2023年11月12日日曜日

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北海道のアイヌ語地名 (1088) 「興津・春採」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

興津(おこつ)

ooho-tu-nay??
深い・二つの・川
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
春採湖の東岸に釧路市春採の市街地が広がっているのですが、興津おこつは春採の南東隣に位置する市街地で、一部は海に面しています。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には何故か「ヲリオマコツ」と描かれているように見えますが、伊能忠敬の「大日本沿海輿地図」(1821) には「ヲコツナイ」と記録されています。

「つなぐ・沢」説、「つづく・沢」説

加賀家文書「クスリ地名解」(1832) には次のように記されていました。

ヲコツナヱ ヲコツ・ナヱ つなぐ・沢
  此所に枝沢多く有故斯名附由。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.258 より引用)
あれ、「ヲコツ」にそんな意味があったかな……と思ったのですが、「アイヌ語千歳方言辞典」(1995) には次のように記されていました。

オコッ okot 【動 2】 ~の後に続く;<o-「~の尻」kot「~にくっつく」。
(中川裕「アイヌ語千歳方言辞典」草風館 p.115 より引用)
ふむふむ。okot-nay で「後に続く・川」ではないかと言うのですね。

興味深いことに、半世紀後の豊島三右衛門地名解でもほぼ同様の解が記されていました。
ヲコ𣙇ナヰ  此所小川有此川曲リ曲リ澤ニ續ヲ名付ル也
但「オコツ」ト云フハ曲リ續クト云フ言葉也ナイト言フハ澤ト云フ言葉ナリ
(佐々木米太郎・編著「釧路郷土史考」東天社 p.21-22 より引用)
今回は「鰧𣙇薙」と来ましたか……。相変わらず飛ばしてますね……。

定番の「合川」説

一方で、永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Oukot nai   オウコッ ナイ   合川 二川合流スル處二名ク
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.329 より引用)
あー、やはり。定番の解が出てきましたね。o-u-kot-nay で「河口・互いに・くっついている・川」で、オホーツク海沿いの「興部」と同じではないか、という考え方です。

また、「東蝦夷日誌」(1863-1867) には次のように記されていました。

ヲヽコツナイ(瀧)澤口二ツ上にて一ツになる也。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.314 より引用)
これは……。永田地名解の考え方と似ていますが、「河口が二つで上流部で一つになる」というのは、現地の地形を考えるとちょっと無理があるように思えます。平野部で河口が複数に分裂するのは良くある話ですが、釧路市興津のあたりは海のすぐ近くまで高台が迫っているので、ちょっと無理がありそうな……。

ついでに言えば、一般的な o-u-kot-nay は、沿岸流によって流された砂によって河口部が塞がれて流れが捻じ曲げられてしまい、隣の川と合流した後で海に注ぐ川を指す場合が多いのですが、興津の場合、釧路市立興津小学校の西と南東に流れる川が砂浜で合流してから海に注いでいた……ということになります。

航空写真で見ると砂浜も存在するようなので、この条件をクリアしているようにも思えますが、この両河川が微妙に離れすぎているような気も……しないでも無いんですよね。

「深い・二つの・川」説?

実は、「初航蝦夷日誌」(1850) には次のように記されていました。

     ヲコツナイ
又ヲホツナイとも云へり。漁小屋有。小川。歩行渡り。
(松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.375 より引用)
仮に「オホツナイ」だとすると、ooho-tu-nay で「深い・二つの・川」と解釈できてしまうのですね。釧路市立興津小学校は海沿いにありながら標高 21 m という絶妙な立地(津波に流される心配が少なそう)にあるのですが、その左右を流れる川は学校の敷地よりも 10 m ほど、あるいはもっと下を流れています。

要は「深く切り立った川」なのですが、ここで注意したいのが oohorawne の使い分けです。どちらも「深い」を意味しますが、rawne が「深く切り立った」を意味するのに対して ooho は「水かさが深い」ことを意味します。

今回のケースでは ooho ではなく rawne を使うのが適切に思えるのですが、道東エリアでは ooho を「深く切り立った」の意で使用するケースが多いのです(たとえば厚岸町の「大別」や、斜里町の「オオナイ川」などなど)。

一般的な o-u-kot-nay か、それともユニークな ooho-tu-nay のどちらを採るかで悩んでいるのですが、「ヲコツナイ」という形で「ツ」の音がしっかりと残っているという点と、お隣の益浦の旧名が「オソ津内」で、これまた「ツ」の音がしっかり残っているという点を考慮すると、ooho-tu-nay 説もアリなんじゃないかな……と思えてきました。

「獺津内」こと「オソツナイ」は o-so-o-tu-nay で「河口・水中のかくれ岩・多くある・二つの・川」と読めるかな……と。

春採(はるとり)

ar-utur
向こう側の・間
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
釧路川の南東側市街地のほぼ真ん中に「春採はるとり湖」という湖があります。この湖は汽水湖で、かつて海だったところが取り残された「海跡湖」です。現在の釧路市春採は「春採湖」の南東側に広がる市街地です。

「ウトルは沼」か?

