2024年3月31日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1128) 「刺牛・伏内・シラリカップ川・白糠」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

刺牛(さしうし)

sa-kus-us-i?
浜・通行する・いつもする・ところ
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
白糠駅の東、JR 根室本線と国道が並んで通過する海沿いの集落の地名です。更科源蔵さんの『アイヌ語地名解』(1982) には次のように記されていました。

 刺牛(さしうし)
 白糠海岸の部落名。刺臼とも書く。アイヌ語サシ・ウシ(昆布の多いところ)からでたもの。白糠川からこの辺にかけて岩礁があり、昆布がとれたからである。
(更科源蔵『更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解』みやま書房 p.244 より引用)
sas-us-i で「昆布・多くある・ところ」ではないかとのこと。現在はどうやらこの解釈が定説となっているように見受けられます。確かに『北海道実測切図』(1895) にも「サスウシ」とあり、この解釈を裏付けるものです。

ただ『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい地名が描かれておらず、『東蝦夷日誌』(1863-1867) には次のように記されていました。

サクシヽ(小川)夷家有、昆布場也。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.299-300 より引用)
表にまとめてしまったほうが早そうですね。

加賀家文書サクスヽサキ・シュヱ 鯨漁業の事
三航蝦夷日誌 (1850) サクジヽ此処道より左りに沼有
竹四郎廻浦日記 (1856) サシユヽ-
辰手控 (1856) サシユシユ-
東蝦夷日誌 (1863-1867) サクシヽ(小川)夷家有、昆布場也
永田地名解 (1891) --
北海道実測切図 (1895) サスウシ-
陸軍図刺臼-
地理院地図刺牛-

これを見る限り、明治以前は「サク──」という認識のほうが強かったように思われるのですね。ここで気になるのが加賀家文書『クスリ地名解』(1832) のこの記述です。

シャクシヽヱト サキ・シュイ 鯨漁・する崎
  シラヌカの内に有しシャクシヽヱト同断。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.263 より引用)
これは尻羽岬釧路町)の近くの地名の記録なのですが、「シラヌカの内に有しシャクシヽヱト同断」とあります。「シラヌカの内に有しシャクシヽヱト」は「刺牛」のあたりだと思われるのですが、「シャクシヽ」とあるのですね。

白糠町刺牛については、『クスリ地名解』は「サクスヽ」で「鯨漁」としています。「サクスヽ」をどう解釈すると「鯨漁」となるのか、ちょっと理解できていないのですが、仮に sa-kus-us-i で「浜・通行する・いつもする・ところ」だったらどうかな、と。

「昆布」を意味する語としては、sas の他にも、和語との関係が考えられる kompu もあります。道東でも和人との接触が早かった沿岸部では「昆布森」や「昆布盛」などの地名が散見されるのに、なぜ「刺牛」では sas なのか……という点が以前から疑問だったのですが、もともと sa-kus-us-i という地名があり、たまたま昆布が穫れたことから sas-us-i に変化(進化?)したのではないか……と思えてきました。

伏内(ふしない)

pus-nay?
破れる・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2024年3月30日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1127) 「イシカリコツ・チカヨップ・オンネチカップ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

イシカリコツ

{e-sikari}-kot???
{水が溜まって流れない}・窪み
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
「運輸局住所コード」では現役の地名です。「書類上の現役地名」というのも奇妙な感じがしますが……。『角川日本地名大辞典』(1987) によると、「イシカリコツ」は 1982(昭和 57)年に「西庶路西 4 条南」に改められたとこと。現在は下水道管理センターや太陽光発電所のあるあたりのようです。

改めて『角川日本地名大辞典』を引用してみます。

 いしかりこつ イシカリコツ <白糠町>
〔近代〕昭和 46~57 年の白糠しらぬか町の行政字名。もとは白糠町大字庶路村の一部,イシカリコツ。通称西庶路とも呼ばれる。地名の由来は,アイヌ語のイシカリコツ(奥のない川跡の意)による。
(『角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)』角川書店 p.115 より引用)
「イシカリ」に「奥のない」と言った意味があったっけ……という話ですが、『地名アイヌ語小辞典』(1956) には次のように記されていました。

ésikari えシカリ 《不完》原義は‘つかむ’であるが,川について云えぱ水源がもぎとったように急に地中に消えてしまっているのを云う。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.27 より引用)
ただ、陸軍図を見ると「西庶路西 4 条南」のあたりに湿地が描かれていました。沼としては描かれていないので、その規模も推して知るべしなのですが……。『──小辞典』には「えシカリ」の下に、次のように記されていました。

e-sikari-to エしカリト 【ビホロ】水が溜って流れない沼。[e-(そこで)sikari(ぐるぐるまわっている)to(沼)]
(知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.27 より引用)
白糠の「イシカリコツ」の場合、e-sikari-kot で「そこで・ぐるぐるまわっている・窪み」、すなわち「水の溜まった窪み」と見たほうが良さそうにも思えます。

チカヨップ

chika-o-p?
チカ魚・多くいる・ところ
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2024年3月29日金曜日

