2023年11月5日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1086) 「地嵐別・又飯時」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

地嵐別(ちあらしべつ)

charse-pet
すべり降りている・川
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
釧路昆布森宿徳内の西に「吉良ヶ丘」というビュースポット?があり、その南麓に位置する地名です。「吉良ヶ丘」は若くして職に殉じた吉良平治郎というアイヌに由来するとのこと。

「釧路町史」には「チャラシベツ」とありますが、地理院地図の地名情報では「ちあらしべつ」と表示されています。また「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「チヤラセヘツ」と描かれていました。

そして、不可解な当て字を量産したことで知られる豊島三右衛門がどんな字を当てたかと言うと……
……。豊島三右衛門の地名解は「作字が夥しい」とも言われ、確かに「〓厂鏤蔑アチヨロベツ」も「〓抓蕺億苗シユクトクウシナイ」も、それぞれ一つずつ該当する文字が見つけられなかったのですが、ついに「チヤラセベツ」に至っては活字化すら覚束ない(解読不能?)有様のようです。

「豊島翁地名解」には、次のような地名解が記されていました。

一、チヤベツ  此所小川有瀧有夫ヲ名付ルナリ
  但「チヤラ」ト云フハ瀧ヨリ水流レ落ルト云ヒ「セ」ト云ハ高キト云ヒ「ベツ」ト云フハ川ト云フ言也
(佐々木米太郎・編著「釧路郷土史考」東天社 p.25 より引用)
時を溯ること半世紀ほど、加賀家文書の「クスリ地名解」(1832) には次のように記されていました。

チャラセヘツ チャラセ・ヘツ 早・川
  此所の小川水早きを名附由。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.259 より引用)
「釧路町史」(「昆布森沿岸の地名考」が元ネタと推測される)には次のように記されていました。

 チャラシベツ(地嵐別)  水が岩の面をちらばって流れ落ちる川。
 ここはマタイトキの隣りの集落で、アイヌ語のチャラルは(すべっている、すべり降りてくる)で、川についていえば、小川が山の斜面を急流をなして飛沫をあげながら流れ下っている状態をさしており、シペツで本流の水上であり、「チャラシセ」ですべり落ちているところから、名付けられたものと思われる。
(釧路町史編集委員会「釧路町史」釧路町役場 p.121 より引用)
「釧路町史」の地名解はちょっと奇妙なところがあって、たとえば今回の場合だと「シペツで本流の水上であり」と記しながら、「水が岩の面をちらばって流れ落ちる川」としているのですね(解には「本流の水上」が含まれない)。

ただ、大局的に見ると、どれも charse-pet で「すべり降りている・川」と考えて良さそうな感じです。charsechararsecharasse と綴られる場合もありますが、岩の上を水がすべるように流れる滝のことを指すのが一般的です。charse に「地嵐」という字を当てたのもかなり傑作ですが、上には上がいた(豊島三右衛門)、ということですね……。

又飯時(またいとき)

ma-ta-etok??
澗・にある・先端部
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地嵐別の西側、沿岸部の高台の地名です。「又飯時金刀比羅神社」の東に川になりそうな谷がありますが、地理院地図や OpenStreetMap では川として描かれていません。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「マタエトキ」と描かれていましたが、どうやら四等三角点「又飯時」(どう見ても釧路市側に思えるのですが、所在地は「釧路郡釧路町大字昆布森字ポン又飯時 7 番地先」とのこと)のあたりを指していたように見えます。岬の名前だった可能性がありそうですね。

培藺□巍!

「東西蝦夷──」では、「マタエトキ」と「シユクトクシナイ」(=宿徳内)の間に「チセフンヘマイ」「チヤラセヘツ」「ヲタノシケマフ」という地名が描かれていました。

豊島三右衛門は「マタヰトキ」と「ホロセフンヘヲマナヱ」の地名解を記していました。「マタヰトキ」にどんな字を当てたかと言うと……
あー(呆然)。「」とありますが、今回も「ト」に相当する字は欠字になっちゃってます。

「豊島翁地名解」には次のように記されていました。

一、マタ  此所小川有奥ニテ海岸浪音キコイルヲ名付ルナリ
  但「マタ」ト云フハ音ト云フ言葉也「ヰ」ト云フハ手前ト云フ言葉也「ト」ト云フハ遠クト云フ言葉ナリ「キ」ト云フハ知ルト云フ言葉也
(佐々木米太郎・編著「釧路郷土史考」東天社 p.24 より引用)
うーん、ちょっと何を言っているか理解できないですね……(すいません)。

