2024年5月31日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (198) 「根室本線の高架」

道道 465 号「金山幾寅停車場線」で金山に向かう途中ですが、スクールバスに追いついてしまいました。この写真ですが、よく見ると……
右側に落石防止柵があるのはさておき、左側にもしっかりした土台の上に柵が設置されています。実は JR 根室本線がこの下を通っているのですね。道路からの落下物が線路を塞ぐことが無いように、しっかりした柵が設置されていました。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

更にしばらく進むと、またしても左側に謎の建造物が見えてきました。取水施設かなにかかなーと思ったのですが、現在の航空写真を見ると、道道 465 号の線形改良で橋が開通していました。この建造物は新ルートに関連するなにか、だったのかもしれません。

2024年5月30日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (197) 「かなやま湖」

幾寅駅前から道道 465 号「金山幾寅停車場線」で国道 38 号に戻ります。まぁ、要は駅前通りなんですけどね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

道道 465 号と国道 38 号の交点に戻ってきました。左折して富良野方面に向かいます。

2024年5月29日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (196) 「幌舞駅」

道道 1117 号「落合停車場線」と合流した国道 38 号を西に向かいます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「落合こ線橋」を渡ります。JR 根室本線を渡る立体交叉ですが、下を通っていた筈の根室本線(富良野-新得間)は 2024 年 4 月に廃止されてしまいました。

2024年5月28日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (195) 「山の中の直線区間」

狩勝峠を越えて南富良野町に入りました。カヌーのピクトグラムのようですが、かなやま湖……でしょうか?
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

前方の山には雪が結構残っていますね。

2024年5月27日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (194) 「狩勝峠 6 合目~頂上」

国道 38 号の「狩勝峠」に向かいます。登坂車線の整備された走りやすい道です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

6 合目

「6 合目」の看板は右カーブの途中にありました。

2024年5月26日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1141) 「和天別川・フレナイ川・古瀬川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

和天別川(わてんべつ──)

uwatte-pet
群がっている・川
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
茶路川の河口に合流する西支流で、茶路川の支流の中ではもっとも大きいものです。もともとは独立して海に注いでいたと思われますが、沿岸流が運んだ砂によって河口が東に捻じ曲げられた結果、茶路川の支流となっています。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には、「チヤロ」(=茶路川)の隣に「ワツテ」(=和天別川)という川が描かれていて、河口の間に島が描かれています。当時の「ワツテ」は、直接海に注ぐルートも残存していたのかもしれません。

『北海道実測切図』(1895 頃) では、現在と同様に茶路川の河口付近に合流する形で「ウワッテペッ」という名前の川が描かれています。

加賀伝蔵の『クスリ地名解』(1832) には次のように記されていました。

ウワテヘツ ウワッテ・ヘツ 多また(股)・川
  尤も此所の川小川に候得共、多枝川持有故名附由。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.256 より引用)
また『東蝦夷日誌』(1863-1867) にも次のように記されていました。

ワツテ(左川)とは五本の指を開きし形と云。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.298 より引用)
永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Uwatte pet   ウワッテ ペッ   連枝川 「ウワッテ」ハ五指ヲ開キタル形ナリ此川支流多シ故ニ名ク
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.321 より引用)
いきなりこの解が出てきたら「は?」となりそうですが、加賀伝蔵や松浦武四郎の解があると「ふむふむ」と思えてしまいますね(汗)。uwatte という語はあまり見た記憶が無いのですが、『地名アイヌ語小辞典』(1956) にも立項されていました。

uwatte ウわッテ 《完》多くアル(イル,ナル);群が(ってい)る。yuk ~ 鹿が群がっている(虎杖丸,442)。~ kotan【ビホロ】人口の多い村;大きな村。[<u-at-te(お互を・群がら・せる)]
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.142 より引用)
uwatte-pet で「群がっている・川」となるでしょうか。実際の地形を見ても、和天別川は中流部でいくつかの支流に枝分かれしているので、これを「群がっている川」と呼んだとしても不思議は無さそうな感じです。

山田秀三さんの『北海道の地名』(1994) によると、「和天別」はかつて「割手別」と書かれたこともあったとのこと。「指が開いた川なので『割手別』」というのはよく出来た当て字ですが、結局「和天別」となり、読み方も字に引きずられて「わてんべつ」になってしまった……ということみたいです。

フレナイ川

hure-nay
赤・川
(記録あり、類型多数)

2024年5月25日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1140) 「ヒラカシュナイ川・チクベンニナイ川・コイカタホロカチョロ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ヒラカシュナイ川

pira-kas-un-nay
崖・上・そこに入る・川
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
白糠町上茶路東三線のあたりで茶路川に東から合流する支流です。地理院地図には「チクベニンナイ川」の源流部にも「ヒラカシュナイ川」と描かれていますが、国土数値情報ではどちらも「ヒラカシュナイ川」となっているので、何らかの錯誤がありそうな感じです。

