラ沢川」が流れているあたりなのですが、「ユケピラ」の「ユ」と「コカツヒラ沢川」の「コ」が似ているのは、偶然……ですよね。

オップシナイ沢川

o-pus-nay?
河口・破裂する・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
浦幌町活平で浦幌川に注ぐ東支流です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川が描かれていませんが、『北海道実測切図』(1895 頃) には「オップシナイ」という川が描かれていました。

「オップシナイ」を素直に解釈すると o-pus-nay で「河口・破裂する・川」でしょうか。ただ『地名アイヌ語小辞典』(1956) には opus で「破裂する」とあるので、opus-nay で「破裂する・川」かもしれません。

この川も、浦幌川が運搬した土砂で河口が埋まることがあり、堆積した土砂を切り崩して浦幌川に注いでいたのかもしれません。浦幌町内には「オップスナイ川」もあるので、兄弟川と言えそうですね。

仁生川(にしょう──)

nisey-o(-p)?
断崖・ある(・所)
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
浦幌川の東支流で、道道 56 号「本別浦幌線」は「仁生橋」でこの川を横断しています。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川が見当たりませんが、『北海道実測切図』(1895 頃) には「ニシヨ」と描かれていました。

浦幌川筋の記録は聞き書きで済ませた松浦武四郎でしたが、『午手控』(1858) には「ニセウ」という地名(あるいは川名)を記録していました。また戊午日誌 (1859-1863) 「報十勝誌」には次のように記していました。

過て
      ニセウケ
 此処両岸数十丈峨々たる高壁岩にして、其辺り雑樹陰森。それを過て
      ヘテウコヒ
 此処二股に成る也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.368 より引用)
ここでは「ニセウケ」となっています。「ニセウ」は nisew で「どんぐり」を意味しますが、ここでは「峨々たる高壁岩」とあるので、nisew ではなく nisey で「断崖」を意味していると見るべきでしょう。nisey-ke であれば「断崖・の所」となるでしょうか。

続く「ヘテウコヒ」は浦幌川と川流布川の分岐を指すので、大枠では「ニセウ」あるいは「ニセウケ」は仁生川の位置とは矛盾しません。ただ松浦武四郎は(浦幌川の)「両岸」が「峨々たる高壁岩」だとしているので、これは厳密には「仁生川」のことではなく、もう少し南の「活平」のあたりを指していた可能性もありそうです。

旧仮名遣い?

「仁生」は、現在では川名として残るのみですが、かつては川沿いの一帯の地名でもありました。陸軍図では現在の「富川」のあたりに「仁セウ」と描かれていて、これは旧仮名遣いで「にしょう」と読むのだと思われますが、そのまま読むと「にせう」になるのが面白いですね。

道北の「美深町」は、piuka を旧仮名遣いで「ぴふか」と記し、それをそのまま「びふか」と読むようになったと考えられるのですが、「仁生」もそれと同じパターンか……とも思わせます。ただ『北海道実測切図』に「ニシヨ」とあるため、「ニシヨ」を旧仮名遣いで「ニセウ」と綴ったところ、偶然にも松浦武四郎の記録と一致した、と見るべきかもしれません。

「ニセウケ」と「ニシヨ」

nisey と「ニシヨ」には多少の違いがありますが、地名としては nisey-o(-p) で「断崖・ある(・所)」だったのかもしれません。松浦武四郎が記録した「ニセウ(ケ)」は浦幌川沿いの地名だと思われるので、厳密には「ニセウケ」と「ニシヨ」は別だったのかもしれませんが、仁生川の北にも結構な絶壁があるので、仁生川のことも「断崖のあるもの(川)」と呼んだ……と考えたいところです。

前の記事

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International

0 件のコメント:

新着記事