2024年7月31日水曜日

小笠原海運「おがさわら丸」特 2 等寝台 乗船記(竹芝客船ターミナル編)

竹芝客船ターミナルにやってきました。「おがまるパック行程のご案内」には「東京竹芝客船ターミナル 10:00 集合」とあり、「ご乗船手続は、9:30 頃より行います」と記されているのですが、まだ 8 時を少し過ぎたあたりなので、流石に閑散としています。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ディスプレイには「出航のご案内」が出ていますが……

2024年7月30日火曜日

Bojan のホテル探訪~「ホテルタビノス浜松町」編(朝食編)

「ホテルタビノス浜松町」に戻ってきました。部屋の面積の半分以上がベッドという潔い設計ですが、トイレはちゃんと用意されています。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

トイレの横(前?)には洗面台があります。一応ツインの部屋なので、タオルもちゃんと 2 人分用意されています。

2024年7月29日月曜日

小笠原の旅 2024/春 (1) 「夜の竹芝客船ターミナル」

偶然にも予約したホテルが竹芝桟橋の眼の前だったので(!)、ちょいと竹芝客船ターミナルを覗いてみることにしました。
これは浜松町に向かう竹芝通りを撮影したものですが、いい感じに撮影できたので……。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「ゆりかもめ」の高架の向こうに帆船のマストらしきものが見えます。

2024年7月28日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1155) 「キナシベツ川・黄牛別・ソウク尺別川・志別山」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

キナシベツ川

kina-us-pet
草・多くある・川
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
直別川の河口付近で北東から合流する支流で、JR と海の間の湿原の中を流れています。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ナウシヘツ」とありますが、『北海道実測切図』(1895 頃) では「キナウㇱュペッ」と描かれています。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Kina ush pet   キナ ウㇱュ ペッ   蒲川
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.320 より引用)
なお、この川は加賀家文書『クスリ地名解』(1832) にも次のように記録されています。

キナウシヘツ キナ・ウシ・ヘツ すげ/がま・有・川
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.254 より引用)
これだけ記録が一致していては、もはや疑いを挟む余地も無さそうですね。kina-us-pet で「草・多くある・川」と見て良さそうです。

知里さんの『地名アイヌ語小辞典』では、kina は「草」で si-kina が「蒲」である、としています。今回の kina も「蒲」である可能性もありますが、より無難な解にしています。

黄牛別(きなうしべつ)

kina-us-pet
草・多くある・川
(記録あり、類型あり)

2024年7月27日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1154) 「直別」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

直別(ちょくべつ)

chuk-pet?
秋・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
釧路市(旧・音別町)西部の地名で、同名の川が十勝郡浦幌町との境界を流れています。かつては同名の駅も存在していましたが、2016 年時点で「極端にご利用の少ない駅」にリストアップされ、その後 2019 年にお隣の尺別駅とともに廃止されてしまい、現在は「直別信号場」となっています。

駅名の起源

まずは「北海道駅名の起源」を見ておきましょうか。

  直 別(ちょくべつ)
所在地 (釧路国)白糠郡音別町
開 駅 明治40年10月25日 (客)
起 源 アイヌ語の「チュク・ペッ」(秋の川)から出たもので、夏は水かれして流れがなくなったからである。
(『北海道駅名の起源(昭和48年版)』日本国有鉄道北海道総局 p.127 より引用)
どこかで聞いた話ですが、お隣の尺別駅の項には次のように記されていました。

  尺 別(しゃくべつ)
所在地 (釧路国)白糠郡音別町
開 駅 大正 9 年 4 月 1 日 (客)
起 源 アイヌ語の「サッ・ペッ」(かれた川)から出たもので、最初車扱貨物駅として開業したが、大正14年 2 月 1 日に一般貨物の取り扱いを開始し、昭和 5 年 4 月 1 日一般駅となった。
(『北海道駅名の起源(昭和48年版)』日本国有鉄道北海道総局 p.127 より引用)
そっくりとまでは言わないものの、かなり似ていますね。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「チヨクヘツ」という名前の川が描かれていました。『北海道実測切図』(1895 頃) では、川名は「チュㇰペッ」で、駅の近くに「直別」と描かれています。

