2023年11月18日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1089) 「知人町・浦見」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

知人町(しりとちょう)

sir-etu
大地・鼻
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
釧路川南岸の丘陵地帯の西端部、釧路港南埠頭のあるあたりの地名です。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「シリエト」という名前の崖が描かれています。

豊島三右衛門はここを「シリイト」だとして、次のような字を当てていました。
残念ながら「ト」に当たる文字が欠けてしまっていますが、「揩恰□」で「シリイト」だそうです。地名解としては次のように記されていました。

シリ  但此所ノ出岬ノ鼻ヲ名付ルナリ
但「シリ」ト云ハ山續キト云フ言葉ナリ「イト」ト云ハ山ノ出岬鼻ト云フ言葉ナリ
(佐々木米太郎・編著「釧路郷土史考」東天社 p.20 より引用)
当てた字はさておき、解釈は割と穏当な感じがしますね。加賀家文書「クスリ地名解」(1832) にも次のように記されていました。

シリヱト シリ・ヱト 国地・鼻
  海え出崎しを名附由。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.257 より引用)
sir-etu で「大地・鼻」では無いかとのこと。加賀伝蔵も豊島三右衛門も、全く同一の解釈のようです。

永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。

Shir'etu   シレト゚   岬
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.329 より引用)
知里さんが「そういうとこやぞ」と言って全力でツッコんできそうな解ですね……(間違いじゃないというか凄く正しいのだけど、ざっくりしすぎ)。

浦見(うらみ)

urar-oma-i?
靄・そこにある・ところ
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
幣舞橋の南の高台(総合振興局のあるあたり)、知人町と春採湖の間あたりの地名です。完全に見落としていたのですが、うっかり見つけてしまいまして……(「うっかり」とは)。

インスパイア系創作地名?

「角川日本地名大辞典」(1987) には次のように記されていました。

 うらみ 浦見 <釧路市>
旧釧路川下流左岸の釧路段丘西側。地名は,釧路湾・阿寒連峰を望む眺望地であることに,アイヌ語地名ウラリマイの語感を合わせたものと思われる。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.201 より引用)
むむむ……。これだと「浦見」はアイヌ語地名「ウラリマイ」にインスパイアされた創作地名……ということになりますね。おそらく先日取り上げた「毘沙門」も似たような感じで、果たして「アイヌ語地名」と言えるかどうか少々怪しくなってきましたが、まぁ、いいですよね(何が)。

「靄のかかるところ」

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「ウラルマイ」と描かれていました。また豊島三右衛門は次のような字を当てていたとのこと。
「裡黎拖」で「ウラリマイ」だと言うのですが、嬉しいことに「裡黎拖」全てが JIS 第 3 水準以内に見つかりました。字が見つかっただけで喜べるというのは新感覚ですね……!(汗)

豊島三右衛門地名解には次のように記されていました。

ウラマヰ  但此所ハ年中夏冬トモ靄カヽリ夫ヲ名付ルナリ此所ハ往古ヨリ□□アリ本名ナリ
但「ウラリ」ト云フハ靄ト云フ言葉ナリ「マイ」ト云ハ□キト云フ言葉ナリ
(佐々木米太郎・編著「釧路郷土史考」東天社 p.19 より引用)
これはおそらく urar-oma-i で「靄・そこにある・ところ」なんでしょうね(「マイ」の解釈がちょっと合わないような気もしますが……)。幣舞橋と言えば霧のイメージもありますし、納得感の高い解ですよね。

「沙の深いところ」

ところが、永田地名解 (1891) には全く違う解が記されていました。

Orar'omai   オラロ マイ   深沙ノ處 「オラリオマイ」ノ急言、一説「ウラリマイ」ニシテ朝霧多シ故ニ名クト
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.334 より引用)
釧路地方のアイヌ語語彙集」によると orari は「(神やえらい人が)住む、鎮座する」を意味するとのこと。萱野さんの辞書には ho-rari とあり、意味は同じく「鎮座する」です。

