2024年1月31日水曜日

日高本線各駅停車 (1) 「様似」

様似駅のホームにやってきました。ホームは駅舎側の 1 面しか無く、かつての増毛駅に近い雰囲気もありますが、北側(向かって左側)に留置線があるのが大きな違いでしょうか。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ローカル線の終着駅だと、本当に線路とホームしか無いような駅もありますが、様似駅は観光案内所が併設された立派な駅舎があり、ホームにも上屋が設けられています。流石は「本線」の終着駅と言ったところでしょうか。

2024年1月30日火曜日

ジェイ・アール北海道バス 日勝線の旅 (28) 「様似駅着!」

様似行きのバスは海沿いの国道 336 号を走ります。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

おやっ、一瞬にして周りが市街地に早変わりしました。どうやら様似の中心街に入ったようですね。終点まであと少し……ということでしょうか。

2024年1月29日月曜日

ジェイ・アール北海道バス 日勝線の旅 (27) 「ネズミっぽい? エンルム岬」

様似行きのバスは、やや遠回りして「アポイ山荘」バス停に到着しました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

バス停はつばめマークの丸板が置かれた、標準的な構造のものです。

2024年1月28日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1110) 「ニタベツ川・徹別・蘇牛」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ニタベツ川

nitat-pet
谷地・川
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
ノウケップ川」の北、阿寒町西徹別で阿寒川に合流する西支流です。川の南西には「仁多別」という名前の三等三角点(標高 315.0 m)もあります。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「ニタツヘツ」と描かれていました。

戊午日誌 (1859-1863) 「安加武留宇智之誌」には次のように記されていました。

是よりまた十三四丁もかや原を行て
     イタツベツ
本名ニタツベツのよし。此川端樺木多きによつて号。ニは木也、タツは樺の事也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.268 より引用)
あれれ? と思ってしまう解が記されていますが、永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Nitat pet   ニタッ ペッ   吥呢ヤチ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.337 より引用)
普通はこのように考えますよね。鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」(1995) にも次のように記されていました。

現在は畑地・牧草地となっているが、平地を流れているかつてのこの川の流域は湿地帯であった。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.247 より引用)
ということで、やはり nitat-pet で「谷地・川」と見て良さそうな感じですね。

徹別(てしべつ)

tes-pet
梁・川
(記録あり、類型あり)

2024年1月27日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1109) 「雄別・ノウケップ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

雄別(ゆうべつ)

yuk-pet?
鹿・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
舌辛川の上流、かつて「雄別鉄道」の「雄別炭山」駅があったあたりの地名です。雄別が炭鉱の町として一世を風靡したのは大正から昭和にかけてなので、それ以前については極端に情報が少ない印象があります。

「湯」じゃなくて「鹿」

阿寒町史」には次のように記されていました。

 ユウベツ(雄別)
「ユー」は「温泉」、「ベツ」は「川」または「沢」の意味で「ユウベツ」とは「湯の川、湯の沢」となる。しかし雄別に温泉の湧く所もなく、この解釈は適当ではない。
(阿寒町史編纂委員会・編「阿寒町史」阿寒町 p.61 より引用)
ふむふむ。yu-pet で「温泉・川」では無いよ、ということですね。

「ユウ」を「ユク」「ユケ」と読むと「獲物」すなわち「鹿」の意味となり、「ユクベツ」は「鹿の沢」「鹿の川」の意味になる。
(阿寒町史編纂委員会・編「阿寒町史」阿寒町 p.61 より引用)
yuk-pet で「鹿・川」ではないかとのこと。気になるのが「北海道実測切図」(1895) などの明治時代の地図にそれらしい地名が見当たらない点ですが……

なお現在の雄別二区の舌辛川沿いの附近は元来「ユケピラ」といい「鹿の川原」と解され、また徹別への旧山道の附近は「ユケランナイ」といい「鹿の下る沢」と解される。
(阿寒町史編纂委員会・編「阿寒町史」阿寒町 p.61 より引用)
地理院地図には「阿寒町雄別二十二線」のあたりに煙突の地図記号が描かれているのですが、「北海道実測切図」や「北海測量舎図」によると煙突の南で東から舌辛川に注ぐ川(谷)が「ユーケピラ」(ユシケピラ?)とのこと。

どこかにあるユーケピラ

「ユケピラ」が「鹿の川原」というのはちょっと謎で、これは yuk-pitara と解したものでしょうか。どちらかと言えば yuk-apir で「鹿・通路」ではないかと考えたくなりますが……。

鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」(1995) には次のように記されていました。

 ユク・オッ・ピラ(yuk-ot-pira 鹿・が多く集まる・崖)と解したい。この崖の上は平地になっているので、そこが鹿の群が集まる所なのであったのだろうか。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.263 より引用)
この考え方もありそうな感じですね。

ユケランナイ

「ユケランナイ」については雄別鉄道の舌辛川橋梁の北東、ベルプナイ川の東あたりで舌辛川に注いでいたようで、「北海道実測切図」や「北海測量舎図」には「ユウケランナイ」とあります。

鎌田正信さんは「ユㇰ・ラン・ナィ(yuk-ran-nay 鹿・くだる・川)の意味である」と記していますが、あるいは yuk-e-ran-nay で「鹿・そこで・降りる・川」かもしれませんね。