日高本線各駅停車 (終) 「エピローグ」

この日のために購入した切符ですが、「帯広」が目的地でした。そういえばこの日の朝 7:15 に帯広を出発したところからバス旅が始まって、車も荷物も帯広に置いたままなので、これは何としても戻るしか無いわけで……。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ということで、苫小牧駅 4 番線に入線中の岩見沢行き 1475D に乗車します。前位の車両は「優駿浪漫」カラーです。

2024年3月28日木曜日

日高本線各駅停車 (39) 「苫小牧 その3」

「高齢者複合施設」の隣にある「道南バス案内所」にやってきました。いやー、この路線網と本数はただものでは無いですね……!
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

昼ご飯がやや遅かったとは言え、18:30 を回ったので、そろそろ夕食を食べても罰が当たらない時間帯になってきました。ちょうどいいところに「駅そば」っぽい佇まいのお店があったのですが、ここも「本日定休日」の札が……。

2024年3月27日水曜日

日高本線各駅停車 (38) 「苫小牧 その2」

苫小牧にやってきました。次の列車までは 1 時間以上あるので、のんびりウロウロしてみましょうか。
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これは苫小牧行き 2236D の後位に連結されていたキハ 40 359 ですが……

2024年3月26日火曜日

日高本線各駅停車 (37) 「苫小牧」

苫小牧行き 2236D は勇払を出発しました。夕陽は樽前山のあたりに沈むのですね。
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キハ 40 352 に揺られるのもあともう少し……ですね。

2024年3月25日月曜日

日高本線各駅停車 (36) 「勇払」

苫小牧行き 2236D は浜厚真を出発して西に向かいます。遠くに荷揚げクレーンが見えますが、あれは苫小牧東港(中央埠頭)でしょうか?
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進行方向左手には灌木が目立つようになってきました。

2024年3月24日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1126) 「シンク川・コイカタショロ川・コイポクショコツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
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シンク川

sunku???
エゾマツ
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
庶路川を遡ると、上流部で「コイカタショロ川」と「コイポクショコツ川」の二手に分かれていますが、分岐点(=合流点)の 1 km ほど手前(下流側)で「シンク川」が東側から合流しています。この川を遡ると釧路阿寒町との分水嶺で、分水嶺を越えた先には「シュンクシタカラ川」の支流である「第十三小川」や「シュンクシタカラ湖」があります。

ケ子ルナイ

『北海道実測切図』(1895) には「ケ子ルナイ」という名前で描かれています。厳密には「シンク川」を遡ると二手に分かれていて、地理院地図は北側の流路のみを描いていますが、北海道実測切図では二手に分かれた流路がそのまま描かれていて、南側の流路が「ケ子ルナイ」だとしています。

鎌田正信さんの『道東地方のアイヌ語地名』(1995) には次のように記されていました。

 この山奥にうっかりすると見落とすような小沢に名がつけられているのは、それなり生活と何等かの深いかかわりがあったものと思われる。白糠地名研究会は「ケリ・ムン・ナィ keri-mun-nay はきもの・草・沢」と書いたが、はきもの草とは、ヤマアワのことをさしているのであろうか。
(鎌田正信『道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】』私家版 p.240 より引用)
「ケリムンナイ」が「ケルナイ」に変化した……というのも個人的には違和感があるのですが、「はきもの草」というのもかなり謎な感じですね。何か根拠があってこの解がひねり出されたのだと思いますが……。

素直に逐語解をするならば kene-ru-nay で「ハンノキ・路・川」ですが、これだと名詞が並んだ「パン、茶、宿直」的な解になってしまいます。kene-o-ru-us-nay とかであれば、まだ理解できる形に近いかもしれません。

閑話休題

つい本題を忘れてしまいそうになりますが、「シンク川」の地名解でしたね。地理的な位置関係からは「シュンクシタカラ湖」との関連も考えたくなりますが、位置的には「第十三小川」のほうが関係が深いかもしれません。庶路川筋からシュンクシタカラ川筋に出るには悪くないルートのようにも思えます。

「シンク川」は sunku で「エゾマツ」と解釈できるでしょうか。元は sunku-us-nay で「エゾマツ・多くある・川」とかで、このあたりに何故かエゾマツが多い、と言ったことがあったのでしょうか。

あるいは {sunku-us-sitatkar}-ru-pes-pe で「{シュンクシタカラ川}・路・ついている・もの(川)」が略しに略された可能性もあるかもしれません。
そもそも「シュンクシタカラ」の「シュンク」も sunku の可能性が高そうなので、「シンク川」はつまるところ sunku で「エゾマツ」と見ていいのでは無いでしょうか。ただ陸軍図やそれ以前の地図に存在が確認できないので、直接的なアイヌ語由来川名であるかどうかはなんとも言えません。

コイカタショロ川

koyka-ta-{so-oro}
東・にある・{庶路川}
(記録あり、類型あり)

