2024年9月9日月曜日

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父島さんぽ (12) 「なめられペリー」

 

「小笠原ビジターセンター」の「自然・動物コーナー」と「企画展示室」を一通り見て、カヌーが置かれたエントランスに戻ってきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「島内案内」と題されたコーナーには、父島と母島の地図が左右に配置されていました。中央に 20 個のボタンがあり、中央のディスプレイに解説が表示される仕組みだったみたいです(うっかりスルーしちゃいました)。
ということで、「歴史コーナー」を見て回ろうと思ったのですが……
ここで突然、ビデオの上映が始まるとのこと。どうやらビデオの上映はリクエストベースらしく、「見たい」との意思を表明すればその場で上映が始まるスタイルのようです。折角のチャンスなので、ビデオを鑑賞することにしました。

サツマイモの持ち出し禁止

急遽 15 分ほどビデオを鑑賞して、再び展示に戻ってきました。
柱には「南西諸島 小笠原から 持ち出し禁止」というポスターが貼られていました。病害虫の蔓延を防止するための措置ですが、「サツマイモ」を持ち出せないというのはちょっと意外な感じもしますね。

無人島に石器が

ということで、今度こそ「歴史コーナー」の展示を見ていきましょう。
小笠原諸島は、英語では "Bonin Islands" なんですが、この「ボニン」は赤ちゃん日本語の「無人」が訛ったものとされています。ただ、これまでずっと無人だった訳でも無いらしく、父島・母島や硫黄島でも石器や貝器が出土しているとのこと。

小笠原貞頼

日本における小笠原諸島に関する記録でもっとも古いものは 1670(寛文 10)年のもので、船が偶然漂着したのがきっかけだったそうです。幕府は 1674(延宝 2)年から翌年にかけて唐型船「富国寿丸ふこくじゅまる」で実地探検を行い、地図を作成した後、鉱石や動植物を採取して下田に引き上げたとのこと。
戦国時代に松本(長野県)を拠点としていた「信濃小笠原氏」の末裔である「小笠原貞頼」が 1593(文禄 2)年に探検を実施し、八丈島の「南東」に「無人島」を発見した……とされています。

なお小笠原諸島は八丈島の「南」あるいは「東南東」で、「南東」にあるのは「南鳥島」です。

パネルにも「小笠原貞頼は、架空の人物とされてきましたが」とあるくらいで、史料による裏付けの乏しい人物だったようですが、Wikipedia を見る限り、僅かながら「小笠原貞頼」の記録もあるらしく、実在の人物だったと見て良さそうでしょうか。

小笠原貞任

「島名と最初の住人」と題されたパネルには「小笠原に定住した最初の人々」「日本船の漂流激増と鎖国」そして「小笠原諸島の島名」が紹介されています。「小笠原諸島の島名」ですが、これは「小笠原貞頼」の曾孫を自称した「小笠原貞任」という人物に由来するものと考えられています。
もっともその顛末は曰く付きだったようで、貞任は貞頼の小笠原探検の記録とする『巽無人島記』なる書物を提示して小笠原諸島への渡航と領有を主張したものの、『巽無人島記』の内容は亜熱帯の島としては不自然な内容であったため偽書と断定され、貞任は財産を没収されて重追放となってしまいます。この騒動が「無人島ぶにんじま」を「小笠原島」と呼ぶきっかけになったとのこと。

欧米系島民とペリーの来航

無人島ぶにんじま」だった小笠原諸島ですが、19 世紀に入り、小笠原に帰国する捕鯨船が激増します。1830(文政 13)年には「5 人の欧米人を含む約 25 人」が父島に上陸し、農耕や牧畜を始めたのが「小笠原定住の始まり」だったようです。「5 人の欧米人を含む」とありますが、どうやら他はハワイ系住民だったみたいですね。
1853(嘉永 6)年にはマシュー・ペリーの艦隊が父島に来航し、アメリカの「植民政府構成法」を示した上で、小笠原に定住した欧米系島民を「島長官」に任命します。江戸幕府は「小笠原島」の存在を認識していたものの、無人のまま放置した結果、アメリカの「先占」を許してしまったことになりますね。

ジョン万次郎と小笠原

小笠原に欧米系島民が定住し、ペリーが来航していたことを知った幕府は、ようやく小笠原諸島に対するアプローチを開始します。
1861(文久元)年には咸臨丸を父島に派遣。欧米系島民との対話のためにジョン万次郎を帯同していたとのこと。咸臨丸は 6 名の役人を島に残し、また八丈島から 38 人を移住させたものの、移住の僅か 9 ヶ月後に撤退してしまいます。
左が「中濱万次郎」こと「ジョン万次郎」で、実は咸臨丸で父島にやってくるよりも 14 年も前に、捕鯨船「フランクリン号」の船員として小笠原に来航した経験があったとのこと。日本に帰国した後も船員の養成訓練のために小笠原近海に来たこともあり、咸臨丸での父島上陸は万次郎にとって三度目の小笠原訪問だったそうです。
右は咸臨丸で来航して父島に残った「小花作助」という役人で、1863(文久 3)年に一旦引き上げたものの、1875(明治 8)年に再度来航し、1880(明治 13)年まで父島で勤務したとのこと。父島・扇浦の「小花橋」は「小花作助」に由来するのだそうです。

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