夏枯れする「秋の川」説

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Chuk pet   チュㇰ ペッ   秋川 夏日水涸レ秋潦大ニ漲ル
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.297 より引用)
chuk-pet で「秋・川」ではないか……ということですね。どうやら「駅名の起源」の解は永田地名解を踏襲したみたいです。

アキアジを捕る「秋の川」説

上原熊次郎の『蝦夷地名考幷里程記』(1824) には次のように記されていました。

チウクベツ       トカチ・シラヌカ境 川舟渡
  夷語チゥクベツとは、秋の川といふ事。扨、チゥクとは秋の事、ベツは川の事にて、年々秋中に至れは、最寄住居の夷人共此川邊江来りて小魚を得、夫食になす故、字になすといふ。
(上原熊次郎『蝦夷地名考幷里程記』草風館『アイヌ語地名資料集成』p.62 より引用)
これも chuk-pet で「秋・川」ですね。ただ「夏枯れする川」ではなく「秋に魚を捕る川」にニュアンスが変化しています。

そもそも「秋の川」というのは少々解せない感じもありますが、『地名アイヌ語小辞典』(1956) には次のように記されていました。

chuk,-i ちゅㇰ 秋。地名の中では「チュきぺ」(chuk-ipe 秋のサケ)を意味することもあったらしい。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.22 より引用)
地名における chuk(秋)は chuk-ipe(秋の鮭)を意味していた……と考えたほうが良さそうですね。「秋の川」は「アキアジの川」だった……と見るべきでしょうか。

秋に水が涸れる「秋の川」説

細かい話ですが chuk-pet であれば「チュクペッ」であり、これは『北海道実測切図』の記録と一致しますが、「東西蝦夷──」の「チクヘツ」とはびみょうな違いがあります。ただ加賀家文書『クスリ地名解』(1832) には次のように記されていました。

チヨクヘツ チヨク・ヘツ 秋・川
  此所秋に相成候得ば水干を(以て)斯名附由。(かくなづくるよし)
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.254 より引用)
この解は「チヨク」が chuk であるとしていて、「チュク」=「チョク」だと言っていることになりますね。

月のように大きな星が降ってきた「月の川」説

一方で、『東蝦夷日誌』(1863-1867) には他とは異なるユニークな解が記されていました。

チユクベツ〔直別〕の譯をクスリにて審みタタシば、本名チユフベツにて、昔川上え月の位の星が落し故なづくと。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.294 より引用)
川上に月のように大きな星が降ってきたので chup-pet で「月・川」だ……とのこと。ただこの説は「クスリ(釧路)にて審みば」とあるので、面白半分のホラ話を掴まされた可能性がありそうな感じでしょうか。

松浦武四郎は「東西蝦夷──」で「チヨクヘツ」と描きつつ、ここでは「チクベツ」としています。「チュク」と「チョク」はしばしば混同されていたと言えそうですね。

まとめ

今更ですが、表にまとめておきましょうか。

東蝦夷地名考 (1808)記載なし-
大日本沿海輿地図 (1821)記載なし-
蝦夷地名考幷里程記 (1824)チウクベツ秋の川(魚を捕る)
クスリ地名解 (1832)チヨクヘツ秋・川(に水が干上がる)
初航蝦夷日誌 (1850)チユクベツ-
竹四郎廻浦日記 (1856)チユクベツ-
午手控 (1858)チョクヘツ-
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)チヨクヘツ-
東蝦夷日誌 (1863-1867)チユクベツ月のような星が落ちたので
改正北海道全図 (1887)チユㇰヘツ川-
永田地名解 (1891)チュㇰ ペッ秋川(に水が涸れる)
北海道実測切図 (1895 頃)チュㇰペッ-

あれれ、「アキアジを捕る川」は上原熊次郎だけだったんですね。そして「チュク」と「チョク」はどちらも見られるので、これは大きな問題では無さそうです。正確な含意には異同もあるものの、chuk-pet で「秋・川」と見て良さそうに思えます。

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2024年7月26日金曜日

Bojan のホテル探訪~「ホテルタビノス浜松町」編(お部屋編)

チェックインを終えて部屋に向かったのですが、カードキーをかざしてドアを開けると……
!!!