『北海道実測切図』(1895 頃) では、本項で取り上げる「ヒラカシュナイ川」の位置に「ピラカシュンナイ」と描かれていました。

鎌田正信さんの『道東地方のアイヌ語地名』(1995) には次のように記されていました。

 ピラ・カシ・ウン・ナィ(pira-kasi-un-nay 崖・の所・にある・川)の意であるが、この沢の川口付近は平坦地で、上流も入ってみたが、崖らしきものは見あたらない。
(鎌田正信『道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】』私家版 p.226 より引用)
kasi で「の所」とありますが、ちょっと疑問が残る解釈に思えます。『地名アイヌ語小辞典』(1956) には次のように記されていました。

kasi(-ke) カし(ケ) ka の第 3 人称形。その上(の所)。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.44 より引用)
「その上(の所)」なのですが、これを「その上」または「の所」と見間違えた……とかでしょうか?

鎌田さんは「川口付近は平坦地」としていますが、陸軍図では「ピラカシュンナイ」が茶路川に合流する前後で、茶路川の両側が崖として描かれています。kasi ではなく kas で、pira-kas-un-nay で「崖・上・そこに入る・川」と考えて良いのではないでしょうか。

チクベンニナイ川

chikupenni-nay???
エンジュ・川
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)

2024年5月24日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (193) 「狩勝峠 1 合目~5 合目」

「新得そばの館」の駐車場を出発しました。そういやこのログハウス?は何なんでしょう……? トイレかな? とも思ったのですが、ちょっと違うような気も……。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

私道なのか公道なのか今ひとつ釈然としない道(私道のような気が)を東に向かい、国道に戻ります。

2024年5月23日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (192) 「狩勝ポッポの道」

「新得そばの館」でそばと豚丼とソフトクリームを味わった後は……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

お店の裏に根室本線・狩勝実験線の跡があるので、ちょいと見に行くことに。

2024年5月22日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (191) 「新得そばの館」

国道 38 号を北に向かいます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「動物注意」の標識ですが、エゾシカの背中に模様?が描かれているのがユニークですね。

2024年5月21日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (190) 「日本新八景」

帯広駅前」行きの北海道拓殖バスがやってきました。よく見るとバス停の真ん前でしたが、通過したっぽいですね。
新得から帯広駅前までというのも結構な距離がありそうに思えますが、かつての北海道拓殖鉄道の代替としての性格もあるのでしょうか(北海道拓殖鉄道とは異なり、行き先は帯広ですが)。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

道路脇の防風柵は折りたたみ式のようですが、何故か畳まれずにそのままの状態の柵も見えます。柵が傷んで畳めなくなったのでしょうか……?

2024年5月20日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (189) 「999 安全運転」

道道 718 号「忠別清水線」を南下して、新得町屈足の市街地にやってきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ホクレン以外のガソリンスタンドがあると「都会だなぁ」と思えてしまいますが……

2024年5月19日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1139) 「アルベチャロ川・ロンメイ川・ウコタキヌプリ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

アルベチャロ川

ar-pet-charo???
もう一方の・川・口
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
国道 274 号の「由美橋」の近くで南からタクタクベオベツ川に合流する支流です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川が描かれておらず、『北海道実測切図』(1895 頃) には川は描かれているものの川名の記入がありません。

古い地図で川名が確認できないので、そもそもアイヌ語由来であるかどうかから検討が必要ですが、アイヌ語だとすれば ar-pet-charo で「もう一方の・川・口」と読めそうです。「もう一方の」は「対岸の」と解釈したほうが良いかもしれません。

河口の位置を考えると、少し西でタクタクベオベツ川に北から合流している「ロンメイ川」と対になっていると考えられそうでしょうか。河口付近で山によって流路が曲げられていることを「喉のようである」と見立てて「くち」と呼んだ、という可能性もありそうで、また茶路川とは直接の関係は無いんじゃないかなぁと思っています。

ロンメイ川

kom-nay???
鍋のつるの両側の曲がり・川
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)

2024年5月18日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1138) 「タクタクベオベツ川・ルウクシチャロ川・パウシ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

タクタクベオベツ川

taktaku-pe-o-pet?
にぎって丸めた・もの・多くある・川
(? = 記録あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
国鉄白糠線の終点だった北進駅のすぐ北で茶路川に合流する西支流で、川に沿って国道 274 号が通っています。イロベツ川との間に「立田保別」という名前の三等三角点がありますが、これは「?ったぼべつ」と読ませる……らしいです。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「タクタクテヘツ」という名前の川が描かれています(「テ」は「ヲ」の誤記かも)。『北海道実測切図』(1895 頃) には「タクタクペオペツ」と、ほぼ現在と同じ形で川が描かれていました。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Takutakube-o pet   タクタクベオ ペッ   大石多キ川 安政帳ニ大川ノ内大石アル處トアル是レナリ斜里郡ニ同名ノ地アリ
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.324 より引用)
鎌田正信さんの『道東地方のアイヌ語地名』(1995) には、永田地名解を承けて次のように記されていました。