謎の「コケトイ」

不思議なことに「ユウベツ」あるいは「ユㇰベツ」という川は見当たらないのですが、「北海道実測切図」には、現在の「ポン舌辛川」と「舌辛川」の合流点から「雄別林道」沿いを北西に遡ったあたりで西から舌辛川に合流する「コケトイ」という支流が描かれています。

この「コケトイ」ですが、「北海測量舎図」では「イ」と描かれています。これも元々は yuk-e-???-nay で、思いっきり略された上で字を誤られて「コケトイ」になってしまった可能性がありそうですね。

「北海道実測切図」では、「ユーケピラ」と「イ」の間に舌辛川の支流を 4 つ描いていますが、舌辛川の西を流れる 2 つの支流については名称の記入がありません。これらの川のどれかが yuk-pet に近い川名だった可能性もあるかもしれません。

ノウケップ川

nawkep??
木かぎ
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)

2024年1月26日金曜日

ジェイ・アール北海道バス 日勝線の旅 (26) 「次は『アポイ山荘』です」

様似行きのバスは海沿いの国道を走ります。前方に見えているのは「冬島漁港」の防波堤のようです。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

笛舞(えりも町)からは、幌満ほろまんトンネルや山中トンネルなどの例外を除けば、ほとんどの区間で海沿いを走ります。

2024年1月25日木曜日

ジェイ・アール北海道バス 日勝線の旅 (25) 「ことに」

様似町に入ります。えりも町と様似町の境界付近を流れる「ニカンベツ川」の「二雁別橋」はちょうど架替中でした。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

様似町……に入っちゃいましたね。広尾から様似までは 2 時間弱の行程で、様似町の南東端にある「留崎」バス停には 11:27 に到着予定だったのですが、どうやら遅れもなく走行中のようです。

「旭」バス停

前方に「旭」バス停が見えてきました。ちゃんとバスの停車スペースが用意されているのは流石ですね。

2024年1月24日水曜日

ジェイ・アール北海道バス 日勝線の旅 (24) 「セブン・イレブン・えりも駅!」

様似行きのバスは速度を落とし、なんとセブン-イレブンの駐車場に向かって左折してしまいました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

どこからどう見てもセブイレ直行コースなのですが……

2024年1月23日火曜日

ジェイ・アール北海道バス 日勝線の旅 (23) 「消えたトンガリ屋根」

様似行きのバスは道道 34 号「襟裳公園線」を北西に向かいます。前方にバス停(の待合所)が見えてきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「西歌露」バス停は毎度おなじみのトンガリ屋根のデザインです。

2024年1月22日月曜日

ジェイ・アール北海道バス 日勝線の旅 (22) 「新デザインのバス停?」

「えりも岬」の次のバス停は「油駒」で、両者は 3.6 km ほど離れています。「アイナメ」の多いところだったので、「アイナメ」の方言「アブラコ」の「澗」で「アブラコ澗」と呼ばれるようになり、やがて「油駒」に変化したのだとか。
ただ、この「油駒」という地名も現在は「えりも町東洋」で、「油駒」は通称扱いのようです。バス停も意外と歴史地名が残っている……ということかもしれませんね。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

新デザイン?

正面に妙な形をした砂山?が見えますが、よく見ると左は海で、どうやら波によって山が崩されつつある……ということみたいです。

2024年1月21日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1108) 「シュンクシタカラ川・ベルプナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

シュンクシタカラ川

sunku-us-{sitatkar}
エゾマツ・多くある・{舌辛川}?
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
阿寒布伏内舌辛川に西から合流する支流です。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「シユンクウシシタカロ」という支流が描かれています。実際よりもかなり短い川として描かれてしまっていますが、この辺は聞き書きのようなので、どうしても限界があるということでしょうか。

戊午日誌 (1859-1863) 「安加武留宇智之誌」には次のように記されていました。

しばらく上りてシユンクウシシタカロ、此処左小川有。其山に松多しと。其山の麓を廻り来る川なれば此名有るよしなり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.266 より引用)
「シュンクシタカラ」だと sunku-{sitatkar} で「エゾマツ・{舌辛川}」となってしまうので、ちょっと収まりが悪いなぁ……と思っていたのですが、sunku-us-{sitatkar} で「エゾマツ・多くある・{舌辛川}」であれば収まりの悪さは解決できそうな感じです。

ちょいと余談

ただ改めて考えてみると、「舌辛川」が {si-tat}-kar で「{うだいかんばの樹皮}・採る」だとすれば、sunku-us-{si-tat}-kar は「エゾマツ・多くある・{うだいかんばの樹皮}・採る」ということになってしまいます。

もちろん {si-tat}-kar が固有名詞化した……と言えばそれまでの話なのですが、これってやっぱ si-tu-kor の可能性もあるんじゃないかな……と考えたくなってしまいます(詳しくは北海道のアイヌ語地名 (1107) 「タンチナイ・サルナイ沢・居院内」をご覧ください!)。

ベルプナイ川

pet-tun-nay??
川・間・川
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)

2024年1月20日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1107) 「タンチナイ・サルナイ沢・居院内」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

