(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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アチョロベツ川
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
釧路町昆布森から道道 142 号「根室浜中釧路線」の「昆布森トンネル」を抜けると「アチョロベツ橋」という橋があるのですが、「アチョロベツ川」は「アチョロベツ橋」の下を流れています。豊島三右衛門が当てた字は
「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) にも「アチヨロヘツ」と描かれています。なお「チヨロヘツ」と「アチヨロヘツ」の間には「エトロツヘ」と描かれているのですが、かつては「舳堤辺」と書いて「えとろんべ」と読ませていたとのこと。北海測量舎図には「ユトロンペ」とあるので、どうやら「ユ」が「エ」に誤記されてしまったみたいですね。utur-un-pe で「間・そこにある・もの」ではないかとのこと。そしてかつては「アチョロベツ」にも「嬰寄別」という字が当てられていたとのこと。ところが、興味深いことに明治期の資料には「鶏寄別」という記録もあり、これは実際にそのような字を当てる流儀があったのか、それとも誤字なのか……?
釧路の難読地名は「豊島三右衛門」によって字が当てられた……と認識していたのですが、「釧路郷土史考」という書物に「豊島翁地名解」という一節があり、その中には
なんと……(汗)。文字にすると「〓厂鏤蔑」で、最初の文字だけが見つけられませんでした。いやー、「
「楡の皮を漬けておく川」?
釧路町史には次のように記されていました。アッチョロベツ(嬰寄別) 楡の皮を漬けておく川、イウオロ(それを・漬けておく) ベツ(川)
アツは(オヒョオ・ニレ)で厚司(アツシ・昔のアイヌの人たちの着物)の原糸を取る樹皮であり、このことから、ニレの木が多くあったと思われる。
(釧路町史編集委員会「釧路町史」釧路町役場 p.121 より引用)
at-woro-pet で「オヒョウニレの樹皮・うるかす・川」ではないか……という説ですね。この考え方は永田地名解 (1891) とほぼ同じのようで、永田地名解にもAchoro pet,= At ioro pet アチヨロ ペッ 楡皮ヲ漬ス川「アツ、イオロ、ペツ」ノ急言と記されていました。「水」を意味する wor という語があり、woro で「うるかす」という意味ですが、釧路や北見では wor が hor と発音されるとのことなので、woro も horo だった可能性がありそうです。ただ horo と ioro は結構な違いがありそうな気も……。
面白いことに、永田地名解には「アチョロ ペッ」のみ記載があり「チョロベツ川」に相当する記載が見当たりません。「アチョロベツ川」が at-woro-pet だとすれば、「チョロベツ川」は偶然名前が似ていただけの、全く異なる川名ということになりそうですが……。
「釧路町史」(おそらく「昆布森沿岸の地名考」が元ネタ)は「チョロベツ」を chir-or-pet では無いか……としていたので、これも「チョロベツ」と「アチョロベツ」は偶々似通っただけの全く異なる川名だったと考えていた、ということになります。
「もう一つのチョロベツ」説
ただ、加賀家文書「クスリ地名解」(1832) には「アチョロヘツ」「ユトロンヘ」「チョロヘツ」の順で記載があり、「アチョロヘツ」の項には次のように記されていました。アチョロヘツ アツ・チョロ・ヘツ 半分・下・川
此所に小川有。半分は沼より流、半分はチョロヘツより流れ集を斯名附由。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.260 より引用)
この「半分は沼から流れ、半分はチョロヘツより流れる」というのは、地形的にはあり得ないのですが、「半分」という解は「対をなして存在する(と考えられる)ものの一方」を意味する ar- のことと考えられそうに思えます。 「チョロヘツ」は、加賀家文書「クスリ地名解」には次のように記されていました。
チョロヘツ チョロ・ヘツ 下・川
此所之川浪にて尻を留め居候節、砂の下水通し を名附由。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.260 より引用)