タクタク・ペ・オ・ペッ「tak-tak-pe-o-pet 玉石が・川のかみに・ごろごろしている・川」の意である。それこそ川口から上った所は、玉石(ごろた石)だらけの川筋である。
(鎌田正信『道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】』私家版 p.228 より引用)
tak-tak が「玉石」を意味するというのは異論がないのですが、pe-o-pet が「川のかみに・ごろごろしている・川」というのは、ちょっと違和感を覚えます。確かに『地名アイヌ語小辞典』(1956) には pe の項に「②川のかみ」とあるので、意味は間違ってないのですが、果たしてその語順はアリなのかな、という疑問が……。

「広報しらぬか」に連載された「茶路川筋のアイヌ語地名」には次のように記されていました。

「タㇰ・タㇰ(ごろごろした石)・ペ(あるもの)・オ(そこに)・ペッ(川)」という意味があります。
(広報しらぬか「茶路川筋のアイヌ語地名」より引用)
これは……更に文法的におかしくなっているような……。pe を「あるもの」としていますが、知里さんの『地名アイヌ語小辞典』には次のように記されています。

-pe 動詞・形容詞──それも必ず子音で終るもの──について,「……するもの」「……であるもの」の意をあらわす。
(知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.87 より引用)
-pe は「動詞」または「形容詞」の後ろにつくもので、tak-tak のような「名詞」の後ろにはつかない筈なんですよね。

ただ、『アイヌ語沙流方言辞典』(1996) には taktaku で「……をにぎって丸める」という語が記載されていました。これだと taktaku-pe-o-pet で「にぎって丸める・もの・多くある・川」と解釈できそうですね。

結局のところは「玉石の多い川」なのですが、玉石のことを「にぎって丸めたもの」と表現したのが面白いところでしょうか。もちろん玉石は川によって形成されたもので人為的に丸めたものではないのですが、人知を超える存在がにぎって丸めた……という考え方なのかもしれません。

ルウクシチャロ川

ru-kus-{charo}
道・通る・{茶路川}
(記録あり、類型あり)

2024年5月17日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (188) 「『秘境』を自らアピールするスタイル」

道道 593 号「屈足鹿追線」を西に向かい、新得町に入りました。
上体がやや立ち上がり気味ですが、膝がしっかりと前に入っていて良い姿勢ですね。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

直前に「急カーブ・急勾配」という警告が出ていましたが、予告通りにカーブが増えてきました。

2024年5月16日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (187) 「道道 593 号『屈足鹿追線』」

「扇ヶ原展望台」を後にして、再び道道 85 号「鹿追糠平線」を西に向かいます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

北海道らしい一本道区間に戻ってきました。

2024年5月15日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (186) 「扇ヶ原展望台」

道道 85 号「鹿追糠平線」沿いにある「扇ヶ原展望台」にやってきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

大雪山国立公園 扇ヶ原展望台」との文字が刻まれた石碑……と言うよりは岩……が置かれています。

2024年5月14日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (185) 「駒止湖」

然別湖を後にします。右折して道道 85 号「鹿追糠平線」を南に向かいます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「歩行者有注意」でおなじみの「湖畔トンネル」の入口が見えてきました。南北で出入り口の形状が全く異なるんですね。右側に見えているのは「ホテル福原」の建物です。

2024年5月13日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (184) 「然別湖」

車を停めて、然別湖畔を散策します。駐車場の正面に見えるのは「ホテル福原」ですが、二ヶ月ほど前の 2017 年 3 月に営業を休止してしまいました。
休業は「老朽化のため」とされていて、全面改築も含めて検討されていたようですが、結局ホテルは売却されたようで、現時点でも営業は再開されていません。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

駐車場から湖畔に向かいます。右側に見えるヨーロッパの山小屋風の建物が「然別湖ネイチャーセンター」で、左に見えるのは「然別湖畔温泉ホテル風水」です。

2024年5月12日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1137) 「ピラウンナイ川・トンベ川・イロベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ピラウンナイ川

pira-un-nay
崖・に入る・川
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
国道 392 号の「あきら橋」と「美恵みえ橋」の間、茶路川が大きく蛇行しているあたりで南西から合流する支流(西支流)です。ピラウンナイ川と南隣のシュウトナイ川の間には「平雲内」という三等三角点(標高 398.2 m)もあり、こちらは「びらうんない」と読ませるようです(「点の記」の解像度が不足していて、濁点か半濁点か明瞭では無いのですが)。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヒラヲンナイ」という名前の川が描かれています。『北海道実測切図』(1895 頃) では「ピラウンナイ」と描かれていて、途中で枝分かれする南支流は「ポンピラウンナイ」と描かれていました。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Pira un nai   ピラ ウン ナイ   崖ノ川
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.323 より引用)
pira-un-nay で「崖・ある・川」と読めますが、-us ではなく -un なので、「崖・に入る・川」と捉えたほうが良いかもしれません。

なお、OpenStreetMap では、かつて「ポンピラウンナイ」と呼ばれていた川が「メノー川」となっていますが、これは「瑪瑙」に由来する可能性もありそうです(=アイヌ語由来では無いかも)。