タンチナイ

tanne-nay
長い・川
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
シュンクシタカラ川沿いの「シュンクシタカラ林道」(だと思う)は「舌辛橋」で「新区川」を渡っていて、この「新区川」は「舌辛橋」のすぐ南西でシュンクシタカラ川に合流しているのですが、「新区川」のすぐ南で南からの支流(名称不明)が合流しています。この名称不明の南支流の東側の山頂付近に「タンチナイ」という名前の四等三角点(標高 218.0 m)があります。

「北海道実測切図」(1895) には、名称不明の川と思しき位置に「タン子ナイ」と描かれていました。tanne-nay で「長い・川」だと思われますが、誰かが「」の字を「チ」と見間違えてしまって、そのまま三角点の名前として生き残ってしまった……というオチのようです。

昭和 56 年に作成されたと思しき「四等三角点の記」には「タンチナイ砂防ダム」というダムが描かれているので、治水関係者にはこの川が「タンチナイ」と認識されていた可能性が高そうですね。

タン子ナイ、タンネナイ、タンチナイ

鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」(1995) にも、次のように記されていました。

タンネナイ
タンチナイ(営林署図)
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.264 より引用)
うーん、営林署図も同じ間違いをしていたことになりますが、見出しはちゃんと「タンネナイ」になっていました。この「タンネナイ」という見出しのほうは「官林境界図」をベースにしているとのこと。

 タンネ・ナィ(tanne-nay 長い・川) の意であるが、この辺の川のなかで特に長いわけでもないが、ほかに理由があったのだろうか。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.264 より引用)
布伏内付近のシュンクシタカラ川南岸の支流に限定すれば、この川が一番長そうに思えるので、やはり素直に「長い・川」と考えて良さそうに思えます。

サルナイ沢

san(-us)-nay??
棚のような平山(・ついている)・川
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)

2024年1月19日金曜日

ジェイ・アール北海道バス 日勝線の旅 (21) 「襟裳岬? えりも岬?」

様似行きのバスが道道 34 号「襟裳公園線」の坂を駆け上がると、前方に灯台らしき建物が見えてきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

長い右カーブの途中に「襟裳岬第一駐車場」があるのですが……あ、よく見るとバス停が!

2024年1月18日木曜日

ジェイ・アール北海道バス 日勝線の旅 (20) 「百人浜」

様似行きのバスは襟裳岬に向かってゆったりと走り続けます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

料金表には「次は『百人浜』です」と表示されています。NAVITIME でバス停を確認すると、庶野の「千平口」バス停と襟裳岬の「岬小学校前」バス停の間は 10.5 km ほど離れていて、その間に唯一存在するバス停が「百人浜」バス停とのこと。

2024年1月17日水曜日

ジェイ・アール北海道バス 日勝線の旅 (19) 「謎の高架橋のような建物」

様似行きのバスは庶野しょやの国道 336 号を走ります。このあたりは海岸段丘の高台で、また海からも少し離れているので、海沿いという感じがしない場所です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

緩やかな下り坂を降りてゆくと……

2024年1月16日火曜日

ジェイ・アール北海道バス 日勝線の旅 (18) 「道内最長の『えりも黄金トンネル』」

様似行きのバスが「上目黒」を通り過ぎると、前方にトンネルが見えてきました。例によって例のごとくですが、左側にも旧道らしき覆道が見えていますね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

そしてこれまた例によって例のごとくですが、旧道区間にはゲートが設置されていて、許可なく立ち入りできないようになっているようです。


「えりも黄金トンネル」に入ります。めちゃくちゃフラッグシップ感のあるネーミングですが、それもその筈、このトンネルは全長 4,941 m で、道路のトンネルとしては道内でもっとも長いのだそうです。

2024年1月15日月曜日

ジェイ・アール北海道バス 日勝線の旅 (17) 「目黒にサンマは揚がるのか?」

えりも町に入りました。それはそうとこの写真、果たしてどこにピントが合っているのか……?
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

国道 336 号は「ビタタヌンケ川」によって形成された僅かな平地を通り過ぎ、再びトンネルに入ります。今頃気づいたのですが、町境(広尾町字タタヌンケ付近)を流れる川は「タタヌンケ川」となっていて、0.6 km ほど南を流れる川が「タタヌンケ川」なんですね。

「目黒トンネル」と「岬第一覆道」

ここもよーく見ると新旧二つのトンネルが見え……ませんか?

2024年1月14日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1106) 「知茶布・ヲカルシナイ・布伏内」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

知茶布(ちちゃっぷ)

tu-cha-p??
峰・そば・もの
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
阿寒町の中心街と布伏内の間で舌辛川に合流する「知茶布川」という西支流があり、その中流部一帯の地名です。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) に「チヽヤフ」と言う川が描かれていますが、これが現在の「知茶布川」に相当すると思われます。

「北海道実測切図」(1895) には「ツチャプ」と描かれています。「北海道地形図」(1896) や「北海測量舎図」も「ツチヤプ」と描かれているので、どうやら本来は「ツチャプ」だったのでしょうか。

我々の魚?

鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」(1995) には、次のように記されていました。

ツチヤプ
知茶布川(地理院図・営林署図)
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.260 より引用)
お、「ツチヤプ」という表記?も現存するのでしょうか……? 鎌田さんは続けて「阿寒町史」の内容を引用していますが、念のため孫引きではなく原典?を引用しておきます。

 チチャップ(知茶布)
「チ」と「チェップ」からなり、「チ」とは「我れらの」「我々人間の」の意味で、「チェップ」は「食物」「魚」「鮭」の意味で、「チチェップ」とは「我々の魚」、「我々の食物」となり通訳的に解すると「我々の食物のとれる処」となり知茶布川が以前鮭や鱒がよく溯上した川であることがうかがえる。
(阿寒町史編纂委員会・編「阿寒町史」阿寒町 p.63 より引用)
この文章、なんか更科さんテイストが感じられるのですが……(ただ「北海道地名誌」(1975) には「意味不明」と記されています)。手元の資料では「角川日本地名大辞典」(1987) も阿寒町史の解を踏襲しているのですが、「我々の魚」という川名にはちょっと違和感が……(一般的には chep-ot-nay で「魚が群在する川」とか、chep-un-nay で「魚が入る川」になりそうな気が)。

チチャフ? ツチャフ?

また、松浦武四郎は「チヤフ」と記録しているものの、「北海道実測切図」などが「チヤフ」と記録しているのも気になるところです。改めて地形図を眺めてみると、知茶布川が阿寒川に合流するあたりに妙な形の山が張り出していることに気が付きました。

この「妙な形の山」を tu と呼んだとすると、tu-cha-p で「峰・そば・もの」と読めないでしょうか? ちらっと調べた限りでは類例が見当たらないのが難点ですが……。

ヲカルシナイ

o-kar-us-nay???
河口・回る・そうである・川
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)

2024年1月13日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1105) 「舌辛・チロッペ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

舌辛川(したから──)

{si-tat}-kar?
{うだいかんばの樹皮}・採る
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
釧路阿寒町の中心街のあたりで西から阿寒川に合流する支流です。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には合流点のあたりに「シタカロフト」とあります。「フト」は putu でしょうから、川の名前は「シタカロ」だったと言えそうですね。

山の麓にある川?

戊午日誌 (1859-1863) 「安加武留宇智之誌」には次のように記されていました。

シタカラ訳して山の麓(に?)有りと云儀のよし。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.261 より引用)
ちょっと謎な解にも思えますが、si-tu-kor で「大きな・峰・持つ」と考えられそうでしょうか。

犬が子を産んだところ?

永田地名解 (1891) には全く異なる解が記されていました。

Shita kara   シタ カラ   犬ノ子ヲ産ミタル處 十勝ニ同名ノ地アリ○舌辛村
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.337 より引用)
「十勝に同名の地あり」というのが疑問だったのですが、もしかして「下頃辺」のことでしょうか? seta-kar で「犬・作る」と読め!ということかもしれませんが、久保寺逸彦アイヌ語・日本語辞典稿」(2020) によると kar-kar で「世話をする」あるいは「育てる」というニュアンスもあるとのこと。

だけかんば(の樹皮)を採る?

山田秀三さんの「北海道の地名」(1994) には次のように記されていました。

 阿寒川を遡り山峡に入った処の西支流の名,地名,旧村名。昭和 12 年鶴居村を分村し,同年舌辛村を阿寒村と改称したが役場は舌辛原野である。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.278 より引用)
あっ。そう言えば「舌辛」という地名は見当たらないなぁと思いましたが、やはりそういうことでしたか(よく見ると「オトンベツ川」の近くに「阿寒町舌辛」が現存していますね……すいません)。

 永田地名解は「シタ・カラ。犬の子を生みたる処」と書いたが,八重九郎翁に聞くと,「シタッ・カラ。だけかんば・を採る」という意味だといわれた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.278 より引用)
この文には補足があり、shi-tat はふつうは「うだいかんば」の意味である、としています。{shi-tat}-kar で「{だけかんば}・採る」ではないかとのことですが、-us-pet あるいは -us-nay が略された形なのでしょうね。

うだいかんばの樹皮を採る?

更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」(1982) にも、次のように記されていました。

 この川の名は阿寒市街の近くで阿寒川に合する舌辛川からでたもので、アイヌ語のシ・タッ・カ ・ペッで、の皮をとる川のこと。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.263 より引用)※ 原文ママ
まるで予め答え合わせをしたかのように内容が一致していますね。更科さんは si-tat を「うだいかんばの皮」としていますが、これはその通りで、「樹木」を指す場合は si-tat-ni となります。

更科さんの文には続きがあり……

シタまたはセタが犬であるので、犬が子を産んだところなどと訳した人もあるが、それでは、シタカラという地名はいたるところにあるはずである。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.263 より引用)
更科さん、キレッキレですね!

