2024年8月11日日曜日

「日本奥地紀行」を読む (166) 碇ヶ関(平川市)~黒石(黒石市) (1878/8/3(土))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日からは、普及版の「第二十九信」(初版では「第三十四信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

希望を延期

8/1(木) の時点で「朝には出発することになっている」と記していたイザベラですが……

 結局のところ、川は思ったほど減水しなかったので、碇ガ関で四日目を過ごさなければならなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.317 より引用)
まぁ、こんなものですよね。旅の成否もお天気任せというのは優雅にすら感じられますが、当事者にとっては堪ったものでは無いですよね。

私たちは士曜日の朝早く出発した。その日は休息せずに一五マイルを旅せねばならないからである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.317 より引用)
この日のイザベラの目的地は黒石で、碇ヶ関から黒石までは約 24 km(15 マイル)なので、実に正確な地理認識ですね。平均 3 km/h で移動すれば 8 時間の道のりですが、不測の事態で足止めを喰らうことも予想できるので、朝早く出発するのが正解なんでしょうね。

太陽はこの美しい地方全体に、あらゆる残骸や破壊物の上に輝いていた。海上で嵐が過ぎた次の日に、さざ波の上に日がよく照るのと似ている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.317 より引用)
凄まじい災害の後に煌々と陽が照りつける……我々もこれまで何度も目にした光景ですね。茫然自失の人々を照らす太陽は、憎々しいまでに眩しく感じられるものですが、実際に空気中の塵や埃を洗い流しているでしょうから、日光が眩しいのも当然といえば当然かも……(汗)。

四人の男を雇って、橋が流されてしまった川を二つ歩いて渡ったが、困難な浅瀬で、私も荷物もひどく濡れた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.317 より引用)
そう言えば、碇ヶ関の橋もイザベラの眼の前で破壊されていたんでしたね。「橋が無いなら馬で渡ればいいじゃない」と言いたくなりますが、そう都合よく馬を確保することはできなかった……ということでしょうか。

すると突然に、大きな平野に出た。そこには緑色の稲の波が、快い北風に吹かれ、日光を浴びながら遠くまで続いていた。この平野には森のある村が数多く散在し、山々にかこまれている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.317 より引用)
これは大鰐町を抜けて、東北道の「大鰐弘前 IC」のあたりにやってきた……ということでしょうか。

一つの低い山脈は岩木山イワキ サンの麓を幕のように隠していた。岩木山は雪の縞をつけた大きな円頂ドームで、平野の西方に聳え立ち、五〇〇〇フィートの高さがあると考えられている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.317 より引用)
5000 ft は約 1,524 m とのこと。実際には岩木山の標高は 1,625 m なので、約 5,331 ft だったことになりますね。イザベラの言う「一つの低い山脈」というのが何を指していたのかは不明ですが、大鰐町と弘前市の境界にある「尾開山」の尾根のことでしょうか……?

洪水の影響

長雨が齎した増水の結果、橋が崩壊し堤防が決壊して田畑が水に浸かっただけではなく、集落まで水が押し寄せる結果となったわけですが……

たいていの村では四フィートの高さまで浸水し、土壁の下の部分は流されてしまった。人々は忙しそうに畳や蒲団、着物を干したり、土手や小橋を作り直したり、今なお大量に流れてくる材木を引き上げようとしていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.318 より引用)
どうやら「茫然自失」の時期は既に終わっていて、半ば開き直った形で復旧作業に乗り出していたようです。

警察の活動

この日のゴールである黒石に向かって全力で北上中のイザベラでしたが、やはり邪魔の手が入ることもあったようで……。

 ある町で、二人の見すぼらしい身なりの警官がこちらに駆けてきて、私の馬の手綱を掴まえ、群衆の中で私を長い間待たせておいた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.318 より引用)
イザベラの言う「ある町」は平賀ひらか町(現・平川市)か尾上おのえ町(現・平川市)あたりでしょうか。ただ古い地図を見ると藏舘村・大鰐村(=大鰐町)・柏木町村などの村があるため、具体的にどの村だったかを把握することは難しそうです。

その間に彼らは、私の旅券を、穴があくほど一生懸命に見ていた。それをひっくり返して見たり、明るいところにもって行ってみたり、旅券の中に何か不都合なことが隠されているかのようであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.318 より引用)
パスポートが偽造されたものではないかチェックしようとしていた……のかもしれませんが、そもそもこれまでパスポートを見たことがあったのか、というところから疑ってかかるべきかもしれません。微笑ましいと言えばそれまでですが、イザベラにとってはいい迷惑ですよね……。

イザベラは馬を確保していたようですが、躓くことが多かったため、落馬を恐れた(実際に数日前に落馬していた)イザベラは結局歩く羽目になっていたとのこと。ところが、疲労困憊となっていたイザベラの元に一筋の光明が射し込みます。

私の元気も尽きはてようとしたとき、人力車がやってきた。車夫は車をうまく操縦して《こういうことはときどきあるが》、黒石クロイシまで運んでくれた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.318 より引用)
「こういうことはときどきあるが」という一文の付け加え方が面白いのですが、原文では次のようになっていました。

we met a kuruma, which by good management, such as being carried occasionally,
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
なるほど、二重山括弧で括ったのは高梨謙吉さんのセンスだったのですね。

またしても《こういうことはときどきあるが》まるで TV のドキュメンタリー番組の仕込みのような幸運を手にしたイザベラは、無事黒石に到着することができました。

これは人口五千五百の清潔な町で、下駄や櫛の製造で有名である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.318 より引用)
流しの?人力車を掴まえてすいすい~と黒石に入ったイザベラですが、そのことがプラスに働いたか、黒石の印象はとても良いものだったようです。

私はこの町で、とてもきれいさっぱりして風通しのよい二階の部屋に案内された。あたり一帯の景色もよく見えるが、隣の家の人たちがその奥の部屋や庭園で仕事をしている様子も見えた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.318 より引用)
ただ、ここまで好意的な文章が並ぶということは……実際に小綺麗な町だったのかもしれませんね。ちょっと謎なのが水害に関する記述が見当たらないことですが、黒石を流れる「浅瀬石川」のあたりは無事だったのでしょうか?

青森まで直行せずに、ここで三日二晩滞在している。天候も回復し、私の部屋もすばらしく気持ちがよいので、この休息はたいそう愉快である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.318 より引用)
どうやら本当に居心地が良かったらしく、イザベラは黒石で二泊したみたいですね。「天候も回復し」とあるので、急ぐこともできたように見受けられますが、その誘惑を切り捨ててまで一泊余計に滞在したのは、体力的なものもあったのかもしれませんが……。

以前にも書いたことだが、数マイル先の情報を得ることは難しい。郵便局へ行っても、二〇マイル離れた青森と函館ハコダテの間の郵便船の航行の日程について、どんなニュースも入らない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.318 より引用)
なるほど、情報整理の目的もあったのかもしれませんね。もっとも青森と函館の間の船の情報を黒石で入手しようというのは無理がありそうな気もします。碇ヶ関と大鰐の間の橋が落ちた!という情報は速やかに碇ヶ関に届いたものの、街道筋の情報と海峡を結ぶ船の情報は、やはり緊急度が違うということなのでしょう。

 警察は私の旅券を見ただけで満足せずに、実際に私に会わなければいけないらしく、四人の警官が私の到着した晩にやって来て、鄭重ではあったが私を検問した。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.319 より引用)
これも毎度おなじみの話ですが、鄭重だっただけラッキーでしょうか。

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