2024年6月16日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1147) 「ルシケウシ沢川・オサッペ沢川・ムリ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ルシケウシ沢川

ruska-us-i?
怒る・いつもする・もの(川)
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
釧路音別町中音別、トウンペ川の少し北で音別川に合流する東支流です。『北海道実測切図』(1895 頃) には「ルシケウシ」と描かれていますが、『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) では該当しそうな川が見当たりません。

このあたりは『東西蝦夷山川地理取調図』と『北海道実測切図』で異同が目立つので、ちょっと表にまとめてみましょう。

東西蝦夷山川地理取調図 (1859) 北海道実測切図 (1895 頃) 地理院地図位置
ワタヽイベアタタイペアカタノンペ川音別川の西
-オコタノンペオコタヌンペ川音別川の西
-オプカルペ-音別川の西
ヲフシヲマナイ--音別川の東
カラニホク--音別川の東
ルチヤラ--音別川の東
チトカンヌシシトカニウシ-音別川の東
ヲヒラチミヲピラ?-音別川の西
ヲフンカルシペ--音別川の西
-クッチャロトウンペ川音別川の西
-ルシケウシルシケウシ沢川音別川の東
タツタラ--音別川の西
ヘンケタツタラ--音別川の西
ヲシヤヲ?オーサペッオサッペ沢川音別川の東

表を見る限り「ルシケウシ」に相当する川は「東西蝦夷──」には見当たりませんが、下流側に「ルチヤラ」という川が描かれているのが気になるところです。「ルチヤラ」は ru-char で「道・入口」あたりかなと思わせますが、正確な位置が不明なので何とも言えません。

「ルシケウシ」を素直に読み解くと ruska-us-i で「怒る・いつもする・もの(川)」となるでしょうか。むかわ町の「入鹿別」と似た感じで、「ふてくされて流路が捻じ曲がった川」だったのかもしれません。

あるいはもっと単純に rutke-us-i で「崩れる・いつもする・もの(川)」で、崖崩れの多い川という可能性もあるかもしれません。

オサッペ沢川

o-sat-pe?
河口・乾いている・もの(川)
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
音別川の東支流で、「ルシケウシ沢川」の北西を流れています(間に川名不詳の川あり)。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヲシヤヲ?ヘ」と描かれていて、『北海道実測切図』(1895 頃) には「オーサペッ」と描かれています。

o-sat-pe で「河口・乾いている・もの(川)」と読めますが、陸軍図では「オサッペ沢川」に相当する川の下流部には湿原が広がっているように描かれていて、「乾いている」ようには見えません。なにか見落としがあるのかもしれませんが……。

ムリ川

murit?
敷物に織る草
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
音別川の大規模な支流(西支流)で、川沿いを道道 500 号「音別浦幌線」が通っています。近くの集落は「音別町ムリ」ですが、かつては漢字で「霧里」と表記されたこともあったみたいです。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ムリフト」と描かれていますが、これは「ムリ」の河口を意味します。『北海道実測切図』(1895 頃) には「ムリ」とあり、この川は -pet-nay をつけずに「ムリ」と呼ばれていたことを窺わせます。

更科源蔵さんの『アイヌ語地名解』(1982) には次のように記されていました。

ムリ とは海岸に生えるてんきぐさ(はまにんにく)のことであるが、それとは関係のなさそうな山奥の川である。北見湧別川の支流に武利川がある。
(更科源蔵『更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解』みやま書房 p.242 より引用)
更科さんが言及した「武利川」は丸瀬布温泉のあたりを流れる川です(詳細は https://www.bojan.net/2022/04/02.html をご覧ください)。更科さんも疑問を呈した通り、murit は海岸の砂地に生える草で、山奥の川名には相応しく無いものです。

ムリ草?

山田秀三さんは『北海道の地名』(1994) にて次のように記していました。

ムリ草が生えている処から呼ばれた名であるが, そのムリ草がよく分からない。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.284 より引用)
ふむ。「ムリ草」に由来する……というところは確定なんでしょうか?

 松浦武四郎の登古呂日誌では,常呂のムリ・ウㇱ・ヌタプ(ムリ草・群生する・川曲がり)の処で「ムリとは敷物に織る草のよし」と書かれた。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.284 より引用)
常呂にも「ムリ」系の地名があったのですね。確かに戊午日誌 (1859-1863) 「西部登古呂誌」にて次のように記されていました。

本名はムリシノタフといへる由也。此ムリとは敷ものに織る草のよし。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.159 より引用)
この「ムリシノタフ」は常呂町豊川のあたりと考えられるのですが、常呂川をやや遡ったところで、海岸からは 8 km ほど離れています。びみょうな距離ですが、テンキグサが自生する場所では無さそうに思えます。

土地の古老にそんな草がありましたかと聞いたら,ここには「すげ」が密生していて,それで蓆を織ったのだが,といわれた。ほんの参考にまで。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.284 より引用)
ということで、常呂の「ムリ」については「テンキグサ」ではなく「スゲ」だった可能性がありそうですね。

「ムリ草」は「テンキグサ」に限らない?

「ムリ草」は必ずしも「テンキグサ」には限らない……と仮定すると、諸々の矛盾点がやや解きほぐせそうな気もしてきました。

 白糠の神野一郎氏は「雨降り花,山そば」のことだろうかといわれ,丸瀬布の秋葉実氏は「いらくさ」かと考えられたやに話された。前に近文の荒井シヤヌレ媼に聞いたらムン・リ(草が・高い)だろうともいわれた。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.284 より引用)
以前はこの mun-ri 説しか無いかなぁ……と考えていたのですが、murit が「テンキグサ」以外にも使われていた、と考えるべきかもしれません(似て非なる植物に対して同一の名前で呼ぶこともあったようなので)。

ということで、「ムリ川」をどう解釈するかですが、ざっくりと murit で「敷物に織る草」とするのはどうでしょうか……?

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