「舌辛」は {si-tat}-kar で「{うだいかんばの樹皮}・採る」と考えて良さそうですが、個人的には松浦武四郎の記録した si-tu-kor で「大きな・峰・持つ」という解も捨てがたいところです。というのも、永田方正が言及したと思しき「十勝のシタカラ」(=下頃辺川?)も「大きな峰を持つ」ように見えるんですよね。「下頃辺」についても、いつか再検討してみたいですね。

チロッペ川

chiray-ot-pe?
イトウ・多くいる・ところ
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2024年1月12日金曜日

ジェイ・アール北海道バス 日勝線の旅 (16) 「本気を出した『黄金道路』」

運賃表に「次は『留別』です」と表示されました。北方領土に「留別村」がありますが、きっと無関係の筈……。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「モイケシ第一覆道」を抜けてからは、黄金道路らしからぬ「覆道の無い区間」が続きますが……

2024年1月11日木曜日

ジェイ・アール北海道バス 日勝線の旅 (15) 「織り込まない」

運賃表に「次は『日勝美幌』です」と表示されました。美幌町にある「美幌駅」と紛らわしいので、路線名(日勝線)を冠して「日勝美幌」にしたみたいですが、「十勝美幌」ではなく「日勝美幌」なのがちょっと面白いですね(勘違いの余地が無くなるので良いネーミングだと思います)。
かなりどうでもいい話ですが、「ビホロ」と「ヒロオ」ってちょっと似てますよね。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「泉浜」バス停で後続車退避

広尾町美幌には決して広いとは言えない平地が広がっていますが、これは「美幌川」によって形成された土地のようで、海岸線はすぐに崖に逆戻りです。

2024年1月10日水曜日

ジェイ・アール北海道バス 日勝線の旅 (14) 「黄金道路!」

様似行きのバスは広尾の市街地を抜けて、前方に海が見えてきました。あ、よく見ると覆道も……!
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

国道は浜辺の集落の高台側を通ります。どことなく松前から上ノ国に向かう道路っぽい雰囲気がありますね……(伝われ)。

2024年1月9日火曜日

ジェイ・アール北海道バス 日勝線の旅 (13) 「出発、進行!」

帯広駅バスターミナルで購入した「『南十勝・えりも』とんがりロード散策きっぷ」を片手に、ジェイ・アール北海道バス 日勝線の「様似営業所前」行きに乗車します。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

座席は圧倒的な前面展望を楽しめる、左側前輪の真上の席を確保しました。俗に「お子様席」と言われる席……ですね(汗)。

2024年1月8日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (157) 白沢(大館市) (1878/7/29(月))

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十七信」(初版では「第三十二信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

くだらない論争

イザベラはひどい雨の中、大館市白沢(JR 奥羽本線・白沢駅の近く)に到着したものの、この先の道路が通行止めのため、白沢で一泊することを余儀なくされます。ところが(通訳兼アシスタントである)伊藤と宿の主人が口論を始めてしまい……

結論的に言えば、宿の主人は私に宿を貸すことを断ったのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.296 より引用)
なんと! もちろん宿の主人にも言い分があったようで……

理由は、先週に警官が回ってきて、外国人がまず最初に最寄りの警察署に届けをしないうちは、宿を貸してはいけないという。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.296 より引用)
うー、これはなんとも日本的な……(汗)。ちょっと気になるのが「先週に」というところで、イザベラが久保田(秋田)に入ったのが 1878/7/22(月) あたりと考えられるのですね。イザベラが秋田に向かって北上していることは既に知られていたでしょうし、事前に警察が手を打った可能性もあったりするのでしょうか。

もっとも、これはイザベラに対する嫌がらせと見るよりは、「あまりに粗末な宿に外国人を寝泊まりさせるのは沽券に関わる」といった、いかにも明治政府らしい「見栄っ張り」な考え方がベースにあったのかもしれません。イザベラにとってはありがた迷惑極まりない話ですが、政府筋、あるいは警察筋は「なんならこれで旅行を断念してもらっても構わない(むしろ歓迎)」と考えていた可能性もゼロではないかも……?

この場合、警察署は歩いて三時間もかかるところにある。私は、勅令によって発行されている旅券を秋田県当局がいかなる地方規則によっても握りつぶすことはできない、と言ったが、彼は、もし規則を破ったら罰金を科され営業許可を取り消される、と言った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.296 より引用)
こういったイザベラ姐さんの交渉術は、大英帝国の権威を笠に着た感もあるものの、中々大したものですよね。まぁイザベラにしてみれば、自分の知らないところで罠をかけられて進退窮まっているというのが正直なところでしょうから、宿の主人の首根っこを押さえてでも部屋をゲットする *必要* があるわけですが……。

イザベラは宿の主人がある意味では「被害者」であることをちゃんと認識していたので、最大限に「筋を通した」ようで……

私は、旅券の写しをとらせ特別に使者を走らせてやった。私が権利を主張するあまり、このかわいそうな主人に迷惑をかけては、後で深く悔やむだろうと思ったからである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.296 より引用)
その結果、なんとか部屋をゲットすることに成功します。部屋は池に面していて、これはまた風情のある……と思ったのですが……

部屋はあたかも蚊を招くかのように池の上に突き出して建ててあった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.296 より引用)
イザベラ姐さん……。

どうして日本人は、こんな汚い水溜まりが家の装飾になると思っているのか、私には分からない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.296 より引用)
ひどい……(絶句)。

悩まされる支配力

イザベラ姐さんの悪態のつき方がいつも以上に酷いのですが、これはやはり意味もなく部屋の確保に苦労させられたことが原因……でしょうか。なぜ今回のトラブルが発生したのか、イザベラは詳細を記していました(「普及版」ではカットされた内容です)。