トンベ川

tu-un-pet?
峰(尾根)・に入る・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2024年5月11日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1136) 「ホロヤムワッカ川・幌内・オクチャック川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ホロヤムワッカ川

poro-yam-wakka
大きな・冷たい・水
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
国道 392 号の「あきら橋」の北で北東から茶路川に注ぐ支流です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にも「ホロヤムワツカ」と描かれています。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Poro yam wakka   ポロ ヤㇺ ワㇰカ   大ナル冷水
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.323 より引用)
poro-yam-wakka で「大きな・冷たい・水」と読めますが、nay あたりが略されているような感じがします(あるいは pet か)。きっと「大きな『冷たい水』の川」で、冷たい飲水を供給してくれる川だったのでしょうね。

幌内(ほろない)

poro-nay?
大きな・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2024年5月10日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (183) 「湖畔トンネル」

道道 85 号「鹿追糠平線」を北上して「然別湖」に向かいます。あ、対向車が道を譲ってくれたようです(恐縮です)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

遠くの方に湖が見えてきました!

2024年5月9日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (182) 「白樺峠」

「扇ヶ原展望台」をスルーして、「東ヌプカウシヌプリ」と「西ヌプカウシヌプリ」の間にある「白樺峠」に向かいます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

覆道(駒止覆道)が見えてきました。一気に山道っぽくなりましたね。

2024年5月8日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (181) 「パールスカイライン」

道道 85 号「鹿追糠平線」を北に向かいます。対向車線を走っているのは北海道拓殖バスの「帯広駅前」行き路線バスですが、このバスは然別湖からやってきたっぽい感じですね。
然別湖と帯広駅前の間は 60 km 近くあるので凄いなぁと思ったのですが、帯広駅前と広尾の間は 80 km 以上あったので、大したこと無かったですね(汗)。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

道路脇に「とかち鹿追ジオパーク ビジターセンター」の案内がありました。何故か道道から 200 m ほど離れたところにあるようです。

2024年5月7日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (180) 「馬横断あり」

鹿追高校の前を通り過ぎ、更に北に向かいます。左に「めん処しかめん」の看板が見えますが……
注目すべきは「鹿追消防署」への案内標識です。白地に青文字が定番ですが、なんと文字が赤くなっています。消防署だから、でしょうか……?

2024年5月6日月曜日

北海道のアイヌ語地名 (1135) 「縫別・神ノ牛山・シュウトナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

縫別(ぬいべつ)

nuye-pet?
豊漁・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
道東道・白糠 IC のあたりの地名です。表記には揺れがあり、「ノイベツ」や「ヌイベツ」とカタカナで表記される場合もあります。同名の支流もあり、白糠 IC の東を北から南に流れています。かつては国鉄白糠線にも同名の駅がありました。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ノイヘツ」とあり、『北海道実測切図』(1895 頃) では「ノイペツ」と描かれています。茶路川の支流の中でも大きな川ですが、何故か永田地名解 (1891) には記載が無いようです。

「北海道駅名の起源」には次のように記されていました。

  縫 別(ぬいべつ)
所在地 (釧路国)白糠郡白糠町
開 駅 昭和39年10月 7 日 (客)
起 源 アイヌ語の「ニウンペッ」(木のある川)から出たもので、これが「縫別」に転かしたのである。
(『北海道駅名の起源(昭和48年版)』日本国有鉄道北海道総局 p.151 より引用)
一方、鎌田正信さんの『道東地方のアイヌ語地名』(1995) には異なる解が記されていました。

 ヌイェ・ペッ(nuye-pet 豊漁の・川) の意である。鮭をはじめ多くの魚がとれた川なのであった。
(鎌田正信『道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】』私家版 p.220 より引用)
白糠町の「広報しらぬか」にて連載された「茶路川筋のアイヌ語地名」も「ヌイ(豊漁・たくさんある)・ペツ(川)」説を取っていました。

現在の地名は「縫別」ですが、元々は「ノイヘツ」と記録されていたことを考えると、ni-un-pet で「流木・ある・川」よりは nuye-pet で「豊漁・川」と見たほうが妥当かもしれませんね。

神ノ牛山(しんのうしやま)

sin-not-us-nupuri
山・崎・ついている・山
(記録あり、類型あり)

2024年5月5日日曜日

「日本奥地紀行」を読む (164) 碇ヶ関(平川市) (1878/8/1(木))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十八信(続き)」(初版では「第三十三信(続き)」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

子どもの遊戯

イザベラは「異様に行儀の良い」日本の子どもについて所感を綴っていましたが、更に次のように続けていました。「こどもの日」にピッタリのネタですね。

 子どもには特別の服装はない。これは奇妙な習慣であって、私は何度でも繰り返して述べたい。子どもは三歳になると着物キモノと帯をつける。これは親たちも同じだが、不自由な服装である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.313 より引用)
イザベラは「子どもには特別な服装がない」ことを「奇妙な習慣」と断じていますが、そう言われてみれば今の子どもには「子ども服」がある……ということでしょうか。