「春採湖」の流出河川は「春採川」ですが、「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には春採川の位置に「ハルトル」と描かれていて、春採湖には「ハルトルト」と描かれていました。

「東蝦夷日誌」(1863-1867) には次のように記されていました。

ハルトル〔春採〕(沼廻り十八丁)ベンケトウと言、ハルは黑百合アンラコロ赤沼蘭ハラテキ延胡索トマ山慈姑エトラン、其外種々の喰草を言、此草多き故號しか、ウトルは沼也。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.306 より引用)
うーん。「ウトルは沼也」とありますが、「東西蝦夷──」を見る限り、春採湖は「ハルトルト」となっていて、要は「ハルトルの湖」としているのですね。「ウトル」が「沼」だとダブルミーニングになってしまうのですが……。

僙禹淤ハルウトロ

豊島三右衛門地名解を見てみると……
ハルトロ  但往古沼ノ兩端ニ而古民飯料取夫レヲ名付ルナリ
但「ハル」ト云ハ飯料ト云フ言葉ナリ「ウトロ」ト云ハ兩方ノ間ト云フ言葉ナリ
(佐々木米太郎・編著「釧路郷土史考」東天社 p.21 より引用)
今回も絶好調でした(汗)。「僙禹淤」で「ハルウトロ」だと言うのですが、haru-utur という解は「東蝦夷日誌」と全く同じですね。

「向こうの地」、「両方の間」

一方で、この解釈に真っ向から非を唱えたのが永田方正さんで……

Haruturu   ハルト゚ル   向フ地 「アルト゚ル」ト同ジ詞ナリ「シレト゚」岬ノ向フノ地ヲ云,直譯スレバ一間ノ半ト云フ義ナリ此地名處々ニアリ松浦氏「ハル」ハ食料ト説キタルハ非ナリ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.329 より引用)
いやー、こちらも絶好調ですね。このイケイケ感は見倣いたいものです。ここまでを見ると、また永田大先生が新説(珍説)をぶち上げたのか……とも思えてしまいますが、加賀家文書「クスリ地名解」(1832) にも次のように記されていました。

ハルトロ ハル・ウトル 両方・間
  此所両方の海中に出崎有を名附由。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.257-258 より引用)
一見、「向こうの地」と「両方の間」では全然違うように見えますが、突き詰めて見てみるとどちらも ar-utur で「あちらの・間」っぽい感じです。ar- は「対をなして存在する(と考えられる)ものの一方をさす」なので、「クスリ地名解」の「両方」という解は厳密には誤訳なのかもしれませんが、言いたいことはわかるかなぁ、と。

「向こう側の・間」

……と、ここまでは容易に読み解くことができたのですが、ar-utur があるということは「もう一つの utur」が存在する……ということになります。ただ、地図を眺めた限りでは「春採湖」と似た湖が近くに見当たらないのですね。

山田秀三さんの「北海道の地名」(1994) には、永田地名解 (1891) の内容を受けて次のように記されていました。

この辺でアル(一対のものの片一方。地名では山向こう,海の向こうのように使う)に h をつけて呼ぶかどうか,若干問題はあるが,地形は道南に多いアルトル(ar-utor 向こう側の・側面,→岬山の向こうの土地)と全く同じである。永田説を採りたい。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.264 より引用)
ん、道南に多いアルトルとは……と思ったのですが、そう言えば伊達市に「アルトリ岬」という地名があったのでした。この「アルトリ」は、本来は岬の名前ではなく「岬と岬の間の地名」だったと思しき節があります。

ところで、utur に「側面」なんて意味があったかなぁ……と思ったのですが、知里さんの「地名アイヌ語小辞典」(1956) を見てみると……

ar-utor, -o  アるトㇽ【H 南】山向うの地;反対側の地。[ar(他方の),utor(側面)]
ar-utur, -u  アるト゚ㇽ【H 北】上に同じ。[<ar-utor(↑)]
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.8 より引用)
あっ(汗)。とりあえず「春採」を「向こう側の側面」と解釈する理屈は理解できましたが、今回はやや逐語解っぽく ar-utur で「向こう側の・間」としておこうかと思います。幣舞橋のあたりから見ると、春採は「向こう側」にある、ということなんでしょうね。

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2 件のコメント:

気儘堂主人 さんのコメント...

いつも土日の投稿を参考にさせて頂いております。
 鰧㙫薙についての質問ですが、釧路市民として恥ずかしながら釧路郷土史考は読んでおりませんが、旧版の釧路市史(だったと思います)ではm”チョプナキ”或いは”チョツナイ”とありました。尚、この場合”鰧”の字は、下の4つの点が”一”になっております。
 また、毘沙門についてですが、砒住(最後の字は上部に口が2つ、下が爪)”ビチウイ””ヒツジ”との記載を読んだことがあります(出典が思い出せません)。
 いずれも漢和辞典にもない文字を充てているので豊島翁の作と思われますが、詳しい出典は不明です。

Bojan さんのコメント...

「砒住■」で「ピチウヰ」と読ませる地名は「釧路郷土史考」にも記載がありましたが、これは北海測量舎図に「ヒツチイ」とある地名のことかな、と考えています。この「ヒツチイ」は「毘沙門天稲荷神社」や「毘沙門バス停」のあたりなので、位置だけで言えば「毘沙門」=「砒住■」ということになりそうです。

「ヒツチイ」の東隣に「ペンサム」とあり、豊島翁はこれに「缺■些傅」という字を当てて「ヘシサム」と読ませたと思われます。ただ「ペンサム」「ヘシサム」あるいは「ペッシャム」が直接「毘沙門」に転じたと明言している文章は見ていないので、多少の疑義が残るかもしれません(すいません)。

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