2024年2月29日木曜日

日高本線代行バスで各駅停車 (20) 「新冠」

鵡川行き列車代行バスはベルリンの壁を越えて新冠町に入ります。左側に線路も見えますね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

日高本線の線路は海のすぐ傍を通っています。佐瑠太(後の富川)から静内までは国鉄ではなく、「日高拓殖鉄道」が建設した区間です。

2024年2月28日水曜日

日高本線代行バスで各駅停車 (19) 「鵡川行き列車代行バス」

日高本線・静内駅前にある列車代行バスの「静内駅」に戻ってきました。六角形のバス停もすっかりお馴染みになりましたね(オリジナルティが高くて意外と識別性が良いという印象)。
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駅前のロータリーには「新ひだか町」の文字が。2006 年までは「静内町」だったのですが、もしかしたらひらがなで「しずない町」とかだったのでしょうか……?

2024年2月27日火曜日

日高本線代行バスで各駅停車 (18) 「静内 その3」

「2・26 飯テロ」も無事?終わったので、のんびりと静内駅に戻ることにしましょう。
回転寿司「ちょいす」は「イオン静内店」のすぐ近く(国道の北側)にあるのですが、こちらは国道の南側にある「マックスバリュ静内店」です。

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「マックスバリュ静内店」には「ツルハドラッグ」も入っているのですが、マックスバリュの前から北西方向を眺めると、「ゲオ静内店」の横にも「ツルハドラッグ」が見えます(右の方には「イオン静内店」も見えていますね)。このツルハの出店戦略は、一体どうなっているのでしょう……?

2024年2月26日月曜日

日高本線代行バスで各駅停車 (17) 「静内 その2」

静内駅の外に戻ってきました。静内行き列車代行バスだった車輌が引き上げていきます。次の様似行き代行バスは 30 分後の 14:58 発なので、一旦引き上げて休憩……でしょうか?
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そして既報の通り、次の鵡川行き列車代行バスは 16:05 発なので、もうのんびりと待つしか無い状態です。ということで、今日は静内でブラ(以下略)

2024年2月25日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1118) 「庶路」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

庶路(しょろ)

so-oro?
滝・のところ
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
白糠町の東部の地名で、同名の川が白糠町の東半分を北から南に貫流しています。JR 根室本線にも同名の駅があるので、まずは「北海道駅名の起源」を見てみましょうか。

  庶 路(しょろ)
所在地 (釧路国)白糠郡白糠町
開 駅 明治34年7月20日(北海道鉄道部)(客)
起 源 アイヌ語の「ショ・オロ」(滝の所) から出たもので、ここを流れる庶路川の上流に、滝が多いからである。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.128 より引用)
無難な解にまとまっている感があるでしょうか。ただ「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「シヨロヽ」とあり、so-oro であれば二つ目の「(ヽ)」に相当する音が行方不明であるようにも思えます。

滝が高いところ?

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Shororo,=Sho-ri-oro   ショロロ   瀑布高キ處 大雨ノ時瀑泉飛ブ○庶路村シヨロロ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.322 より引用)
やはり「ショロ」ではなく「ショロロ」という認識だったようで、なんとかしてその形に近い解をひねり出した感があります。so-ri-oro という形が果たして文法的に妥当かどうかは、ちょっと疑問も残りますが……。

順風??

「東蝦夷日誌」(1863-1867) には次のように記されていました。

(二丁七間) シヨロヽ〔庶路〕(川幅二十間餘、船渡し、人家九軒)名義、シヨロヽマウエと云、則順風の勢と譯す。此川屈曲をなせしが、舟をるに宜敷よろしきよりなづくると(地名解)。又むかし出水の時にカンナを懸し如く、水が平に成りしに依る共言へり。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.301 より引用)※ 〓 は金へんに行
「シヨロヽマウエと云、則順風の勢と譯す」とありますが……何でしょうこれ。だんだん手に負えなくなってきた感があるのですが、上原熊次郎の「蝦夷地名考幷里程記」(1824) を見てみると……

シヨロヽ               川舟渡
  夷語シヨロヽとは順風と譯す。此川格別屈曲もなく、川風請凉風なる故、地名になすといふ。
(上原熊次郎「蝦夷地名考幷里程記」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.62 より引用)
見事なまでに見解が一致しているんですよね。これはどう考えたものか……。

かんなをかける川???

そして、順番が前後してしまいましたが「加賀家文書」にも驚きの記録が……

ソロヽ川 ソロヽ・ヘツ 鉋かける・川
  此所に川有。先年川上にて鹿沢山に居候節、奥山に雪降り積り候得ば、川下へ鹿下るに其跡の草鉋かけるよふに成しを名附由。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.256 より引用)
「鉋かける川」だと言うのですが、この「鉋」は「かんな」のことです。これは東蝦夷日誌の「カンナを懸し如く水平に」と符合するんですよね。

「かんな」あるいは「かんなをかける」という意味の語があったかな……と思って手元の資料を漁ってみたのですが、「アイヌ語古語辞典」(2013) に次のような記述が!

シヨロ
 ①かんな ②
(平山裕人「アイヌ語古語辞典」明石書店 p.306 より引用)
これは「アイヌ語古語辞典」の第 3 部「『藻汐草』アイヌ語単語集」の中の記述で、確かに「藻汐草」(1804) に「かんな  シヨロ▲ホカケ子」と記されています(!)。

「ショロ」は「かんな」?

「かんな」を「シヨロ」と呼ぶ言い方は、比較的早いタイミングで廃れたようにも思われますが、知里さんの植物編 (1976) に次のようにありました。

§ 152.ミツバウツギ Staphylea Bumalda Sieb. et Zucc.
(1) esorokanni (e-só-ro-kan-ni) 「エそロカンニ」[e(それで)soro (かんな)kar(つくる)ni(木)] 莖《穂別》《A 沙流・千歳》
(知里真志保「知里真志保著作集 別巻 I『分類アイヌ語辞典 植物編』」平凡社 p.94 より引用)
げっ。こんな形で裏が取れるとは……。esorokanni平取の「エショロカン沢川」との関連があるかもしれない植物、でしたね。

ただ、「シヨロ」が「かんな」かもしれない……という考え方ですが、地名としては不自然で、また類型を見たことが無い(気づかなかっただけかも知れませんが)という大きな問題があります。また、あくまで「かんな」は「シヨロ」であって、「シヨロヽ」では無いという問題も残ります。

かんな屑??

