2024年8月25日日曜日

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北海道のアイヌ語地名 (1163) 「生剛・愛牛・統太」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

生剛(せいごう)

o-pet-ka-us-i
尻・川・岸・つけている・もの
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
浦幌川の東側の地名です。『北海道実測切図』(1895 頃) には「生剛」とあり、その下に「オペッカウシ」と描かれています(どちらも右から)。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にも「ヲヘツカウシ」と描かれています。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Opetka ushi   オペッカウシ   川岸 生剛村オベカウシノ原名
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.299 より引用)
どうやら「生剛」を「オベカウシ」と読ませていた……読ませようとした……みたいですが、やはり無理があったのか、結局は音読みの「せいごう」に落ち着いた、ということのようです。

この「オペッカウシ」は道内各地で見られる地名で、『地名アイヌ語小辞典』(1956) にも次のように立項されていました。

o-pet-ka-us-i オぺッカウシ 川岸が高い岡になって続いている所。[o(尻,陰部)pet(川)ka(上,=岸)usi(につけている)-i(者),──尻(陰部)を川岸に突き出している者]
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.78 より引用)
o-pet-ka-us-i で「尻・川・岸・つけている・もの」ですが、この場合の「尻」は河口ではなく山のことです。

現在の浦幌町生剛は旧浦幌川と浦幌川の間の平地で、とても山裾が川に迫っているようには思えないのですが、本来の「オペッカウシ」は国道 336 号「浦幌道路」の「浦幌大橋」の北、「展望台」という名前の四等三角点(標高 27.9 m)のあたりの地名でした。なるほど、展望台になるくらい山が川に迫った場所の地名だったとすれば、「オペッカウシ」というネーミングにも納得できますね。

愛牛(あいうし)

{ay-us-ni}-us-i
{センノキ}・多くある・ところ
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
「十勝川」と「浦幌十勝川」を結ぶ導水路のあたりの地名です。本来の「愛牛」はもう少し南側の、かつての十勝川と浦幌十勝川の分水点から少し東(河口側)に進んだあたりだったようです。

北海道実測切図』(1895 頃) には「愛牛」とあり、その下に「アイウㇱュニウシ」と描かれています(どちらも右から)。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「アシ子シユマ」と描かれています。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Ai ush ni ushi   アイ ウシュ ニ ウシ   刺桐センノキアル處 愛牛村アイウシノ原名
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.297 より引用)
{ay-us-ni}-us-i で「{センノキ}・多くある・もの」ではないかとのこと。「もの」は「川(支流)」と解釈できる場合が多いのですが、このあたりには支流らしい支流が見当たらないので(河跡湖は多かったようですが)、今回は「もの」は「所」と見たほうが良いかもしれません。

『北海道実測切図』の「アイウㇱュニウシ」と『東西蝦夷山川地理取調図』の「アシ子シユム」の間の違いが気になる所ですが、戊午日誌 (1859-1863) 「報十勝誌」には次のように記されていました。

また七八丁も下るや
     アシ子シユム
右のかた野原也。其名義は昔しせんの木一本有りしによつて号るとかや。其根よりしてまたまた小枝多くわかれて有りしによつて(号)るとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.359 より引用)
「右のかた野原」とあるので、やはり支流の名前ではなく純然たる地名と見て良さそうに思えてきました。そしてどうやら意味するところは全く同一のようですね。知里さんの『植物編』(1976) には「ハリギリ センノキ」の項で次のように記されていました。

( 1 ) ayusni(a-yús-ni)「アゆシニ」[ay(とげ)us(多くある)ni(木)]莖をゆう《長萬部,禮文華,穗別,釧路美幌名寄,眞岡》
( 2 ) aysini(áy-si-ni)「あイシニ」[<ay-us-ni]莖をゆう《名寄》
(知里真志保『知里真志保著作集 別巻 I「分類アイヌ語辞典 植物編」』平凡社 p.70 より引用)
松浦武四郎のインフォーマントは、どちらかと言えば ( 2 ) に近いイントネーションだったのかもしれません。それでも最後の「ム」が良くわかりませんが……。

統太(とうぶと)

to-putu
沼・その口
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
(現在の)浦幌町生剛の北、道道 1038 号「直別共栄線」の「統太橋」のあるあたりの地名です(循環参照気味ですが)。「統太橋」のすぐ西には「統太」という名前の四等三角点(標高 10.1 m)もあります。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい地名が見当たりませんが、『北海道実測切図』(1895 頃) には「トープト゚」という東支流が描かれていました。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Tō putu   トープト゚   沼口
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.299 より引用)
それはそうだろうな……と思いつつ、どの辺に沼があるのか、ちょっと解せないところもあります。幸いなことに戊午日誌 (1859-1863) 「報十勝誌」にフォローがありました。

しばし過て
     トウブツ
右のかた小川。其川すじ巾三四間、上に行て沼有、よつて号也。沼の口と云事也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.363 より引用)
改めて『北海道実測切図』を眺めてみると、現在の浦幌町生剛のあたりで現在の旧浦幌川に合流する東支流が描かれていて、その川が「トープト゚」だとされています。陸軍図では浦幌川(=旧浦幌川)のあたりは湿地として描かれておらず、東支流である「トープト゚」の周辺が湿地として描かれていました。

浦幌川(=旧浦幌川)の左右には浜堤が形成され、東側の後背湿地から流れ出た川が合流する地点を to-putu で「沼・その口」と呼んだ……ということのように思えてきました。現在の「統太橋」のあたりは putu より 2 km ちょい北になるので、本来は to だけで良いと言えるかもしれません。

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