2024年8月4日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1157) 「オタフンベ・乙部川・厚内」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

オタフンベ

ota-humpe
砂浜・鯨
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
JR 根室本線は直別(信号場)と上厚内(信号場)の間で海沿いを迂回していますが、直別から見て海沿いに出る直前のあたりの地名です。地理院地図には「オタフンベチャシ跡」という史跡が記入されています。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい地名が描かれていませんが、『北海道実測切図』(1895 頃) には「オタフンペ」と描かれていました。

改めて両方の図を眺めてみると、「東西蝦夷──」は「乙部川」の位置に「ヲトンベ」と描かれていて、「オタフンベチャシ跡」の東側に「ホンヲトンベ」と描かれています。……これは表の出番ですね。

大日本沿海輿地図 (1821)モヲトンヘツ
初航蝦夷日誌 (1850)ヲトンベ-
竹四郎廻浦日記 (1856)ヲトンヘ-
午手控 (1858)ヲトンヘ-
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)ヲトンベホンヲトンベ
東蝦夷日誌 (1863-1867)-ホンヲトンベ
改正北海道全図 (1887)トンペ川-
永田地名解 (1891)オタ フンベ-
北海道実測切図 (1895 頃)オタフンペポンオタフンペ
陸軍図 (1925 頃)--
地理院地図∴オタフンベチャシ跡

あー。「オタフンベ」と「乙部おとべ」の音が似通っているのは気になっていたのですが、これを見る限り「乙部」=「オタフンベ」と捉えて間違い無さそうですね。

更科さんの『アイヌ語地名解』(1982) には次のように記されていました。

アイヌ語で砂鯨の意、砂丘がこんもりと鯨のようにもりあがったところで、太平洋岸やオホーツク海岸に多い地名。
(更科源蔵『更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解』みやま書房 p.242 より引用)
ota-humpe で「砂浜・鯨」ということですね。この ota-humpe は『地名アイヌ語小辞典』(1956) にも立項されていました。

ota-humpe オたフㇺペ 砂浜に突出ているクジラの形をした小山。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.83 より引用)
どうやら現在「オタフンベチャシ跡」とされる山が、あたかも砂浜に突き出たような形をしています。この山を「オタフンベ」と呼んだ、ということになりそうですね。

過去の記録を見る限り、永田地名解以前には「オタフンベ」が皆無なのが気になりますが、早口で発音していて、いつしか ta-huto に聞こえるようになり、その形で口承された……ということかもしれません。そう考えると永田方正はいい仕事をしたのかもしれませんね。

乙部川(おとべ──)

ota-humpe?
砂浜・鯨
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
久しぶりに出オチ感が酷い記事になりました(汗)。「オタフンベチャシ跡」の西側を流れていて、JR 根室本線と道道 1038 号「直別共栄線」が横断しています。OpenStreetMap ではチャシ跡のあたりが「字オタフンベ」で、乙部川のあたりが「字ヲトベ」と表示されています。

『角川日本地名大辞典』(1987) には次のように記されていました。

地名は,アイヌ語のオタフンベが訛ったもので,「砂鯨」の意。近くにある小丘を指していったもので,地元ではヲトベ・ヲトンベなどと呼んでいる。
(『角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)』角川書店 p.312 より引用)
ということで、「乙部」は「オタフンベ」の転訛だと考えられているようです(ota-humpe で「砂浜・鯨」)。河口のあたりが沼沢地になっていたのであれば o-to-un-pe で「河口・沼・そこに入る・もの」と見ることも可能ではありますが、陸軍図を見る限りでは沼沢地の存在は窺えません。

午手控 (1858) にちょっと気になる記述があったので、参考までに引用しますと……

ヲトンヘ 此処にて穴を掘水を取用ひ、女の子共二人居、一人の女の子シトキを首に懸居り侯を、一人の女の子矢をつけて殺したりとかや。其女の子をころせしは大なる丸小屋を建其中に居、外え水くみに来る(を)中より殺せしとかや
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編『松浦武四郎選集 六』北海道出版企画センター p.123 より引用)
これは……一体何なんでしょう。妙に描写が具体的なんですが、一方で「ヲトンヘ」という地名との関係は不明です。otke で「突く」という意味の語がありますが……。

松浦武四郎がこんな話を創作するとは思えない(そもそもその必要性が無い)ので、実際にインフォーマントからそういった話を耳にしたのだと思われるのですが、実際にそのような不名誉なことがあったのか、それとも元となるストーリーがあって、それに尾ひれがつきまくってこんな話になったのか……。これまでのパターンと併せて考えると後者のような気がするのですが、気になるところです。

厚内(あつない)

apa-un-nay?
戸・ある・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
「オタフンベチャシ跡」から海沿いを南西に進んだところに「厚内川」の河口があり、河口付近に漁港と厚内の集落および JR 根室本線の厚内駅があります。

「北海道駅名の起源」には次のように記されていました。

  厚 内(あつない)
所在地 (十勝国)十勝郡浦幌
開 駅 明治36年12月25日(北海道鉄道部)(客)
起 源 アイヌ語の「アㇷ゚・ナイ」(つり針・川)から出たものといわれているが、疑問である。「アックナイ」(小獣を捕る川)のことで、わなをかける川の方が正しいともいわれている。
(『北海道駅名の起源(昭和48年版)』日本国有鉄道北海道総局 p.127 より引用)
永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

A pnai   アㇷ゚ナイ   鈎川ツリバリ
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.297 より引用)
やはりと言うべきか、「釣り針の川」は永田地名解の説かと思ったのですが、『初航蝦夷日誌』(1850) にも次のように記されていました。

     アフナイ
鉤の沢と云義也。小川有。徒渡り。此奥沢ひろし。
松浦武四郎・著 吉田武三・校註『三航蝦夷日誌 上巻』吉川弘文館 p.361 より引用)
この解は『午手控』(1858) や『東蝦夷日誌』(1863-1867) でも踏襲されていて、松浦武四郎はこの解をファイナルアンサーと見ていたことが窺えます。となると、どこから「アックナイ」という解が出てきたのか……という話になるのですが、更科さんの『アイヌ語地名解』(1982) には次のように記されていました。

 厚内(あつない)
 浦幌町内の根室本線の駅名。語源はアプナイで釣りばり川であると解く人があるが、そんな地名がつくということはうなずきがたい。
(更科源蔵『更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解』みやま書房 p.241 より引用)
そうなんですよね。「釣り針川」という解は個人的にも違和感のあるものです。

谷元旦の紀行にはアックナイとなっている。アックは小獣を捕るわなのことで、わなをかける川かとも思われる。
(更科源蔵『更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解』みやま書房 p.241 より引用)
なるほど、「アックナイ」の出どころは谷元旦でしたか。ただ、個人的には別の解釈を考えたいところです。

北海道実測切図』(1895 頃) では「厚内川」は「アㇷ゚ナイ」と描かれているのですが、上流部に「シーアㇷ゚ナイ」と描かれています(現在の「シイアップナイ川」)。ただ、厚内の市街地から川沿いを遡った際に、「シイアップナイ川」の流域を遮るかのように山が聳えているのですね。

この特徴は道北の「安平志内川」と同じなので、「アㇷ゚ナイ」も apa-un-nay で「戸・ある・川」だったのでは無いでしょうか。

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