(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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アセッツリ川(アセツリ川)
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
東釧路駅の近くで北西から釧路川に合流する支流で、流路が確認できる区間はほぼ釧路市と釧路郡釧路町の境界となっています(河川改修の結果、多少のズレも生じていますが)。国土数値情報では「アセツリ川」となっているようですが、一般的には「アセッツリ川」と認識されるケースが多いようです。幣舞橋を起終点とする「おにぎり三兄弟」(国道 44 号・国道 272 号・国道 391 号)は「
「北海道地形図」(1896) では「アシセッチリ川」という名前の川が描かれていました。流路は現在の「アセッツリ川」よりも遙かに長く、水源は「釧路市湿原展望台」の南西、「釧路市史跡北斗遺跡展示館」の西あたりだった可能性がありそうです。
このあたりは現在「北半川」とその支流が流れていますが、地名が「北斗」なので、「北半」という川名が「北斗」の誤字だったりしたら目も当てられないなぁ……と密かに不安に思っているのですが……。
永田地名解 (1891) には次のように記されていました。
Ashi sechi アシ セチ 吥坭ノ小川 安政帳「アシリセチリ」ニ作リ小川トアリ「アシ セチ」で「
「改正北海道全図」(1887) には「アセリセチリ」と描かれていました。「北海道地形図」と比べると流路が短いですが、これは誤認の可能性がありそうですね。やはり焦っていたのでしょうか(何に)。
「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「アシリセチリ」と言う名前の川が描かれていました。ただこの「アシリセチリ」は現在の「雪裡川」相当の川として描かれていて、流路の差異が著しいものとなっています。
戊午日誌 (1859-1863) 「東部久須利誌」には次のように記されていました。
また下るやしばしにて右のかたに
アシリセチリ
是セチリの新川と云儀也。小川にして其川源セチリえ通り居り、両方谷地多し。
あー、「アシリセチリ」は asir-{setsuri} で「新しい・{雪裡川}」と見て良さそうな感じですね。
雪裡川(せつり──)
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
釧路外環状道路・釧路東 IC の北、「釧路町運動公園」のすぐ北で「旧雪裡川」が釧路川に合流しています。釧路外環状道路・釧路中央 IC(別保方面)の近くからは流路が釧路市と釧路郡釧路町の境界となっています。旧雪裡川を遡ると、新釧路川の手前で流路が途切れていて、すぐ近くで「雪裡川」が新釧路川に合流しています。雪裡川は新釧路川の開削で「旧雪裡川」になってしまった、ということのようですね。
新釧路川から雪裡川を 1 km ほど遡ったところに「さけ・ます捕獲場」があり、西から「幌呂川」が合流しています。「さけ・ます捕獲場」から北は鶴居村で、雪裡川は鶴居村と釧路町の境界となっています。
更に雪裡川を遡ると鶴居村の中心部にたどり着き、市街地の北側で支流の「モセツリ川」が西から合流しています。本流は「シセツリ川」と名前を変え、更に遡ると釧路市(旧・阿寒町)との境界となる分水嶺にたどり着くことになります。
……説明が長いですね。要は、雪裡川は鶴居村を流れる川の大半を支流に持ち、新釧路川に注ぐ川です(随分と短くなったね)。
セチリ、セッチリ、セッツリ
「北海道地形図」(1896) には「セッチリ川」と描かれていて、「改正北海道全図」(1887) には「セチリ川」と描かれています。現在は「雪裡(せ山田秀三さんの「北海道の地名」(1994) には、次のように記されていました。
雪裡 せつり
雪裡太 せつりぶと
せっちり,せっつりとも呼ぶ。雪裡川は釧路川下流に入る大きな西支流。川筋の多くは雪裡の地名。雪裡太は「雪裡川の・川口」の意。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.268 より引用)
簡潔にして必要十分な情報が記された、良い文章ですね(見習わねば……)。語義は,古老八重九郎翁によると,中流の崖に巨鳥が巣をつくっていたのでセッ・チリ(set-chir 巣・鳥)と名がついたものらしいという。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.268 より引用)
八重九郎さんは鶴居村に住んでいた有名なアイヌの古老で、山田さんは何度か八重さんのもとに足を運んで話を弾ませたことがあったそうです。既に何度もネタにした話題ですが、アレキナイ川(阿歴内)について次のようなやりとりがあったとのこと。山田「八重さん、塘路の『阿歴内 川』ってどういう意味なんですかね?」
八重「何でしょうね。ある人は、あの辺は谷地だから『歩けない』だって言ってましたよ」
山田「……。」
八重・山田「あっはっはっは」
かなりウイットに富んだ方だったようです(汗)。
鳥の巣があった?
