2023年11月26日日曜日

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北海道のアイヌ語地名 (1092) 「別保・オビラシケ川・遠野」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

別保(べっぽ)

pet-po
川・子
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
JR 根室本線(花咲線)に同名の駅があり、近くに釧路町役場があります。駅の南を流れる「別保川」は釧路川最後の支流とも言えるもので、別保川自体も「武佐川」「サンタクンベ川」や「オビラシケ川」などの支流を持つ川です。ざっくり目分量ですが、釧路町の四割弱が別保川流域でしょうか(あとは釧路川流域と太平洋沿岸部)。

川っ子? 川の息子?

まずは「北海道駅名の起源」を見ておきましょうか。

  別 保(べっぼ)
所在地 (釧路国)釧路郡釧路村
開 駅 大正6年12月1日 (客)
起 源 アイヌ語の「ペッ・ポ」(川の子)から出たもので、別保川の上流にあるため、もと「上別保」と称していたが、昭和27年11月15日、字(あざ)名改正に伴い改めたものである。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.154 より引用)
pet-po で「川・子」ではないか、ということですね。-po は指小辞で、樺太(サハリン)の地名で良く見かける印象がありますが、札幌の「苗穂」も nay-po だと言われていて、道内でも普通に使われるものです。

あと「もと『上別保』と称していたが」とありますが、陸軍図には「別保」とあり、集落の東南東(現在「森林公園」とあるあたり)には「別保炭山」がありました。確かに駅名は「かみべつぽ」とありますが、当初から「別保」と呼ばれていたようにも見えます。

戊午日誌 (1859-1863) 「東部久須利誌」には次のように記されていました。

又左りの方に
     ヘツホウ
小川有、是川の倅と云儀也。ヘツは川、ホウは子供と云儀也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.514 より引用)
これは「駅名の起源」とほぼ同じと見て良さそうですね。「釧路町史」にも戊午日誌を引用した解が記されていて、また山田秀三さんの「北海道の地名」(1994) にも次のように記されていました。

語義はペッ・ポ(川っ子),ポ(po)は指小辞である。
 この川は相当な川なので少々変であるが, 大きい釧路川本流と比較してこんな名で呼んだのであろうか。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.267 より引用)
やはりそう捉えるしか無さそうな感じですかねぇ……。

川の子供は役に立たない?

ただ、更科さんは持論に根ざした独自の見解を記していました。

アイヌ語ペッ・ポは川の子供の意。魚族が少なくあまり役にたたない川の意である。湿原の川で魚がのぼらなかったからである。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.266 より引用)
更科さんは poro-pon- について、単に「大きい」「小さい」だけではなく「役に立つ」「役に立たない」という意味もある……としていました。指小辞の -po についても同様に「役に立たない」あるいは「重要ではない」ではないか……と考えたようですが、この考え方は広く受け入れられるには至らなかったようですね。

オビラシケ川

o-piraske?
河口・広がる
(? = 記録あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
JR 根室本線(花咲線)・別保駅の東で、北から別保川に合流する支流です。残念ながら「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) にはそれらしい川が描かれておらず、永田地名解 (1891) にも記載が無さそうに見えます。

オビラウシ? オビラウシシケ?

釧路町史」には次のように記されていました。

 オビラシケ 川尻に沿って崖があるところ
 大正一四年ころからの行政名であるが、地名はアイヌ語のオビラウシ(川尻に崖のあるところ)に由来する。
(釧路町史編集委員会「釧路町史」釧路町役場 p.137 より引用)
え……? 明治時代の「北海道地形図」(1896) にも「オピラシケプ」と描かれているのですが、元は「オビラ」だったと言うのでしょうか……?

「オ(川尻)ピラ(崖)ウシ(群生している・あるところ・ところ)シケ(……中の川)で、川尻にそって崖のあるところと解する。
(釧路町史編集委員会「釧路町史」釧路町役場 p.137 より引用)※ 原文ママ
いきなり「ウシ」の後に「シケ」が出てきましたが、「シケ」に「中の川」という意味があったかどうか……?

オピラケシ? オピラシケ?

北海道地名誌」(1975) には次のように記されていました。

 オピラケシ川 別保川の右支流で,12㌖を流れ別保市街の上流で別保川に合流。アイヌ語で川口で崖を削る川かと思う。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.667 より引用)
おや、今度は「オピラ」ですか。確かに o-pira-kes だと「河口・崖・末端」となります。ちょっと変な感じもしますが、後ろに -oma-pet あたりがついていた(のが省かれた)とすれば、違和感は減りそうです。

ただ、ちょっと気になるのが「字名・町区名」のところに次のように記されていたことで……

 オビラシケ オビラシケ川流域の地区。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.668 より引用)
あれ、やっぱり「オビラ」じゃないですか。

崖を背負う?

鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」(1995) には次のように記されていました。

オピラシケプ
オピラシケ川(地理院・営林署図)
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.289 より引用)
やはり「オピラシケ」ですよね。「──ウシ」や「──ケシ」ではなく。

 オ・ピラ・シケ・ㇷ゚「o-pira-shike-p 川尻に・崖を・背負っている・もの(川)」の意である。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.289 より引用)
ふむふむ。o-pira-sike-p で「河口・崖・背負う・もの」ではないかと言うのですね。「崖を背負う」というのはなかなか目にしない表現ですが……

市街地の東はずれの崖下を通って別保川入っているが、川尻に崖を背負っているとは、うまい表現である。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.289 より引用)※ 原文ママ
なるほど。別保の市街地の北の高台を通る釧路外環状道路は、「オビラシケ川橋」で一気に川を横断しているのですが、川と道路の高低差は 50 m 以上ありそうな感じなので、「崖」と言っても差し支え無さそうな感じです。

破れる? 広がる?

ただ、「釧路地方のアイヌ語語彙集」によると、piraske で「(花が)咲く」あるいは「破れる」を意味するとのこと。これらはジョン・バチェラーの辞書からの引用らしく、「蝦和英三對辭書」(1889) には次のように記されていました。

Piraske, v.i. To be opened out. To be spread out. Jap. Saku. 咲ク。
(ジョン・バチェラー「蝦和英三對辭書」国書刊行会 p.187 より引用)
アイヌ語千歳方言辞典」(1995) にも次のように記されていました。

ピラㇱケ piraske 【動 1】 広がる。
(中川裕「アイヌ語千歳方言辞典」草風館 p.331 より引用)
となると、o-piraske で「河口・広がる」と解釈できたりしないかな、と。オビラシケ川の河口のあたりは、かつて別保川が大きく蛇行していたようで、山間部にしては妙に開けた地形になっています。このことを指して「河口が広がる川」と呼んだのではないか……と思うんですよね。

遠野(とおや)

to-ya
沼・岸
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
オビラシケ川上流部の盆地の地名です。JR 釧網本線の「遠駅」のあるあたりは「遠」という地名ですが、こちらは「遠」なので注意が必要です。遠野集落の西(遠矢駅から見ると東)に「遠野」という三等三角点(標高 108.0 m)もあります。

北海道地形図」(1896) では、現在の「遠矢」のあたりには行き止まりの道路だけが描かれていて、「遠野」には「駅傳」(駅逓か?)のマークが描かれていました。「遠野」は「天寧てんねる」からの道と「達古武」に向かう道、「阿歴内」に向かう道が接続する交通の要衝だったみたいです。

釧路町遠野に岩手県人は入植したか

ここのところ妙にツッコミどころが目立つ「釧路町史」には次のように記されていました。

 ヒガシトウヤ(東遠野) アイヌ語の転化した和名
 地名はアイヌ語のト(沼・湖)ヤ(岸)で沼岸と解する。これに和人が漢字の遠野をあてたというのが一般的である。
(釧路町史編集委員会「釧路町史」釧路町役場 p.139 より引用)
どうやら「遠」と「遠」は、同じ to-ya から派生フォークした可能性が高そうな感じですね。

しかし、最も古い移住者である岩手県人が、柳田国男の名著「遠野物語」によって知られる遠野を懐かしんでこの地名をアイヌ語のトーヤに偶然の一致をよろこび遠野の字をあてはめて呼称したのではないかとも推考される。
(釧路町史編集委員会「釧路町史」釧路町役場 p.139 より引用)
ちょいと気になったので「角川日本地名大辞典」(1987) の「北海道団体移住一覧」を確認してみたところ、「釧路村遠野」には 1902(明治 35)年に「群馬団体」が入植していました。また「釧路村上別保」には 1914(大正 3)年に福島の「相馬団体」が入植したとありますが、岩手からの団体入植の記録は見当たりません(岩手からの移住者の存在を否定するわけではないのでご注意ください)。

「遠野」と「遠矢」

釧路川沿いに「遠矢」が存在し、山向のオビラシケ川沿いに「遠野」が存在することになったわけですが、なぜこんなややこしいことになったかと言うと……

 昭和二年、釧網線の開通により、それまでは遠野の一角に過ぎなかった現遠矢市街に、駅がおかれることになったが「駅名を遠野」とすれば岩手県の遠野駅と同名になるため、「遠矢」とした。それ以後、遠野を奥遠野と呼び、終戦から東遠野と呼ぶようになった。
(釧路町史編集委員会「釧路町史」釧路町役場 p.139 より引用)
あー、やはり。「遠野」も to-ya で「沼・岸」と考えて良さそうですね。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には釧路川の東岸の地名として「トウヤ」と描かれていて、これは現在の「遠矢」のあたりだと考えられます。つまり、オビラシケ川沿いの「遠野」は本来の to-ya からは離れていたのに、釧路川沿いの地名をパクった拝借した……ということになりますね。

これは前述の通り、オビラシケ川沿いの「遠」が交通の要衝となっていたこととも関係がありそうに思えますが(ここまでは良くある話)、本来の to-ya の場所に「遠矢駅」が開業して、「遠」という字で本来の地名を取り戻したように見えます。一度はパクられた地名を取り戻したというのは、割と珍しいんじゃないかと……。

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