2024年3月23日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1125) 「シケレベ川・ホロカショロ川・クッチャロベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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シケレベ川

sikerpe?
キハダの実
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
庶路ダムのダム湖である「グリーンレイク庶路」の東側に注ぐ支流です。庶路川とシケレベ川の間の山には「志計留辺」という名前の三等三角点(標高 368.4 m)があり、川沿いの林道も「志計留辺林道」なので、どうやら漢字では「志計留辺」と表記されることが多いみたいですね。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「シケレヘ」という名前の川が描かれていて、『北海道実測切図』(1895) にも「シケレペ」と描かれていました。

戊午日誌 (1859-1863) 「東部久須利誌」には次のように記されていました。

 またしばし行て
     シケレベ
 右小川、五味子(シコロの実)多きより号。此辺両山高くして、此辺より追々椴の木立に成り、また少し上り
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上』北海道出版企画センター p.524 より引用)
やはりと言うべきか、「シケレペ」は sikerpe で「キハダの実」と見て良さそうですね。ただちょっと妙なことになっていまして、『東西蝦夷山川地理取調図』では、「シヨロロ」(=庶路川)には「シケレベ」と「シケレヘ」が存在することになっていて、引用したのは「オレウケナイ沢」の西隣に相当する位置に描かれている「シケレベ」の内容です。

似たような特性を持つ河川が複数存在する場合、penke-(川上側の)と panke-(川下側の)を冠したりするのが一般的ですが、今回のケースでは両者は 20 km ほど離れているので、あえて識別子を冠する必要は無かったということでしょうか。

ただ「オレウケナイ沢」のあたりは、『東西蝦夷山川地理取調図』と『北海道実測切図』で川名の異同が少なからずあり、「東西蝦夷──」が「シケレベ」とした川も『北海道実測切図』では「ペッコマナイ」としています。「オレウケナイ沢」の近くの「シケレベ」は松浦武四郎の聞き取りミスの可能性もあるかもしれません。

ちょっと不思議なのが「キハダの実」という一般名詞がそのまま川名として伝わっているところで、普通だと sikerpe-o-petsikerpe-un-pet と言った形になると思われるんですね。まぁ重要なのは sikerpe が存在することなので、他はみんな略しちゃったんでしょうけど……。

ホロカショロ川

horka-{so-oro}
U ターンする・{庶路川}
(記録あり、類型あり)

2024年3月22日金曜日

日高本線各駅停車 (35) 「浜厚真」

苫小牧行き 2236D は入鹿別いるしかべつ川を渡って厚真町に入りました。国道 235 号のカントリーサインが見える……のは良いのですが、後ろの「MOL」が気になりますよね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

この「MOL」のコンテナは商船三井フェリーのものだと思われますが、まるで壁のように 2 段積みされたコンテナが並んでいます。ストリートビューで確認すると、2014 年の時点ではコンテナは存在せず、2018 年から 2021 年あたりまではコンテナが 1 段で並んでいたようです。

2024年3月21日木曜日

日高本線各駅停車 (34) 「浜田浦」

鵡川駅で苫小牧行き 2236D に乗車します。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

キハ 40 のステップがありがたい……というか、これが無いと乗車できないですよね。

2024年3月20日水曜日

「日本奥地紀行」を読む (160) 白沢~矢立峠(大館市) (1878/7/31(水))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日からは、普及版の「第二十八信」(初版では「第三十三信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

滝のような雨

普及版の「第二十八信」には「碇ガ関にて 八月二日」とありますが、イザベラはこの中で「大雨のため二日もここに足どめされている」と記しているので、7/31(火) の早朝に白沢で日食を見た後、その日のうちに矢立峠を越えて碇ヶ関まで移動した……と考えられます。

イザベラは碇ヶ関でまたしても足止めを食らったので、この数日の出来事を振り返る時間ができたようです。

 前途の困難についての予言は的中した。六日五晩の間雨はやまない。一時に数時間やむことはあったが、十三時間前から、白沢で皆既食にあったときのように土砂降りとなっている。このような豪雨は、私が赤道で一度に数分間続くのを見たことがあるだけである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.301 より引用)
「バケツをひっくり返したような雨」という慣用句がありますが、まさにそんな感じの雨だったのでしょうか。イザベラは熱帯でのスコールと比較していますが、六日五晩の間ずっと断続的に降り続くというのは、さすがのイザベラも想定外だったのでしょうか。

イザベラは、全てが湿り黴を生す状況を嘆きながら、次のように続けていました。

それでもまだ雨は降る。道路も橋も、水田も樹木も、山腹もみな同じように津軽ツガル海峡の方に向かってめちゃめちゃに押し流されている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.301 より引用)
前述の通り、イザベラは 7/31(火) に白沢(大館市)を出発し、国道 7 号で 20 km ほどの距離を移動して碇ヶ関に入っていました。イザベラが実際に移動したのは「羽州街道」ですが、現在の国道 7 号と大枠では似たルートを通っていたと考えられます。

碇ヶ関は青森県なので、イザベラの言う通り、川の水は津軽海峡に向かって流れます。割と重要な事実の筈ですが、イザベラはサラッとその事実を流してしまっていますね。もっとも「海峡はじれったくなるほどすぐ近くである」とも記していて(実際には東北自動車道で 60 km ほど離れている)、心のなかではガッツポーズを決めていたのかもしれません。