ところが、ドブロトヴォールスキィの「アイヌ語・ロシア語辞典」(2022) に、次のような記述がありました。

Soro. Dav. 鉋.Mos. 鉋,両手鉋, shioro(シヨロ)とも言う.
omari. Dav. 鉋をかける.
rubi. Dav. 鉋屑.Mos. 鉋屑,shiororube とも言う(Pf.によると,soro および小詞 rube から)
(寺田吉孝・安田節彦・訳「M.M.ドブロトヴォールスキィのアイヌ語・ロシア語辞典」共同文化社 p.615 より引用)
「かんな」が「シヨロ」だとするのは「藻汐草」だけではなく、ダヴィドフの「海軍大尉故ガヴリーラ・ダヴィドフが現地で集めた,サハリン半島南端に住む民族の言語の語彙集(Словарь нарѣчий народовъ, обитающихъ на южной оконечности полуострова Сахалина, собранный на мѣстѣ покойным Лейтенантомъ Γаврилою Давыдовымъ)」にも記録されていたことがわかります。

注目したいのは Sororubi あるいは shiororube が「かんな屑」を意味するという記録で、これはプフィツマイエールによって soro-ru-be ではないかと考察されています。-be-pe なので、soro-ru-pe は「かんな・跡・もの」と分解できるかもしれません。

「東西蝦夷山川地理取調図」では「シヨロヽ」と記録されていますが、「加賀家文書」には「ソロヽ・ヘツ」とあり、また「竹四郎廻浦日記」(1856) にも「シヨロヽベツ」とあるので、soro-ru-pet で「かんな・跡・川」と読めそうな気がします。これで「シヨロ」ではなく「シヨロヽ」だ、という問題はクリアできることになりますね。

背が高い? 曲がりくねっている??

「でも地名に『かんな屑』ってどうなのよ」という問題が残るのですが、ドブロヴォールスキィの辞書には次のような記述もありました。

Sororubi. Kl. Sakh. 背が高い.クラプロト(Klaprot, Клапротъ)はダヴィドフ(Davydov, Давыдов)の語彙集のドイツ語訳からまるごと語を引いていた.そこで「鉋屑,削り屑」を意昧するこの語は,解釈において riiva と混同された.
(寺田吉孝・安田節彦・訳「M.M.ドブロトヴォールスキィのアイヌ語・ロシア語辞典」共同文化社 p.615 より引用)
riiva は、ダヴィドフによると「とても高く」を意味するとのこと。ri が「高い」なので、その派生形であるか、あるいは何らかの誤解があったかもしれません。

問題は Sororubi(= soro-ru-pe)を「背が高い」としている点で、これは薄っぺらく長いかんな屑の比喩表現である可能性が考えられそうな気がします。庶路川は、庶路ダムの手前までは川の左右に比較的開けた谷を持ちますが、これを「かんなをかけた跡」に見立てたという以外にも、庶路ダムから更に奥に溯ることができることを「背が高い」と捉えた……とも考えられるかもしれません。

ドブロトヴォールスキィの辞書には、更に気になる記述もありました。

Shioro. Mos.カーブ,曲がりくねり(川の); leks.では.鉋(かんな),両手鉋(かんな).Bits-shioro-shioro-shioro-shioro,ああ,川の曲がりよ !
(寺田吉孝・安田節彦・訳「M.M.ドブロトヴォールスキィのアイヌ語・ロシア語辞典」共同文化社 p.877 より引用)※ 原文ママ
ドブロトヴォールスキィは、「藻汐草」において Shioro. が「カーブ」を意味する……としていますが、「アイヌ語古語辞典」にはそれらしい記述を確認できませんでした。

そして庶路川が果たして曲がりくねった川か……と言われると、道道 242 号「上庶路庶路停車場線」の起点(庶路基線)あたりまではそれほどでも無いものの、庶路基線から北は急に曲がりが激しくなるようにも思えます。

そもそも Shioro. に「カーブ」という意味があるという説は「出所不明」ではあるのですが、これも「かんな屑」からの派生である可能性もあるかも知れません。薄く削り出された「かんな屑」はグニャグニャに曲がっているのが常ですからね。

捨てがたい「かんな屑」

「庶路ダム」のすぐ下に「大滝」があり、「瀧ノ上」集落が「グリーンレイク庶路」に沈んでいることを考えると so-oro で「滝・のところ」と考えるのが自然のように思えますが、上原熊次郎・加賀伝蔵・松浦武四郎がいずれも「滝のところ」ではない解を記録しているというのは、ちょっと無視できないと思うのですね。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
ということで、極めてユニークな解ではありますが、soro-ru-pet で「かんな・跡・川」と見ていいんじゃないか……と思えてきました。含意は「かんなをかけたように平坦な谷」であり、また「かんな屑のように曲がりくねった川」であり、更には「かんな屑のような長い川」だった……かもしれません。

ただ改めて考えてみると、中流部に「大滝」のある川が *偶然* soro-ru-pet という名前になったのか……と言われてみると、それも不自然な気がします。要は so-oro で「滝・のところ」という川名があらかじめ存在し、そこから「かんな屑」という説話を *創作* し、それ故に「シヨロ」ではなく「シヨロロ」と記録されるようになった……とするのが自然かもしれません。(2024/3/17 修正・追記)

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2024年2月24日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1117) 「恋問・フラサカオマナイ・フンベオマナイ沢」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
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恋問(こいとい)

koy-tuye
波・そこで切る
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
釧路大楽毛おたのしけ白糠庶路しょろの間にある道の駅「しらぬか恋問」は国道 38 号のオアシス的な存在として親しまれていますが、「恋問」の地名の元になったと思しき「コイトイ川」は、JR 根室本線・庶路駅のすぐ東を流れています。

現在のコイトイ川は、庶路川に合流して海に注いでいますが、「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) では「シヨロヽ」と「コイトイ」はそれぞれ独立して海に注ぐように描かれています。

更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」(1982) には次のように記されていました。

 国鉄庶路駅の東側の湿地帯。稚内市の声問と同じ、波が崩す所の意。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.244 より引用)
はい。稚内の「声問」や苫小牧の「小糸井」と同様に koy-tuye で「波・そこで切る」と考えて良さそうな感じですね。

「東蝦夷日誌」(1863-1867) には次のように記されていました。

(十丁四十間) コイトフ(沙濱、小川)上に細き沼有。此處え東風強き時は波浪打込故になづくと。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.302 より引用)
ふむふむ。「波浪打込故に」とあるので、やはりこれも koy-tuye と考えて良さそうな感じでしょうか。

