2024年8月31日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1164) 「浦幌」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

浦幌(うらほろ)

o-rap-oro?
河口・両翼・その中
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
町名で、同名の川が町内を北から南に流れています。JR 根室本線にも同名の駅があるので、まずは『北海道駅名の起源』(1973) を見ておきましょうか。

  浦 幌(うらほろ)
所在地 (十勝国)十勝郡浦幌町
開 駅 明治36年12月25日(北海道鉄道部)
起 源 アイヌ語の「オラポロ」、すなわち「オラㇷ゚・オロ」(山シャクヤクの根のある所)から出たものである。
(『北海道駅名の起源(昭和48年版)』日本国有鉄道北海道総局 p.126 より引用)
orap は「ヤマシャクヤクの根」で、知里さんの『植物編』(1976) によると長万部幌別では horap芽室名寄では orap とあります(樺太では otakuruhomesu とも言われていたとのこと)。orap-oro で「ヤマシャクヤクの根・のところ」と解釈できそうでしょうか。

川芎せんきゅうの多いところ」説

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Oraporo   オラポロ   川芎多キ處 「オラプオロ」ノ急言、「オラプ」ハ川芎ナリ一説「ウララポロ」ニシテ大霧ノ義
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.299 より引用)
どうやら「駅名の起源」の解は永田地名解を追認したもののようですね。「ウララポロ」という別解も気になるところですが、若干こじつけっぽい印象もあります。

「不明」説(?)

戊午日誌 (1859-1863) 「報十勝誌」には次のように記されていました。

左りの方
     ウラホロブト
是ウラホロ川すじの川口也。当トカチ第六番目の支流。其名義は不解也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.361 より引用)
なんと意外なことに、松浦武四郎のインフォーマントは「ウラホロ」の意味を知らなかったとのこと。

「水源に笹が多い」説

ところが『東蝦夷日誌』(1863-1867) には次のように記されていました。

 ヌタベト (右小川)過てウラポロプト〔浦幌太〕(當川第六支流、川幅八間、遲流)惣て蘆荻原にて深し。
  名義、源に笹多しとの儀。兩岸字小川多し。谷地多く、其源ヤーラ(右)、カハロウ(左)と別れ、ヲンベツと足寄の間に入る也(ウラホロプト〔浦幌太〕ハヲロアイノ申口)。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.292 より引用)
あれれ? ちゃんとインフォーマントの名前まで明記されていますね。

「雨が降ると魚が多く入る」説

更に『午手控』(1858) には次のように記されていました。

○ウラホロ 少し雨降候共水多く出るによって、魚多く入るが故に
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編『松浦武四郎選集 六』北海道出版企画センター p.124 より引用)
これは……? uray-poro で「梁・大きい」説(詳細は後述)の原型……でしょうか?

一旦まとめると

なんとも諸説紛紛ですが、『角川日本地名大辞典』(1987) には次のようにまとめられていました。

地名の由来には,アイヌ語のオラポロ(川草の多い所の意)・ウララポロ(大霧の意)による説(北海道蝦夷語地名解),ウライポロ(大なる網代の意)による説(北海道駅名の起源),ウラポロ(川の源に笹が多いの意)による説(東蝦夷日誌),オーラポロ(川尻に大型の葉の草の生育する所の意)による説(浦幌村五十年沿革史)などがある。
(『角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)』角川書店 p.200 より引用)
……。更に新説が出てきた上に、「駅名の起源」が「ウライポロ」説を唱えていたことになっていました(少なくとも 1954(昭和 29)年版と 1973(昭和 48)年版では「オラポロ」説だったのは前述の通りです)。

「川尻に大形の葉が生育する」説

正確を期すために、「浦幌村五十年沿革史」の記述も引用しておきます。

 浦幌とはオーラポロから起り、オーは川尻、ラは草の葉、ポロは大きいと云う意味で、川尻に大形の葉の草(蕗?)が澤山生育する處から、この名稱となつたものと云われる。
(浦幌村社会教育協会『浦幌村五十年沿革史』浦幌村役場 p.64 より引用)※ 原文ママ

「大きな漁具」説・再び

実は続きもあるようでして……

一説にはウライホロから起きたもので、その意味は大きい網代(竹又は木で編まれた河川魚具)のことであるとも謂われる。
(浦幌村社会教育協会『浦幌村五十年沿革史』浦幌村役場 p.64 より引用)
うーむ。山田秀三さんの『北海道の地名』(1994) によると、「行政区画便覧」にも「大なる網代」とあるらしいのですが、ここでも uray-poro 説が出てくるんですね。

表にまとめると

折角なので表にまとめておきましょうか(開き直った)。川としての「浦幌川」と、「浦幌川河口」を意味する「ウラホロブト」が混ざっていますが、そのままにしています。

元となった
アイヌ語地名
由来
午手控 (1858)ウラホロ少し雨降候共水多く出るによって、
魚多く入るが故に
戊午日誌 (1859-1863)ウラホロブト其名義は不解也
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)ウラホロフト※ 浦幌川河口部の地名
東蝦夷日誌 (1863-1867)ウラポロプト名義、源に笹多しとの儀
改正北海道全図 (1887)浦幌川※ 漢字表記が確立
永田地名解 (1891)オラポロ川芎多キ處
ウララポロ大霧
北海道実測切図 (1895 頃)オラポロ川※ 地名は「浦幌」
陸軍図 (1925 頃)浦幌川
浦幌村五十年沿革史 (1949)オーラポロ川尻に大型の葉の草の生育する所
ウライホロ大きい網代
北海道駅名の起源 (1973) (1950 以前?)ウライポロ大なる網代
北海道駅名の起源 (1973) (1954)オラプ・オロ山シャクヤクの根のある所