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

いやー、驚愕ですね……(汗)。デザインの奇抜さも然ることながら、決して広いとは言えない(12 ㎡ とのこと)部屋にベッドが二つ並んでいます。

2024年7月25日木曜日

Bojan のホテル探訪~「ホテルタビノス浜松町」編(チェックイン編)

「おがさわら丸」は朝 11 時に竹芝桟橋(東京都港区)を出発します。理論上は当日入りもできない時間では無いですが色々としんどいので、前日入りしてホテルに宿泊することにしました。
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竹芝桟橋の最寄り駅は「ゆりかもめ」の竹芝駅で、JR だと浜松町駅が最寄りです。ということで、じゃらんで浜松町駅周辺の手頃なホテルを選んで予約したのですが……

2024年7月24日水曜日

小笠原の旅 2024/春 (プロローグ) 「紆余曲折がありまして」

以前から漠然と「一度行ってみたいなぁ」と思っていた小笠原諸島に行くことにしました。ということで、まずは旅のプランニングからなのですが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2024 年 4 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

丸 6 日の小笠原旅行

ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、小笠原諸島には民間の空港が無いため、島に向かうには小笠原海運が運航する「おがさわら丸」を利用するしかありません。「おが丸」の愛称で知られる「おがさわら丸」は一週間に一往復のみの運航で、出航してから戻るまで、最低でも 6 日が必要となります。

小笠原旅行には丸 6 日が必要になるということは……次のようなスケジュールを考えてしまうのですが……(突然のパワポ)

2024年7月23日火曜日

春の新日本海フェリー「あかしあ」スイートルーム "くちきり" 乗船記(下船編)

「あかしあ」は、20 時を過ぎた時点で伊根町の沖合を航行していました。
「あかしあ」と同型船の「はまなす」は、部屋の鍵が昔ながらのシリンダー錠なので、下船前に船員さんが各部屋を回ってルームキーの回収を行います。ルームキーの回収は概ね着岸の 1 時間ほど前なので、その後は部屋の施錠ができなくなります。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

前日の 23:30 に小樽を出発した「あかしあ」は、21 時間かけてここまで移動してきたことになります。飛行機や新幹線と比べると遥かに遅いものの、船上でのんびり寛ぎながら、車と一緒に移動できるのはありがたいの一言ですよね。

2024年7月22日月曜日

春の新日本海フェリー「あかしあ」スイートルーム "くちきり" 乗船記(夕食編)

いつの間にか 18 時を回ってしまいました。「あかしあ」はそろそろ三国町(福井県坂井市)の沖合に近づきつつある頃でしょうか。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

夕食は 18:30 に用意されるとのことなので、時間通りに 5 甲板右舷にあるグリル「霞」に向かいます。

2024年7月21日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1153) 「尺別・トンベツ川・シケレベ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

尺別(しゃくべつ)

sak-pet?
欠いた・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
音別川の西隣を流れる川の名前で、尺別川はかつて音別川と合流してから海に注いでいました。JR 根室本線にも同名の駅がありましたが、2016 年時点で「極端にご利用の少ない駅」として名前が上がった後に 2019 年に廃止され、現在は「尺別信号場」となっています。

「乾いた・川」説

「北海道駅名の起源」には次のように記されていました。

  尺 別(しゃくべつ)
所在地 (釧路国)白糠郡音別町
開 駅 大正 9 年 4 月 1 日 (客)
起 源 アイヌ語の「サッ・ペッ」(かれた川)から出たもので、最初車扱貨物駅として開業したが、大正14年 2 月 1 日に一般貨物の取り扱いを開始し、昭和 5 年 4 月 1 日一般駅となった。
(『北海道駅名の起源(昭和48年版)』日本国有鉄道北海道総局 p.127 より引用)
sat-pet で「乾いた・川」ではないか、という説ですね。1954(昭和 29)年版も確認しましたが同様の記述でした。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Sat pet   サッ ペッ   涸川 ○尺別村○水少クシテ鮭鱒上ラズ
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.320 より引用)
完全に一致していますね。「駅名の起源」は永田地名解の記述を元にしたものだったのでしょうか……?