更に時代を溯ると、加賀家文書「クスリ地名解」(1832) にも次のように記されていました。

コヱトヱ コヱ・トヱ 浪・切れ(越し)
  昔シヨロヽ川浪にて此所え切れ相成候故名附。尤も今は川尻別に御座候。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.256 より引用)
おおお。どうやらこの記述によると、加賀伝蔵はかつて庶路川と恋問川の河口がつながっていた……と聞いていて、ただ既に両河川の河口は独立していたように読み取れます。これは「東西蝦夷山川地理取調図」において「シヨロヽ」と「コイトイ」が独立して描かれていることとも符合しますね。

「恋問」は koy-tuye で、河口に溜まった流砂を波が切り崩す(場所)だと見て良いかと思われます。

フラサカオマナイ

{masar-ka}-oma-p
{海岸の草原}・そこに入る・もの(川)
(記録あり、類型あり)

2024年2月23日金曜日

「日本奥地紀行」を読む (159) 白沢(大館市) (1878/7/29(月)~30(火))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十七信」(初版では「第三十二信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

騒がしい談話

折からの長雨のせいで、大館の北に位置する「白沢」で足止めを食らったイザベラは、旅程を進めることができなくなったのでネタに困って……ということでも無いのでしょうが、周りの日本人の観察に勤しんでいました。

 日本の下層階級では、少なくとも男の場合には、低い声で話すということは、「たいそう良いことだ」とは思われていない。人々は声の限り高い声でしゃべる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.297 より引用)
「階級」によって声のトーンが変わる……というのは、これまで考えたことも無かったのですが、そう言われてみれば「偉い人」はドスの利いた声色を使う傾向がある……かもしれませんね。

たいていの語や音節は母音で終わるが、彼らの会話を聞いていると、鵞鳥などが遊んでいる英国の農家の庭先のがやがやとして雑然たる騒音を思わせる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.297 より引用)
「鵞鳥」は「がちょう」のことですが、イザベラ姐さん、今日も絶好調ですね……(汗)。

彼らと宿の亭主は、大声で四時間も議論をかわしていた。とても重大な問題を論じているにちがいないと私は思った。私が大館で聞いたのだが、選挙による地方議会を許可するという新しい重要な法令が出たという、それを議論しているにちがいないと想像した。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.298 より引用)
ふむふむ。まさに「日本の夜明け」が現在進行中だったわけで、きっと巷でも「新しい日本」のこれからについて闊達な議論が行われているのだろう……と考えたのですね。

ところが、きいてみると、大館から能代ノシロまでのその日の旅が、道路で行くのがよいか川で行くのがよいか議論していたのであった。彼らはこんな問題で四時間もの長い間議論を続けることができるのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.298 より引用)
……。いやまぁ、これも一歩間違えると生命の危険のある、重大な問題ではあるのですが……。

イザベラは、「日本の下層階級」の間で交わされる会話について、更に詳細を記していましたが、流石にオフトピックに過ぎると判断したのか、「普及版」ではカットしていました。

 私は「ある一人の事情通の人」から聞いたのですが、交わされる会話は教育を受けた日本人の間でさえ、最も貧困なレベルのものだそうです。
(高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』中央公論事業出版 p.115 より引用)
うーむ。まぁそうだよなぁ……と思いつつ、こうやって活字にされると「あああ」と思ってしまいますね。「貧困なレベル」の会話が具体的にどのようなものであったかと言うと……

政治、社会問題は禁句であり、宗教やその他同類の話題はどこにもありません。芸術には興味がなく、文学などそんなものどこにあるかというところです。教養のある女性を向上させるような影響はなく、古い慣習や現在の不信から、誰もが喋る価値のある如何様な問題に対しても、自分の意見を明らかにしてコミットすることに躊躇し、話題は知的な外国人には、どうしても好感のもてない低俗でおもしろおかしいだけのものや下品な冗談に堕落してしまいます。
(高畑美代子『イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺』中央公論事業出版 p.115 より引用)
……。今の日本にも、イザベラの言う「日本の下層階級」が存在する……というか、大勢を占めるような気もするのですが……。

社交的集まり

イザベラが目を向けたのは「日本の下層階級」のみならず、「日本の女性」についても鋭い視線を投げかけていました。

 日本の女性は、自分たちだけの集まりをもっている。そこでは人の噂話やむだ話が主な話題で、真に東洋的な不作法な言葉が目立つ。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.298 より引用)
うううう……。今の日本も「お上品な女性」と「お上品な男性」をワシントン条約で保護する必要があるんじゃないかと思えることもあるのですが……。「井戸端会議」という表現は一体いつ頃から存在するのでしょうね。

「真に東洋的な不作法な言葉」というのがちょっと不思議な感じもするのですが、原文によると truly Oriental indecorum of speech とのこと。どのようにオリエンタルなのかは……ちょっと理解できていません。

不公平な比較

イザベラは「日本人」と「英国人」を比較するという、ちょっと今ではやってはいけないことを試していました。

多くの点において、特に表面に現われているものにおいては、日本人は英国人よりも大いにすぐれている。しかし他の多くの点では、日本人は英国人よりもはるかに劣っている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.298 より引用)
「日本人が英国人よりも大いにすぐれている」のは、丁寧で勤勉であるという点と、日々を倹しくも睦まじく暮らしている……という点でしょうか。イザベラは「キリスト教化された英国人」と「日本人」を比較すること自体がアンフェアであると考えていたようで、実際に次のように記していました。

このていねいで勤勉で文明化した国民の中に全く溶けこんで生活していると、その風俗習慣を、英国民のように何世紀にもわたってキリスト教に培われた国民の風俗習慣と比較してみることは、日本人に対して大いに不当な扱いをしたことになるということを忘れるようになる。この国民と比較しても常に英国民が劣らぬように〈残念ながら実際にはそうではない!〉、英国民がますますキリスト教化されんことを神に祈る。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.298 より引用)
平たく言い直せば「英国人はキリスト教のおかげで日本人よりマシに見える」と言ったところでしょうか。これはスポンサー向けのヨイショというよりは、実際にイザベラはそのように考えていた……と見ていいかと思われます。

問題は「他の多くの点では、日本人は英国人よりもはるかに劣っている」という点で、これは「日本の下層階級」における「致命的なまでの教養の欠如」が該当する……と言えそうでしょうか。「平均的な日本人」の教養レベルの低さはますます酷くなる一方で、これは日々憂慮すべき点でもあるのですが、本質的なレベルではイザベラが旅した頃と何ら変わっていない……と言われてしまうと、絶望感に苛まれますね……。

このトピックは「不公平な比較」の筈ですが、7/30(火) 付けで次のような文章が続いていました。

 七月三十日──私の部屋の向かい側の部屋にはひどい眼病の男が二人いた。頭を剃り、長くて奇妙な数珠をさげて、歩きながら小さな太鼓を叩き、東京エド目黒不動メクロフドーの社まで巡礼を続けている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.298 より引用)
不動明王は盲人に視力を与えるご利益があるとして、眼病の男たちが朝 5 時に始めた勤行について、次のように綴っていました。

