2024年2月10日土曜日

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北海道のアイヌ語地名 (1113) 「ワッカタンネナイ・フレベツ川・イタルイカオマナイ川」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ワッカタンネナイ

wakka-kunne-nay
水・黒い・川
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
釧路阿寒飽別から国道 240 号を北に向かうと「阿寒橋」で「白水川」という川を渡ります。Google マップでは「阿寒町ルベシベ」と表示されているあたりですが、このあたりはかつて「ワッカタンネナイ」と呼ばれていた可能性がありそうです。

この「阿寒町ワッカタンネナイ」は運輸局住所コードの設定があるものの、OpenStreetMap 以外の地図サイトでは場所の確認ができません。OpenStreetMap は国土数値情報の街区レベル位置参照情報をインポートしたようにも見えるので、少なくとも(色々と曰くのある)国土数値情報では「現役の地名」という扱いになりそうですね。

この「ワッカタンネナイ」ですが、素直に読み解くと wakka-tanne-nay で「水・長い・川」となります。「飲水(のある)長い川」かと思ったのですが、「北海道実測切図」(1895) には「ワㇰカクン子ナイ」と描かれていました。

wakka-kunne-nay であれば「水・黒い・川」と読めます。どうやら後の誰かが転記の際にやらかしてしまった、ということでしょうか。

戊午日誌 (1859-1863) 「安加武留宇智之誌」には次のように記されていました。

又しばらくして
     ワツカクン子ナイ
巾五六間。両岸峨々たる岩山。其間を滝川になりて落るを、其水如何なる訳哉くろきが故に号。ワツカは水、クン子は暗らき形なり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.275 より引用)
鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」(1995) は、戊午日誌の解を紹介した上で、次のように続けていました。

地理院・営林署図は白水川と記入してある。水源は雌阿寒岳の火山帯のため、沢水は噴出物によって白く濁ってはいるが、川底の黒い安山岩によって、黒と白濁の交じった複雑な色合いを見せている。アイヌはそれを「水黒い川」と言い、和人は「白い水の川」と言ったのであった。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.251 より引用)
「水の黒い川」が何故「白水川」に化けたのかという問題についての解釈ですが、なるほど、ありそうな話ですね……。

フレベツ川

hure-pet
赤・川
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
白水川の北支流で、フレベツ川を溯ると 4 つほどの支流に分かれているほか、上流部には「フレペットー」という沼も存在したようです(現在の名称は不明)。フレベツ川支流の「ポンフレベツ川」を溯ると「フレベツ岳」があり、頂上付近には「風烈岳」という名前の三等三角点(標高 1097.4 m)が存在します。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には川名の記入はありませんが、「北海道実測切図」(1895) には「フレペッ」と描かれていました。

阿寒町史」には次のように記されていました。

 フレベツ(フレベツ岳一〇九七メートルとここに源流をもつフレベツ川がある)
「フレ・ペツ」・「フレ」は「赤」、「ペツ」は「川」「沢」で、「赤い川」の意である。現地はピリカネップに合流する白水川の支流で、まりも国道から西方五キロメートルの所(フレベツ岳の麓)に褐鉄鉱の鉱床がありその酸化鉄が水を赤くしていることから名がついたものと思われる。
(阿寒町史編纂委員会・編「阿寒町史」阿寒町 p.66 より引用)
やはりと言うべきか、hure-pet で「赤・川」と見るべきのようですね。

イタルイカオマナイ川

ita-ruyka-oma-nay
板・橋・そこにある・川
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
白水川の 1.2 km ほど北を流れて阿寒川に合流する西支流です。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「イタルイカ」という名前の川が描かれています。

戊午日誌 (1859-1863) 「安加武留宇智之誌」には次のように記されていました。

また是より少し山をこへて下る哉
     イタルイカ
小川有。此処昔し一里杭有りしと云跡有。イタは板也、ルイカは橋なり。昔し大塚某此処え板を以て橋を架しによつて号るとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.276 より引用)※ 原文ママ
この「大塚某」は「網走山道」の開削を指揮した幕臣・大塚惣太郎のことらしく、「安加武留宇智之誌」にも次のように詳細が記されていました。

今土人等、其橋は無れども、如此までも下をあわれみて大塚ニシパは致し呉られしとて、木幣を通るものは削りて立行ことなり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.276 より引用)
松浦武四郎が「イタルイカ」に来たときには既に橋は失われていた……というオチのようですね。ita-ruyka-oma-nay で「板・橋・そこにある・川」だったと考えて良さそうです。

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