(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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知人町(しりとちょう)
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
釧路川南岸の丘陵地帯の西端部、釧路港南埠頭のあるあたりの地名です。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「シリエト」という名前の崖が描かれています。豊島三右衛門はここを「シリイト」だとして、次のような字を当てていました。
残念ながら「ト」に当たる文字が欠けてしまっていますが、「揩恰□」で「シリイト」だそうです。地名解としては次のように記されていました。
揩 恰 □ 但此所ノ出岬ノ鼻ヲ名付ルナリ
但「シリ」ト云ハ山續キト云フ言葉ナリ「イト」ト云ハ山ノ出岬鼻ト云フ言葉ナリ
(佐々木米太郎・編著「釧路郷土史考」東天社 p.20 より引用)
当てた字はさておき、解釈は割と穏当な感じがしますね。加賀家文書「クスリ地名解」(1832) にも次のように記されていました。シリヱト シリ・ヱト 国地・鼻
海え出崎しを名附由。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.257 より引用)
sir-etu で「大地・鼻」では無いかとのこと。加賀伝蔵も豊島三右衛門も、全く同一の解釈のようです。永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。
Shir'etu シレト゚ 岬知里さんが「そういうとこやぞ」と言って全力でツッコんできそうな解ですね……(間違いじゃないというか凄く正しいのだけど、ざっくりしすぎ)。
浦見(うらみ)
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
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幣舞橋の南の高台(総合振興局のあるあたり)、知人町と春採湖の間あたりの地名です。完全に見落としていたのですが、うっかり見つけてしまいまして……(「うっかり」とは)。インスパイア系創作地名?
「角川日本地名大辞典」(1987) には次のように記されていました。うらみ 浦見 <釧路市>
旧釧路川下流左岸の釧路段丘西側。地名は,釧路湾・阿寒連峰を望む眺望地であることに,アイヌ語地名ウラリマイの語感を合わせたものと思われる。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.201 より引用)
むむむ……。これだと「浦見」はアイヌ語地名「ウラリマイ」にインスパイアされた創作地名……ということになりますね。おそらく先日取り上げた「毘沙門」も似たような感じで、果たして「アイヌ語地名」と言えるかどうか少々怪しくなってきましたが、まぁ、いいですよね(何が)。「靄のかかるところ」
「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「ウラルマイ」と描かれていました。また豊島三右衛門は次のような字を当てていたとのこと。「裡黎拖」で「ウラリマイ」だと言うのですが、嬉しいことに「裡黎拖」全てが JIS 第 3 水準以内に見つかりました。字が見つかっただけで喜べるというのは新感覚ですね……!(汗)
豊島三右衛門地名解には次のように記されていました。
裡 黎 拖 但此所ハ年中夏冬トモ靄カヽリ夫ヲ名付ルナリ此所ハ往古ヨリ□□アリ本名ナリ
但「ウラリ」ト云フハ靄ト云フ言葉ナリ「マイ」ト云ハ□キト云フ言葉ナリ
(佐々木米太郎・編著「釧路郷土史考」東天社 p.19 より引用)
これはおそらく urar-oma-i で「靄・そこにある・ところ」なんでしょうね(「マイ」の解釈がちょっと合わないような気もしますが……)。幣舞橋と言えば霧のイメージもありますし、納得感の高い解ですよね。「沙の深いところ」
ところが、永田地名解 (1891) には全く違う解が記されていました。Orar'omai オラロ マイ 深沙ノ處 「オラリオマイ」ノ急言、一説「ウラリマイ」ニシテ朝霧多シ故ニ名クト「釧路地方のアイヌ語語彙集」によると orari は「(神やえらい人が)住む、鎮座する」を意味するとのこと。萱野さんの辞書には ho-rari とあり、意味は同じく「鎮座する」です。
ただ「深沙」とのことなので、これは o-rar-oma-i で「河口・潜る・そこにある・もの」とかでしょうか。この考え方は文法的にはおそらく間違い(oma が動詞を受けることは無い筈)ですが、o-rar-ru-oma-nay であれば「そこに・潜る・道・そこにある・もの(川?)」と解釈できたりする……かもしれません。
「押さえつける」を意味する rari という語もあるのですが、これも動詞なので oma の前に来ることは無さそうな気がするんですよね。
「悪臭の甚だしいところ」
戊午日誌 (1859-1863) 「東部久須利誌」には次のように記されていました。傍の川を
ウラルマイ
と云なり。本名フウラマイなるよし。此処むかし悪病流行し人死した時に、其骸を爰に投捨置より、腐りて悪臭甚しかるヽによつて号しとかや。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.522 より引用)※ 原文ママ
現在の「浦見」は高台の地名ですが、戊午日誌は「川」と明記しているので、元は海沿いの地名だった可能性もありそうですね(現在の「南大通」もかつては「浦見町」の一部だったとのこと)。「東西蝦夷──」に描かれた地名の位置関係が正しいとすれば、ちょうど現在の知人町のあたりを流れる川だったのかも……?地名解ですが、こちらは hura-oma-i で「におい・そこにある・もの」が転じて「ウラルマイ」になった……としています。「ウラルマイ」の「ル」はどこから出てきたんだ……と思ったりもしますが、もしかしたら hura-ruy-oma-i で「におい・甚だしい・そこにある・もの(川)」だった……とかでしょうか。
地名が「浦見」に落ち着く前は「浦離舞 」だった時期もあるとのことで、hura-ruy が「うらり」になり oma- の「お」が落ちたと考えれば、一応筋が通りそうな気もします。
「くさい地面」、「くさい屋敷」?
ここまで見た感じでは、豊島三右衛門の「戊午日誌「東部久須利誌」ですが、実は「ウラルマイ」のすぐ前に「ハンケウラコツ」という地名が記録されています。
其上を
ハンケウラコツ
是弁天社のうしろ、此処にも土人昔し住せし屋敷有。始めに城を作りし処也。くさき地面と云儀のよし。ヘンケは始め、ハンケは後の事也。ウラはフウラの訛り、コツは地面の事なり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.521 より引用)
「コツは地面の事なり」というのが意味不明な感じもしますが、「午手控」(1858) を見てみると……ヘンケウラコツ
本名フウラコツ、始て城を築し事。ヘンケ始、ウラは香り有りと云事、コツは屋敷也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.332 より引用)
更に意味不明な感じになっていました。この「コツ」ですが、「地名アイヌ語小辞典」(1956) では次のように記されています。kot, -i こッ 凹み;凹地;凹んだ跡;沢;谷;谷間。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.50 より引用)
無難に「靄のあるところ」か
「沙の深い谷間」というのは釈然としないので、とりあえず永田説は一旦捨てようと思うのですが、松浦武四郎の「臭い」説と豊島三右衛門の「靄」説はどっちも捨てがたいんですよね。地名解として自然なのは「靄」説ですが、何らかの理由で臭気が溜まりやすい場所で、それを「靄のかかるところ」という無難な解釈で糊塗しようとした……と捉えることも(一応は)可能です。悩みに悩んだのですが、「におい」説は松浦武四郎以外に見つけられなかったということもあるので、今日のところはとりあえず urar-oma-i で「靄・そこにある・ところ」としておこうかと思います。
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