南無妙法蓮華経ナムミヨーホーレンゲキョーという日蓮ニチレン宗の祈禱の文句を非常な速さで繰り返し、これが高く単調な声で二時間も続いた。この祈りの文句は、日本人には誰にも分かっていないだろうし、その意味については最高の学者でも意見がまちまちである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.299 より引用)
イザベラは「意味を理解すること無くお題目を唱える」ことのナンセンスさを批評する……のかと思ったのですが、意外なことに本件は情景の描写に留めていました。読者が旅先で、似たような巡礼者を見かけたときの理解を深めるための一節だったのかもしれませんね。

更にイザベラは興味深い記録を残していました。

 雨は昨夜十一時ごろまた降り始めたが、今朝五時から八時まで降った。粒となって降るのでとばりはなく、滝のように流れおちた。その中ほどで真っ黒な夜の帳があらゆるものを包んで、不気味な黒闇となった《皆既食だといわれる》。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.299 より引用)
イザベラはこの日(1878/7/30)の朝に日食があったことを記しているのですが、確かにこの日に北アメリカ大陸を中心に皆既日食があったとのこと。日本でも北日本を中心に広い対象で日食があったらしく、http://star.gs/njkako/nj18780730.htm によると秋田では朝の 4:36 から 5:52 の間に日食が見られたとのこと。

イザベラの「日記」に記された日付にどこまで信を置けるか……という点も時に悩ましいものですが、少なくとも 1878/7/30 に白沢にいた、という点はこれで確実になったと言えそうですね。

直近では大館と白沢で足止めを食らっていたイザベラは、やはりフラストレーションが溜まっていたようで……

もう一日で私の旅行の終点に着けるというのに、少しでも足どめされるのは腹立たしくなる。これから先に大きな困難が待ち構えていること、三日や四日かかってもそれを切り抜けることは疑わしいと聞いて、私は不安な気持ちになる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.299 より引用)
そして「私の手紙が単調になって倦きてしまうことのないように祈る」と続けていました。やはりネタに困っているという自覚が多少なりともあったということなんでしょうか(汗)。

もっとも、「ネタ切れ」「マンネリ」を危惧しつつも、『日本奥地紀行』のユニーク性については自負もあったようで、次のように続けていました。

もし少しでも手紙が興味深いものであるとすれば、それは、一外国人が、大きいけれどもあまり人の訪れない地方を旅行して、見たり聞いたりしたことをありのままに描いているからであり、その場その場で書きあげたものだからである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.299-300 より引用)
「その場その場で書き上げた紀行文」というのは全くその通りで、確かに貴重なものですね。こうやって、改めて深く読み進めるのも楽しいものです。

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2024年2月22日木曜日

日高本線代行バスで各駅停車 (16) 「静内」

静内行きの列車代行バスが「静内橋」で「静内川」を渡ります。終点の「静内駅」まで、あと少しです。
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国道 235 号の「静内橋」は、日高本線の鉄橋に対して斜め方向のため、北に行くほど日高本線と離れてゆきます。この距離感も悪くないですよね。キハ 40 あたりが走っていれば尚良いのですが……。

2024年2月21日水曜日

日高本線代行バスで各駅停車 (15) 「静内海水浴場(跡)」

静内行きの列車代行バスは東静内を出発しました。次は終点の静内ですが、東静内から静内までは 8.8 km もあります(鵡川以南では汐見-富川間の 9.1 km に次ぐ長さです)。
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「東静内」の西隣に位置する「浦和」にやってきました。埼玉からの移住者が多かったわけではなく、元はアイヌ語の地名だとされています。

2024年2月20日火曜日

日高本線代行バスで各駅停車 (14) 「東静内」

静内行き列車代行バスは「元静内」を北西に向かいます。
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山側を大回りしていた国道 235 号は、海側に「元静内橋」を架橋してショートカットすることでカーブを緩和しています。

2024年2月19日月曜日

日高本線代行バスで各駅停車 (13) 「日高東別・春立」

「西端生活館」で U ターンした静内行き列車代行バスが布辻ぶし川を渡ります。日高本線の鉄橋も見えていますね。
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前回の記事でも記しましたが、日高東別駅と U ターン場所である「西端生活館」の間は 800 m ほど離れています。全ての代行バスが 1.6 km ほど無駄足を踏んでいる……と言ってしまうとかなり残念な感じですが……。

2024年2月18日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1116) 「フップシ岳・歌云内・チュウルイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

フップシ岳

hup-us-nupuri
トドマツ・多くある・山
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
阿寒湖の西、雌阿寒岳の北に聳える山で、頂上付近に「風伏岳ふっぷしだけ」という名前の二等三角点もあります(標高 1,225.4 m)。

山田秀三さんの「北海道の地名」(1994) には次のように記されていました。

フㇷ゚・ウㇱ・ヌプリ(hup-ush-nupri) で,たぶん「椴松・群生する・山」の意であったろう。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.280 より引用)
また、鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」(1995) にも、次のように記されていました。

雌阿寒岳からフップシ岳にかけての山麓は、全道一のアカエゾマツの純林が形成されている。このアカエゾマツの純林を過ぎると、一変して山頂まではトドマツの純林で覆われているのである。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.182 より引用)
ふむふむ。やはり素直に hup-us-nupuri で「トドマツ・多くある・山」と見て良さそうですね。

hup には「トドマツ」以外に「腫れ物」という意味もあるので、トドマツ林が遠目から「腫れ物」のように見えたんじゃないか……と考えたこともありました。ただ更科源蔵さんの「コタン生物記」によると……

 トドマツをフㇷ゚というが、フㇷ゚とは腫物ということで、この木の松脂が樹皮の下にたまって、腫物のようにふくらむところから名付けられたのであるという。
(更科源蔵「コタン生物記 I 樹木・雑草篇」青土社 p.61 より引用)
あー、ちょっと考えすぎだったようです(すいません)。

歌云内(うたうんない)

ota-un-nay
砂浜・そこにある・川
(記録あり、類型あり)

2024年2月17日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1115) 「オクルシベ川・ボッケ・シアンヌ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

オクルシベ川

o-kur-us-pe?
河口・影・ある・もの
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
阿寒岳の南、国道 241 号が国道 240 号に接続する交叉点から(国道 240 号を)2.5 km ほど南に進んだところで阿寒川に西から合流する支流……とされる川です。国土数値情報では「オクルシベ川」がこの位置を流れていることになっていますが、陸軍図では現在「清流川」と呼ばれる川が「オクルシベ川」と描かれています。