半ばヤケクソ気味に表にしてみたのですが、興味深い点が見えてきました。現在主流となっている「ヤマシャクヤクの根のあるところ」という解は『永田地名解』を受けて『北海道駅名の起源』が確立させたと見られるのですが、その間に刊行されている『浦幌村五十年沿革史』では無視されているのですね。

つまり、地元では「ヤマシャクヤクの多いところ」とは認識されていなった可能性が出てきます。これは「ヤマシャクヤク」説に対する重大な疑義となるのでは……と。

「河口が両翼の中」説

個人的な印象ですが、orap-oro で「ヤマシャクヤクの根・のところ」ではなく、また uray-poro で「漁具・大きい」というのもこじつけ感が強く感じられます。

既存の解を捨ててイチから考えてみたならば、u-rap-oro で「互いに・降りる・ところ」か、あるいは o-rap-oro で「河口・両翼・その中」あたりの可能性がありそうに思えます。

「互いに・降りる・ところ」は、浦幌川と西隣を流れる「下頃辺川」をそう表現したもので、「河口・翼・その中」は浦幌川の左右に「岬」状の山があることを表現したものです(支笏湖畔の「モラップ」に近いのではないかと)。

ぶっちゃけると u-rap-oro よりも o-rap-oro 推しなんですが、永田地名解以前の解が軒並み「ウ──」なのがちょっと引っかかるところです。

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2024年8月30日金曜日

父島さんぽ (6) 「小笠原ビジターセンター」

「大神山公園」の隣にある「小笠原ビジターセンター」にやってきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

建物は「小笠原世界遺産センター」よりちょっとだけ大きいでしょうか。

2024年8月29日木曜日

父島さんぽ (5) 「行幸記念碑」

小笠原村役場の前の横断歩道で「湾岸通り」を渡って、大村海岸の傍にある「大神山公園」にやってきました。
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行幸記念碑

おや、「行幸啓記念」との文字が入った石碑が立っていますね(形状からは「置かれている」という表現のほうがしっくり来るかもしれませんが)。

2024年8月28日水曜日

父島さんぽ (4) 「官公庁通り」

「小笠原世界遺産センター」を後にして、再び近場を散歩します。南国情緒豊かな木々の中に、純日本的な「止まれ」の標識が。
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車がたくさん並ぶ駐車場にやってきました。「駐車場ご利用のお願い」が出ていますが、この駐車場は小笠原村役場の駐車場とのこと。小笠原は「品川」ナンバーなんですね。

2024年8月27日火曜日

父島さんぽ (3) 「『楽園』を守るための取り組み」

「小笠原世界遺産センター」の話題を続けます。日本の「世界自然遺産」は「白神山地」と「屋久島」が最初に登録され、その後 2005 年に「知床」が、そして 2011 年に「小笠原諸島」が登録されています。
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「展示スペース」の奥にはテレビと演台の置かれたスペースがあります。「会議室」となっていますが、ちょっとしたセミナールームっぽい構造ですね。

2024年8月26日月曜日

父島さんぽ (2) 「小笠原世界遺産センター」

小雨がパラついてきたので部屋に傘を取りに戻って再び散歩を始めたのですが、ふと左手を見てみると、そこには「小笠原世界遺産センター」の文字が。
ここはいずれ立ち寄るつもりで、宿からそれほど遠くないところにあるという認識はあったのですが、それは大きな認識違いでした。「それほど遠くない」どころか「目と鼻の先」だったのですね(宿から 110 m ほど)。これも何かの縁でしょう。ささっと見学することにしました。

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おや……? 入口の手前に何か落ちている……?

2024年8月25日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1163) 「生剛・愛牛・統太」

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生剛(せいごう)

o-pet-ka-us-i
尻・川・岸・つけている・もの
(記録あり、類型あり)
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浦幌川の東側の地名です。『北海道実測切図』(1895 頃) には「生剛」とあり、その下に「オペッカウシ」と描かれています(どちらも右から)。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にも「ヲヘツカウシ」と描かれています。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Opetka ushi   オペッカウシ   川岸 生剛村オベカウシノ原名
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.299 より引用)
どうやら「生剛」を「オベカウシ」と読ませていた……読ませようとした……みたいですが、やはり無理があったのか、結局は音読みの「せいごう」に落ち着いた、ということのようです。

この「オペッカウシ」は道内各地で見られる地名で、『地名アイヌ語小辞典』(1956) にも次のように立項されていました。

o-pet-ka-us-i オぺッカウシ 川岸が高い岡になって続いている所。[o(尻,陰部)pet(川)ka(上,=岸)usi(につけている)-i(者),──尻(陰部)を川岸に突き出している者]
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.78 より引用)
o-pet-ka-us-i で「尻・川・岸・つけている・もの」ですが、この場合の「尻」は河口ではなく山のことです。

現在の浦幌町生剛は旧浦幌川と浦幌川の間の平地で、とても山裾が川に迫っているようには思えないのですが、本来の「オペッカウシ」は国道 336 号「浦幌道路」の「浦幌大橋」の北、「展望台」という名前の四等三角点(標高 27.9 m)のあたりの地名でした。なるほど、展望台になるくらい山が川に迫った場所の地名だったとすれば、「オペッカウシ」というネーミングにも納得できますね。

愛牛(あいうし)

{ay-us-ni}-us-i
{センノキ}・多くある・ところ
(記録あり、類型あり)

2024年8月24日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1162) 「十勝静内川・カタサルベツ川・セイヨシズナイ川」