「夏・川」説

『東蝦夷日誌』(1863-1867) には次のように記されていました。

シヤクベツ〔尺別〕(晝所また止宿所にもなる、板くら、人足小や、土人二軒)名義は夏川也。或曰、夏に成哉、水乾く故號と。無別シヤリとも云、乾別サツテとも、夏別シヤリなり共云。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.295 より引用)
これも同じような内容に思えますが、よく見ると「夏川也」とあるので、これは sak-pet で「夏・川」ということになりますね。ただ「乾別」、つまり sat-pet で「乾いた・川」も異説として記されていて、また「無別」というのは sak-pet を「欠く・川」と解釈したのかもしれません。

なお余談ですが

此川風波の時は番屋前にて海に入り、晴天の時はヲンベツ〔音別〕と合て海に入る。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.295 より引用)
どうやら松浦武四郎が旅した頃は、平常時は音別川と合流していて、海が荒れたときは(尺別川が)直接海に注いでいたみたいですね。

『三航蝦夷日誌』(1850) には次のように記されていました。

シヤクベツ。訳而夏川と云り。シヤクは夏也。ベツは川なり。
(松浦武四郎・著 吉田武三・校註『三航蝦夷日誌 上巻』吉川弘文館 p.362 より引用)
やはり sak-pet で「夏・川」ではないかとのこと。

ハイブリッド説

ただ加賀家文書『クスリ地名解』(1832) には次のように記されていました。

シヤクヘツ シャク・ヘツ 干・川
  此所に相応之川有。度々水干候故斯名附由。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.254 より引用)
こちらは sak-pet を「乾いた・川」としていますが、sak は「夏」か、あるいは「……を欠いた」を意味します。「干上がった川」、つまり「乾いた・川」であれば sat-pet とすべきですが、「シャク」とある以上は sat だった可能性は低そうにも思えます。

河口が干上がった川を o-put-sak-nay(河口・口・欠いた・川)と呼ぶ場合がありますが、それと似た感じで何か(水か魚か河口か)を「欠いた・川」として sak-pet と呼んでいたものを、よりストレートな表現である「乾いた・川」を意味する sat-pet に由来すると考えた……あたりかもしれません。

北海道実測切図』(1895 頃) では「サッペッ」と描かれていました。この時点では既に加賀伝蔵が記録した「シャク」の音が「サッ」に変化していた、とも言えそうですね。

まぁ、夏枯れで水も魚もいなくなる川だとすれば、sak-pet であれ sat-pet であれ大差ないという話もありますが……。

トンベツ川

to-un-pe
沼・そこに入る・もの(川)
(記録あり、類型あり)

2024年7月20日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1152) 「止若・ソウオンベツ沢川・雪乱山」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

止若(とめわか)

yam-wakka
冷たい・水
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
音別町チャンベツの北で音別川に合流する「萬の沢川」(かつて「タン子ナイ」と呼ばれた川)を遡った先に、「止若」という名前の三等三角点があります(標高 358.6 m)。面白いことに、この三角点は「とめわか」と読ませるそうなのですが……。

北海道実測切図』(1895 頃) を見てみると、「タン子ナイ」の北に「ヤㇺワㇰカ」という川が描かれていました(現在「クマの沢川」と呼ばれる川だと思われます)。yam-wakka で「冷たい・水」と解釈できます。