素朴な人々は忘れてしまった川や山の神々、太陽や月の神、あらゆる在天の神々に願って、「むやみに降る雨や洪水の災害」から救い給えと祈っている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.301 より引用)
打つ手が極まった時に「神頼み」というのは、今も昔も変わらない……ということでしょうか。

不愉快な抑留

イザベラは本州脱出まであと少し……という手応えを既に得ているので、ここに来て何度も足止めを食らうことに憤りを感じていたようです。ただ、逸る自らを戒めるかのように、次のように記していました。

私は、終日横になって休めるだけでも結構なことだと思っている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.301 より引用)
随分と物わかりが良くなった……というか、何かの悟りを開いたかのようにも思われますね。

「心は、健康な状態であるときには、越えがたき困難を前にして静かに休息する。ちょうど確かめられた真実の前にあるごとく」という言葉があるが、私も今は旅を続けることができないから、いらいらするのはやめにして、やむをえない抑留の美点を大きく考えてみたくなってくる。あなたも私の環境の中に置かれたらそう思うであろう。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.301-302 より引用)
謎の名言っぽいものが引用?されていますが、原文では次のようなものでした。

“the mind, when in a healthy state, reposes as quietly before an insurmountable difficulty as before an ascertained truth,”
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
いやいや、本当に何か悟りを開いちゃってますね……。

洪水による惨害

ここに来て何故か悟りを開いてしまったイザベラは、ここ数日の悲惨な旅を振り返ります。白沢から碇ヶ関までの旅は「ひどく苦痛であった」としつつ「私の旅行の中で最も興味あるものの一つ」とし、次のように続けていました。

私は前にハワイで火の力の恐ろしさを知ったが、今私は、日本で水の力の恐ろしさを少なからず知るようになった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.302 より引用)
イザベラは「晴れそうだったので」と前置きをして、二頭の馬と三人の男を連れて白沢を正午に出発していました。数日ぶりの移動でイザベラのテンションも上がっていたようですが……

美しい景色であった。自然そのままの谷間で、多くの山の峰が側面から谷間に下りてきて、暗いピラミッド型の杉が茂り、実に絵のような眺めであった。これこそ真に日本の美観である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.302 より引用)
ところが、イザベラ一行はすぐに現実に引き戻されます。

五つの浅瀬は深くなっていて流れが速かった。坂の下り口がすべて水に流されたので、渡る場所に行き着くことが難しかった。土手は険しくなっていて、馬子がつるはしで平らに崩さなければならなかった。歩いて渡る浅瀬そのものがなくなっていた。淵となっていたところが浅瀬となり、浅瀬だったところが深みとなっていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.302 より引用)
まぁ、数日間降り続いた雨は山林がしっかりと保水しつつ、数日間かけてしっかりと流れ出る筈なので、浅瀬が消え失せているのも当然の結果でしょう。「雨が上がれば即移動」という考え方は危なっかしいこと極まりないのですが、それだけ様々な面で余裕を失っていた、ということでしょうか。

イザベラは「道路や小さな橋はすべてなくなっていた」とも記しています。そりゃあそうだろう……という話ですが、イザベラは行く先々で「道は無い」「通れない」「無理だからやめとけ」と事あるごとに言われ、その度に無理を通して局面を打開してきたという良からぬ実績があるだけに、「行けばなんとかなる」と思い込んでいた節もありそうな……。

大きな丸太が川を流れてきて、その数も多く、猛烈な勢いであったので、私たちはある場所で半時間ほど待って安全に渡ることにした。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.302 より引用)
ただ、結果的には、イザベラは長雨による土砂災害の中、白沢から碇ヶ関までの県境越えを成功させちゃっているのも事実で……。スタッフに恵まれたというのもあるかもしれませんが、イザベラ姐さんの「勘」が絶妙だった、とも言えそうで……。

矢立峠

イザベラ姐さんの「旅の振り返り」は、ますますリポビタン D 化が進行し……

 五マイル行くと、馬が通れなくなった。馬子の二人が荷物を運び、私たちは出発した。膝まで泥につかりながら、水の中を渡り、山腹をよじ登って行った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.303 より引用)
相変わらず人使いが荒いなぁ……という印象ですが、良く考えるとここまでは馬で移動できていた……ということですよね。イザベラはここで持ち前の運を少しばかり消費したのか……

幸運にも、このように疲労させる歩行は長くなかった。杉の深い森におおわれた暗くて高い山の峰が私たちの前に立ちふさがってくると、私たちは新しい道路に出た。馬車も通れる広い道路で、りっぱな橋を渡って二つの峡谷を横切ると、すばらしい森の奥へ入って行く。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.303 より引用)
もしかしてイザベラは道を間違えたのか……とも思ったのですが、分水嶺に近づくにつれ川の水量は少なくなるので、矢立峠の近くは被害がそれほど大きなものでは無かった、ということかもしれません。

ゆるやかな勾配の長いジグザグ道を登って矢立ヤダテ峠に出る。この頂上にはりっぱな方尖塔オベリスクがある。これは砂岩を深く切ったもので、秋田県と青森県の県境を示す。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.303 より引用)
県境に砂岩の尖塔とは、なかなか洒落たものを置いていたのですね。