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十勝静内川(とかちしずない──)

sat-nay?
乾いた・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
かつては十勝川の本流と目されていた「浦幌十勝川」と「浦幌川」が合流するすぐ手前で、浦幌川に合流する北支流です。旧国名の「十勝」を冠しているのは、日高に「静内川」があるからなのでしょうね。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) では、何故か現在の「浦幌十勝川」の南、ちょうど河口近くの中洲のあたりに「シチ子イ」と描かれています。ただ戊午日誌 (1859-1863) 「報十勝誌」や『北海道実測切図』(1895 頃) では、いずれも「ウラホロブト」と「オペッカウシ」の間に「シチ子イ」あるいは「シツナイ」とあるので、「東西蝦夷──」が奇妙な位置に「シチ子イ」と描いているのは一旦無視して良さそうに思えます。

「山の間の川」説

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Shittunei   シット゚ネイ   兩山ノ間
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.299 より引用)
「シットゥネイ」をどう読めば「両山の間」になるのかが釈然としませんが、あるいは sir-utun-nay で「山・間・川」あたりでしょうか。

「山の裾の川」説

山田秀三さんは、永田地名解を受けて次のように記していました。

あるいはシュッ・ナイ(shut-nai 山の裾の・川)ぐらいの名から出たものかもしれない。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.289 より引用)
これだと「シチ(子)イ」や「シットゥネイ」と異なり、「チ」あるいは「トゥ」の音が見当たらなくなるのでどうかなぁと思ったのですが、1914(大正 3)年に刊行された「十勝地名解」にも次のように記されていました。

シヅナイ・ブト
 「シュツ・ナイ」なるべし。山の麓を流るる川との意なり。
(井上寿「十勝アイヌ語地名解」十勝地方史研究所 p.84 より引用)
見事に一致していますね(山田さんが「十勝地名解」に目を通していた可能性もありそうですが)。

「ブドウの多い川」説

もっとも「十勝地名解」には続きもあり……

あるいは「シ・フッチ・ナイ」なれば、大祖母沢との義となり。「フッチナイ」の転化とすれば、すなわち祖母沢となり。「シュト・ナイ」よりきたれる称とすれば、葡萄(ぶどう)多き沢との義となるなり。「ブト」とは小川の大川に注ぐ沿岸の地をいう。
(井上寿「十勝アイヌ語地名解」十勝地方史研究所 p.84 より引用)
「ぶどう多き沢」というのは少々謎ですが、萱野茂さんの辞書には sutu-kap で「ブドウづるの皮」とあり、sutu-ker だと「ブドウづるの皮で作った靴」とあるので、sutu で「ブドウづる」を意味した可能性もありそうです。

「干上がる川」説

ただ、戊午日誌「報十勝誌」には次のように記されていました。

扨ウラホロフトよりして十丁計も下るや、遅流にして両岸蘆荻欝叢たる中に
     シチ子イ
(左)のかた小川也。其名義は少し天気つゞくや干上るが故に号るとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.369 より引用)
あ……。sat-nay で「乾いた・川」では無いかと言うのですが、そうか、そういう解釈もアリかもしれませんね。「サ」が「シ」に化けるというのはレアケースかもしれませんが、少なくとも松浦武四郎はそう聞き取ったということで……。

陸軍図では、浦幌川(=旧浦幌川)の北と静内川(=十勝静内川)の流域が大きな湿地帯として描かれています。となると「乾いている」というのは少々解せない感じもしますが、雨が降ると湿地になるものの、すぐに干上がるような土地だった可能性もあるかもしれません。あるいは川が伏流しやすく、それを「乾いた」と表現した可能性もあるのかも……?

カタサルベツ川

ka-ta-sar-pet??
上・にある・葭原・川
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)

2024年8月23日金曜日

父島さんぽ (1) 「聖ジョージ教会」

父島での初日の午後はフリータイムになったので、少し歩いてみることにしました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

本来は、Day 2(=父島での初日)の午後は「おがまるパック・父島観光オプション」の「バス半日観光」だったのですが、担当される方の体調不良でキャンセルになってしまったんでした。フリータイムが降って湧いたことになりますが、せっかくなので有意義に活用したいですね。

2024年8月22日木曜日

小笠原の旅 2024/春 (2) 「まずはお宿へ」

「おがさわら丸」から下船して、迎えに来てくださった宿泊施設の方と合流しました。二見港からは宿泊施設の車で移動です。
人数が多いため、送迎はこのハイエースと、普通乗用車に分かれての移動です。

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待合室のすぐ傍にある駐車場から出発します(人の気配が少ないですが、これは後で撮り直したからです)。

2024年8月21日水曜日

小笠原海運「おがさわら丸」特 2 等寝台 乗船記(下船!編)

「おがさわら丸」が父島・二見港に入港する 1 時間ほど前に、ちょいと部屋を出てみたところ……
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「等級別下船ご案内中」という紙のついたポールが立っていました(いつの間に……)。乗船の際も 7 デッキから 6 デッキ、5 デッキと順になっていましたが、あれは等級別だったのですね。

2024年8月20日火曜日

小笠原海運「おがさわら丸」特 2 等寝台 乗船記(朝食編)

「おがさわら丸」の船内で新しい朝を迎えました。船はいつの間にか父島・二見港まで約 170 km の位置に移動していました。いつも思うことですが、フェリーって寝ている間にめちゃくちゃ移動していて、どんなチートを使ったんだ!?と頓珍漢な感想を抱かせるんですよね。
改めて言うまでもなく、船客が寝ている間にも夜間担当の船員さんの操舵により着実に前へ進んでいるからなんですが……(ありがとうございます!)。前夜の消灯が 22 時なので、9 時間ほど経ったことになりますが、その間にベヨネーズ列岩や須美寿島、鳥島の沖合を通過していたことになります。

