この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。
ただ、今回取り上げる箇所は「夜の騒ぎ」と「うるさい宿屋」のどちらかということになるのですが、どちらの題も不適切な感じがします。英語版では "BRITISH DOGGEDNESS" という副題?を見かけたのですが……。
英国人の頑固さ
小繋(能代市二ツ井町)で一泊したイザベラでしたが、夜が明けるとすぐに移動を再開したようです。期待した通りに進めていないという焦りからか、この日も早めに出発したとのこと。早く出発したが、道路は悪く、ぐずぐず遅れるので、ほとんど進まなかった。一日中大雨が止むことなく降った。道はほとんど通行不可能で、私の馬は五回も倒れた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.289 より引用)
イザベラ一行は、小繋から大館まで羽州街道を通ったと推察されるのですが、やはり長雨が与えたダメージが大きかったのか、酷い状態だったんですね……。私は苦痛と疲労がひどくて、海辺まで行きつくことはとても駄目かとほとんど絶望するほどであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.289 より引用)
ん……? イザベラは大館に向かっていた筈で、どう見ても「海辺」では無いのですが、これは原文を見るべきでしょうか。I suffered severely from pain and exhaustion, and almost fell into despair about ever reaching the sea.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
ふーむ。確かに reaching the sea. と書いてありますね。これは具体的なゴールではなく、抽象的な表現と見るしか無さそうでしょうか。名訳かも?
イザベラは少しずつ「奥地」に足を踏み入れているのですが、奥地に入るにつれてこれまで享受してきたサービスを少しずつ失いつつありました。このような田舎では、駕籠 も乗り物 も手に入らなかった。駄馬だけが唯一の輸送機関であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.289 より引用)
逆に言えば、少なくとも久保田(秋田)のあたりまでは、それなりに「駕籠」を手配することができた……ということでしょうか。昨日私は自分の鞍を捨ててしまったので、不幸にも荷鞍に乗らざるをえなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.289 より引用)
「自分の鞍を捨ててしまった」のですか。傷んでボロボロになったのかもしれませんが、これは誤算だったのでは……。組み立て式ベッドを携帯していたイザベラですが、流石に予備の鞍は確保していなかったのですね。その鞍の背は特にかど角ばり頑固にできていて、上には久しく洗濯したこともない水浸しの座蒲団 がのっていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.289 より引用)
まぁ「荷物用の鞍」ですからねぇ。蒲団があるだけラッキーだと思うべきかも……。円材も索具も、馬の背も凹みも、全くしゃくにさわるものばかり。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.289 より引用)
この訳文は「蒲団がのっていた」に続くもので、原文では次のようになっていました。I had the bad luck to get a pack-saddle with specially angular and uncompromising peaks, with a soaked and extremely unwashed futon on the top, spars, tackle, ridges, and furrows of the most exasperating description,
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
よく見ると、高梨健吉さんは、本来は一つの文章だったものを二つに分割して訳出しています。米原万里さん風に言えば「不実な美女」ですが、「全くしゃくにさわるものばかり」という言い回しは、まるでイザベラの愚痴がそのまま文章化されたかのようで、「名訳」なのでは……と思えてきます。雨の日の山の匂い
長雨の中、必死に移動を続けるイザベラでしたが、そのような状況にあっても美しい景色に触れることのできる感性は失っていなかったようです。大雨の中でも、白い霧が去って松林におおわれた山の峰がちょっとでも見えてくると、美しい景色となった。私たちが深い谷間に辷り下りて行くと、苔むした丸石や、地衣類におおわれた切株、絨氈を敷いたような羊歯類、ピラミッド型の杉の木の湿った良い香りがあった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.290 より引用)
この文章、イザベラは見たままを綴っているだけなのですが、めちゃくちゃ「わかる」ボタンを押しまくりたいですね……。平たく言えば雨の日の山の匂いなんですが、まさに「そう、これ!」とヘッドバンキングしたくなる文章です。うんざりする程の長雨でも、その中に「美」を見出すとは流石イザベラ姐さん……と感心してしまったのですが、一方でこんな風にも綴っていました。
いかに美しい地方でも、荷鞍にしがみつき、身体の下の座蒲団はぐしょぐしょになって、自分の濡れた衣服から下の靴まで水がゆっくりと浸みこんでゆくのを感ずるのは、楽しいことではない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.290 より引用)
まぁ……そうですよね。水たまりに運動靴で突っ込んでしまって、水がじわっと染み込むのを体感した時の感触ほどおぞましいものは滅多に無いですし……(ついでに言えば絶望感もありますよね)。こんど休むところでは、また湿ったベッドに寝て、湿った着物に着かえ、翌朝また湿ったものを着て出発するのかと思うと、うんざりする。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.290 より引用)
これ、自分の身に置き換えて考えてみると「うんざりする」どころの話では無いですよね。真っ先にカビの心配をしてしまうのですが……。イザベラは、このあたりの村々は「みすぼらしい」とした上で、次のように記していました。
家には窓はなく、どの割れ目からも煙が出ていた。それは南日本で旅人たちの眼に映ずるものとは違っていた。それはウイスト(スコットランド北西の島)の「黒い小屋」がケント州(英国南部)のきれいな村と似ていないと同様である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.290 より引用)※ 原文ママ
「ウイスト」は Uist で、スコットランドの北西に浮かぶ列島の中に North Uist や South Uist という島があります。Uist というのは英語の地名としてはちょっと珍しい感じがするので、他の言語に由来する地名だったりするでしょうか。これら農民たちは、もっと家の中の暮らし方を学ばなければなるまい。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.290 より引用)
根本的には貧困が問題の根源であるような気も……。あと家の中が煙たいのは「虫対策」だった可能性もあるかもしれません。室内を煤まみれにしないと虫が湧いて酷いことになるケースもあったみたいで……。「英国人の頑固さ」と「馬子の好意」
イザベラは次の駅の綴子 で、駅亭があまり汚かったので、私は雨の中を街路に腰を下ろしていなければならなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.290 より引用)
「綴子」は現在の北秋田市綴子で、国道 7 号バイパスには「道の駅」があります。鉄道は少し南の「鷹巣」を通っているのですが、鷹巣経由のほうが勾配が少ないというメリットがあったのでしょうか。逆に羽州街道が何故鷹巣を経由しなかったのかが謎な感じもしますが、泥炭地で地質面の不安があったから……とかでしょうか?