現在も「阿寒町オクルシュベ」という地名が現存しているほか、道道 1093 号「阿寒公園鶴居線」の「鶴見峠」の北東には「送蘂」で「オクルシベ」と読ませる三等三角点も存在します(標高 739.3 m)。いずれも国土数値情報の「オクルシベ川」よりも「清流川」のほうが近いので、国土数値情報の「オクルシベ川」の位置には誤りがある……と考えたいところです。

「清流川」のあたりは阿寒湖に向かうメインルートから若干外れていたため、松浦武四郎の記録にはそれらしい川名が見当たりません。ただ幸いなことに、永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Okur'ushbe   オクルシュ ベ   黑川尻
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.338 より引用)
また、鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」(1995) には次のように記されていました。

 永田地名解は「オクル・シュベ Okur-ushbe 黒川尻」と書いた。オ・クルニ・ウㇱ・ペ「o-kuruni-us-pe 川尻に・ヤマナラシ(幹)・群生する・もの(川)」の意で、ドロノキにもこの名がついている。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.187 より引用)
ふむふむ。知里さんの「植物編」(1976) を見てみたのですが、美幌で「ドロノキ」を意味する kuruni屈斜路では petorun-kuruni と呼ばれ、単に kuruni と呼んだ場合は「ヤマナラシ」を意味するとのこと。

一見「なるほどねー」と思わせる解ですが、良く見てみると川の名前は「オクルシュベ」で、o-kuruni-us-pe はどこから ni が湧いてきたのか、不自然な感じもあります。素直に o-kur-us-pe で「河口・影・ある・もの」と考えて良いのではないか、と思うのですが……。

ボッケ

pokke
熱泉
(記録あり、類型あり)

2024年2月16日金曜日

日高本線代行バスで各駅停車 (12) 「日高東別」

静内行きの列車代行バスは日高三石を出発しました。次の「停車駅」は「日高東別」です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

列車代行バスは海沿いの国道 235 号を進みます。線路沿いの道もあると言えばあるのですが、乗用車が 1 台通れる程度の未舗装路なので、このあたりでバスが通行できるのは国道しか無さそうな感じでしょうか。

2024年2月15日木曜日

日高本線代行バスで各駅停車 (11) 「日高三石」

静内行きの列車代行バスは「蓬莱新橋」で「三石川」を渡ります。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

5 月にしては川の水量は大人しいでしょうか。雪解け水による増水が落ち着いた頃なのかもしれません。

2024年2月14日水曜日

日高本線代行バスで各駅停車 (10) 「蓬栄」

静内行き列車代行バスは「蓬栄駅」に向かいます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

左手に、再び日高本線の線路が見えてきました。勾配の関係で道路よりも少し高いところを通っているようです。

2024年2月13日火曜日

日高本線代行バスで各駅停車 (9) 「本桐」

静内行きの列車代行バスは新ひだか町(かつての三石町)に入りました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

列車代行バスは国道を北西に向かっていたのですが、またしても右折して国道から離れるようです。「三石ダム→ 26 km」の看板の横に「Seicomart 3km →」の看板が並んでいるのはご愛嬌ですね。

2024年2月12日月曜日

北海道のアイヌ語地名 (1114) 「ルウチシポコモナイ川・ピリカネップ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ルウチシポコモナイ川

{ru-chis}-pok-oma-nay
{峠}・しもて・そこに入る・川
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
イタルイカオマナイ川のすぐ北で阿寒川に注ぐ西支流……だとされる川です。地理院地図には川として描かれていません。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「ルチシホク」という名前の川が描かれています。戊午日誌 (1859-1863) 「安加武留宇智之誌」には次のように記されていました。

こへて
     ウチシホコマナイ
本名ル(チ)シポコマナイなるべし。此処より赤無川(アカン川)すじをはなれて、此小川に添て上り行ことなり。ル(チ)シポコマとは此川沢まゝにルウチシ有と云事なり。ヲマとは有ると云儀。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.277 より引用)
ru-chis-pok-oma-nay で「路・中央のくぼみ・下・そこにある・川」、すなわち「峠の下にある川」と言えそうですね。

峠はどこにあったか

ただ、ここで気になるのが「此処より赤無川(アカン川)すじをはなれて、此小川に添て上り行ことなり」という文です。これは阿寒湖へのショートカットを画策したと読み取れるのですが、阿寒湖までショートカットしたい場合、明らかに適切なのは現在の「イタルイカオマナイ川」で、現在「ルウチシポコモナイ川」とされる川は不適切だと考えられます。

現在「ルウチシポコマナイ川」とされる川を遡り、途中から「イタルイカオマナイ川」流域に移動した……と考えることも(理屈の上では)可能ですが、あえてそうするメリットが見いだせないんですよね。

この疑惑?に対する答が、鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」(1995) にありました。

 ルーチシポコマナイ
 イタルイカオマナイ(地理院図)
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.252 より引用)
あー。やはりそう考えたくなりますよね。これによると、地理院地図の「イタルイカオマナイ」が「官林境界図」あるいは「営林署管内図」には「ルーチシポコマナイ」と描かれていた(=両者は同一の川)ということになります。

この考え方を真っ向から否定しているのが「北海道実測切図」(1895) で、「イタルイカオマナイ」と「ルチシポコマナイ」は別の川として描かれています。ただ「ルチシポコマナイ」を遡った先にも ru-chis(峠)が存在するように描かれていますが、これは実状に即していないようにも見えます。

松浦武四郎は峠を越えたのか

注目したいのが「戊午日誌」にて「ウチシホコマナイ」の次に記された「ケナシ」についての記述です。

沢まゝ上りて凡椴原十七八丁にて茅野に出り。此処
     ケ ナ シ
と云なり。ケナシは野原の事也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.277 より引用)
18 丁は 2 km 弱なので、現在の「ルウチシポコマナイ川」を遡ったとすると距離感がやや合わないのですが……

是より九折つづらおり形有る哉無の坂を行こと凡十七八丁也。
此坂に上るや、アカンの川すじ彼椴木山の中を屈曲して行さま、蛇竜の盤屈するごときもの審に見え、
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.277 より引用)
「アカンの川すじ──蛇竜の盤屈するごときもの審に見え」とあります。仮に松浦武四郎が「イタルイカオマナイ」を遡ったとすると、ここまで阿寒川は見えないような気がするのですね。

「北海道実測切図」を良く見ると、道は阿寒川沿いでもイタルイカオマナイの峠でもなくルチシポコマナイの東側を通るように描かれています。この道は陸軍図にも描かれているのですが、陸軍図の「七曲り」を戊午日誌の「九折」だと考えると、阿寒川の川筋が詳らかに見えた……という記述とも整合性が取れます。