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レストラン「Chichi-jima」は朝の 7 時から朝食営業中です。そろそろ 8 時になるので、朝食をいただくことにしましょう。

2024年8月19日月曜日

小笠原海運「おがさわら丸」特 2 等寝台 乗船記(夕食編)

11 時に竹芝桟橋を出発した「おがさわら丸」は、順調に南下を続けて、いつしか携帯電話の圏外に出ていました。低気圧の通過に伴い海は荒れ模様で、外部デッキが閉鎖されてしまいました。「レベル 0」から「レベル 1」に上がった……ということになりますね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

昼食を食べた後は、特 2 等寝台でテレビを見ながらのんびりと寛いでいました。実は船内で行けていないところもあるのですが、カメラと PC を担いで船内を移動するのが億劫で……(汗)。復路では「完全版」の乗船記をお届けできる筈なので、暫く……お待ちいただければと。

2024年8月18日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1161) 「ヌタペツト・トイトツキ・ウツナイ(打内)」

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(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ヌタペツト

nutap-etu?
川の湾曲内の土地・鼻(岬)
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
浦幌十勝太の南西、国道 336 号(浦幌道路)の「浦幌大橋」の南あたりの地名です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には川(=浦幌十勝川)沿いに「ヌタベト」(「ヌタベヽト」かも)と描かれています。

もともとは「ヌタペットー」という大きな沼があったのですが、浦幌十勝川との接続が断たれたからか、現在はほぼ干上がってしまったようです。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Nutap pet   ヌタプ ペッ   曲川
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.299 より引用)
どうやら nutap-pet で「川の湾曲内の土地・川」ではないかとのこと。nutap は「──土地」なので、その後に -pet(川)が続くのはちょっと妙な気もするのですが……。

重大な疑義

戊午日誌 (1859-1863) 「報十勝誌」には次のように記されていました。

またしばし過て針位巳午巳辰卯寅と転じて
     ヌタベト
右のかた小川。其名義はのた(ノタプ)計の処なるが故に号る也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.360 より引用)
松浦武四郎はしれっと「のた」というアイヌ語の単語(= nutap のこと)を記してくるので油断なりませんね。「右のかた小川」とありますが、これは浦幌十勝川を川下りした時の記録と思われるので、「河口に向かって右側」と見て良いかと思われます。

ただこの記録には重大な疑義があります。「報十勝誌」にピックアップされた地名を表にまとめてみましょう。

報十勝誌北海道実測切図 (1895 頃) 陸軍図地理院地図
タフコライタㇷ゚コライ(旅来旅来タビコライ旅来
ヘツチヤラペッチャロ(鼈奴)鼈奴ベッチャロ-
ホーヌイポンヌイ--
アシ子シユムアイウㇱュニウシ(愛牛愛牛愛牛
クツタラ (*1)クッタラ (*1)--
ヌタベトピリシトー-三日月沼 (*2)
ウラホロブトオラポロプト浦幌太朝日
シチ子イシツナイ静内十勝静内川
ヲヘツコウシオペッカウシ(生剛--
-ヌタペットー- (*3)- (*3)
ヘツモシリ (*4)- (*4)--
渡し場十勝十勝太十勝太
*1 報十勝誌には「右の方小川有」とあるが、北海道実測切図には川の北側(=左のかた)に描かれている
*2 陸軍図には大津川(=十勝川)の河跡湖として「三日月沼」が描かれていて、地理院地図の「三日月沼」とは位置が異なる(但し「三日月湖」という一般名詞もあるため、「三日月沼」は必ずしも移転地名とは言えない)
*3 陸軍図には沼が描かれているが、地理院地図では大半が湿地として描かれている
*4 東西蝦夷山川地理取調図と北海道実測切図には河口付近に中洲が描かれているが、陸軍図では小さな河跡湖が描かれていて、既に中洲とは呼べない状態だったと思われる


これを見てわかる通り、戊午日誌「報十勝誌」が記録する「ヌタベト」と『北海道実測切図』の「ヌタペットー」は位置が全く異なるのですね。もちろん松浦武四郎が順番を間違えて記録した可能性もゼロではないのですが……。

「報十勝誌」の更なる疑義

戊午日誌「報十勝誌」には更に見過ごせないことが記されていました。「針位巳午巳辰卯寅と転じて」とあるのですが、これを現代風に書き直すと「南南西・南西・西北西」となるように思われるのですね。旅来から十勝太に向かって舟行したのであれば、明らかに方向がおかしいのです。

ただ、現在の「三日月沼」が浦幌十勝川の河跡湖で、松浦武四郎が舟行した際は「河跡湖」ではなく現役の川だったと仮定すると、「南南西・南西・西北西」に向かうタイミングがあったとしても不思議ではありません。その場合、そこには巨大は nutap(川の湾曲内の土地)があったことになりますし、nutap の先端を nutap-etu で「川の湾曲内の土地・鼻(岬)」と呼んだのではないか……と考えてみました。

もっとも、これだと「報十勝誌」に「右のかた小川」とあるのがおかしなことになるのですが……。たまたま nutap の右側に川が流れていた、ということでしょうか……?