これは日本にしてはすばらしい道路である。傾斜をうまくゆるやかにして築き上げ、旅行者が休息するための丸太の腰掛けも便利な間隔で置いてある。この道路を造るために発破をかけたり勾配をゆるやかにしたり、苦労の多い士木工事だったろうが、それも長さ四マイルだけで、両端からはあわれな馬道となっている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.303 より引用)
矢立峠は、現在は国道 7 号が通っていますが、トンネルも無くカーブも緩やかな峠です。標高は 267 m で、かつては奥羽本線のトンネルも道路沿いにありましたが、1970(昭和 45)年に全長 3,180 m の新しい「矢立トンネル」に切り替えられています。

イザベラは峠にたどり着くまでの苦労もあったのかもしれませんが、この矢立峠には随分と感銘を受けたようで……

私は他の人々を残して、一人で峠の頂上まで歩いて行き、反対側に下りた。そこはあざやかな桃色と緑色の岩石に発破をかけて造った道路で、水が滴り落ちて光り輝いて見えた。私は日本で今まで見たどの峠よりもこの峠を賞め讃えたい。光り輝く青空の下であるならば、もう一度この峠を見たいとさえ思う。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.303 より引用)
「もう一度この峠を見たい」とまで記していました。もっとも「光り輝く青空の下であるならば」という付帯条件がついていますが……(汗)。

この峠は、(アルプス山中の)ブルーニッヒ峠の最もすばらしいところとだいぶ似ており、ロッキー山脈の中のいくつかの峠を思わせるところがある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.303-304 より引用)
「ブルーニッヒ峠」というのは、おそらくスイスのマイリンゲンの北に位置する峠のことで、Google マップで「Brünigpass」で検索すると詳細が確認できます。

イザベラは長雨で足止めを喰らい続ける中、強行突破に成功した矢立峠の思い出が必要以上に美化されていたのか、大絶賛を続けていました。

樹木はその香ばしい匂いをふんだんにあたり一面に漂わせ、多くの峡谷や凹地の深い日蔭で、明るく輝く山間の急流は躍りながら流れ、そのとどろき響きわたる低音バスは、軽快な谷間の小川の音楽的な高音トレブルを消していた。旅人が草鞋わらじを踏みながらやってきて、この静寂を破るようなこともなかった。鳥のさえずる声もなければ、虫のすだく音もなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.304 より引用)
台風一過の青空とはちょっと違うのかもしれませんが、「嵐の前の静けさ」ならぬ「嵐の後の静けさ」に通じるものがありそうですね。

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2024年3月19日火曜日

日高本線各駅停車 (33) 「鵡川 その2」

静内から列車代行バスに揺られること 1 時間 40 分ほどで鵡川駅に到着しました。苫小牧行き 2236D の乗換には 6 分しか時間が無いので(実際にはバスが 2 分早着したので 8 分でしたが)、急いで口で……じゃなくて駅構内に向かいます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

待合室には他のお客さんもいたのでカメラを向けるわけにも行かず……。ということで Wikimedia Commons から借用しました。

2024年3月18日月曜日

日高本線代行バスで各駅停車 (32) 「鵡川」

鵡川行き列車代行バスは潮見駅を出発して、国道 235 号に戻ってきました。向こうからやってきたのは道南バスの「高速ペガサス号」でしょうか……?
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

鵡川を渡ります。鵡川も沙流川と同様に、西行きと東行きで構造の異なる(おそらく架橋年次も異なる)橋が並んでいます。既存の橋を有効活用するとともに、万が一の際の冗長性を高めているのでしょうね。

2024年3月17日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1124) 「パナハンポ川・パナアンソーポコマナイ・タツタマップ川・トイベ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

パナハンポ川・パナアンソーポコマナイ

pana-wa-an-so-pok-oma-nay
川下側・に・ある・滝・下・そこにある・川
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
「パナハンポ川」はクオマナイ川の 1.5 km ほど北を流れ、西から庶路川に注ぐ支流です。川沿いには「パナハンポの沢林道」が通っています。

「パナアンソーポコマナイ」は地理院地図では存在を確認できませんが、「運輸局住所コード」が設定されている地名で、Google マップなどの一部の地図サイトで存在が確認できます。庶路川の西側、パナハンポ川の南から北にかけて広がっている……ということになっています。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「シヨンコムナイ」という名前の川が描かれています。また『北海道実測切図』(1895) には「パナハンポ川」に相当する位置に「パナアンソーポコマナイ」と描かれていました。