実際のところ、政府の規制は厳しすぎ、変更に際限がなく不都合に変わるのは現体制の欠陥です。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.113 より引用)
どうやら「朝令暮改」を地で行っていたっぽい感じですね。まぁ変えなくても良い仕組みを意味もなく改変して現場に混乱を齎すというのは、今も大差ないような気もしますが……(今の政府も恐ろしく愚かなので)。

宿の主人たちが、宿帳にすべての旅人の名前や旅行の目的地だけでなく、どこからやってきたのかも記録する義務があり、その宿帳は毎月戸口調査に来る警官に提示しなければなりません。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.113 より引用)
「宿帳」の記入とパスポートの提示は今でも「旅館業法」で定められたルールなので、現代人にとってはそれほど違和感のある話では無いのですが、当時はまだまだルールの作成と運用が試行錯誤で行われていたと思われるので、現場は混乱の極みだったのでしょうね。

外国人の要求

イザベラによると、「外国人を当局の許可なく宿泊させる」と宿の主人に罰金が科せられ、罰金を支払わないと鞭で打たれるとのこと。こういった形で発生する「追加コスト」もさることながら、イザベラはそれ以外の点においても「外国人旅行者は追加コストを負担すべき」と考えていたようです。

 これらの特別の厄介ごとは別としても、6~8人の日本人が充分満足していられる場所をたった一人の外国人が占有し、部屋には水を持ってくるように言うし、とんでもない時間に変な食べ物を料理させ、大抵はもっと余計な問題を起こすので、主人は外国人には、より高い宿泊代を請求する権利があると思います。この点では、私はまったく宿の主人側の味方です。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.113 より引用)
「とんでもない時間に変な食べ物を料理させ」というのは「???」ですが、そう言えば伊藤も偶にニワトリを買ってきて宿に持ち込んでいましたね……(汗)。

イザベラは、ごく僅かな例外を除いて、泊まった宿をシニカルに評するのが常ですが、コスト面から見た評価はちょっと意外なものでした。

良い部屋に、自由に使える布団フトン、充分に燃料の補充された火鉢ヒバチや顔を洗うためのお湯、一晩中灯している行灯アンドン、ケチケチしないで出されるご飯やお茶の代価として、チップもやらずに、たったの 15 銭しか払わない幾人かの同国人や多くのアメリカ人を恥ずかしく思います。燃料、蠟燭、2 回の食事、良い部屋、気配りのとどいたもてなしなどでたったの 7 ペンス!
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.113-114 より引用)
「幾人かの同国人と多くのアメリカ人」にはお茶を吹き出しそうになりました(汗)。「普及版」でカットされた内容はここまでですが、「普及版」でも宿の話題が続いていました。

 私の宿料は《伊藤の分も入れて》一日で三シリングもかからない。どこの宿でも、私が気持ちよく泊まれるようにと、心から願っている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.296 より引用)
ん……? なんか妙なことを言ってるなぁ……と思ったのですが、原文を見てみると……

My hotel expenses(including Ito's)are less than 3s. a-day, and in nearly every place there has been a cordial desire that I should be comfortable,
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
あー、すいません。今回は私の完全な誤読だったようです。高梨さんの訳は「どこの宿でも、私が気持ちよく泊まれるようにと、心から願っている」だったのですが、私はこれを「私は、どこの宿でも気持ちよく泊まれるようにと、心から願っている」と読んでしまったのです。

この文の主語は「宿」で、「あらゆる宿」「イザベラが気持ちよく泊まれるように」と「心から願っている」……が正解でした。日本語って難しい……(主語が大きすぎる)。

イザベラは、「外国人旅行者」である自身が宿の主人に余計なコストを負わせていることを再認識したのか、ステマのような贖罪のような文章を続けます。

日本人でさえも大きな街道筋を旅するのに、それから離れた小さな粗末な部落にしばしば宿泊したことを考慮すると、宿泊の設備は、蚤と悪臭を除けば、驚くべきほど優秀であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.296 より引用)
もっとも、ちゃんと「蚤と悪臭を除けば」と釘を刺しているあたりはさすが姐さん……ですね。まだステマ(ぉぃ)には続きがありまして……

世界中どこへ行っても、同じような田舎では、日本の宿屋に比較できるようなものはあるまいと思われる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.296-297 より引用)
だそうです™。昔から日本には至るところに旅館があり、また民宿もありましたが、旅行者の宿泊先でここまでユニバーサルサービスが展開できている国は、実はそんなに無いのかもしれませんね。

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2024年1月7日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1104) 「イワイ沢川・ウエンベツ川・オトンベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

イワイ沢川

iwa-chimi?
岩山・手探り分ける
(? = 記録あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
釧路空港の北西、「宇円別変電所」の南あたりを流れる川です(結構離れていますが)。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) にはそれらしい川は見当たりませんが、「北海道実測切図」(1895) には「イワイヅミ沢」とあり、「北海測量舎図」にも「イワイシシ沢」と描かれている……ように見えます。

どうせイワイさんが入植したとかだろ……と思っていたのですが、戊午日誌 (1859-1863) 「安加武留宇智之誌」には次のように記されていました。

     ヲイワチシ
本名ユワツミと云、(ユワは)山の麓の事也。引込し事也。ツミは小さしと云儀也。此川もヲタノシケえ落る。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.260 より引用)
どうやら「ヲイワチシ」あるいは「ユワツミ」と呼ぶ流儀があったとのこと。これが「イワイヅミ沢」となり、1978(昭和 53)年の土地利用図にも「イワイズミ沢」とあったにもかかわらず、1992(平成 4)年の 2.5 万地形図で「イワイ沢川」に化けてしまった……ということのようです(変更が正式なものなのか、それともうっかりミスなのかは不明)。