トイトツキ

to-etok
沼・奥
(記録あり、類型あり)

2024年8月17日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1160) 「十勝太・チヤロ・ラヱベツブト」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

十勝太(とかちぶと)

tokapchi-putu
十勝川・河口
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
昆布刈石の南西、「浦幌十勝川」の河口付近の地名です。かつて海沿いの高台に「十勝太ロラン送信所」が存在していたことで密かに有名だったかもしれません。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には、河口付近に「トカチフト」と描かれていました。『北海道実測切図』(1895 頃) では「十勝太」ではなく「十勝」と描かれていて、河口には「十勝川」と描かれています。

『北海道実測切図』では現在の「十勝川」の位置に「大津川」とありますが、支流扱いだった「大津川」が河川改修の結果で本流と目されることになり、旧来の「十勝川」が「浦幌十勝川」と呼ばれるようになった、ということのようです。

「十勝太」という地名は tokapchi-putu で「十勝川・河口」と解釈できます。「十勝川」の河口は 5 km ほど南西に移動してしまいましたが、「十勝太」という地名がかつての河口の存在を今に伝えている……ということになりそうですね。

チヤロ

charo???
その入口
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)

2024年8月16日金曜日

小笠原海運「おがさわら丸」特 2 等寝台 乗船記(レストラン出口編)

日に日にサブタイトルがニッチな感じになってきましたが……(汗)。レストラン「Chichi-jima」の出口と乗降口のある「エントランス」の間の廊下に、パネルと写真が掲示されていました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

左舷側(レストラン出口から見て右側)にも写真が並んでいます。

2024年8月15日木曜日

小笠原海運「おがさわら丸」特 2 等寝台 乗船記(昼食編)

小笠原村観光局が発行する情報紙「Smart Voyage」には「出港から 3 時間は東京湾観光を」とあります。竹芝桟橋を 11 時に出発して、館山の沖合を 14 時頃に通過するので、その間が東京湾の観光タイムということになります。

「Smart Voyage」には「船内レストランは 14 時までの営業」とありますが、日によって違いがあるかもしれません(この日は 13:30 までの営業でした)。要は営業時間内に昼食も済ませておく必要があるのですが、この日は生憎の荒天だったので、ささっと昼食を済ませることにしました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

レストラン「Chichi-jima」は 4 デッキの前方にあります。船の前方にレストランがあるというのは、割と珍しいような感じも。

2024年8月14日水曜日

小笠原海運「おがさわら丸」特 2 等寝台 乗船記(続・船内うろうろ編)

「船内うろうろ」を続けます。冷蔵ロッカーの横の通路には、車椅子対応の「2 等和室・エコノミー」があり、その先には「レストラン Chichi-jima」があります。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ちなみに「レストラン Chichi-jima」は入口と出口が分かれていて、こちらは出口側から見たものです。

2024年8月13日火曜日

小笠原海運「おがさわら丸」特 2 等寝台 乗船記(船内うろうろ編)

「おがさわら丸」の船内を歩いてみましょう。5 デッキの乗降口(干潮などで水面が下がらない限り使用されることは無い筈)の横には椅子が置かれた談話室のようなスペースになっていました。
よく見てみると椅子のデザインもバラバラですし、船内案内にも記載がありません。注意書きらしきものが貼られていますが、そこには「ペットを連れての入室はご遠慮ください」とのこと。やや斜め上の内容でしたね……。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

向かい側の階段の脇にはデッキプランが表示されていますが……

2024年8月12日月曜日

北海道のアイヌ語地名 (1159) 「チプネオコッペ川・オコッぺ沢川・昆布刈石」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

チプネオコッペ川

chip-ne-o-u-kot-pe?
丸木舟・のような・河口・互いに・くっついている・もの(川)
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
厚内の南西、オニオップ川から更に南西に進んだところを流れる川です。この川の北東側の住所は「浦幌町字チプネオコツペ」です(南西側は「字オコツペ」)。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヲニヨフ」(=オニオップ川)と「ヲコツベ」(オコッペ沢川)の間に「ホロヲコツヘ」という川が描かれています。『北海道実測切図』(1895 頃) には「チプ子オウコッペ」と描かれているので、「ホロヲコツヘ」=「チプ子オウコッペ」と理解して良さそうでしょうか。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Oukotpe     オウコッペ     合川
Poro oukotpe  ポロ オウコッペ  合流ノ大川
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.296 より引用)
意外なことに「チプ子オウコッペ」ではなく「ポロ オウコッペ」と記されています。『北海道実測切図』と『永田地名解』は刊行年次が近いこともあり内容が一致していることが多いのですが、珍しく異同がありますね。

『初航蝦夷日誌』(1850) には次のように記されていました。

     ヲコツペ
小川有。訳而一はねと云議なるか。此処昼休小屋有。又夷人小屋、番屋有。此処より先ニ少しの砂岬少し有る也。上の方を越而小川。巾五間
松浦武四郎・著 吉田武三・校註『三航蝦夷日誌 上巻』吉川弘文館 p.361 より引用)
また『東蝦夷日誌』(1863-1867) にも次のように記されています。

ヲコツペツ(小休所、小川)、ヲコツペノツ(岬)、是も風雨の時は山の上を通るなり。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.293 より引用)
注目すべきは、どちらも「岬」の存在を記しているところです。特に『初航蝦夷日誌』には「砂岬」と明記されていますが、現在の地形図ではそれらしきものが見当たりません。

ただ陸軍図では、「オコッペ澤」(=オコッペ沢川)の河口部が北東に向きを変えていて、南東側から北東に向かって砂州が伸びているように描かれています。肝心の「チプネオコッペ川」に相当する川の河口は東に向きを変えていて、三角形の砂浜ができていました。

かつて河口はくっついていた?