どうやら「パナアンソーポコマナイ」が略しに略されて「パナハンポ」になったと思われるのですが、「どうしてこうなった感」が凄いですよね……。

鎌田正信さんの『道東地方のアイヌ語地名』(1995) には、次のように記されていました。

 パナ・ワ・アン・ソー・ポㇰ・オマ・ナィ(pana-wa-an-so-pok-oma-nay 川下の方・に・ある・滝・下・に入る・沢)の意で、ペナは(pena 川上の方)のである。この庶路川の上流には庶路大滝があって、両方の沢とも滝の下手にあるが、そのうちでも上流の沢と、下流の沢とを区別したのである。
(鎌田正信『道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】』私家版 p.237 より引用)※ 原文ママ
pana-wa-an-so-pok-oma-nay で「川下側・に・ある・滝・下・そこにある・川」と読めそうですね。この「滝」は庶路ダムのすぐ下流側にある「大滝」のことだと考えられます。また鎌田さんによると「パナハンポ川」(=パナワンソーポコマナイ)の 1.3 km ほど北で「ペナアンソーポコマナイ」が北東から庶路川に流入しているとのこと。

どちらの川も「滝の下にある川」で、「パナ」(川下側)と「ペナ」(川上側)で区別していたみたいですが、なんかネーミングが随分とざっくりしてきたなぁ……という印象が……。

また川名の「パナハンポ川」は意味不明なレベルで略されてしまっているのに、地名のほうが「パナアンソーポコマナイ」とほぼ完璧な形で(書類上は?)の残っているのも面白いですよね。

タツタマップ川

kut-tapkop?
岩層のあらわれている崖・丸山
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2024年3月16日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1123) 「ウカルキナイ川・ルオンネナイ川・クオマナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ウカルキナイ川

{ukur-kina}(-o)-i?
{タチギボウシ}(・多くある)・ところ
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
白糠町上庶路のあたりで北東から庶路川に合流する支流です。どことなく記念受験的な雰囲気も漂いますが……(何の話だ)。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にも「ウカルキナイ」という川が描かれていて、『北海道実測切図』(1895) でも「ウカルキナイ」と描かれていました。

お遊びか、ガチの決闘か

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Ukaruki nai   ウカルキ ナイ   遊戯澤
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.325 より引用)
なんだ、やっぱり記念受験はお遊びだったのか……という話ではなく(ぉぃ)、鎌田正信さんの『道東地方のアイヌ語地名』(1995) によると、次のように解釈したもののようです。

白糠地名研究会は「ウカラ・キ・ナィ ukara-ki-nay ウカラという遊び・する・沢」と解した。川口に設置された標識には「こん棒でお互いに打ち合う遊び」と説明されている。
(鎌田正信『道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】』私家版 p.235 より引用)
どこかで聞いた話だな……と思ったのですが、おそらく知里さんの『斜里郡アイヌ語地名解』(1960) の「ウカルシュベツ川」の項ですね。

(417) ウカルシベツ(Ukar-ush-pet) ウカル(棍棒で叩き合う,決闘する),ウㇱ(いつも……する),ペッ(川)。「いつも決闘する川」の義。こゝで始終山争いがあつたという。
(知里真志保「知里真志保著作集 3網走郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.312-313 より引用)※ 原文ママ
ここでも、知里さんの「仁義なき戦い」的な解に対して、永田地名解は随分と穏当な解を示しています。この「ウカル」は、元々は「決闘」の手段だったと思われるのですが、知里さんによると次のような変遷があったのでは、とのこと。

ウカラは,前に述べた如く,棍棒(シツ゚)を以てする打ち合ひであるが,それは何の為に行はれたかと云ふと,(一)紛争が口論(「チャランケ」)のみで決し兼ねた場合,それを解決する最後の手段として用ひられ, また(二)「鬱憤ありて打果すほどの事に及びたる時,あつかひの者入て和談せしめ遺恨なきために互に打て鬱憤を散ずる」(『北海随筆』),即ち和解の手段として用ひられるのである。(三)試合の方法としても用ひた(→註4)。本篇の場合などその一例である。(四)後にはそれがスポーツ化し,更に興行的な行事にまで化した。
(知里真志保「知里真志保著作集 1『樺太アイヌの説話(一)』」平凡社 p.356 より引用)
適切ではない喩えかもしれませんが、日本刀で斬り合っていたものが「剣道」として体系化され、それが「スポーツチャンバラ」に発展?したような感じ……でしょうか?

タチギボウシの川?

閑話休題それはさておき。「ウカルキナイ川」に話を戻しますが、仮に「スポーツチャンバラ川」だったとして、「磯野ー、ウカルやろうぜー」と言ってわざわざ「ウカルキナイ川」まで足を伸ばすというのはちょっと理解に苦しみます。まぁ「ウカルキナイ川」が下流側のアイヌと上流側のアイヌの境界線で、しばしば「仁義なき戦い」が繰り広げられたと考えることは(一応は)可能ですが……。

「タチギボウシ」を意味する ukur-kina という語があります。湿原に自生する草ですが、「ウクルキナ」系の地名は山間の川沿いに多く見られる印象があります。この「ウカルキナイ川」も {ukur-kina}-nay で「{タチギボウシ}・川」だったのではないでしょうか。

おそらく -nay の前には「多くある」を意味する -us-o あたりがあって、それが脱落したと見るべきですが、-o であれば確実に脱落しそうに思えます。ukur-kina-nay であれば「ウクリキナイ」となり「ナ」が一つ余るので、あるいは {ukur-kina}(-o)-i で「{タチギボウシ}(・多くある)・ところ」あたりかもしれません。

