2024年5月5日日曜日

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「日本奥地紀行」を読む (164) 碇ヶ関(平川市) (1878/8/1(木))

 

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十八信(続き)」(初版では「第三十三信(続き)」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

子どもの遊戯

イザベラは「異様に行儀の良い」日本の子どもについて所感を綴っていましたが、更に次のように続けていました。「こどもの日」にピッタリのネタですね。

 子どもには特別の服装はない。これは奇妙な習慣であって、私は何度でも繰り返して述べたい。子どもは三歳になると着物キモノと帯をつける。これは親たちも同じだが、不自由な服装である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.313 より引用)
イザベラは「子どもには特別な服装がない」ことを「奇妙な習慣」と断じていますが、そう言われてみれば今の子どもには「子ども服」がある……ということでしょうか。

この服装で子どもらしい遊びをしている姿は奇怪グロテスクなものである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.313 より引用)
うーん。「見た目は大人、中身は子ども!」というのは確かに奇妙なのかもしれませんが……。ただ「子ども服」が無いということが、ここまで特筆すべきことなのか、ちょっと疑問もあるのですが……。

しかし私は、私たちが子どもの遊びといっているものを見たことがない──いろんな衝動にかられてめちゃくちゃに暴れまわり、取っ組みあったり、殴りあったり、転げまわったり、跳びまわったり、蹴ったり、叫んだり、笑ったり、喧嘩をしたりするなど!
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.313 より引用)
これはどういうことなんでしょう。子どもたちがイザベラの目を憚っていたということであれば良いのですが、普通、小さな子どもはイザベラの言うような「衝動的な遊び」に興じると思うのですが……。これは小さなうちから極端な「しつけ」がなされていた可能性を想起させます。今風に言えば「ヤングケアラー」として育てられるのが当然だった、と思えてしまうんですよね。

賢明な例

イザベラは更に「賢明な子ども」の例を挙げていました。

 頭のよい少年が二人いて、甲虫の背中に糸をつけて引き綱にし、紙の荷車をひっぱらせていた。八匹の甲虫が斜面の上を米の荷を引きながら運んで行く。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.313 より引用)
いかにも「子どもらしい」遊びですが、イザベラはこの「遊び」にもイギリスと日本の子どもの違いを見出していたようです。

英国であったら、われがちに掴みあう子どもたちの間にあって、このような荷物を運んでいる虫の運命がどうなるか、あなたにはよくお分かりでしょう。日本では、たくさんの子どもたちは、じっと動かず興味深げに虫の働きを見つめている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.313 より引用)
なるほど、そういうことですか。これも「日本の子どもは異様なまでに行儀が良い」という文脈を補強するエピソードです。

街路にあって速く流れる水路は、多くのおもちゃの水車を回している。これがうまくつくられた機械のおもちゃを動かす。その中で脱穀機の模型がもっともふつうに見られる。少年たちはこれらの模型を工夫したり、じっと見ながら、大部分の時間を過ごす。それは実に心をひきつけるものがある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.313 より引用)
昭和の頃は、模型飛行機を作ったりプラモデルを組み立てたり……と言った「子どもの娯楽」もあったと思いますが、こういった風習が日本独自のものだった、なんてことは無いですよね……?(急に不安になってきた) ただ「脱穀機の模型」を独自に改良するとか、子どもの頃からエンジニアリングの「いろは」に触れるというのは、これは確かに素晴らしいような……。

ここで話題が少し変わるのですが……

休暇になっているが、「休暇の宿題」が与えられている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.313-314 より引用)
随分と唐突な文章ですね。ただ原文でもいきなり It is the holidays, で始まっているので、これはこう訳すしか無さそうな感じです。今は夏休みだ、と言うことですね。

休暇が終わって学校がまた始まると試験がある。学期の終わりに試験があるのではない。これは学生たちに休むことなく知識を増進させたいというまじめな願望を示す取り計らいである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.314 より引用)
明治の時点で既に「詰め込み教育」が始まっていたのですね。まぁ学問の道を極めたものがちゃんと出世できるという、まともな社会だったとも言えるのかもしれませんが。

凧上げ競争

そういえば、『日本奥地紀行』には「初版」と「普及版」があり、「普及版」では「奥地紀行」と直接関わりのないトピックはカットされるのが常でしたが、今回はここまでカットされたトピックが無いんですよね。

 今日の午後は晴れて風があった。少年たちは凧をあげていた。凧は竹の枠に丈夫な紙を張ったもので、すべて四角形である。五フィート平方もあるのがある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.314 より引用)
相変わらずヤード・ポンド法には苦しめられますが、5 フィートは約 1.5 m とのこと。1.5 m 平方の凧というのは、結構なサイズですよね。

二つの大きな凧の間に非常に面白い競争があった。それを見るために村中の人々が出てきた。どちらの凧の糸も、枠の下から三〇フィート以上も、砕いたガラスでおおわれ、これは粘り強い糊でびったりと糸にくっついていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.314 より引用)
この記述でピンと来た方もいらっしゃるかもしれませんが、これは凧を操って相手の糸を切ろうとしているのですね。なるほど、刃物ではなくガラスの破片を糸につけるのですか……。

この「凧あげバトル」は二時間ほど続き、勝者が糸を切られた凧を手に入れて終わりました。

そして勝者と敗者は三度頭を深く下げて挨拶をかわした。人々は、橋が破壊されるときも黙って見つめていたが、このときも沈黙のまま、この手に汗にぎる試合を見ていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.314 より引用)
現代だと観衆は声援を送ったり野次を飛ばしたりしそうなものですが、黙って見ていたというのは、よほど緊迫感のあるバトルだったのでしょうか。あるいは何らかの吉凶を占う神事のようなものだったとしたら、静けさに包まれたのも理解できそうですが……。

子どもたちは竹馬に乗りながらも凧をあげた。これはたいへん手練のいる技で、誰でもできるものではない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.314 より引用)
え……? 「たいへん手練のいる技」とありますが、腕が二本では足りないような気も……?

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