「オコッペ」は o-u-kot-pe で「河口・互いに・くっついている・もの(川)」と考えられます。そして「チプネオコッペ川」と「オコッペ沢川」が並んでいるということは、この二つの河川が河口で合流して海に注いでいたと見るのが自然です。

現在の両河川はそれぞれ独立して海に注いでいるので、両者が合流していたことを証明するのは難しいのですが、辛うじて「オコッペ沢川」の河口が北東に捻じ曲げられていたことが傍証として挙げられそうです。

「チプネオコッペ川」の河口が(陸軍図とは逆に)南西を向いていて、「オコッペ沢川」と合流していたとすれば、チプネオコッペ川の河口部には相当に細長い砂州ができていたことが想像されます。この砂州が「丸木舟のよう」に細長かったので chip-ne-o-u-kot-pe で「丸木舟・のような・河口・互いに・くっついている・もの(川)」と呼んだ……あたりでしょうか。

オコッぺ沢川

o-u-kot-pe
河口・互いに・くっついている・もの(川)
(記録あり、類型あり)

2024年8月11日日曜日

「日本奥地紀行」を読む (166) 碇ヶ関(平川市)~黒石(黒石市) (1878/8/3(土))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日からは、普及版の「第二十九信」(初版では「第三十四信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

希望を延期

8/1(木) の時点で「朝には出発することになっている」と記していたイザベラですが……

 結局のところ、川は思ったほど減水しなかったので、碇ガ関で四日目を過ごさなければならなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.317 より引用)
まぁ、こんなものですよね。旅の成否もお天気任せというのは優雅にすら感じられますが、当事者にとっては堪ったものでは無いですよね。

私たちは士曜日の朝早く出発した。その日は休息せずに一五マイルを旅せねばならないからである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.317 より引用)
この日のイザベラの目的地は黒石で、碇ヶ関から黒石までは約 24 km(15 マイル)なので、実に正確な地理認識ですね。平均 3 km/h で移動すれば 8 時間の道のりですが、不測の事態で足止めを喰らうことも予想できるので、朝早く出発するのが正解なんでしょうね。

太陽はこの美しい地方全体に、あらゆる残骸や破壊物の上に輝いていた。海上で嵐が過ぎた次の日に、さざ波の上に日がよく照るのと似ている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.317 より引用)
凄まじい災害の後に煌々と陽が照りつける……我々もこれまで何度も目にした光景ですね。茫然自失の人々を照らす太陽は、憎々しいまでに眩しく感じられるものですが、実際に空気中の塵や埃を洗い流しているでしょうから、日光が眩しいのも当然といえば当然かも……(汗)。

四人の男を雇って、橋が流されてしまった川を二つ歩いて渡ったが、困難な浅瀬で、私も荷物もひどく濡れた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.317 より引用)
そう言えば、碇ヶ関の橋もイザベラの眼の前で破壊されていたんでしたね。「橋が無いなら馬で渡ればいいじゃない」と言いたくなりますが、そう都合よく馬を確保することはできなかった……ということでしょうか。

すると突然に、大きな平野に出た。そこには緑色の稲の波が、快い北風に吹かれ、日光を浴びながら遠くまで続いていた。この平野には森のある村が数多く散在し、山々にかこまれている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.317 より引用)
これは大鰐町を抜けて、東北道の「大鰐弘前 IC」のあたりにやってきた……ということでしょうか。

一つの低い山脈は岩木山イワキ サンの麓を幕のように隠していた。岩木山は雪の縞をつけた大きな円頂ドームで、平野の西方に聳え立ち、五〇〇〇フィートの高さがあると考えられている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.317 より引用)
5000 ft は約 1,524 m とのこと。実際には岩木山の標高は 1,625 m なので、約 5,331 ft だったことになりますね。イザベラの言う「一つの低い山脈」というのが何を指していたのかは不明ですが、大鰐町と弘前市の境界にある「尾開山」の尾根のことでしょうか……?

洪水の影響

長雨が齎した増水の結果、橋が崩壊し堤防が決壊して田畑が水に浸かっただけではなく、集落まで水が押し寄せる結果となったわけですが……

たいていの村では四フィートの高さまで浸水し、土壁の下の部分は流されてしまった。人々は忙しそうに畳や蒲団、着物を干したり、土手や小橋を作り直したり、今なお大量に流れてくる材木を引き上げようとしていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.318 より引用)
どうやら「茫然自失」の時期は既に終わっていて、半ば開き直った形で復旧作業に乗り出していたようです。

警察の活動

この日のゴールである黒石に向かって全力で北上中のイザベラでしたが、やはり邪魔の手が入ることもあったようで……。

 ある町で、二人の見すぼらしい身なりの警官がこちらに駆けてきて、私の馬の手綱を掴まえ、群衆の中で私を長い間待たせておいた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.318 より引用)
イザベラの言う「ある町」は平賀ひらか町(現・平川市)か尾上おのえ町(現・平川市)あたりでしょうか。ただ古い地図を見ると藏舘村・大鰐村(=大鰐町)・柏木町村などの村があるため、具体的にどの村だったかを把握することは難しそうです。

その間に彼らは、私の旅券を、穴があくほど一生懸命に見ていた。それをひっくり返して見たり、明るいところにもって行ってみたり、旅券の中に何か不都合なことが隠されているかのようであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.318 より引用)
パスポートが偽造されたものではないかチェックしようとしていた……のかもしれませんが、そもそもこれまでパスポートを見たことがあったのか、というところから疑ってかかるべきかもしれません。微笑ましいと言えばそれまでですが、イザベラにとってはいい迷惑ですよね……。

イザベラは馬を確保していたようですが、躓くことが多かったため、落馬を恐れた(実際に数日前に落馬していた)イザベラは結局歩く羽目になっていたとのこと。ところが、疲労困憊となっていたイザベラの元に一筋の光明が射し込みます。

私の元気も尽きはてようとしたとき、人力車がやってきた。車夫は車をうまく操縦して《こういうことはときどきあるが》、黒石クロイシまで運んでくれた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.318 より引用)
「こういうことはときどきあるが」という一文の付け加え方が面白いのですが、原文では次のようになっていました。

we met a kuruma, which by good management, such as being carried occasionally,
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
なるほど、二重山括弧で括ったのは高梨謙吉さんのセンスだったのですね。