この服装で子どもらしい遊びをしている姿は奇怪グロテスクなものである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.313 より引用)
うーん。「見た目は大人、中身は子ども!」というのは確かに奇妙なのかもしれませんが……。ただ「子ども服」が無いということが、ここまで特筆すべきことなのか、ちょっと疑問もあるのですが……。

しかし私は、私たちが子どもの遊びといっているものを見たことがない──いろんな衝動にかられてめちゃくちゃに暴れまわり、取っ組みあったり、殴りあったり、転げまわったり、跳びまわったり、蹴ったり、叫んだり、笑ったり、喧嘩をしたりするなど!
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.313 より引用)
これはどういうことなんでしょう。子どもたちがイザベラの目を憚っていたということであれば良いのですが、普通、小さな子どもはイザベラの言うような「衝動的な遊び」に興じると思うのですが……。これは小さなうちから極端な「しつけ」がなされていた可能性を想起させます。今風に言えば「ヤングケアラー」として育てられるのが当然だった、と思えてしまうんですよね。

賢明な例

イザベラは更に「賢明な子ども」の例を挙げていました。

 頭のよい少年が二人いて、甲虫の背中に糸をつけて引き綱にし、紙の荷車をひっぱらせていた。八匹の甲虫が斜面の上を米の荷を引きながら運んで行く。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.313 より引用)
いかにも「子どもらしい」遊びですが、イザベラはこの「遊び」にもイギリスと日本の子どもの違いを見出していたようです。

英国であったら、われがちに掴みあう子どもたちの間にあって、このような荷物を運んでいる虫の運命がどうなるか、あなたにはよくお分かりでしょう。日本では、たくさんの子どもたちは、じっと動かず興味深げに虫の働きを見つめている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.313 より引用)
なるほど、そういうことですか。これも「日本の子どもは異様なまでに行儀が良い」という文脈を補強するエピソードです。

街路にあって速く流れる水路は、多くのおもちゃの水車を回している。これがうまくつくられた機械のおもちゃを動かす。その中で脱穀機の模型がもっともふつうに見られる。少年たちはこれらの模型を工夫したり、じっと見ながら、大部分の時間を過ごす。それは実に心をひきつけるものがある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.313 より引用)
昭和の頃は、模型飛行機を作ったりプラモデルを組み立てたり……と言った「子どもの娯楽」もあったと思いますが、こういった風習が日本独自のものだった、なんてことは無いですよね……?(急に不安になってきた) ただ「脱穀機の模型」を独自に改良するとか、子どもの頃からエンジニアリングの「いろは」に触れるというのは、これは確かに素晴らしいような……。

ここで話題が少し変わるのですが……

休暇になっているが、「休暇の宿題」が与えられている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.313-314 より引用)
随分と唐突な文章ですね。ただ原文でもいきなり It is the holidays, で始まっているので、これはこう訳すしか無さそうな感じです。今は夏休みだ、と言うことですね。

休暇が終わって学校がまた始まると試験がある。学期の終わりに試験があるのではない。これは学生たちに休むことなく知識を増進させたいというまじめな願望を示す取り計らいである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.314 より引用)
明治の時点で既に「詰め込み教育」が始まっていたのですね。まぁ学問の道を極めたものがちゃんと出世できるという、まともな社会だったとも言えるのかもしれませんが。

凧上げ競争

そういえば、『日本奥地紀行』には「初版」と「普及版」があり、「普及版」では「奥地紀行」と直接関わりのないトピックはカットされるのが常でしたが、今回はここまでカットされたトピックが無いんですよね。

 今日の午後は晴れて風があった。少年たちは凧をあげていた。凧は竹の枠に丈夫な紙を張ったもので、すべて四角形である。五フィート平方もあるのがある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.314 より引用)
相変わらずヤード・ポンド法には苦しめられますが、5 フィートは約 1.5 m とのこと。1.5 m 平方の凧というのは、結構なサイズですよね。

二つの大きな凧の間に非常に面白い競争があった。それを見るために村中の人々が出てきた。どちらの凧の糸も、枠の下から三〇フィート以上も、砕いたガラスでおおわれ、これは粘り強い糊でびったりと糸にくっついていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.314 より引用)
この記述でピンと来た方もいらっしゃるかもしれませんが、これは凧を操って相手の糸を切ろうとしているのですね。なるほど、刃物ではなくガラスの破片を糸につけるのですか……。

この「凧あげバトル」は二時間ほど続き、勝者が糸を切られた凧を手に入れて終わりました。

そして勝者と敗者は三度頭を深く下げて挨拶をかわした。人々は、橋が破壊されるときも黙って見つめていたが、このときも沈黙のまま、この手に汗にぎる試合を見ていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.314 より引用)
現代だと観衆は声援を送ったり野次を飛ばしたりしそうなものですが、黙って見ていたというのは、よほど緊迫感のあるバトルだったのでしょうか。あるいは何らかの吉凶を占う神事のようなものだったとしたら、静けさに包まれたのも理解できそうですが……。

子どもたちは竹馬に乗りながらも凧をあげた。これはたいへん手練のいる技で、誰でもできるものではない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.314 より引用)
え……? 「たいへん手練のいる技」とありますが、腕が二本では足りないような気も……?