この「砂の下に水が通る」ということから chorpokke-kus-pet で「下を・通る・川」ではないか……と考えたのですが、「アチョロベツ」も同様に沿岸流が運んだ砂によって河口が塞がれてしまい、水が伏流して海に注ぐという特徴を有していたのではないか、故に at-chorpokke-kus-pet で「もう一つの・下を・通る・川」だったのではないか……と考えてみました。ar- が at- に化けているのは、知里さんの「アイヌ語入門」にある「r は,ch の前でも,それに引かれて t になる」に依るものです。
「嬰寄別」はどこに消えた
ちなみに「ここは、松浦武四郎の「蝦夷日誌」で城跡や烽火場などがあったことから城山といわれたのだろう。
(釧路町史編集委員会「釧路町史」釧路町役場 p.121 より引用)
とのこと。どうやら第二次大戦中に「城山」と改められてしまったようです。宿徳内(しゅくとくない)
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
釧路町昆布森村城山(かつての「この「宿徳内」ですが、豊島三右衛門は次のような字を当てていたそうです(汗)。
こちらも文字にすると「〓抓蕺億苗」で、最初の文字だけ見つけることができませんでした。
実は「豊島翁地名解」には豊島三右衛門による地名解(そのままだね)も記されていて、「〓抓蕺億苗」の項には次のように記されていました。
一、〓抓蕺億苗 此所海岸通小山澤有蕬澤山生ルヲ名付ルナリ
但「シユクトク」ト云フハ蕬ト云フ言葉也「ウシ」ト云フハ生茂ルト云フ言也「ナイ」ト云フハ澤ト云フ言也
(佐々木米太郎・編著「釧路郷土史考」東天社 p.25 より引用)
「夏枯れする川」?
一方で、加賀家文書の「クスリ地名解」(1832) には次のように記されていました。シュクヽトナヱ シュク・トチ・ウシ・ナヱ 浅・ひろ・有・沢
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.260 より引用)
「浅い」を意味する語は hak だったり ohak だったり(水かさが浅い)、または kasre(土地の穴やくぼみが浅い)などがありますが、「トチ」が「ひろ」というのは……良くわからないですね。「夏枯れする」を意味する sattek という語がありますが、もしかして sattek-us-nay で「夏枯れする・そうである・川」とかでしょうか?「エゾネギのある川」?
「午手控」(1858) には次のように記されていました。シュクトクウシナイ小樽の「
野韮の有る処也
知里さんの「植物編」(1976) には次のように記されていました。
§ 334. エゾネギ Allium Schoenoprasum L.
(1) sikutur(si-kú-tur)「シくト゚ㇽ」 葉,及び球莖 《穂別》《A 沙流・鵡川・千歳》
(2) sikutut(si-kú-tut)「シくト゚ッ」 葉,及び球莖 《長萬部,幌別》
(3) sukutut(su-kú-tut)「スくト゚ッ」 葉,及び球莖 《美幌,屈斜路》《A 有珠》
(4) sirkutut(sír-ku-tut)「志ㇽクト゚ッ」 葉,及び球莖 《荻伏》
(知里真志保「知里真志保著作集 別巻 I『分類アイヌ語辞典 植物編』」平凡社 p.394 より引用)
エリアによって多少の違いが見られますが、釧路のあたりだと sukutut と発音されるケースが多かった……と見て良さそうでしょうか。となると sukutut-us-nay で「エゾネギ・多くある・川」ということになるのですが、これだと「シュクツツシナイ」ということになりそうな……。「大きな崖を横切る川」?
小樽の「祝津」も、そして室蘭の「祝津町」も、どちらも sikutut ではなく si-kut-us-i で「大きな・崖・ある・ところ」はないか……と考えたこともありました。そして今回の「宿徳内」ですが、手元の資料を見た限りでは「シュクトク」あるいは「シュククト」とするものが大半で、「ク」の音が複数存在するように見えます。となると、sikutut-us-i ではなく si-kut-o-kus-nay で「大きな・崖・そこで・横切る・川」と読めないでしょうか? これだと「シクトクㇱナイ」で「宿徳内」に近くなりますし、地形的な特徴もドンピシャ(死語?)のような感じがするんですよね……。
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