止若とめわか」という三角点の名前は「ヤㇺワㇰカ」に漢字を当てたものの、難読だったからか字に引きずられて「とめわか」に読みが変わってしまった可能性がありそうです。

この考え方の難点は、「クマの沢川」を遡っても「止若」三角点にたどり着けない(2 km ほど離れている)というところですが、南隣の「タンの沢川」を「ヤㇺワㇰカ」と誤認したとすれば説明がつく、かもしれません。

あるいは「タン子ナイ」(現在の「萬の沢川」)も「ヤムワッカ」だった可能性もあるかもしれませんが、その可能性を窺わせそうな傍証は見当たらないのが実情です。

ソウオンベツ沢川

so-{o-mu-pet}?
滝・{音別川}
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2024年7月19日金曜日

春の新日本海フェリー「あかしあ」スイートルーム "くちきり" 乗船記(お風呂編)

そう言えば、昨日の記事で記し忘れたのですが、ランチは 12:30 に入店して、退店したのは 14 時を過ぎていました。
「あかしあ」は能登半島の沖合に差し掛かっていました。あと 25 分ほどで舳倉へぐら島に接近することになります。右舷側だと高確率で電波が拾える地点なので、覚えておきたいですね。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

などと言いながら、折角の良い天気ですし、そろそろ風呂に入りたいなぁ……という機運が高まってきました。浴室はご覧の通りのオーシャンビューです!

2024年7月18日木曜日

春の新日本海フェリー「あかしあ」スイートルーム "くちきり" 乗船記(昼食編)

12:30 になったので、5 甲板にあるグリル「霞」にやってきました。「春の彩々ランチ」はコース料理のようです。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

テーブルにはドリンクメニューが立てて置かれていて、その手前に「おしながき」が置かれています。

2024年7月17日水曜日

春の新日本海フェリー「あかしあ」スイートルーム "くちきり" 乗船記(プライベートデッキ編)

5 甲板前方にある「フォワードサロン」から部屋に戻ってきました(「002」とある部屋です)。
今更ですが、この図だとエレベーターとコンファレンスルーム、そして喫煙室の位置が良くわかりますね。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

プライベートデッキ

「あかしあ」のスイートルームとデラックスルームは全て海に面していて、部屋ごとにプライベートデッキが用意されています。

2024年7月16日火曜日

春の新日本海フェリー「あかしあ」スイートルーム "くちきり" 乗船記(フォワードサロン編)

4 甲板の売店の横を船首方向に向かうと「マッサージルーム」と「ゲームコーナー」があります。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

位置的にはこんな感じです。右側が売店で左側が自販機コーナーとマッサージルーム、そして奥(船首側)がゲームコーナーです。

2024年7月15日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (165) 碇ヶ関(平川市) (1878/8/1(木))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十八信(続き)」(初版では「第三十三信(続き)」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

カルタ

県境を強行突破してなんとか碇ヶ関(青森県平川市)に辿り着いたイザベラですが、またしても大雨によって足止めを喰らってしまいました。暇を持て余したイザベラは碇ヶ関の子どもの「観察」に勤しんだようで……

 この宿屋には十二人の子どもがいる。暗くなると、彼らはきまってある遊戯をする。伊藤は「これは、日本では、冬になるとどの家庭でもやる遊びだ」という。それは「いろはがるた」の遊びである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.315 より引用)
あー、なるほど。そう言われてみれば「かるた」は「冬の遊び」だったかもしれませんね。ただ面白いことに、原文を確かめてみたところ、「いろはがるた」という表記はこの段落では出てこないようです(次の段落で明示されているのですが)。

子どもたちは輪を作って坐り、大人たちはそれを熱心に見ている。子ども崇拝は米国よりも日本の場合がもっと一般的である。私が思うには、日本の形式が最もよい。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.315 より引用)
いきなり「子ども崇拝」という謎なキーワードが出てきましたが、原文にも突然 child-worship という単語が現れているので、誤訳では無さそうな感じなんですよね。

「いろはがるた」の詳細については、日本奥地紀行の「普及版」ではバッサリとカットされています……あ、高梨さんが原文に無い「それは『いろはがるた』の遊びである」という文章を付け加えたのは、「普及版」でカットされていたことが原因っぽいですね。