「(ユワは)山の麓の事也」とありますが、これは素直に「岩山」のことを指して良いんじゃないかな、と思わせます。「ツミは小さしと云儀」とありますが、これは chimi でしょうか。

chimi は時折地名に出てくるものの、個人的にはニュアンスを解するのが難しい語という印象があります。「地名アイヌ語小辞典」(1956) には次のように記されていました。

chim-i [複 chim-pa] チみ《不完》左右にかき分ける。
知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.18 より引用)
なんのこっちゃ……という話ですが、久保寺逸彦アイヌ語・日本語辞典稿」(2020) には chimi は「手探り分ける」と記されていました。なるほど、なんとなく理解が深まったような……?

iwa-chimi であれば「岩山・手探り分ける」となりそうなのですが、そう言われてみると「イワイ沢川」の北西に幾重にも谷が刻み込まれた山があるように見えます。岩山が引っ掻かれたような形をしているので iwa-chimi と呼んだのかな……と想像してみました。

ウエンベツ川

wen-pet
悪い・川
(記録あり、類型あり)

2024年1月6日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1103) 「ヌカマンベツ川・恩禰比良・ウエンベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ヌカマンベツ川

nupka-oman-pet??
原野・行く・川
(?? = 記録未確認、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
釧路市動物園」や「山花温泉」のある釧路市山花(かつて「穏禰平」と呼ばれていた)の西で阿寒川に合流する北支流です。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) にはそれらしい川が描かれておらず、また「北海道実測切図」(1895) や「北海道地形図」(1896) にもそれらしい川が描かれていません(厳密には川は描かれているものの明らかに流長が短すぎる)。ただ、陸軍図には「ヌカマンベツ澤」として描かれているため、アイヌ語由来の川名である可能性があるのではないかと考えています。

北海道地名誌」(1975) には次のように記されていました。

 ヌカマンベツ川 阿寒川下流に合する左小川。アイヌ語「ヌㇷ゚カ・オマン・ペッ」原野に行く川(原野から流れてくる川)の意。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.689 より引用)
阿寒川から「ヌカマンベツ川」を遡ると、「ポンヌカマンベツ川」が「ヌカマンベツ川」に合流するあたりまで湿原が広がっているように見えます。「ヌカマンベツ」が nupka-oman-pet で「原野・行く・川」だとする案は、実際の地形にも即しているように思われます。

「?」の付け方に少し迷いが生じたのですが、明治時代の地形図に見当たらないということから、念のため「記録未確認」としました。

恩禰比良(おんねびら)

onne-pira
大きな・崖
(記録あり、類型あり)

2024年1月5日金曜日

ジェイ・アール北海道バス 日勝線の旅 (12) 「伝統のツバメマーク!」

かつての広尾駅である「広尾バス待合所」の一角には、「夢をありがとう さよなら広尾線」と題された写真パネルが置かれていました。
(右側上部、右側下部で Adobe Firefly の生成 AI による生成塗りつぶしを使用)
そう言えば、国鉄広尾線が廃止された当時の町長さんの「ごあいさつ」にも「明治以来の住民の悲願が」とありました。「夢」が実現したことで「現実」になるような気がするのですが、「そんな薄っぺらい『夢』じゃあ無かったんだよ」ということだったのでしょうか……。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

こっそり題名が変わった後で慌ててボツネタを回収しているようにも見えますが、そしてそれは実際にその通りだと思われるのですが(汗)、そう言えばこんなポスターも貼ってありました。

2024年1月4日木曜日

十勝バス広尾線の旅 (11) 「広尾線鉄道記念館」

広尾線鉄道記念館」兼「広尾バス待合所」の中に入りました。かつての広尾駅ですが、駅時代の改札ブースがそのまま残っていたんですね。
さすがに「発車時刻」の表はきれいに消されてしまっていました。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「広尾線の歴史」と題された写真の下には、国鉄広尾線が廃止された当時の広尾町長の「ごあいさつ」が綴られていました。素朴な筆致ですが、とても惜別感のある良い文章ですよね。

2024年1月3日水曜日

十勝バス広尾線の旅 (10) 「広尾駅」

車内の運賃表がついに「広尾」までの運賃を表示してしまいました。帯広駅前から広尾までは 1,880 円なんですね(2017 年時点)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

バスは「広尾高校前」バス停のすぐ先の交叉点を右折して、国道 336 号を離れました。

2024年1月2日火曜日

十勝バス広尾線の旅 (9) 「『広尾サンタランド』とは」

広尾行きのバスは、ついに広尾町に入ってしまいました。2023 年時点の時刻表では「紋別入口」の到着が 9:11 となっているので、帯広駅前からほぼ 2 時間かけて広尾町にやってきたことになります。
5 月ですが、北海道の「背骨」とも言える日高山脈には、まだしっかりと雪が残っています。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

