2024年8月12日月曜日

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北海道のアイヌ語地名 (1159) 「チプネオコッペ川・オコッぺ沢川・昆布刈石」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

チプネオコッペ川

chip-ne-o-u-kot-pe?
丸木舟・のような・河口・互いに・くっついている・もの(川)
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
厚内の南西、オニオップ川から更に南西に進んだところを流れる川です。この川の北東側の住所は「浦幌町字チプネオコツペ」です(南西側は「字オコツペ」)。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヲニヨフ」(=オニオップ川)と「ヲコツベ」(オコッペ沢川)の間に「ホロヲコツヘ」という川が描かれています。『北海道実測切図』(1895 頃) には「チプ子オウコッペ」と描かれているので、「ホロヲコツヘ」=「チプ子オウコッペ」と理解して良さそうでしょうか。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Oukotpe     オウコッペ     合川
Poro oukotpe  ポロ オウコッペ  合流ノ大川
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.296 より引用)
意外なことに「チプ子オウコッペ」ではなく「ポロ オウコッペ」と記されています。『北海道実測切図』と『永田地名解』は刊行年次が近いこともあり内容が一致していることが多いのですが、珍しく異同がありますね。

『初航蝦夷日誌』(1850) には次のように記されていました。

     ヲコツペ
小川有。訳而一はねと云議なるか。此処昼休小屋有。又夷人小屋、番屋有。此処より先ニ少しの砂岬少し有る也。上の方を越而小川。巾五間
松浦武四郎・著 吉田武三・校註『三航蝦夷日誌 上巻』吉川弘文館 p.361 より引用)
また『東蝦夷日誌』(1863-1867) にも次のように記されています。

ヲコツペツ(小休所、小川)、ヲコツペノツ(岬)、是も風雨の時は山の上を通るなり。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.293 より引用)
注目すべきは、どちらも「岬」の存在を記しているところです。特に『初航蝦夷日誌』には「砂岬」と明記されていますが、現在の地形図ではそれらしきものが見当たりません。

ただ陸軍図では、「オコッペ澤」(=オコッペ沢川)の河口部が北東に向きを変えていて、南東側から北東に向かって砂州が伸びているように描かれています。肝心の「チプネオコッペ川」に相当する川の河口は東に向きを変えていて、三角形の砂浜ができていました。

かつて河口はくっついていた?

「オコッペ」は o-u-kot-pe で「河口・互いに・くっついている・もの(川)」と考えられます。そして「チプネオコッペ川」と「オコッペ沢川」が並んでいるということは、この二つの河川が河口で合流して海に注いでいたと見るのが自然です。

現在の両河川はそれぞれ独立して海に注いでいるので、両者が合流していたことを証明するのは難しいのですが、辛うじて「オコッペ沢川」の河口が北東に捻じ曲げられていたことが傍証として挙げられそうです。

「チプネオコッペ川」の河口が(陸軍図とは逆に)南西を向いていて、「オコッペ沢川」と合流していたとすれば、チプネオコッペ川の河口部には相当に細長い砂州ができていたことが想像されます。この砂州が「丸木舟のよう」に細長かったので chip-ne-o-u-kot-pe で「丸木舟・のような・河口・互いに・くっついている・もの(川)」と呼んだ……あたりでしょうか。

オコッぺ沢川

o-u-kot-pe
河口・互いに・くっついている・もの(川)
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
「チプネオコッペ川」の南西を流れる川です。川の規模は「チプネオコッペ川」と大差無さそうな感じでしょうか。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヲコツベ」と描かれていますが、なぜか「ホロヲコツヘ」よりも小さな川として描かれています。

北海道実測切図』(1895 頃) には「オウコッペ」と描かれていました。またしても出落ち感が凄いですが、o-u-kot-pe で「河口・互いに・くっついている・もの(川)」と見て良いかと思われます。

興味深い点としては、『北海道実測切図』の時点で既に「チプ子オウコッペ」(=チプネオコッペ川)と「オウコッペ」(=オコッペ沢川)は、河口近くで合流するのではなくそれぞれ独立した河川として描かれていて、松浦武四郎が『初航蝦夷日誌』(1850) で記した「砂岬」らしきものも見当たらないところが挙げられます。かつて両河川が合流していた時代があり、その頃のネーミングが現在まで残った……と言えそうな感じですね。

なお、オコッペ沢川の南の山上に「温骨おんこつ」という名前の三等三角点(標高 91.8 m)があります。この奇妙な名前の三角点も「オウコッペ」に由来する可能性がありそうです。

昆布刈石(こぶかりいし)

kompu-kar-us-i
昆布・採る・いつもする・ところ
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
厚内から道道 1038 号「直別共栄線」で南西に進むと、やがて「厚内トンネル」を抜けて国道 336 号「浦幌道路」との交叉点に向かうのですが、「厚内トンネル」の西を「昆布刈石川」が流れています。陸軍図ではトンネルの東側の海沿いに「昆布刈石」と描かれていますが、本来はトンネルの西側の地名だったと思われます。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「コンフカルウシ」と描かれています。『北海道実測切図』(1895 頃) では「コㇺプカルシ」と描かれていました。

現在はひっそりとした場所ですが、海沿いということもあり記録は豊富です。表にまとめておきましょうか。

東蝦夷地名考 (1808)コブカルイシ昆布採コブカルなり。イシはウシにて生なり。
大日本沿海輿地図 (1821)コンフカルシ岬-
初航蝦夷日誌 (1850)コンブカルウシ昆布をとるとやくする也
竹四郎廻浦日記 (1856)コンブカルウス-
午手控 (1858)--
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)コンフカルウシ-
東蝦夷日誌 (1863-1867)コンブカルウシ昆布取に多し
改正北海道全図 (1887)コンフカルス-
永田地名解 (1891)コㇺプ カルシ昆布場 昆布ヲ取ル處ノ義
北海道実測切図 (1895 頃)コㇺプカルシ-
陸軍図 (1925 頃)昆布刈石(トンネルの東側の地名として)
地理院地図昆布刈石(南西側の高台の地名として)

「昆布刈石」は kompu-kar-us-i で「昆布・採る・いつもする・ところ」と見て良いかと思われます。「昆布」を意味する語には他に sas もありますが、ここでは kompu が使われていたようです。kompu は和語との接触を想起させる語ですが、「昆布森」や「昆布盛」など、太平洋側でも意外と幅広く見られるものです。

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