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2024年5月4日土曜日

「日本奥地紀行」を読む (163) 碇ヶ関(平川市) (1878/8/1(木))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日からは、普及版の「第二十八信(続き)」(初版では「第三十三信(続き)」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

乏しい気晴らし

碇ヶ関に到着したものの、折からの豪雨で「平川」を渡る橋が落ちてしまい、イザベラはまたしても足止めを食うことになってしまいました。

 私がこの土地で気晴らしにやることは、ほとんど尽きてしまった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.311 より引用)
そりゃそうだろうなぁ……と思わせますが、碇ヶ関でのイザベラのアクティビティは思った以上に多岐にわたるものでした。

それは、川の水がどれほど下がったか、毎日三度見に行くこと。それからまた私は宿の亭主や村長コーチョーと話をする。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.311 より引用)
この辺は至極当然な内容でしょうか。

子どもたちが遊ぶのや屋根板を作るのを見る。おもちゃや菓子を買って、それをくれてやる。一日に三度、たくさんの眼病の人に亜鉛華目薬をつけてやる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.311 より引用)
橋が落ちてしまって「孤立した」碇ヶ関ですが、商店でお菓子を買い求めることはできたのですね。「亜鉛華」は「酸化亜鉛」のことで、炎症をやわらげる効果があるとのこと。イザベラは碇ヶ関で四日間足止めされることになるのですが、「亜鉛化目薬」の点眼は「三日間のうちにすばらしい効き目があった」と記しています。

料理、糸紡ぎ、その他に台所ダイドコロでやる家庭の仕事を見る。実際に家の中に住んでいる馬に、乾草ではなく青い草の葉を食べさせるのを見る。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.311 より引用)
この辺は、イザベラお得意の「社会見学」のようですね。

それから癩患者たちを診る。彼らはその恐ろしい病気を治療とまでゆかなくとも抑えることができると思っている鉱泉があるので、ここにやってきているのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.311 より引用)
癩病に効能がある(と信じられている)鉱泉がある(あった?)のですね。現在も「碇ヶ関温泉会館」という施設があるみたいですが、関連が気になるところです。

そして、ベッドに横になって縫い物をしたり、『アジア協会誌』の論文を読んだり、青森に至るあらゆる可能な道筋ルートを調べたりする。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.311 より引用)
イザベラは論文も携帯していたのですね。「奥地紀行」ではありますが、よく考えると「極地紀行」では無いですし、(折りたたみベッドをはじめとした)荷物は駄馬や人夫に運ばせていたので、我々が思っている以上にいろんな荷物を持っていた、と考えたほうがいいのかもしれませんね。

「青森に至るルートを調べる」というのは「え、今頃?」と思わないでも無いのですが、最適な道筋を調べるのはこれまでも現地で行っていたんでしたね。今回は豪雨の影響もあるので、今まで以上にいくつかのルートを想定する必要があったのかもしれません。

目薬をつけてやるので、村の人々は私にたいそう親切になった。私にみてくれと多くの病人を連れてくる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.311 より引用)
イザベラが眼病患者に点眼したのは、地元民の人気を得るためでは無かったのでしょうけど、そのことが元で慕われたのは悪い気がしなかったでしょうね。イザベラは村人が連れてきた病人について、次のように記しています。

その大部分の病気は、着物と身体を清潔にしていたら発生しなかったであろう。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.311 より引用)
やはり衛生面の問題が大きい……と見ていたようですね。

日本の子ども

イザベラは碇ヶ関の子どもたちにおもちゃや菓子を買い与えていましたが、これも純粋に子どもたちへの愛情によるものだったようです。

 私は日本の子どもたちがとても好きだ。私は今まで赤ん坊の泣くのを聞いたことがなく、子どもがうるさかったり、言うことをきかなかったりするのを見たことがない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.312 より引用)
この評価は手放しで喜ぶべきものか、今となっては少々疑いも残るのですが……。

日本では孝行が何ものにも優先する美徳である。何も文句を言わずに従うことが何世紀にもわたる習慣となっている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.312 より引用)
これ、なんですよね。いかにも封建的な「過去からの因習」によって、子どもたちが抑圧されていたが故の結果とも取れますし、おそらくその見立ては間違ってないと思えるのです。

英国の母親たちが、子どもたちを脅したり、手練手管を使って騒したりして、いやいやながら服従させるような光景は、日本には見られない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.312 より引用)
これは現代の日本では普通に見られる光景となりつつあるでしょうか。子どもの権利をきちんと尊重するならば、こうなるのが普通のような気もします。程度の違いはあるかもしれませんが、まだまだ古臭い考え方が染み付いているが故、なのかもしれません。

