イザベラ・バードの『
日本奥地紀行』(原題
"Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十八信」(初版では「第三十三信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。
原始的な宿屋
イザベラ一行は雨の降る中、秋田と青森の県境である「矢立峠」の強行突破を試み、峠についたところで激しい雨に襲われて進退窮まったところで、偶然にも青森側からやってきた馬と馬子に遭遇し、眼の前で橋が落ちてゆく中を北に向かっていました。そしてついに、碇ヶ関に到着します。
私たちは最後の橋を渡ると碇ガ関に入った。ここは人口八百の村で、険しい山と平川の間の狭い岩棚となっている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『
日本奥地紀行』平凡社 p.307 より引用)
「狭い岩棚となっている」というのがちょっと良くわからないのですが、原文では
on a narrow ledge between an abrupt hill and the Hirakawa となっていました。現在の地図ではピンと来ないのですが、これは「碇ヶ関駅」が集落の北西側に設置されたことによるもので、本来の「碇ヶ関」は「平川」に「
大落前川」が合流するあたりだったようです。
碇ヶ関は木材加工の村だったようで、イザベラは「あらゆる形をした材木が山のように積み重ねてあった」と記していて、次のように続けていました。
ここは永住の村というよりは材木切り出し人の野営地のように見えた。しかし美しい環境にあり、私が今まで見たどの村とも様子がちがっていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.307 より引用)
「美しい環境にあり」としつつ「様子がちがっていた」というのですが……
街路は長くて狭く、両側に石の水路の川が流れていた。しかしこれらも水があふれて、男や女、子どもが、四角なダムを作って畳に上がってこないように堰止めていたが、水はすでに土間に達していた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.307 より引用)
あー……。まぁ、峠であれだけの雨が降っていたのであれば、麓の川も大変なことになっているのも当然ではあるのですが。「四角なダム」は
square dams で、時岡敬子さんも「四角い堰」と訳されていました。
人馬を流すような豪雨の中を、水溜まりになった鞍に腰をかけながら、もう数時間も前からびしょ濡れになって、この非常に原始的な宿屋に到着した。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.307-308 より引用)
ついにイザベラは宿屋にたどり着いたようですが、「非常に原始的な」とは……。家屋の多くは「粗末な板を縄で直立材に結びつけているだけ」と記していますが、宿屋もそんな感じだったのでしょうか。
宿の下手は台所で、大雨で足どめされている学生たちの一団や、馬や鶏、犬などがいた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.308 より引用)
「学生たちの一団」がいた、というのは意外な感じがしますね。
私の部屋は梯子で上って行く屋根裏のあわれな部屋であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.308 より引用)
屋根裏部屋……。それは確かに哀れな感じが。もっとも洪水の心配が比較的無さそうなのが救いでしょうか。
梯子の下は泥沼のようになっていたので、下りるときにはウェリントン・ブーツ(膝まで来る長靴)を履かねばならなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.308 より引用)
まるで田んぼの上で寝泊まりするような状況だったのですね(汗)。屋根裏部屋ということは天井=屋根なので、雨が激しく屋根を叩きつける音で会話もままならない状況だったとのこと。
ベッドはずぶ濡れになっており、私の箱に水が入っていて、練乳の残りも溶けていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.308 より引用)
これは雨漏りのせいか……と思ったのですが、良く考えると宿屋にベッドがある筈も無いので、これはイザベラが携行していたベッドのことですね。大雨の中を移動していたので当然と言えば当然なのですが……。
イザベラは眠りにつこうとしていたところで、伊藤の叫ぶ声で目を覚まします。
私たちが先ほど村に入るときに渡った橋が落ちそうだという。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.308 より引用)
この橋は、現在の国道 7 号の「番所橋」に相当するものと思われるのですが……
そこで、川の土手まで走って行って大群集の中にまじった。彼らは今にも迫っている災害に気をとられ、今まで見たこともない外国婦人には少しも気づかなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.308 より引用)