同じく山田さんの旧著「北海道の川の名」(1971) には次のように記されていました。〔八重九郎翁〕 雪裡川が二つに分れ、東側がセッチリ、西側がピラカ。そこに50米ぐらいの小さなピラ(崖)があり、大きな鳥が巣を組んでいた。それでセッチリ(set-chir 巣の・鳥)という。
(山田秀三「北海道の川の名」モレウ・ライブラリー p.102 より引用)
「ピラカ」は現在「下雪裡」と呼ばれるあたりだったようで、確かに 50 m ほどの(場所によってはもっと高い)崖があります。このあたりに鳥の巣があったから set-chir で「巣・鳥」なのだ……ということですね。鳥の巣ではなく、大きな鳥だった?
ただ、鶴居村の大半をカバーする川の名前が「鳥の巣」に由来する……というのが、個人的にはちょっと引っかかります。永田地名解 (1891) には次のように記されていました。Set chiri ushi セツ チリ ウシ 巣鳥多キ處 又「シチリウシ」ト云フこれも set-chir-us-i で「巣・鳥・多くある・ところ」と解したものと思われますが、注釈の後半部がポイントです。知里さんは「動物編」(1976) にて次のように記していました。蒼鷹 多キ處ノ義
注 2. ──釧路国釧路郡に「セッチリウシ」という地名があり,永田氏は Set chiri ushi「巣鳥多キ処」と解し,脚註に,又,「シチリウシ」卜云フ蒼鷹(クマタカ)多キ処ノ義と書いている《地名解 335》。クマタカをつまり si-čiri と云ったとするのだ。
(知里真志保「知里真志保著作集 (1973) 別巻 I『分類アイヌ語辞典 動物編』」平凡社 p.200 より引用)※ 原文ママ
さらっと重大なことが書いてあるのですが、set-chir で「巣・鳥」ではなく {si-chir} で「{クマタカ}」では無いかとのこと。set-chir という解にはモヤモヤしたものを感じていましたが、si-chir という解は個人的には納得できるものです。高い床!?
ところが、戊午日誌 (1859-1863) 「東部久須利誌」には次のように記されていました。其地名セチリと云儀や。大古此辺川水出し時皆此川すじ何処も海のごとく成りて、此川口計高くして、水のらざりし故に、爰え逃て来りしまゝ、此川口の赤楊を切て棚をば作り、其に乗りて居たるにより号るとかや。セチとは床の儀のよし也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.513 より引用)
むむむ、これは……! 午手控 (1858) にも次のように記されていました。アシリセチリ
アシリは新き、セチリは大古、大川出水の時逃侯処無が故に、此川え行棚をかきて 上り、しのぎし由。セチは床、リは高しと云也
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.333 より引用)
「セチは床」とありますが、より正確には set は「寝台」ということになるでしょうか。chikap-set で「鳥・巣」を意味しますが、これも「鳥の寝床」が転じたもの……と言えるのかもしれません。田村すず子さんの「アイヌ語沙流方言辞典」(1996) では、sotki の項に次のように記されていました。
☆参考 寝台(床(ゆか)より高く台につくられている所)は set セッ。
(田村すず子「アイヌ語沙流方言辞典」草風館 p.678 より引用)
ということで、set は「床」と言うよりは「寝台」と見るべきでしょう。set-ri で「寝台・高い」となりそうですが、あるいは set を所属形の sechi にした sechi-ri で「その寝台・高い」と考えるべきかもしれません。端的に言えば「(湿原の中の)台地」を意味するものと思われます。雪裡川の流域はは巨大な釧路湿原のど真ん中にありますが、湿原の北に「宮島岬」と「キラコタン岬」と呼ばれる二つの「岬」があります。
これらの「岬」は湿原から数十メートルほど高いところにあるのですが、いかにタフなアイヌと言え、湿原で寝泊まりするのは容易なことでは無かった筈なので、高台(宮島岬)に向かう川を sechi-ri と呼んだのではないか……と想像してみました。
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