イザベラは、子どもたちが「自分たちだけで面白く遊べるように」「いろいろな遊戯の規則を覚えている」ことにも感心していたようです。こういった「遊戯の規則」にはローカルルールが存在することも少なくないのですが……

規則は絶対であり、疑問が出たときには、口論して遊戯を中止するのではなく、年長の子の命令で問題を解決する。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.312 より引用)
いかにも「昔の日本」っぽい雰囲気が漂っていますね。昭和の頃には「ガキ大将」というポジションが存在していたと思うのですが、そういえば今はどうなんでしょう。年長の子が年少の子の「面倒を見る」という行為自体は存在していると思いますが、昔と比べるとその行為はより事務的になっているのでは……と思ったりもします。

子どもたちは自分たちだけで遊び、いつも大人の手を借りるようなことはない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.312 より引用)
これは子どもの数が多く、また大人にそれだけの余裕が無かったということなのでしょうね。

イザベラは子どもたちに菓子を買い与えていましたが……

しかし彼らは、まず父か母の許しを得てからでないと、受け取るものは一人もいない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.312 より引用)
うーん。正しいと言えば正しい判断なのですが、子どもの自律性が極限まで損なわれているようにも思えます。これじゃあまるでロボットのような……。

許しを得ると、彼らはにっこりして頭を深く下げ、自分で食べる前に、そこにいる他の子どもたちに菓子を手渡す。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.312 より引用)
これは手放しで「良い風習」と呼べそうですね。共同体の中での「富の分配」は重要なので……。

子どもたちは実におとなしい。しかし堅苦しすぎており、少しませている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.312 より引用)
イザベラは異様に「行儀の良い」日本の子どもを愛でながらも、微かな違和感をおぼえていたのかもしれません。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2024年5月3日金曜日

「日本奥地紀行」を読む (162) 碇ヶ関(平川市) (1878/7/31(水))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十八信」(初版では「第三十三信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

原始的な宿屋

イザベラ一行は雨の降る中、秋田と青森の県境である「矢立峠」の強行突破を試み、峠についたところで激しい雨に襲われて進退窮まったところで、偶然にも青森側からやってきた馬と馬子に遭遇し、眼の前で橋が落ちてゆく中を北に向かっていました。そしてついに、碇ヶ関に到着します。

 私たちは最後の橋を渡ると碇ガ関イカリガセキに入った。ここは人口八百の村で、険しい山と平川の間の狭い岩棚となっている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.307 より引用)
「狭い岩棚となっている」というのがちょっと良くわからないのですが、原文では on a narrow ledge between an abrupt hill and the Hirakawa となっていました。現在の地図ではピンと来ないのですが、これは「碇ヶ関駅」が集落の北西側に設置されたことによるもので、本来の「碇ヶ関」は「平川」に「大落前おおらくまえ川」が合流するあたりだったようです。

碇ヶ関は木材加工の村だったようで、イザベラは「あらゆる形をした材木が山のように積み重ねてあった」と記していて、次のように続けていました。

ここは永住の村というよりは材木切り出し人の野営地のように見えた。しかし美しい環境にあり、私が今まで見たどの村とも様子がちがっていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.307 より引用)
「美しい環境にあり」としつつ「様子がちがっていた」というのですが……

 街路は長くて狭く、両側に石の水路の川が流れていた。しかしこれらも水があふれて、男や女、子どもが、四角なダムを作って畳に上がってこないように堰止めていたが、水はすでに土間に達していた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.307 より引用)
あー……。まぁ、峠であれだけの雨が降っていたのであれば、麓の川も大変なことになっているのも当然ではあるのですが。「四角なダム」は square dams で、時岡敬子さんも「四角い堰」と訳されていました。

 人馬を流すような豪雨の中を、水溜まりになった鞍に腰をかけながら、もう数時間も前からびしょ濡れになって、この非常に原始的な宿屋に到着した。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.307-308 より引用)
ついにイザベラは宿屋にたどり着いたようですが、「非常に原始的な」とは……。家屋の多くは「粗末な板を縄で直立材に結びつけているだけ」と記していますが、宿屋もそんな感じだったのでしょうか。

宿の下手は台所で、大雨で足どめされている学生たちの一団や、馬や鶏、犬などがいた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.308 より引用)
「学生たちの一団」がいた、というのは意外な感じがしますね。

私の部屋は梯子で上って行く屋根裏のあわれな部屋であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.308 より引用)
屋根裏部屋……。それは確かに哀れな感じが。もっとも洪水の心配が比較的無さそうなのが救いでしょうか。

梯子の下は泥沼のようになっていたので、下りるときにはウェリントン・ブーツ(膝まで来る長靴)を履かねばならなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.308 より引用)
まるで田んぼの上で寝泊まりするような状況だったのですね(汗)。屋根裏部屋ということは天井=屋根なので、雨が激しく屋根を叩きつける音で会話もままならない状況だったとのこと。

ベッドはずぶ濡れになっており、私の箱に水が入っていて、練乳の残りも溶けていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.308 より引用)
これは雨漏りのせいか……と思ったのですが、良く考えると宿屋にベッドがある筈も無いので、これはイザベラが携行していたベッドのことですね。大雨の中を移動していたので当然と言えば当然なのですが……。