普通であれば確実に耳目を集める筈のイザベラがスルーされた時点で、事態の切迫ぶりがわかりますね……。
川の増水
イザベラは、今にも橋が落ちそうになっている川について、次のように記していました。
平川は、一時間前までは単に深さ四フィートの清冽な谷川であったが、今や一〇フィートも深くなって、ものすごい音を立てながら、濁流となって突進していた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『
日本奥地紀行』平凡社 p.308 より引用)
4 フィートは約 1.2 m で、10 フィートは約 3 m とのこと。これは……確かに危機的状況ですね。そして「急げばなんとかなる」とイザベラを急き立てた馬子の見通しが実に正しかった……ということになりますね。
どの波も黄褐色の泡をふきながら
波頭を立てていた──
栗毛の馬のたてがみにも似て
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.308-309 より引用)
突然、詩が出てきましたが、これは
ウォルター・スコットの
The Lay of the Last Minstrel からの引用とのこと。
群衆に紛れて今にも崩壊しそうな橋を眺めていたイザベラは、その時の状況を次のように綴っています。
切り出した大きな材木や樹木、木の根や大枝、小枝が数限りなく流れ下ってきていた。こちら側の橋台は根元をだいぶ削りとられたが、中央の橋脚に丸太が衝突するたびに震えるだけで、橋そのものはしっかり立っていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.309 より引用)
「落橋しそう」とは言ったものの、イザベラが「りっぱな橋」「しっかりしたもの」と評した橋は濁流に揉まれてもすぐさま崩壊するようなことは無かったようです。
実際まだしっかりしていたから、私が着いてからも、二人の男が、向こう岸にある自分の持ち物をとってこようと橋を渡って行ったほどである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.309 より引用)
これは結果的には正しい判断だったのかもしれませんが、命がけですよね……。
イザベラの「実況」が続きます。
やがて、鉋をかけた大きな木材と、木のつけ根やいろんな残骸物が下ってきた。上流のりっぱな橋が落ちたので、三〇フィートもある四十本ものりっぱな材木が流れて来た。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.309 より引用)
この時点では眼の前の橋は健在だったものの、状況は刻々と悪化していました。
上流の土手では、流れてくる材木を捕らえようと努力がなされたが、二十本のうち一本ぐらいしか救うことができなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.309 より引用)
懸命に努力したものの、結果には殆ど結びつかず……と言ったところでしょうか。
これらの材木が下ってくる壮大な光景は、たいそう面白かった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.309 より引用)
「たいそう面白い」とは酷い言い草ですが、原文では
most exciting となっていたので、間違ってはいないですね……。この「エキサイティングな光景」は、やがて予想された結末を迎えることになります。
この後一時間して、三〇フィートは充分にある二本の丸太がくっついて下ってきて、ほとんど同時に、中央の橋脚に衝突した。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.309 より引用)
30 フィートは約 9.1 m ですが、このサイズの丸太が橋の中央の橋脚を直撃し……
橋脚が恐ろしく振動したかと思うと、この大きな橋は真っ二つに分かれ、生き物のような恐ろしい唸り声をあげて、激流に姿を没し、下方の波の中に姿をまた現わしたが、すでにばらばらの木材となって海の方向へ流れ去った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.309-310 より引用)
橋は断末魔の叫び声を残して砕け散ってしまったのでした。
後には何一つ残らなかった。下流の橋は朝のうちに流されたから、川を歩いて渡れるようになるまで、この小さな部落は完全に孤立した。三〇マイルの道路にかかっている十九の橋のうちで二つだけが残って、道路そのものはほとんど全部流失してしまった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.310 より引用)
イザベラは「下流の橋は朝のうちに流された」としているのですが、当時の羽州街道は「平川」の東岸の「
古懸」を経由していたのでしょうか。現在の国道 7 号は大鰐町
唐牛まで、川の西側を経由しています。
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