ルオンネナイ川

ru-o-onne-nay?
道・ついている・老いた・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2024年3月15日金曜日

日高本線代行バスで各駅停車 (31) 「汐見」

鵡川行き列車代行バスは、ついにむかわ町に入ってしまいました。長かった日高振興局エリアからもついに脱出で、ここからは胆振総合振興局エリアです。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

むかわ町に入って国道 235 号を走ること 2.7 km ほどで、とある交叉点にやってきました。不思議なことに左折車線と直進・右折車線が存在するようです。

2024年3月14日木曜日

日高本線代行バスで各駅停車 (30) 「富川」

鵡川行きの列車代行バスは富川駅の西にある踏切を渡ります。この線路は富川・静内浦河様似方向のものです。線路の左側に河岸段丘が迫っていることがわかりますね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

富川駅

踏切を渡ってから 500 m ほどで、横断歩道のある交叉点が近づいてきました。よく見ると道道 289 号「富川停車場線」のヘキサもあります。ということは……

2024年3月13日水曜日

日高本線代行バスで各駅停車 (29) 「日高門別~富川」

鵡川行き列車代行バスは国道 235 号を北西に向かいます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

おっ、「門別競馬場」の案内が!

2024年3月12日火曜日

日高本線代行バスで各駅停車 (28) 「日高門別」

鵡川行き列車代行バスは道道 351 号「正和門別停車場線」の「山門別踏切」を渡って、門別の中心街に入ります。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

あれ? T 字路に出てしまいました。おそらく右折が正解だと思われますが……

2024年3月11日月曜日

日高本線代行バスで各駅停車 (27) 「豊郷~日高門別」

鵡川行き列車代行バスは豊郷を出発して国道 235 号を西に向かいます。前方に波恵はえ川が見えてきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

日高本線も国道のすぐ横で波恵川を渡ります。鉄橋は割と新しそうに見えるのですが、これは老朽化のために新しく架け直したのか、それとも流失などの被害があったのか……?

2024年3月10日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1122) 「オニヨップ・クショナイ川・オンタナイ川・オシツクシ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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オニヨップ

o-ni-o-p
河口・木・多くある・もの
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
道東自動車道・庶路 IC の北西で庶路川に合流する「オニヨップ川」という東支流があり、河口の近くには「オニヨップ大橋」という橋がかかっています。白糠町オニヨップはオニヨップ川流域(東側?)の地名です。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヲニヨフ」という川が描かれていました。戊午日誌 (1859-1863) 「東部久須利誌」にも「右のかた」に「ヲニヨフ」という川があると記されています。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Oniyop   オニヨㇷ゚   樹木多キ川尻
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.324 より引用)
o-ni-o-p で「河口・木・多くある・もの」と読めそうですね。鎌田正信さんによると、この ni は「流木」とのこと。オニヨップ川の河口のあたりで庶路川の流路が大きく膨らんでいて、カーブの外側にあたるオニヨップ川の河口側に流木が溜まりやすくなっていたとのこと。

クショナイ川

kus-nay???
横切る・川
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)

2024年3月9日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1121) 「シリクロチ川・タンネナイ沢・トチビヤニウシ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

シリクロチ川

sir-kur-ot-i
山・影・多くある・ところ(川)
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
道東自動車道・庶路 IC の南、白糠町新興のあたりで西から庶路川に注ぐ支流です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「リコロチ」という名前の川が描かれています。戊午日誌 (1859-1863) 「東部久須利誌」には次のように記されていました。

 またしばし上りて
     ヲメウケナイ
     シリコロチ
 二川とも左りの方小川。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上』北海道出版企画センター p.524 より引用)
永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Shiri kur'ochi   シリ クロチ   山蔭
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.324 より引用)
sir-kur-ochi で「山・影・群在する」と読めそうでしょうか。あるいは sir-kur-ot-i で「山・影・群在する・ところ(川)」のほうが良いかもしれませんが、ochi あるいは ot は一般的に動物が群在するのに用いることが多いので、疑問も残ります。

ただ『──小辞典』を見てみると……

ot おッ《完》①(名詞についたばあい)a)……が群在(群居,群来)する。Chiray-~-nay 〔チらヨッナィ〕[イト魚が・群来する・川](地名解 222, 309, 408)Chir-~-to 〔チろット〕[鳥が・群来する・沼](同 309)。b)群在するような印象を表わすのに用いられる。pe(kem, ye, nupe)~汁(血,膿,涙)が・にじみ出る。→入門 224.
知里真志保地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.82 より引用)
「群在する」だけではなく、「群在するような印象を表す」のに使用しても良い……のですね。ということであれば、やはり sir-kur-ot-i で「山・影・多くある・ところ(川)」と見て良さそうに思えます。

タンネナイ沢

tanne-nay
長い・川
(記録あり、類型あり)

2024年3月8日金曜日

日高本線代行バスで各駅停車 (26) 「豊郷」

鵡川行きの列車代行バスは清畠駅を出発して国道 235 号に戻ります。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

厚賀と比べるとかなりコンパクトな清畠の集落を抜けると「慶能舞川」なのですが……ええええっ!