イザベラは眠りにつこうとしていたところで、伊藤の叫ぶ声で目を覚まします。

私たちが先ほど村に入るときに渡った橋が落ちそうだという。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.308 より引用)
この橋は、現在の国道 7 号の「番所橋」に相当するものと思われるのですが……

そこで、川の土手まで走って行って大群集の中にまじった。彼らは今にも迫っている災害に気をとられ、今まで見たこともない外国婦人には少しも気づかなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.308 より引用)
普通であれば確実に耳目を集める筈のイザベラがスルーされた時点で、事態の切迫ぶりがわかりますね……。

川の増水

イザベラは、今にも橋が落ちそうになっている川について、次のように記していました。

 平川は、一時間前までは単に深さ四フィートの清冽な谷川であったが、今や一〇フィートも深くなって、ものすごい音を立てながら、濁流となって突進していた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.308 より引用)
4 フィートは約 1.2 m で、10 フィートは約 3 m とのこと。これは……確かに危機的状況ですね。そして「急げばなんとかなる」とイザベラを急き立てた馬子の見通しが実に正しかった……ということになりますね。

  どの波も黄褐色の泡をふきながら
  波頭を立てていた──
  栗毛の馬のたてがみにも似て
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.308-309 より引用)
突然、詩が出てきましたが、これはウォルター・スコットThe Lay of the Last Minstrel からの引用とのこと。

群衆に紛れて今にも崩壊しそうな橋を眺めていたイザベラは、その時の状況を次のように綴っています。

 切り出した大きな材木や樹木、木の根や大枝、小枝が数限りなく流れ下ってきていた。こちら側の橋台は根元をだいぶ削りとられたが、中央の橋脚に丸太が衝突するたびに震えるだけで、橋そのものはしっかり立っていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.309 より引用)
「落橋しそう」とは言ったものの、イザベラが「りっぱな橋」「しっかりしたもの」と評した橋は濁流に揉まれてもすぐさま崩壊するようなことは無かったようです。

実際まだしっかりしていたから、私が着いてからも、二人の男が、向こう岸にある自分の持ち物をとってこようと橋を渡って行ったほどである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.309 より引用)
これは結果的には正しい判断だったのかもしれませんが、命がけですよね……。

イザベラの「実況」が続きます。

やがて、かんなをかけた大きな木材と、木のつけ根やいろんな残骸物が下ってきた。上流のりっぱな橋が落ちたので、三〇フィートもある四十本ものりっぱな材木が流れて来た。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.309 より引用)
この時点では眼の前の橋は健在だったものの、状況は刻々と悪化していました。

上流の土手では、流れてくる材木を捕らえようと努力がなされたが、二十本のうち一本ぐらいしか救うことができなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.309 より引用)
懸命に努力したものの、結果には殆ど結びつかず……と言ったところでしょうか。

これらの材木が下ってくる壮大な光景は、たいそう面白かった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.309 より引用)
「たいそう面白い」とは酷い言い草ですが、原文では most exciting となっていたので、間違ってはいないですね……。この「エキサイティングな光景」は、やがて予想された結末を迎えることになります。

この後一時間して、三〇フィートは充分にある二本の丸太がくっついて下ってきて、ほとんど同時に、中央の橋脚に衝突した。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.309 より引用)
30 フィートは約 9.1 m ですが、このサイズの丸太が橋の中央の橋脚を直撃し……

橋脚が恐ろしく振動したかと思うと、この大きな橋は真っ二つに分かれ、生き物のような恐ろしい唸り声をあげて、激流に姿を没し、下方の波の中に姿をまた現わしたが、すでにばらばらの木材となって海の方向へ流れ去った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.309-310 より引用)
橋は断末魔の叫び声を残して砕け散ってしまったのでした。

後には何一つ残らなかった。下流の橋は朝のうちに流されたから、川を歩いて渡れるようになるまで、この小さな部落は完全に孤立した。三〇マイルの道路にかかっている十九の橋のうちで二つだけが残って、道路そのものはほとんど全部流失してしまった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.310 より引用)
イザベラは「下流の橋は朝のうちに流された」としているのですが、当時の羽州街道は「平川」の東岸の「古懸こがけ」を経由していたのでしょうか。現在の国道 7 号は大鰐町唐牛かろうじまで、川の西側を経由しています。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2024年5月2日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (179) 「鹿追市街」

鹿追町に入りました。鹿の後ろに湖が描かれたカントリーサインです。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

道路の右側に駐車帯が整備されています。このあたりは「鹿追町美蔓びまん」のようで、「美蔓」という地名はお隣の清水町と共有しているようです。

2024年5月1日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (178) 「札幌から 187.5 km」

道道 75 号「帯広新得線」を北に向かい、清水町に入りました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「帯広新得線」と言うくらいですから、新得が終点なのだと思われますが、青看板には次の主要地として「富良野」までの距離が案内されています。