 この「いろはがるた」というゲーム、つまり「アルファベット・カード」は一枚一枚に、一つのことわざが書かれた小さい札を使って遊びます。
(高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』中央公論事業出版 p.117 より引用)
「い 犬も歩けば棒に当たる」みたいなヤツですよね(「いろはがるた」で遊んだ記憶が無いものですから、頓珍漢なことを言っていたらすいません)。

読み手は、手に持った 1 枚の読み札に書かれた諺を読み上げます。取り手は読み上げられた諺に一致する絵札を声をあげて取ります。
(高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』中央公論事業出版 p.117 より引用)
このあたりは「百人一首」と似たような感じですよね(札が「絵札」であるという大きな違いがありますが)。

自分の持ち札が最初になくなった者が勝ちで、最後の 1 枚を持っているものが負けということになります。
(高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』中央公論事業出版 p.117 より引用)
この説明が少々謎なのですが、これは「ババ抜き」のルールのような気も……。

おしまいに負けた子どもは、それは小さな女の子だったのですが、一握りの藁を髪に挿されました。もし男の子だったら、顔に墨で決まった印を付ける罰が与えられます。
(高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』中央公論事業出版 p.117 より引用)
顔に墨で落書きすると言えば、現在だと「羽根突き」を思い起こさせますが、かるた遊びの罰としても存在していたのですね。

伝染した笑い

「いろはがるた」に登場することわざも、イザベラは伊藤の通訳であらましを理解することができたようです。

それから伊藤は、たくさんの諺を簡単に訳してくれました。
(高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』中央公論事業出版 p.117 より引用)
ただ、伊藤の訳にも珍妙な部分があり、また英語のことわざに通じる内容のものもあり、その可笑しさにイザベラは笑いを堪えられなくなったとのこと。イザベラの大笑いは周りの子どもや大人に「伝染」し、ついには皆で笑い転げる羽目になったのだとか。

一般的な諺

イザベラは、母国イギリスと日本のことわざの間に少なからぬ普遍性を見出したようです。

 伊藤は、それ以来、私が送るための最善のことわざ、あるいは、彼が最善と考える諺の良い翻訳を書いてくれました。日本においても、英国で我々の祖先がまだイレズミを入れて動物の皮を着ていた頃、既に同じ考えが、明らかに同じと分かる形にまとまったのを見出すのは不思議ではないでしょうか。
(高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』中央公論事業出版 p.118 より引用)
イザベラは「うわさをすれば影がさす」「人を呪わば穴二つ」「猫に小判」などを例示した上で、次のように評価していました。

 これらの 2、3 の例は、言っていることは賢いのですが、あまり上品なことわざ言い回しとはいえません。
(高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』中央公論事業出版 p.118 より引用)
一方で、イザベラは次のようなことわざを高く評価していました。

伊藤は諺の本を持ってきていてその中からたくさん訳出しています。その内の最もうまく出来ていると思われるものには次のようなものがあります。
 「正法に奇特(不思議)無し」「愛は赤いペチコート(腰巻)と共に飛んで行く」(未婚の女子だけがこの気のいた衣装を着ています)。
(高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』中央公論事業出版 p.118 より引用)
更には、次のような格言も紹介していました。最近では滅多に耳にしないものも含まれますが、「慇懃無礼」や「紺屋の白袴」など、今でも普通に使われるものも少なくありません。

「口数多いが意味が少ない[巧言令色少なし仁]」「説教は聞き手にあわせろ」「礼儀正しすぎるのは無礼[慇懃無礼]」「医者の不養生、紺屋の白袴」「地獄の沙汰も金次第」「陰陽師の身の上知らず」「薔薇には棘がある」「七度訊ねて人を疑え、七度計って一度裁て」「古きをたずねて新しきを知る(温故知新)」
(高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』中央公論事業出版 p.118 より引用)
また、日本の格言の中には「女性蔑視」が見られるとして、二つの例を挙げています。