「ルウチシポコマナイ川」は {ru-chis}-pok-oma-nay で「{峠}・しもて・そこに入る・川」だと考えられますが、仮に「イタルイカオマナイ」の位置であれば ru-chis-oma-nay で良いわけで、改めて pok(下)を付加したのは「峠の東側(下流側)に入る川」であり、実際に「峠に入る川」では無かった……ということになりそうですね。

ピリカネップ川

pirka-nup?
美しい・野原
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2024年2月11日日曜日

「日本奥地紀行」を読む (158) 白沢(大館市) (1878/7/29(月))

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十七信」(初版では「第三十二信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

村にあるもの

大館から北に向かったものの、折からの長雨の影響もあり、イザベラは白沢で足止めを余儀なくされてしまいました。

 私は71軒の家のある小さな静かな村の通りを眺めながら楽しい夕べの時を過ごしてきました。同様の村は何千とありここもその一つです。村には戸長コチョーがいて、高札、寺や墓場があり、凋落しつつある崇拝の対象があり、祭りマツリ、社会政体、結婚や死、地域の利権、警官の査察、税の支払い、土地の争い、ちょっとしたうわさ話、迷信、蒙昧、──ここは小さな世界ですが、それでも大日本の一部なのです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.114 より引用)
ちょいと意味深長な文章ですが、イザベラは明治政府の中央集権ぶりが予想以上に浸透していることに驚いているようでした。地域と地域を結ぶ公共交通機関がほぼ存在しない状況で、コミュニティの閉鎖性は今以上に高かった筈ですが、その割には「政府のお達し」がきちんと行き届いていた……ということになりますね。

日本の均一性

イザベラがこの「均一性」を「興味深いもの」と見做したのは、以下のバックグラウンドを認識していたからのようです。

私は今、つい最近まで別個の国で必ずしも友好関係でなかった、幾つかの地域を通って旅を続けてきましたが、それらは公国(藩)、つまりそれぞれが独立した領邦システムだったのです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.114 より引用)
江戸時代には無数の藩があり、それぞれが独立採算で領内の経営に勤しんでいたのでしたね。無数の「国」が併存する連邦だったのが、わずか十数年でトップダウン型の国家に変貌しようとしているわけで、これはイザベラならずとも注意を引く流れだったと言えるでしょう。

もっとも、この「日本の急速なトップダウン化」は「奥地紀行」から見ると明らかにオフトピックで、おそらくイザベラのスポンサー向けの内容だったと思われるので、「普及版」ではバッサリとカットされています。

イザベラは各地の「藩」における気候の違いや言葉(方言)の違いなどを挙げた上で、寺や家の様式が(構造には違いがあるものの)本質的には同一であることを指摘します。

しかしどこに行っても、寺や家は事実上、全く同じ様式で建てられています。大きなものや、小さいもの、木壁、土壁、草葺屋根、木の皮(檜皮葺き)、こけら葺き、他の変化もありますが、住宅内部の飾りつけはいつも同じそれと認知できる特徴があります。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.114 より引用)
また農耕の面でも土壌や気候によって違いがあるとしつつ、基本的な作法はどこも変わらないと指摘しています。地域的な閉鎖性から独自性を醸し出すことも可能だった筈の社会的な規範や価値観も実際には共有されていて、どの藩においても大きな違いが見られなかった点に注意すべし……というのがイザベラのスポンサー向けのレポートの骨子だったようですね。

これらのことを遥かに凌いで、すべての段階で社会を統治する不文律は実際に同じなのです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.115 より引用)
イザベラは「日本の均一性」の具体例を次のように挙げていました。

 秋田の下級の労働者は田舎者かもしれませんが、東京の下層階級労働者の他人との交際における堅苦しい礼儀作法と同じだし、白沢の独身女性は、日光でそうであったように、落ち着いた感じがして、品位があり、礼儀正しい。子どもたちは、同じ玩具で同じ遊びをし、同年齢の子どもたちは同様の人生の公式の段階を踏む。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.115 より引用)
これは極々当たり前のことのようにも思えますし、ある意味現代の日本においても同じである、あるいはもっと酷くなっているようにも思えます。イザベラは自身が目にした「現状」が、急速に中央集権国家に移行しつつある日本の現状を捉えたと考えていたのか、それとも生来の「右へ倣え」資質(民族性?)が発現したものと見ていたのかが謎だな……と思ったのですが、その問いへの答もちゃんと用意されていました。

みな一様に、同一社会秩序の厳格な足かせにより縛られている。これは伝統的な慣習で、それが時には弊害となることもあり、時には非常にうまく作用することもあるのですが、それが、西洋の礼儀や文化のゆがんだ真似に取って代わられるのを見たら何であれ、私はきっと悲しくなるに違いないでしょう。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.115 より引用)
あー、やはり「同調圧力大好き日本人」は「伝統的な慣習」によって作られたと考えていたようですね。ちょっと不思議なのが、イザベラはこのことを比較的肯定的に見ていたように思えるところです。日本人は「自分の頭で考えて自分で判断する」というあたり前のことが「ちゃんと出来ない」のは誰もが知るところですが、こういった能力の致命的な欠如は、「奴隷」として扱うにはこの上なく有用なんですよね。

晩の仕事

イザベラは、日本の「庶民」の「国民性」について、次のように続けます。ここから先は「普及版」でもカットされなかった部分です。

 ここでは今夜も、他の幾千もの村々の場合と同じく、人々は仕事から帰宅し、食事をとり、煙草を吸い、子どもを見て楽しみ、背に負って歩きまわったり、子どもたちが遊ぶのを見ていたり、藁でみのを編んだりしている。彼らは、一般にどこでも、このように巧みに環境に適応し、金のかからぬ小さな工夫をして晩を過ごす。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.297 より引用)
子煩悩な庶民の暮らしぶりが描かれている……といったところでしょうか。「金のかからぬ小さな工夫」というのも、現代の日本にも通じるところがありそうな……。

《残念ながら》わが英国民は、おそらく他のどの国民よりも、このようなことをやっていない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.297 より引用)
それはまぁ、そうなのかも知れないのですが、要は日本の庶民が「貧しい」ということなんじゃないかな、と。

英国の労働者階級の家庭では、往々にして口論があったり言うことをきかなかったりして、家庭は騒々しい場所となってしまうことが多いのだが、ここでは、そういう光景は見られない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.297 より引用)
これは「自分で物事を考えて判断する」ということを「させない」日本の「伝統的な慣習」の結果、とも言えますよね。家の中では「俺の話を聞け~」と言っている「家父長」も、外では「偉い人」に対して卑屈なまでに頭を下げ続けるという、哀れな図式が当たり前のように存在します。「長いものには巻かれろ」という思想?が徹頭徹尾押し付けられる、極端に封建的な世界であるが故の「見かけ上の平和」でしかありません。