2024年3月7日木曜日

日高本線代行バスで各駅停車 (25) 「清畠」

鵡川行きの列車代行バスは厚賀を出発しました。右側の高台を通っているのが国道 235 号で、日高本線の線路はその手前(海側)を通っています。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

厚賀-清畠間のルート変更

日高本線は国道 235 号の下を通って山側に向かうみたいです。大量の土嚢も気になるところですが……

2024年3月6日水曜日

日高本線代行バスで各駅停車 (24) 「厚賀」

鵡川行き列車代行バスは厚別川を渡って日高町に入りました。この時点で 16:36 ですが、時刻表を見ると見事に定時のようです(素晴らしい!)。
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それにしても……ついに日高町まで来てしまいましたね。帯広駅前を出発したのが朝の 7:15 で、広尾様似静内でバスを乗り継いでここまでやってきてしまいました。日高町と言えばむかわ町の隣なので、バス旅の終点が少しずつ近づきつつある……ということになりますね。

2024年3月5日火曜日

日高本線代行バスで各駅停車 (23) 「大狩部」

鵡川行き列車代行バスから日高本線の線路を眺めます。これは……手前側(陸側)の線路が……浮いてますよね?
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

節婦川を渡ります。橋の上は何の問題も無さそうに見えますが……

2024年3月4日月曜日

日高本線代行バスで各駅停車 (22) 「節婦」

節婦の集落に入りました。この道路は国道の旧道に相当するものらしく、道路沿いに集落ができて、鉄道が集落の山側を迂回し、更に山側に国道のバイパス?が建設された……という良くあるパターンのようです。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

さすがは北海道と言うべきか、旧道に相当する道路でもしっかりとセンターラインは確保されています。

2024年3月3日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1120) 「イルモクンナイ川・ケトンチ川・オレウケナイ沢」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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イルモクンナイ川

enrum-kun-nay?
岬・影・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
トマリベツ川の 0.3 km ほど上流側で庶路川に注ぐ西支流です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい名前の川が見当たらないのですが、『北海道実測切図』(1895) には「エルモクンナイ」という川と、それとは別に「エレモクンナイ」という川が描かれています。

ほぼ同名の川が二つ存在したことになるのですが、現在「イルモクンナイ川」とされる川は南側の「エモクンナイ」で、北側の「エモクンナイ」は現在の「エザキ川」ではないか……と推定されます。

鎌田正信さんの『道東地方のアイヌ語地名』(1995) には次のように記されていました。

エルモクンナイ
イルモクンナイ(地理院図)
オルコマーフプ(営林署図)
(鎌田正信『道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】』私家版 p.232 より引用)
やはりと言うべきか、早くも混乱が見られます。『北海道実測切図』によると「オリコマプ」は「エルモクンナイ」の南隣の川で、現在の「アカツキ川」に相当すると考えられます。

 白糠地名研究会は「エルㇺ・クンネ・ナイ ねずみ・黒い・沢」と記した。単語の意味はそのとおりであろうが、全体の意味がつかめない。
(鎌田正信『道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】』私家版 p.232 より引用)
そうですね。同感です。

エンルㇺ・ク・ウン・ナイ(出崎に・仕掛弓・ある・川)と読めないだろうか。
(鎌田正信『道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】』私家版 p.232 より引用)
読めなくは無さそうですが、enrumku の間に何かが抜け落ちた……と考える必要があるかもしれませんね。たとえば enrum-us-ku-un-nay であれば「岬・ついている・仕掛け弓・ある・川」となりますが、usun というのも奇妙な感じがします。

もっと単純に enrum-kur-nay(音韻変化で enrum-kun-nay となる)で「岬・影・川」と考えられないでしょうか。これも kurnay の間の何か(-un とか?)が抜け落ちたのかもしれませんが……。

ケトンチ川

ketunchi
皮張枠
(記録あり、類型あり)

2024年3月2日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1119) 「チプタナイ・乳呑・泊別」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

チプタナイ

chip-ta-nay
舟・作る・川
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
白糠町立庶路学園」の北を流れる「チプタナイ川」流域の地名です。かつては根室本線から「明治鉱業庶路炭鉱専用線」が伸びていたところです。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「チフタナイ」という川が描かれていました。永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Chip ta nai   チㇷ゚ タ ナイ   舟ヲ作ル澤
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.324 より引用)
chip-ta-nay で「舟・作る・川」と見て良さそうですね。丸木舟の材料となる木が多く自生していた……ということなのでしょうね。

乳呑(ちのみ)

chi-nomi
我ら・祀る
(記録あり、類型あり)

2024年3月1日金曜日

日高本線代行バスで各駅停車 (21) 「新冠~節婦」

鵡川行き列車代行バスは「新冠駅」を出発しました。左側に踏切が見えていますが、これは道道 209 号「滑若新冠停車場線」の踏切……ということになりますね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

道道の「○○停車場線」は、駅と国道の間のごく僅かな間を結ぶ、冗談のような路線も少なくないですが、「滑若新冠停車場線」は延長 18.8 km の、割とちゃんとした(どの辺が)道道です。