あなたもお気づきのように、これらのうちには大変良い教えを含むものもあり、また非常に俗っぽいものもあります。もっと多くの、女性不信と女性蔑視が示されている英訳された諺がありますが、ここではほんの二つだけ挙げておきましょう。「賢い妻はめったに夫の敷居をまたがない」や「子無き妻は神の思し召し」といったものです。
(高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』中央公論事業出版 p.119 より引用)

個人的な窮乏

日本奥地紀行』の「普及版」でカットされた内容はここまでで、続く「個人的な窮乏」は「普及版」でもそのまま残されています。

 以上のような遊戯の談義から個人的な窮乏の話に移るのは、いささか話が落ちてくる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.315 より引用)
確かにもの凄い変化球ですが……。

しかしこの旅行で何日も足どめをされた結果、私の少量の外国食品の貯えも尽きはてた。私は今では米飯、きゅうり、塩鮭を食べて暮らしている。塩鮭はとても塩辛くて、水を二度もかえて煮ても、ひどく喉がかわいてきて困ってしまう。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.315 より引用)
あー。塩鮭はご飯が進みますが、あまりに塩っ辛いとキツいですよね。当時の塩鮭は長期保存を考慮して、今よりも塩っ気が多かった、とかでしょうか。

今日はそれさえもない。しばらく海岸との交通もとだえて、村には塩魚が完全になくなってしまうという惨状となったからである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.315 より引用)
むむっ、塩鮭まで枯渇しちゃいましたか……。

ある日私はオムレツを食べたが、それは黴臭い革によく似ていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.315 より引用)
もはや食べ物では無いものに似てしまいましたか……(汗)。

東京でイタリア公使が私に言った。「日本では食物の話ほどまじめな話はない」と。他の多くの人たちもそれと同じようなことを言ったが、私はそのとき、なんとつまらぬ気持ちをもつものだろう、と思ったのであった。今日私はその言葉が真理であることを悟った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.315 より引用)
流石はイタリア公使……! そしてイザベラもついに悟りを開いてしまったようです。

私は最後の残り物、ブランドの肉入り糖菓の一箱を開けてみたところが、黴の塊となっていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.315 より引用)
ただでさえ高温多湿の土地ですし、しかもこれだけ雨に降られたのでは、たとえ保存食であっても無事でいられるかは怪しいものですよね。

私は蓑を買ったが、この方が油紙よりも雨合羽として信頼がおける。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.315-316 より引用)
蓑を身につけたイザベラのイラストは、平凡社から出ている『日本奥地紀行』の表紙に描かれているものですが、碇ヶ関で購入したものだったのですね。

子どもたちが学課のおさらいをする声を聞くのもこれが最後である。川の水量は急速に減りつつあり、朝には出発することになっている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.316 より引用)
おっ、ついに移動を再開するのですね!

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2024年7月14日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1151) 「カラマンベツ・留辺蘂・サトンベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

カラマンベツ

kar-oman-pet?
回る・山の方へ行く・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
釧路音別町チャンベツから道道 241 号「本流音別停車場線」を北上すると、「朝日橋」と「夕日橋」で音別川を渡った先に東に分岐する道があります。道道から分岐した道は「カラマンベツ橋」で音別川を渡っているのですが、カラマンベツ橋から 0.5 km ほど北で「カラマン沢川」が音別川に合流しています。

更に「カラマン沢川」を遡ると、道東道の「カラマン沢川橋」があり、橋の西に「カラマントンネル」が、また橋の東には「カラマン別トンネル」があります。
「カラマントンネル」の西隣には延長 3,016 m の「カラ里トンネル」があり、カラ里トンネルのすぐ近くには「軽満かるまん」三等三角点があります(標高 372.0 m)。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川が見当たりませんが、『北海道実測切図』(1895 頃) には「カラマ」という名前の川が描かれていました。また『午手控』(1858) には「カルマ 右小川」とあるので、何らかの手違いで「東西蝦夷──」には描かれなかった、という可能性もあるかもしれません。

