2024年9月10日火曜日

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父島さんぽ (13) 「明治以降の自然破壊」

 

「小笠原ビジターセンター」の「歴史コーナー」の話題を続けます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「歴史年表」が貼られていました。「小笠原の主な出来事」は 1500 年からで、項目としては 1543 年の「スペイン船『サン・ファン号』が火山列島(硫黄列島)発見命名する(上陸なし)」が最初です。
続いて 1593 年に「信州深志城主 小笠原長時の孫 小笠原貞頼により「小笠原島」を発見した」「と伝わるが定かではない」とあります。年表の下には版画が飾られていますが……
キャプションには「1828 年ロシアのセニャービン号が来航した時、難破したイギリスの捕鯨船員が 2 人、既に住んでいたが、同乗して島を去った。」とあります。シチュエーションもそうですが、絵のタッチも負けず劣らずシュールな感じが……。版画に描かれた木々がいかにも南洋風なのも要注意ポイントですね。

小笠原の民家

「歴史コーナー」の奥(ペリーの眼の前)には復元家屋が建っていました。
これは開拓時代の民家を復元したものらしく、屋根と壁は「ビロウの葉」で葺いたものとのこと。ビロウで葺いた屋根や壁は風に強く耐久性に優れていたそうで、ちょっと意外な感じもしますが、開拓者の知恵なんでしょうね。
復元家屋の「窓」の下には「日本の小笠原発見と最初の調査」「幕末の調査隊」「明治以降の小笠原」「太平洋戦争と戦後」と題された説明と、「明治以降の自然破壊~現在の植生回復事業」と題された説明が並んでいました。
ここにも「小笠原は 1593 年小笠原貞頼さだよりが発見したといわれますが真偽しんぎは不明です」とありますね。続いて「1675 年幕府は嶋谷しまや市左衛門にこの無人島の調査を明治、嶋谷等は島々を調査して地図を作り、動植物を調査採集して持ち帰りました」とあり、「この地図が後に小笠原が日本領と認められる大きな根拠となりました」とあります。

後の経緯を考えると、小笠原が日本領として認められたのは随分とラッキーなことだったようにも思えますが、古い記録の存在を盾に交渉に臨んだ結果だったのでしょうか(イギリスと仲直りしたのも大きいかもしれませんが)。やはり記録というものは重要で、公文書をさっさと破棄するのは良くない……ということがわかりますね。

明治以降の自然破壊

右側の「明治以降の自然破壊」というのも重要な視点で、「世界自然遺産」の小笠原は明治以降、移住者によって大規模な森林破壊が行われ、原生林が失われてしまいます。その後もモクマオウやアカギなどの島外からの種を植林し、在来種の生存が脅かされているのは以前にも記した通りです。

「世界自然遺産」の小笠原は、固有種の密度が極めて高い場所です。そして一方で、これは意外と知られていないのですが™、移住者が「より良い生活のために」持ち込んだ外来種も少なくありません。

当時の移住者は小笠原の固有種には価値を認めず、小笠原の自然を自分たちのいいように「改変」しようとしていたように見えるのですが(率直に言えばドン引きするレベル)、その行為の是非については一概に評価できないようにも思えます。

製糖石ローラー

復元家屋の「窓」の向こうには、物干し台の台座のような石が見えます(ピントが合ってない……)。
真ん中の古銭のようなデザインの石は「製糖石ローラー」とあります。右隣の石には「サトウキビをつぶして搾り汁を作るためのローラー石」とありますね。
こちらは陶器の「かめ」ですが、「沖縄産 壺屋焼」とあります。小笠原には気候の似た沖縄から渡った移民も少なくなかったのか、沖縄から持ち込まれた物(植物含む)も多くあります。
左は「サトウキビの搾り汁を冷却して結晶化させる鉢」とあります。サトウキビの栽培も沖縄から持ち込まれたものだった可能性がありそうですね。

南洋踊り

浮世離れした衣装が飾られた一角がありますが……
これは「南洋踊り」を紹介したものです。「大正末から昭和の初めにかけて、仕事で小笠原からサイパンなどの南洋諸島に出掛けていた、ジョサイヤ・ゴンザレスさんによって小笠原に伝えられた踊りが、島の人たちによって現在まで受け継がれているものです。」とあります。
この踊りは東京都の無形民俗文化財に指定されているとのこと。「南洋踊り保存会」ホームページの URL も記されていますが、(サービスが終了した)ジオシティーズですね……(現在は https://nanyou-odori-hozonkai.amebaownd.com/ に移転済みのようです)。

明治新政府の小笠原開拓

小笠原の歴史の「暗部」に少しずつ近づいてきました。これは「戦前・戦中のくらし」と題されたコーナーですが、このパネルは「明治新政府の小笠原開拓」というもので、まだ「戦中」では無い時代の話題です。
幕府は 1861 年に「咸臨丸」を小笠原に派遣したものの、「生麦事件」などで欧米との関係が悪化したことを背景に、1863 年に官民ともども小笠原から撤退してしまいます。
それを見た諸外国から「小笠原、要らないなら貰っちゃうよ~」という温かいツッコミがあり(今にして思えばなんとも良心的な対応のような)、明治新政府は慌てて小花作助らを派遣して小笠原の統治に乗り出します。いやホント、小笠原が「日本領」に落ち着くまでは、(主に政府筋のヘマにより)本当に危ない橋を渡っていたのですね。

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