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厚賀-清畠間のルート変更
日高本線は国道 235 号の下を通って山側に向かうみたいです。大量の土嚢も気になるところですが……左手に海が見えてきました。これまでのパターンだとここで日高本線の踏切を渡る筈ですが、今回は日高本線が何故か山側に逃げていってしまいました。
実は、厚賀と清畠の間は 1960(昭和 35)年にルート変更が行われていたとのこと。1952(昭和 27)年の十勝沖地震(M 8.2)の後、護岸の浸食が激しくなったことによる措置で、国道のすぐ隣(山側)を通るようにルート変更を行った……ということのようです。
国道 235 号に戻ってきました。右側が 1960(昭和 35)年に移設された日高本線の線路で、左側がかつて日高拓殖鉄道の線路が通っていた海岸です。
なるほど、昔はこうやって護岸の浸食から線路を守るために抜本的な改良をしていたんだな……と認識を新たにするとともに、大狩部と厚賀の間は 1960(昭和 35)年時点でも既に「打つ手なし」と見られていたかもしれない……と思うと、ちょっと切なくなります。
かつて線路が通っていた海岸は、今は昆布干し場として活用されているようです。
海沿いギリギリ……では無かった
国道は海岸段丘に向かって坂を駆け上がり始めました。鉄道にとってはシビアなルートだなぁ……と思ったのですが、右側に見える日高本線(移設後)の線路はしっかりと事前に高度を稼いでいました。海岸段丘を駆け下りた先に
賀張川の河口を眺めると……あっ!
あの橋脚は……日高拓殖鉄道が建設した橋のもの……ですよね? 例によって海沿いギリギリを攻めていたものの、あまりのギリギリぶりに国鉄のエラい人が「これはあかんやろ」とルート変更を行った……かと思ったのですが……
ところが、陸軍図を見てみると、そこには驚きの情報が! なんと、賀張川橋梁は河口から 100 m 近く内陸側を通っていたのです。
1952(昭和 27)年の十勝沖地震の際に海底の大規模な沈降があったのかもしれませんが、いずれにせよ賀張川河口附近の浸食は割と洒落にならないレベルだったようで、日高本線(と国道 235 号)が内陸側にルート変更を余儀なくされたのも当然の結果に思えてきました。
1952(昭和 27)年に十勝沖地震が発生したタイミングでは、鉄道がまだまだ公共交通機関のエース的存在で、「日高本線の廃線はあり得ない」という空気が当たり前に漂っていたことが、ルート変更の後押しをした……ということなのでしょうね。
またしても路盤流失……
日高本線(付け替え区間)は国道 235 号の右側(山側)を通っていましたが、ここで国道 235 号が日高本線をオーバークロスします。日高本線の線路を上から眺めます。このあたりか、この先すぐのところで当初のルートに戻るようです。
……あっ。日高本線の路盤流失は大狩部駅附近だけじゃなかったのですね。主に山側の路盤が抜けているように見えますが、これってどういうメカニズムなんでしょう? 防波堤は普通に存在しているので、波が路盤を崩したようにも見えないのですが……。
清畠駅
道南バスの「清畠駅前」バス停にやってきました。ちょっとおしゃれなデザインの待合室が見えます。列車代行バスは速度を落とし、左折するようです。
道路に駅前広場が直結しているのは厚賀駅と似た感じですね(お立ち台こそ見えませんが)。
列車代行バスは清畠駅の駅舎の真ん前で停車しました。わざわざ駅の真ん前まで立ち寄るのは芸が細かいなぁ……と思わせますが、道南バスの「清畠駅前」バス停にはバス退避用の場所が無いため、このまま停車してしまうと渋滞を招きかねない……という判断なのでしょうね。
【おことわり】本記事内の写真は以下の目的のために Adobe Firefly の生成 AI による生成塗りつぶしを使用しているものがあります:ダストノイズ除去
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