日本は「生存権」すら「偉い人のお情けで与えられたもの」と考えかねない「後進国」なんですよね。「目上の人の言うことを黙って聞いていたらええんや」というメンタリティからは、何も生まれないと思うんですが……。

北へ旅するにつれて、宗教的色彩は薄れてくる。信仰心が少しでもあるとするならば、それは主としてお守りや迷信を信じていることである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.297 より引用)
これはちょっと興味深い指摘ですね。イザベラは秋田の大館市郊外の白沢まで来て「日本の均一性」を実感しつつ、一方で「宗教的色彩は薄れてくる」と感じていたということになります。

これは「価値観」や「社会規範」と「宗教」の相関がそれほど大きくないということを意味するほか、「建物」のスタイルなどの外見的なものは「日本的」なものが受け入れられていた一方で、信仰の面ではまだまだ「日本的」なものが相容れない存在だった可能性を想起させます。

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2024年2月10日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1113) 「ワッカタンネナイ・フレベツ川・イタルイカオマナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ワッカタンネナイ

wakka-kunne-nay
水・黒い・川
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
釧路阿寒飽別から国道 240 号を北に向かうと「阿寒橋」で「白水川」という川を渡ります。Google マップでは「阿寒町ルベシベ」と表示されているあたりですが、このあたりはかつて「ワッカタンネナイ」と呼ばれていた可能性がありそうです。

この「阿寒町ワッカタンネナイ」は運輸局住所コードの設定があるものの、OpenStreetMap 以外の地図サイトでは場所の確認ができません。OpenStreetMap は国土数値情報の街区レベル位置参照情報をインポートしたようにも見えるので、少なくとも(色々と曰くのある)国土数値情報では「現役の地名」という扱いになりそうですね。

この「ワッカタンネナイ」ですが、素直に読み解くと wakka-tanne-nay で「水・長い・川」となります。「飲水(のある)長い川」かと思ったのですが、「北海道実測切図」(1895) には「ワㇰカクン子ナイ」と描かれていました。

wakka-kunne-nay であれば「水・黒い・川」と読めます。どうやら後の誰かが転記の際にやらかしてしまった、ということでしょうか。

戊午日誌 (1859-1863) 「安加武留宇智之誌」には次のように記されていました。

又しばらくして
     ワツカクン子ナイ
巾五六間。両岸峨々たる岩山。其間を滝川になりて落るを、其水如何なる訳哉くろきが故に号。ワツカは水、クン子は暗らき形なり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.275 より引用)
鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」(1995) は、戊午日誌の解を紹介した上で、次のように続けていました。

地理院・営林署図は白水川と記入してある。水源は雌阿寒岳の火山帯のため、沢水は噴出物によって白く濁ってはいるが、川底の黒い安山岩によって、黒と白濁の交じった複雑な色合いを見せている。アイヌはそれを「水黒い川」と言い、和人は「白い水の川」と言ったのであった。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.251 より引用)
「水の黒い川」が何故「白水川」に化けたのかという問題についての解釈ですが、なるほど、ありそうな話ですね……。

フレベツ川

hure-pet
赤・川
(記録あり、類型あり)

2024年2月9日金曜日

日高本線代行バスで各駅停車 (8) 「絵笛・荻伏」

静内行きの列車代行バスは国道 235 号を西に向かいます。井寒台いかんたいのあたりでは国道がやや高台を通っていて、日高本線は 2.5 km ほど内陸側を通っています。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

防波堤と思しき建造物が見えますが、あれは「東栄港」の防波堤でしょうか?

2024年2月8日木曜日

日高本線代行バスで各駅停車 (7) 「浦河」

静内行きの日高本線代行バスは「常盤通」を南に向かいます。どう考えても「東町駅」(日赤前)と「浦河駅」を結ぶ経路としては遠回り過ぎるのですが、ジェイ・アール北海道バス 日勝線のバスは、現在も大半のバスがこの経路を通っているとのこと。
もっとも、列車代行バスではなく「浦河老人ホーム前」や「常盤通」バス停も設定されているので、ちゃんと「意味のある」遠回りになっているようですが……ん。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

前方に高架橋が見えてきました。ようやく日高本線の沿線まで戻ってきたことになりますね。

2024年2月7日水曜日

日高本線代行バスで各駅停車 (6) 「東町」

静内行きの日高本線代行バスは国道 236 号を北西に向かいます。この写真、よーく見ると日高本線の線路が写っている、ような気が……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

セブイレの前を通過して、そのまま西に向かうものと思っていたところ、突然交叉点を右折して国道を外れてしまいました。

2024年2月6日火曜日

日高本線代行バスで各駅停車 (5) 「日高幌別」

静内行きの日高本線代行バスは浦河町に入りました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

正面からカントリーサインを撮影した写真もあったのですが、ピントが合ってなかったので(汗)、こちらの写真をガシガシ補正することで対処しました。

2024年2月5日月曜日

日高本線代行バスで各駅停車 (4) 「西様似・鵜苫」

静内行きの日高本線代行バスは様似駅前(様似駅)を出発して国道 336 号に入りました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

正面に様似のランドマーク(と言っていいですよね)である「エンルム岬」が見えてきました。中々の威容ですね……! 麓にある「エンルム岬」三角点の標高は 27.4 m ですが、岬そのものは最も高い地点で 71 m ほどあるとのこと。

2024年2月4日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1112) 「サイヤナイ川・音根内・ルベシュベ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

サイヤナイ川

say-o-nay??
群れ・そこにある・川
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
釧路阿寒飽別の北、音根内三角点の南西を流れる西支流の名前です。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) にはそれらしい名前の川が見当たりませんが、「北海道実測切図」(1895) には「サイヤナイ」とあります。また「北海測量舎図」には「サイナイ」とあります。

「サイヤナイ」はこの川の麓の地名としても使われていたようで、陸軍図には地名として「サイヤナイ」と描かれています。また「角川日本地名大辞典」(1987) には次のように記されていました。