どうやら「カラマンベツ」は「カラマ」という川名に由来するっぽいのですが、肝心の「カル?マ」の意味するところが良くわかりません。『角川日本地名大辞典』(1987) には次のように記されていたのですが……。

 からまんべつ カラマンベツ <音別町>
〔近代〕昭和34年~現在の音別町の行政字名。もとは音別村の一部。地名の由来は,アイヌ語のカラマンベツ(作る・焼く・川)による。
(『角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)』角川書店 p.419 より引用)
うーん……。果たしてこれはこのまま信用しちゃっていいものなんでしょうか。なんとなく「辞書から単語を拾って並べてみました」感が凄いのですが……。

……などと言いながら、辞書から単語を拾って並べるしか無いのはこちらも同じだったりするのですが(汗)。kar には「作る」以外にも「回る」という意味もあるので、kar-oman-pet で「回る・山の方へ行く・川」だったのかな、と考えてみました。

留辺蘂(るべしべ)

ru-pes-pe
路・それに沿って下る・もの(川)
(記録あり、類型多数)

2024年7月13日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1150) 「ヌプキベツ川・イツカンベツ沢川・ダンネナイ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ヌプキベツ川

nupki-pet
にごり水・川
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
音別川の支流である)チャンベツ川の北支流です。チャンベツ川よりもヌプキベツ川のほうが川の規模が大きいように思えるのですが、ただ川の長さで見るとチャンベツ川のほうが長いような……(上流部で大きく捻じ曲がっている分があるので)。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川が描かれていませんが、『北海道実測切図』(1895 頃) には「ヌプキペッ」と描かれていました。

手元の資料には言及が無い……と思っていたのですが、意外なことに『角川日本地名大辞典』(1987) に記載がありました。

 ぬぷきべつ ヌプキベツ <音別町>
〔近代〕昭和34年~現在の音別町の行政字名。もとは音別村の一部。地名の由来は,アイヌ語のヌプキベツ(渇水する川)により,野地水が流れる地域。
(『角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)』角川書店 p.1117 より引用)
え。「ヌプキ」が何故「渇水する」になるのか……。『地名アイヌ語小辞典』(1956) には次のように記されています。

nup-ki ぬㇷ゚キ にごり水。[<nup-ke(野・油)]
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.69 より引用)
素直に考えると nupki-pet は「にごり水・川」と捉えるべきですよね。平取の「貫気別」や豊浦町の「貫気別川」と同系の川名だと思われます。

イツカンベツ沢川

e-kan-pet???
頭・の上に入る・川
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)

2024年7月12日金曜日

春の新日本海フェリー「あかしあ」スイートルーム "くちきり" 乗船記(船内ウロウロ編)

クイズラリーの最終問は「4 階、フロント横」にあるらしいので、4 甲板の案内所前にやってきましたが、それらしきものが見つかりません。
あれ、よく見ると「フロント横」であって「案内所横」とは書いてないですね。フロント……どこ?

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

仕方がないので、少し周囲を歩くことにしました。売店の次の営業時間は 9:30 からで、まだ開店 10 分前だったようです。

2024年7月11日木曜日

春の新日本海フェリー「あかしあ」スイートルーム "くちきり" 乗船記(オープンデッキ編)

クイズラリーの問題をチェックするために、5 甲板右舷船尾側にあるカフェ "Arc-en-ciel" にやってきました。最終問である「第 5 問」は「4 階フロント横」にある……とのことですが、せっかくここまで来たのですし、少しオープンデッキに出てみましょう。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

若干複雑なアングルになっていますが、左舷にレストラン "Vent Vert" があり、その間がオープンテラスになっています。開放感を残しつつ、なるべく風を巻き込まないように……という設計上の配慮なんでしょうね。

2024年7月10日水曜日

お知らせ(2024/07/10)

手術が無事終了し、ようやく退院することができました。
ぼちぼち記事の更新を再開しますので、よろしくお願いします。

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