またしても《こういうことはときどきあるが》まるで TV のドキュメンタリー番組の仕込みのような幸運を手にしたイザベラは、無事黒石に到着することができました。

これは人口五千五百の清潔な町で、下駄や櫛の製造で有名である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.318 より引用)
流しの?人力車を掴まえてすいすい~と黒石に入ったイザベラですが、そのことがプラスに働いたか、黒石の印象はとても良いものだったようです。

私はこの町で、とてもきれいさっぱりして風通しのよい二階の部屋に案内された。あたり一帯の景色もよく見えるが、隣の家の人たちがその奥の部屋や庭園で仕事をしている様子も見えた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.318 より引用)
ただ、ここまで好意的な文章が並ぶということは……実際に小綺麗な町だったのかもしれませんね。ちょっと謎なのが水害に関する記述が見当たらないことですが、黒石を流れる「浅瀬石川」のあたりは無事だったのでしょうか?

青森まで直行せずに、ここで三日二晩滞在している。天候も回復し、私の部屋もすばらしく気持ちがよいので、この休息はたいそう愉快である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.318 より引用)
どうやら本当に居心地が良かったらしく、イザベラは黒石で二泊したみたいですね。「天候も回復し」とあるので、急ぐこともできたように見受けられますが、その誘惑を切り捨ててまで一泊余計に滞在したのは、体力的なものもあったのかもしれませんが……。

以前にも書いたことだが、数マイル先の情報を得ることは難しい。郵便局へ行っても、二〇マイル離れた青森と函館ハコダテの間の郵便船の航行の日程について、どんなニュースも入らない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.318 より引用)
なるほど、情報整理の目的もあったのかもしれませんね。もっとも青森と函館の間の船の情報を黒石で入手しようというのは無理がありそうな気もします。碇ヶ関と大鰐の間の橋が落ちた!という情報は速やかに碇ヶ関に届いたものの、街道筋の情報と海峡を結ぶ船の情報は、やはり緊急度が違うということなのでしょう。

 警察は私の旅券を見ただけで満足せずに、実際に私に会わなければいけないらしく、四人の警官が私の到着した晩にやって来て、鄭重ではあったが私を検問した。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.319 より引用)
これも毎度おなじみの話ですが、鄭重だっただけラッキーでしょうか。

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2024年8月10日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1158) 「シイアップナイ川・ナシピナイ川・オニオップ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

シイアップナイ川

si-{apa-un-nay}
本当の・{厚内川}
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
JR 根室本線の厚内駅と上厚内信号場(2017 年に駅としては廃止されて信号場に)の間で厚内川に合流する北支流です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川が見当たりませんが、『北海道実測切図』(1895 頃) には「シーアㇷ゚ナイ」と描かれていました。si-{apa-un-nay} で「主たる・{厚内川}」と考えられそうでしょうか。

ただ、「シイアップナイ川」と「厚内川」ではどちらが川の規模として大きいか、ちょっとびみょうなところがあります(地形図では、どちらの流域が広いとか、どちらが長いとか、ひと目で判断できない感じです)。厚内川のほうがより上流側まで広い谷が伸びているように見えるので、そのことを以て厚内川を「本流」と考えたくなる気持ちもあるのですが……。

主たる? 本当の?

前回の記事で、シイアップナイ川が厚内川に合流するあたりに尾根が「戸」のように伸びていて、下流部から上流部を窺うことができないために apa-un-nay ではないか、との仮説を記しました。

この「尾根によって上流部が遮られる」川という意味では、「厚内川」よりも「シイアップナイ川」のほうがより適切だと思われるのですね(「シイアップナイ川」のほうがより遮られるので)。

地名アイヌ語小辞典』(1956) には次のように記されていました。

si- シ ①真の;本当の。~-chupka 真東。~-chuppok 真西。②大きな。~-apka 大雄鹿。~-suma 大石。③onne や poro と同じく,地名の中では二つのものが並んで存在するばあい,大きい方を親と考えてそれに si- をつけ,小さい方を子と考えてそれに mo- をつける。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.119 より引用)
これまで si- は「主たる」としてきましたが、今回は「本当の」(=より特質が適合する)としたほうが良さそうに思えてきました。si-{apa-un-nay} で「本当の・{厚内川}」、即ち「本当の・戸・ある・川」なんじゃないかなぁと。「厚内川以上に厚内川らしい川」とも言えるかもしれません。

ナシピナイ川

sat-pi-nay???
乾いた・小石・川
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)

2024年8月9日金曜日

小笠原海運「おがさわら丸」特 2 等寝台 乗船記(通路編)

特 2 等寝台・プレミアムベッドの前の通路で船首方向(エントランス方向)を望みます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

通路の左側に「手荷物置場」と書かれたドアが見えます。

2024年8月8日木曜日

小笠原海運「おがさわら丸」特 2 等寝台 乗船記(テレビ編)

「特 2 等寝台」の話題をもう少しだけ続けます。これはちょうど枕のあるあたりですが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

枕元(と言っても頭が当たらないであろう場所)には電源コンセントのついた照明があり……

2024年8月7日水曜日

小笠原海運「おがさわら丸」特 2 等寝台 乗船記(特 2 等寝台編)

「おがさわら丸」は 6 グレードの船室があり、「特 2 等寝台・プレミアムベッド」は「2 等寝台・エコノミーベッド」の上に位置するグレードです。

特等室・スイート
特 1 等室・デラックス
1 等室・スタンダード
特 2 等寝台・プレミアムベッド
2 等寝台・エコノミーベッド
2 等和室・エコノミー

わざわざ表にする必要は無かったような気も……。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

部屋番号を記したプレートには「オガサワラシジミ」のイラストが。小笠原諸島の固有種ですが、絶滅危惧種で、2018 年以来生息が確認されていないとのこと……。

2024年8月6日火曜日

小笠原海運「おがさわら丸」特 2 等寝台 乗船記(出航編)