 さいやない サイヤナイ <阿寒町>
〔近代〕昭和13年~現在の行政字名。はじめ阿寒村,昭和32年からは阿寒町の行政字。もとは阿寒村大字飽別あくべつ村の一部。地内は通称ルベシベの一部にあたる。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.576 より引用)
驚くべきことに、情報はここまでで、後は皆目見当がつきません。似たような川名にも記憶がないですし、さてどうしたものか……と思ったのですが、「釧路地方のアイヌ語語彙集」に次のような語がありました。

say【名】[概](所は saye)群れ(鳥など飛ぶ動物の)。cikappo say 小鳥の群れ〈伊賀〉
(釧路アイヌ語の会・編「釧路地方のアイヌ語語彙集」藤田印刷エクセレントブックス p.139 より引用)
サイヤナイ川は、国土数値情報のデータ上は一本の川として存在している……と思うのですが、実際の地形を見てみると、結構な数に枝分かれしているようにも見えます。このことから say-o-nay で「群れ・そこにある・川」と呼んだのかな、と考えてみました。

あるいは say-oma-nay だったかもしれません。say-oma-nay だったとすると、「サイヤナイ」の「ヤ」は「マ」の誤字だった可能性も出てきますね。

音根内(おんねない)

onne-nay
年老いた・川}
(記録あり、類型多数)

2024年2月3日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1111) 「飽別・宇円別」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

飽別(あくべつ)

aki-pet?
弟・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
阿寒町上徹別の北の地名で、同名の川が西から阿寒川に注いでいます。1875(明治 8)年から 1923(大正 12)年までは「飽別村」が存在していました(その後舌辛村に合併し、阿寒町を経て釧路市阿寒町)。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「アキヘツ」と描かれていました。あー、ここも確か色々と謎のある地名だったですかね……(参照)。

アはすぐに出る、キは直に干る?

戊午日誌 (1859-1863) 「安加武留宇智之誌」には次のように記されていました。

其傍
     アキベツ
此地西の方山有、其より椴木立に成る也。此処まで茅野也。小川有、巾三間計。源は是より直に椴山に入りてメアカンの麓に到るなり。此処人家三軒有。処名アキベツは水が多く出たり、又無たりと云儀。アはすぐに出る、キは直に干ると云儀也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.271 より引用)
「アはすぐに出る、キは直に干る」というのはちょっと意味不明ですが、午手控 (1858) にも次のように記されていました。

アキベツ
 水が多く出たり、又無ったりと云。アは直に出る、キはすると云事也
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.330 より引用)

浅い川?

この解は色々と謎なので、一旦置いておいて、永田地名解 (1891) を見てみましょうか。

Ak pet   アㇰ ペッ   淺川 飽別村、一説射水川ノ義
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.337 より引用)
hakooho の対義語なので、hak-pet で「浅い・川」では無いか……という説ですね。地形図を見ると、徹別川のように左右に河岸段丘があるようにも見えないので、なるほど「浅い川」というのは言い得て妙な感じもします。

射る川? 我ら飲む川?

山田秀三さんの「北海道の地名」(1994) には、永田地名解の内容を承けた上で次のように記されていました。

ak を「浅い(hak) 」とも読み, また「射る」とも解した。要するに音に合わせた想像説である。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.279 より引用)
「一説射水川の義」というのが良く分からなかったのですが、ak は「矢を射る」を意味する完動詞なので、確かに ak-pet で「矢を射る・川」と解釈できてしまうんですね。

ついでに似た読み方を付け加えるならば,ア・ク・ペッ(a-ku-pet 我ら・飲む・川)とも読める(他地では,飲料水に使った川をアクナイのように呼んでいた)。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.279 より引用)

弟の川?

ふーむ。そういえば「阿寒町史」にも次のように記されていまして……

 アクベツ(飽別)
「アクペツ」といい、「アク」「アキ」とは「矢を射る」とか「弟」という意味がある、すなわち「矢を射る川」「弟の川」という意味になるが現地はそれ程流れが急激ではなく、もし阿寒川にそそいでいる支流を指すならば阿寒川や徹別川の「弟の川」ということになるであろう。
(阿寒町史編纂委員会・編「阿寒町史」阿寒町 p.63 より引用)
この「弟」と言うのは斜里町の「秋の川」でも出てきましたね。似たような特性を持ちつつ「兄」には及ばない川、という想像が成り立ちますが、「兄の川」の存在が今ひとつ見えてこないのが悩ましいところです。

阿寒川を「兄」とすると、飽別川は「弟」にしては随分と小ぶりですし、徹別川を「兄」とすると、飽別川は「兄」に負けず劣らず深いところまで溯ることができます。白糠町の「コイカタショロ川」をゴールと考えると、徹別川と飽別川を「兄弟」に見立てるのは理解でできるのですが……雌阿寒岳の南麓を通って螺湾に向かう交通路があった、とかなんでしょうか。

「阿寒町史」には、まだ続きがありまして……

 また「アク」を「ア」と「ク」に分けて見ると「ア」は「我れ」の意味で、「ク」は「飲む」の意味で「ア、ク、ベツ」とは「我ら飲む川」となる。
(阿寒町史編纂委員会・編「阿寒町史」阿寒町 p.63 より引用)
あー、これは山田さんの説と同じですね。

罠をかける川?

変化球の使い手として知られる更科源蔵さんは、「アイヌ語地名解」(1982) にて次のように記していました。

 飽別(あくべつ)
 阿寒道路途中の部落。阿寒川の支流飽別川の名からでたもので、アイヌ語アック・ペッは小獣をとるおとしをかける沢の意である。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.263 より引用)
この「アック」については、手元の辞書類ではそれらしい語彙を見つけられませんでした。

アクベツ? アキベツ?

「飽別」は 1875(明治 8)年に村名となり、その後現在まで続いている地名ですが、面白いことに *それ以前* の記録は軒並み「アキベツ」で、手元の資料では「加賀家文書」まで溯ることができるのですね。となると、「アクベツ」ではなく「アキベツ」と考えるほうが良いのではないか……と思えてきます。

仮に「アキベツ」だとすれば、やはり aki-pet で「弟・川」と考えたくなります。兄が「徹別川」と考えると、どちらも雌阿寒岳の南麓に出ますし、また「徹別川」のように目立つ tes(梁のような岩盤)が無かったとすれば、「弟分の川」というネーミングもそれなりに妥当な感じがしてくるんですよね。

宇円別(うえんべつ)

wen-pet
悪い・川
(記録あり、類型多数)

2024年2月2日金曜日

日高本線代行バスで各駅停車 (3) 「静内行き列車代行バス」

様似駅」と「観光案内所」の間に桜の花が咲いていたのですが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

いやー、見事なまでに満開ですね。

2024年2月1日木曜日

日高本線各駅停車 (2) 「様似・その2」

乗り継ぎには少し時間があるので(バスならではですね)、少し駅舎の中を覗いてみましょう。
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待合室の入口……厳密には二重扉の外側……には「日高線列車運休にともなう列車代行バス停車場のご案内」が貼り出されていました。