イザベラが綴子の駅亭(の前の路上)で待つ羽目になったのは、またしても橋が流され渡し場にも行けなくなったからでした。しかしイザベラはどんな交渉術を使ったのか、それとも単にゴネて暴れたのか、大雨の中、更に進むことに成功します。
しかし私は馬を雇って、英国人の頑固さと馬子の好意により、私は馬だけ単独に荷物をつけずに小さな平底船に乗せて、増水した早口 川、岩瀬 川、持田 川を渡らせ、ついに古馴染 の米代川 の三つの支流を歩いて渡ることができた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.290-291 より引用)
川名は、原文では the Hayakuchi, the Yuwase, and the Mochida, となっていました。the Hayakuchi は現在の「早口川」で、the Yuwase は現在の「岩瀬川」なのですが、the Mochida はどうやら現在の「長木川」のことみたいです。羽州街道は「餅田橋」で長木川を渡っていて、川を渡った向こう側が「大館市餅田」らしいので、「餅田川」という通称があったのかもしれません。激流は白い泡をとばし、人夫たちの肩や馬の荷物にふりかかった。百人もの日本人が、外国人の「愚かさ」を眺めていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.291 より引用)
イザベラは旅程に遅れが生じていることを承知していて、無理をしてでも遅れを挽回しないと行けない……と思っていた節があります。たとえ「奥地紀行」という「冒険」であったとしても、本来は厳しく戒められるべき考え方なんですけどね。イザベラは「まわりの人たち」を振り回していたと十分に自覚していたようで、次のような文章を記しています。
私はどこでも見られる人々の親切さについて話したい。二人の馬子は特に親切であった。私がこのような奥地に久しく足どめさせられるのではないかと心配して、何とか早く北海道へ渡ろうとしていることを知って、彼らは全力をあげて援助してくれた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.291 より引用)
一歩間違えれば自分の命も覚束ない状況でありながら、異国からやってきた旅人に親切にするというのは、古今東西を問わず万国共通なのかもしれませんね。イザベラは馬を乗り降りする際に馬子が体を支えてくれたり、あるいは馬子自ら踏み台になってくれたことを謝した上で、次のようにも記していました。
あるいは両手にいっぱい野苺を持ってきてくれた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.291 より引用)
長旅に疲れ切っていた旅人へのせめてもの心遣いなんでしょうけど、これは嬉しいですよね……! イザベラはその心遣いにどう応じたかと言うと……それはいやな薬の臭いがしたが、折角なので食べた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.291 より引用)
姐さん、さすがですね(汗)。私は、川口 という美しい場所にある古い村に滞在したらどうか、と言われたが、ここはあらゆるものが湿っていて徽臭く緑色であり、緑色と黒色の溝から出る悪臭はあたりに満ちて、傍を通るときでさえも堪えられないほどであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.291 より引用)
この「川口」というのは現在の「大館市川口」、かつての「下川沿村川口」ですが……なんか場所を明かしてしまうのが申し訳なく感じられるような書きっぷりですね。さすがのイザベラ姐さんもこれはキツいと判断したようで……そこで大館まで馬で行かねばならなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.291 より引用)
ふむふむ。改めて地図を眺めてみると、一日でかなり進んだようにも見えますが、前日が(二ツ井の難所を含めて)三種町豊岡から能代市二ツ井町小繋(能代市のほぼ東端)まで移動していたので、それほど劇的に進んだというわけでも無さそうです。この先も前途多難な予感がしますが、果たしてどうなりますやら……。
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