マタヱトキ、マタイトキ

幸いなことに記録は色々と存在するので、久しぶりに表にまとめてみましょうか。

クスリ地名解 (1832)マタヱトキマタ・ヱトコ・ウシ 冬・先の・所
初航蝦夷日誌 (1850)マタヱトキ-
竹四郎廻浦日記 (1856)マタイトキ-
午手控 (1858)マタエトキマタは水汲也。エトキ汲てあける事也。
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)マタエトキ-
東蝦夷日誌 (1863-1867)マタエトキ
(小流、人家、昆布場)
マタは水也、エトキは汲て明る事也。
豊島翁地名解(1882-1885?)マタ山奥にて海岸浪音聞こえる
改正北海道全図 (1887)マタヱトキ-
永田地名解 (1891)--
北海道地形図 (1896)マタイトキ-
陸軍図 (1925 頃)又飯時-
釧路町史(1990) マタイトキ(又飯時)海の瀬の荒いところ
地理院地図又飯時-

そう言えば……という話ですが、永田地名解(北海道蝦夷語地名解 (1891) )には記載がなかったんですね。また「釧路町史」の解が謎めいていますが、本文には次のようにありました。

地名アイヌ語小辞典によると「マタ・エトク(冬・水源の・行く先等の意)」に由来すると、湧き水があって、それを飲料水にしたところとなり、アイヌの説話であったか解釈が難しい。一説には「山奥にいても浪の音高き所なり」と古文書にもあることから、この解釈とした。
(釧路町史編集委員会「釧路町史」釧路町役場 p.121 より引用)
……? 「山奥にいても浪の音高き所なり」というのは「豊島翁地名解」を参考にしたと思われるのですが、そこからどのようにして「海の瀬の荒いところ」という解釈が生まれたのか……?

「ワッカ・タ・エトㇰ」?

山田秀三さんの「北海道の地名」(1994) には、次のように記されていました。

松浦氏東蝦夷日誌は「マタエトキ。名儀,マタは水也。エトキは汲んで明る(あける?)事也」と書いた。アイヌからの聞き書きらしいが,何か聞き違いがあったとしか思えない。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.262 より引用)
改めて先程の表を眺めてみると、「マタは水」と言っているのは「午手控」と「東蝦夷日誌」だけなので、松浦武四郎が聞き違えたという可能性は十分ありそうな感じですね。

試みにその内容に言葉を当てて見ると,ワッカ・タ・エトㇰ(wakka-ta-etok 水を・汲む・みなもと)となるだろうか。そんな意味の地名の訛りだったか,あるいはアイヌの説話であったか。とにかく難しい地名である。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.263 より引用)
そんなところでしょうね。ただ「マタ──」はどの記録も一致しているのが厄介なところです。wakka-mata- に化けるのは難易度が高そうですが、あるいは a-ta-etok で「我ら・汲む・水源」とかでしょうか……?

"etok" は本当に水源だったか

「竹四郎廻浦日記」には「マタイ(ト)キヱンルン岬」とあり、また「東蝦夷日誌」にも「マタエトキ岬(大岩岬)」と記録されています。「東蝦夷日誌」には「マタエトキ(小流、人家、昆布場)」という記録もあることから、この「マタエトキ」は川の名前として解釈するのが妥当でしょう。

ただ、etok が本当に水源だったか……という点で、別の可能性を考えたくなります。「又飯時」三角点のあたりは岬になっていて、これが etok(頭の突出部、つまり「岬」)だったのではないかと。

もちろん mata-etok で「冬・先端部」だとしたら何のことやら……という感じですが、ma-ta-etok で「澗・にある・先端部」と読めないかな……と。地理院地図を見ると、三角点の南から沖合に向かって岩礁?が伸びているんですよね。

元々は「岬」を意味する地名だったのが、いつしか原義が失われ、東側の集落に即した「新たな解」が「創作」されたのでは……と考えてみました。ん、そう言えば「澗・にある・先端部」って「海の瀬の荒いところ」なのでは……?

惑解(わくかい)

ここからは余談です。Google マップ等では、「又飯時」と「ポン又飯時」の間に「惑解」という地名が表示されています(通称?)。これは「わくかい」と読むらしいのですが、wakka-i のようにも思えてきます。山田さんは mata-etok ではなく wakka-ta-etok だった可能性を考えたようですが、見事に符合していますね。

ただ、これは確証は無いですが、「わくかい」ではなく「まどいとき」と読ませたのでは……と思ったりもします。つまり「マタイトキ」の亜流だった可能性があるんじゃないかな、と。

埣誓墳屁王苗

更に余談を続けてしまうのですが、「豊島翁地名考」によると、「マタヰトキ」と「チヤラセベツ」の間に「埣誓墳屁王苗ホロセフンヘヲマナヱ」という地名があったとのこと。正確には「墳」の字が異なっていまして……
こんな字を当てていました。「東西蝦夷山川地理取調図」の「チセフンヘマイ」に相当する地名と思われますが、北海測量舎図には「ポロセマプ」とあります。

この「埣誓墳屁王苗」こと「ホロセフンヘヲマナヱ」ですが、horse-humpe-oma-nay で「腐臭を発する・クジラ・そこにある・川」と読めそうです。クジラの死体が流れ着いたという故事があったのでしょうが、「屁」の字が入っているのがなかなか見事ですね(汗)。

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