出航時間が近づいたので、乗降口のドアは閉じられてしまいました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「おがさわら丸」は 6 デッキと 7 デッキの外周、そして 8 デッキが「外部デッキ」です。とりあえず上層階に上がってみることにしましょう。

2024年8月5日月曜日

小笠原海運「おがさわら丸」特 2 等寝台 乗船記(エントランス編)

10:15 頃に、ついに「おがさわら丸」の船内に入りました!
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

まずは「特 2 等寝台」へ

まずはささっと 5 デッキの船室に向かいます。この部屋がこれからの 24 時間の大半を過ごす場所です。

2024年8月4日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1157) 「オタフンベ・乙部川・厚内」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

オタフンベ

ota-humpe
砂浜・鯨
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
JR 根室本線は直別(信号場)と上厚内(信号場)の間で海沿いを迂回していますが、直別から見て海沿いに出る直前のあたりの地名です。地理院地図には「オタフンベチャシ跡」という史跡が記入されています。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい地名が描かれていませんが、『北海道実測切図』(1895 頃) には「オタフンペ」と描かれていました。

改めて両方の図を眺めてみると、「東西蝦夷──」は「乙部川」の位置に「ヲトンベ」と描かれていて、「オタフンベチャシ跡」の東側に「ホンヲトンベ」と描かれています。……これは表の出番ですね。

大日本沿海輿地図 (1821)モヲトンヘツ
初航蝦夷日誌 (1850)ヲトンベ-
竹四郎廻浦日記 (1856)ヲトンヘ-
午手控 (1858)ヲトンヘ-
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)ヲトンベホンヲトンベ
東蝦夷日誌 (1863-1867)-ホンヲトンベ
改正北海道全図 (1887)トンペ川-
永田地名解 (1891)オタ フンベ-
北海道実測切図 (1895 頃)オタフンペポンオタフンペ
陸軍図 (1925 頃)--
地理院地図∴オタフンベチャシ跡

あー。「オタフンベ」と「乙部おとべ」の音が似通っているのは気になっていたのですが、これを見る限り「乙部」=「オタフンベ」と捉えて間違い無さそうですね。

更科さんの『アイヌ語地名解』(1982) には次のように記されていました。

アイヌ語で砂鯨の意、砂丘がこんもりと鯨のようにもりあがったところで、太平洋岸やオホーツク海岸に多い地名。
(更科源蔵『更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解』みやま書房 p.242 より引用)
ota-humpe で「砂浜・鯨」ということですね。この ota-humpe は『地名アイヌ語小辞典』(1956) にも立項されていました。

ota-humpe オたフㇺペ 砂浜に突出ているクジラの形をした小山。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.83 より引用)
どうやら現在「オタフンベチャシ跡」とされる山が、あたかも砂浜に突き出たような形をしています。この山を「オタフンベ」と呼んだ、ということになりそうですね。

過去の記録を見る限り、永田地名解以前には「オタフンベ」が皆無なのが気になりますが、早口で発音していて、いつしか ta-huto に聞こえるようになり、その形で口承された……ということかもしれません。そう考えると永田方正はいい仕事をしたのかもしれませんね。

乙部川(おとべ──)

ota-humpe?
砂浜・鯨
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2024年8月3日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1156) 「サルサルベツ川・ルベシベツ川・スワンナイ沢川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

サルサルベツ川

sar-sara-un-pe?
葭原・しっぽ・そこに入る・もの(川)
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
十勝郡浦幌町と釧路音別町の境界を流れる直別川の、河口の近くで西から合流する川です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川が見当たりませんが、『北海道実測切図』(1895 頃) には「サルサランペ」という川が描かれていました。

直別川の東側を流れる「キナシベツ川」の下流部には湿地が広がっていますが、かつてこの湿地は直別川やサルサルベツ川の下流部にも広がっていました。「サルサルベツ」のどちらかの「サル」は、sar で「葭原」だった可能性がありそうです。

sar は「葭原」ですが、それとは別に sara で「しっぽ」を意味するとのこと。sar-sara-un-pe で「葭原・しっぽ・そこに入る・もの(川)」と解釈できないでしょうか。

一般的には sar-pa で「葭原・かみ」となることが多いと思いますが、直別川の南西に聳える乙部山(通称?)を「頭」に見立てて、サルサルベツ川の上流部を「しっぽ」に擬したのかな……などと考えてみました。

ルベシベツ川

ru-pes-pe
路・それに沿って下る・もの(川)
(記録あり、類型多数)

2024年8月2日金曜日

小笠原海運「おがさわら丸」特 2 等寝台 乗船記(乗船開始!編)

9:30 になったので、搭乗券引換証などの必要書類を片手に「おがさわら丸搭乗券引換窓口」に向かいます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

複数の窓口がフル回転していることもあってか、手続きは速やかに進んでゆきます。待機列の最前部にやってきたのですが……

2024年8月1日木曜日

小笠原海運「おがさわら丸」特 2 等寝台 乗船記(岸壁編)

「おがさわら丸」の乗船手続きは 9:30 頃に開始とのこと。まだ 1 時間以上あるので、岸壁を見に行くことにしました。母は来ました、今日も来た……ですね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ところが、今日も「おがさわら丸」の姿は岸壁に無く、手前には東海汽船のボーディングブリッジがいくつも並んでいました。本当に出航の直前にしか来ないんですね。