ただ「深沙」とのことなので、これは o-rar-oma-i で「河口・潜る・そこにある・もの」とかでしょうか。この考え方は文法的にはおそらく間違い(oma が動詞を受けることは無い筈)ですが、o-rar-ru-oma-nay であれば「そこに・潜る・道・そこにある・もの(川?)」と解釈できたりする……かもしれません。

「押さえつける」を意味する rari という語もあるのですが、これも動詞なので oma の前に来ることは無さそうな気がするんですよね。

「悪臭の甚だしいところ」

戊午日誌 (1859-1863) 「東部久須利誌」には次のように記されていました。

傍の川を
     ウラルマイ
と云なり。本名フウラマイなるよし。此処むかし悪病流行し人死した時に、其骸を爰に投捨置より、腐りて悪臭甚しかるヽによつて号しとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.522 より引用)※ 原文ママ
現在の「浦見」は高台の地名ですが、戊午日誌は「川」と明記しているので、元は海沿いの地名だった可能性もありそうですね(現在の「南大通」もかつては「浦見町」の一部だったとのこと)。「東西蝦夷──」に描かれた地名の位置関係が正しいとすれば、ちょうど現在の知人町のあたりを流れる川だったのかも……?

地名解ですが、こちらは hura-oma-i で「におい・そこにある・もの」が転じて「ウラルマイ」になった……としています。「ウラルマイ」の「ル」はどこから出てきたんだ……と思ったりもしますが、もしかしたら hura-ruy-oma-i で「におい・甚だしい・そこにある・もの(川)」だった……とかでしょうか。

地名が「浦見」に落ち着く前は「浦離舞うらりまい」だった時期もあるとのことで、hura-ruy が「うらり」になり oma- の「お」が落ちたと考えれば、一応筋が通りそうな気もします。

「くさい地面」、「くさい屋敷」?

ここまで見た感じでは、豊島三右衛門の「もやのかかるところ」という解がダントツにまともなのですが(当てた字はさておき)、豊島三右衛門より時代を遡る松浦武四郎も、また豊島三右衛門の数年後に地名解を顕した永田方正も、それぞれ全く違う解を出しているという点が実に興味深く思えます。

戊午日誌「東部久須利誌」ですが、実は「ウラルマイ」のすぐ前に「ハンケウラコツ」という地名が記録されています。

其上を
     ハンケウラコツ
是弁天社のうしろ、此処にも土人昔し住せし屋敷有。始めに城を作りし処也。くさき地面と云儀のよし。ヘンケは始め、ハンケは後の事也。ウラはフウラの訛り、コツは地面の事なり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.521 より引用)
「コツは地面の事なり」というのが意味不明な感じもしますが、「午手控」(1858) を見てみると……

ヘンケウラコツ
 本名フウラコツ、始て城を築し事。ヘンケ始、ウラは香り有りと云事、コツは屋敷也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.332 より引用)
更に意味不明な感じになっていました。この「コツ」ですが、「地名アイヌ語小辞典」(1956) では次のように記されています。

kot, -i こッ 凹み;凹地;凹んだ跡;沢;谷;谷間。
知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.50 より引用)

無難に「靄のあるところ」か

「沙の深い谷間」というのは釈然としないので、とりあえず永田説は一旦捨てようと思うのですが、松浦武四郎の「臭い」説と豊島三右衛門の「靄」説はどっちも捨てがたいんですよね。地名解として自然なのは「靄」説ですが、何らかの理由で臭気が溜まりやすい場所で、それを「靄のかかるところ」という無難な解釈で糊塗しようとした……と捉えることも(一応は)可能です。

悩みに悩んだのですが、「におい」説は松浦武四郎以外に見つけられなかったということもあるので、今日のところはとりあえず urar-oma-i で「靄・そこにある・ところ」としておこうかと思います。

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