広尾町豊似にやってきました。ここは国道 236 号と国道 336 号の重複区間で、国道 236 号はこの先で右折して野塚トンネルに向かうことになります。

2024年1月1日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (156) 大館(大館市)~白沢(大館市) (1878/7/29(月))

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日からは、普及版の「第二十七信」(初版では「第三十二信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

上機嫌な酩酊

長雨の中の移動を強いられ、なんとか大館までやってきたイザベラでしたが、ようやく雨雲が去り、青空がやってきました。ただ、増水した川の水が引かないことには先に進めないとのことで、結局昼過ぎまで出発を待たされることになります。

今日の旅は、川がもっと減水するまでは遠くへ行けないので、たった七マイルである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.294 より引用)
この日のゴールは大館市の白沢で、これは JR 奥羽本線の「白沢駅」のあるあたりでしょうか。ただ大館駅と白沢駅の間は 6.5 km らしいので、約 4 マイルほどしか無い筈なのですが……?

イザベラがゲットした馬は「脚をひきずった陰鬱な馬」だったそうですが、陰鬱なのは馬だけだったようで……

私の馬子はほろ酔いかげんで、道中はずっと歌ったり、しゃべったり、跳ねまわっていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.294 より引用)
うーむ。陽気なのは……少なくとも悪いことでは無いと思うのですが、昼間っから酔っ払っているというのは褒められたものでは無いですし、心配になりますね……。

酒は暖めて飲むことが多いが、そのとき人は口うるさくなるが上機嫌に酩酊する。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.294 より引用)
これは「熱燗」のことだと思いますが、冷酒とは酔い方にも違いが出るものなんでしょうか? イザベラはこれまで酔った人を多く見かけたものの「喧嘩腰になるものはなかった」と記しています。なんだかんだで節度を保った飲み方をする人が多かったのか、それとも度数がそれほどでも無かったということなのか……?

ビール、葡萄酒、ブランデーなどの名で知られているいやな飲物は、人を怒りっぼくさせ、二日酔いやもうろう状態をひき起こす。これらが日本に輸入されつつあり、悪影響を与えている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.294 より引用)
あー、やはりそういうことですか。地方の「地酒」はライトに酔える、ちょうど良いものだったということかもしれませんね。ところで、イザベラは酒に関する話題を何故「普及版」でカットしなかったのでしょう……? オフトピック気味だと思うのですが、このレベルであればギリギリセーフだったのでしょうか?

日光の効果

イザベラは久々の晴れ間に心を動かされるものがあったようで……

 太陽は燦々と輝き、山にかこまれた谷間を照らした。大館はその中にあって、くっきり美しく見える。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.294 より引用)
なんとなくわかる気がします。雨に洗われた家屋はところどころでキラキラと輝き、地面からは薄っすらと湯気が見えそうな印象も……?

日本では、太陽が照ると、森におおわれた山、庭園のような野は天国と化してしまう。六〇〇マイルも旅をしてきたが、日の光をあびて美しくならないような土地はほとんどなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.295 より引用)
「天国と化してしまう」とはこれまた誇大な……と思ったのですが、原文を見てみると……

When Japan gets the sunshine, its forest-covered hills and garden-like valleys are turned into paradise.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
滅茶苦茶そのままでした。確かに雨が上がった直後の陽の光が齎す「キラキラ感」は凄まじいですからね。

川の水位が多少なりとも引くのを待って、午後に出発したイザベラ一行でしたが、やはりと言うべきか、その行程は厳しいものだったようです。

水は馬の胴体の半ばを浸し、ある浅瀬では流れが強くて、馬子は足をさらわれ、馬が彼を岸に引き上げた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.295 より引用)
あー、やはり酔っ払いの馬子はダメダメだったっぽいですね……。そしてダメダメな馬子をしっかりフォローする馬は、内心「やれやれ」と思っていたのでは……。

イザベラを苦しめた初夏の長雨はどうやら破壊の限りを尽くしたらしく……

あらゆるものが破壊されていた。今まで一つだけだった水流が、いくつかになっていた。相当の距離の間、道路らしいものはなくなっており、一〇マイルも橋一つなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.295 より引用)
イザベラは大館から白沢までの距離を「たった七マイル」と記していますが、その道中で「五つの浅瀬」を渡ったとしています。現在の地形図では、川らしい川と言えば「長木川」と「乱川」くらいですが、白沢の集落が「下内川」の西側に形成されていることを考えると、どこかで「下内川」も渡っていたと考えられそうですね。羽州街道自体が「下内川」の西側(長面・長面袋・粕田のあたり)を経由していた可能性もあるのかもしれません。

強烈な夏の長雨は水害を発生させたものの、地元の農民は早くも復旧に向けて動き出していたようです。

土地の大部分は山腹から流されてきた丸太や、根こそぎになった樹木、小石で一面におおわれていた。しかしもうこの地方の勤勉な農民たちは土を竹籠に盛って馬で運び、川の土手を作っていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.295 より引用)
イザベラも「勤勉な農民」の姿を好ましく感じたようで、次のように綴っていました。

この辺では、女の農民は野良着を着ているが、それが大層うまくできているので嬉しくなる。明るい青色のズボンの上にゆるやかな上着をつけ、腰を帯でしめている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.295 より引用)
「機能美」という言葉ともちょっと違う、「業務用」ならではの美しさってありますよね。

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