(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。
ルウチシポコモナイ川
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
イタルイカオマナイ川のすぐ北で阿寒川に注ぐ西支流……だとされる川です。地理院地図には川として描かれていません。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「ルチシホク」という名前の川が描かれています。戊午日誌 (1859-1863) 「安加武留宇智之誌」には次のように記されていました。
こへて
ウチシホコマナイ
本名ルツ シポコマナイなるべし。此処より赤無川 すじをはなれて、此小川に添て上り行ことなり。ルツ シポコマとは此川沢まゝにルウチシ有と云事なり。ヲマとは有ると云儀。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.277 より引用)
ru-chis-pok-oma-nay で「路・中央のくぼみ・下・そこにある・川」、すなわち「峠の下にある川」と言えそうですね。峠はどこにあったか
ただ、ここで気になるのが「此処より現在「ルウチシポコマナイ川」とされる川を遡り、途中から「イタルイカオマナイ川」流域に移動した……と考えることも(理屈の上では)可能ですが、あえてそうするメリットが見いだせないんですよね。
この疑惑?に対する答が、鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」(1995) にありました。
ルーチシポコマナイ
イタルイカオマナイ(地理院図)
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.252 より引用)
あー。やはりそう考えたくなりますよね。これによると、地理院地図の「イタルイカオマナイ」が「官林境界図」あるいは「営林署管内図」には「ルーチシポコマナイ」と描かれていた(=両者は同一の川)ということになります。この考え方を真っ向から否定しているのが「北海道実測切図」(1895) で、「イタルイカオマナイ」と「ルチシポコマナイ」は別の川として描かれています。ただ「ルチシポコマナイ」を遡った先にも ru-chis(峠)が存在するように描かれていますが、これは実状に即していないようにも見えます。
松浦武四郎は峠を越えたのか
注目したいのが「戊午日誌」にて「ウチシホコマナイ」の次に記された「ケナシ」についての記述です。沢まゝ上りて凡椴原十七八丁にて茅野に出り。此処
ケ ナ シ
と云なり。ケナシは野原の事也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.277 より引用)
18 丁は 2 km 弱なので、現在の「ルウチシポコマナイ川」を遡ったとすると距離感がやや合わないのですが……是より九折 形有る哉無の坂を行こと凡十七八丁也。
此坂に上るや、アカンの川すじ彼椴木山の中を屈曲して行さま、蛇竜の盤屈するごときもの審に見え、
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.277 より引用)
「アカンの川すじ──蛇竜の盤屈するごときもの審に見え」とあります。仮に松浦武四郎が「イタルイカオマナイ」を遡ったとすると、ここまで阿寒川は見えないような気がするのですね。「北海道実測切図」を良く見ると、道は阿寒川沿いでもイタルイカオマナイの峠でもなくルチシポコマナイの東側を通るように描かれています。この道は陸軍図にも描かれているのですが、陸軍図の「七曲り」を戊午日誌の「九折」だと考えると、阿寒川の川筋が詳らかに見えた……という記述とも整合性が取れます。
「ルウチシポコマナイ川」は {ru-chis}-pok-oma-nay で「{峠}・しもて・そこに入る・川」だと考えられますが、仮に「イタルイカオマナイ」の位置であれば ru-chis-oma-nay で良いわけで、改めて pok(下)を付加したのは「峠の東側(下流側)に入る川」であり、実際に「峠に入る川」では無かった……ということになりそうですね。
ピリカネップ川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
ルウチシポコマナイ川のすぐ上流側で阿寒川に注ぐ東支流です。更に(阿寒川の)上流側には「ポンピリカネップ川」も存在します(東支流)。この「ピリカネップ川」ですが、「阿寒町史」を見ると妙なことになっていました。
ピリカネップ
「ピリカネップ白水川」と「ピリカネップ」と、川名の地名の二つがある。
(阿寒町史編纂委員会・編「阿寒町史」阿寒町 p.66 より引用)
いきなり「は?」と言いたくなる話ですが、町史によると現在の「白水川」と、その支流である「阿寒富士川」が「ピリカネップ白水川」だったのではないか……とのこと。更に続きがありまして……
しかし今日一般的に観光客に親しまれている「ピリカネップ」は国道の東側に流れる阿寒川の清流とそれを美しくかこむ一帯の明眉な風景を言っておりその地を「ピリカネップ」すなわち「美しい谷」としても異論はないであろう。
(阿寒町史編纂委員会・編「阿寒町史」阿寒町 p.67 より引用)
「ピリカ」が「美しい」というのは理解できるのですが、「ネップ」が「谷」というのは……ちょっと謎ですね。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「ワツカクン子」(白水川?)の横に「ヒリカヌフ」と描かれていました。
戊午日誌 (1859-1863) 「安加武留宇智之誌」には次のように記されていました。
また十丁計も過て
ヒリカヌツテ
小川有。ピリカベツと今詰て云り。水よろしきが故に号。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.275-276 より引用)
この「ヒリカヌツただ、「ピリカネップ」を川の名前と考えるのは若干不自然にも思えるので、川の名前は「ピリカベツ」で、その周辺?が「ピリカネップ」だったのではないか……とも思えます。pirka-nup で「美しい・野原」あたりだったのではないでしょうか。
現在の「ピリカネップ川」が、果たして松浦武四郎が記録した「ヒリカヌフ」と同一であるかどうかは疑いを差し挟むべきなのですが、現在の「ピリカネップ川」(と「ポンピリカネップ川」)の河口付近は比較的日当たりが良さそうにも見えます。日当たりの良さと pirka と呼ばれたことの関連性を考えたくなりますね。
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