2023年10月31日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (131) 「思い出の郵政書体」

国道 336 号を南西に向かい、大樹町に入りました。カントリーサインはロケットを模したもの、でしょうか?
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

このあたりの国道 336 号は豊頃町と大樹町の境界付近を通っているので、厳密には一度大樹町に入ってから豊頃町に戻っていたのですが、このカントリーサインは再び大樹町に入ったところに設置されています(手前にはサインは無さそう)。

2023年10月30日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (130) 「未確認水棲生物」

道道 1051 号「湧洞線」の起点(一般的な感覚では終点かも)にやってきました。要は行き止まりなので、ここから道道 1051 号で国道 336 号まで戻ることになります。"be careful to tsunami" とありますが、"be careful for ──" じゃ無いんですね。
それはそうと、いつもどおりに彩度マシにしただけなんですが、なんか空の色合いが不穏な感じですね……。何故?

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

引きのアングルではこんな感じです。行き止まり部分には駐車場と転回場を兼ねたスペースがあり、楽に車の向きを変えることができます。

2023年10月29日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1084) 「チョロベツ川・持文内」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

チョロベツ川

chorpokke-kus-pet?
下を・通る・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
釧路昆布森のほぼど真ん中を南に流れて太平洋に注ぐ川の名前です。昆布森の北には「チョロベツ」「チョロベツ沢」などの地名も表示されていますが、これは通称でしょうか。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「チヨロヘツ」と描かれています。「改正北海道全図」(1887) には「チヨヘツ川」とありますが、「北海道地形図」(1896) には「チョロペッ」とあるので、「チヨヘツ」は脱字の可能性がありそうです。

「マガモのおりる川」?

釧路町史には次のように記されていました。

 チヨロベツ ま鴨のおりる川
 昆布森市街を流れている川である。この地名解は、いづれもなく、チルオロベツとすると、チル(鳥)オルは(内・または中などの意) ベツ(川)となり、鳥のいる川となる。
(釧路町史編集委員会「釧路町史」釧路町役場 p.123 より引用)
chir-or-pet で「鳥・のところの・川」と考えたのでしょうか。chir(鳥)を -or で受けるというのはあまり記憶にないのですが、sey-or で「貝殻のところ」という例もあるようなので……。とは言え、珍しい形とは言えそうなので、要注意でしょうか。

土地の人の話では、よく川上に、ま鴨が飛んでおりるというので、それが地名となったと思われる。
(釧路町史編集委員会「釧路町史」釧路町役場 p.123 より引用)
うーん。地元の方の見解は傾聴に値するのですが、chir-or-pet だと「チロㇽペッ」になりそうで、「チョロベツ」との間に多少の違いがあるのも気になるところです。ただこの程度の違いであれば、単に訛っただけの可能性も十分ありそうです。

「我らがうるかす川」?

山田秀三さんの「北海道の地名」(1994) には次のように記されていました。

語義の記録を見ない。あるいはチ・オロ・ペッ「chi-oro-pet(おひょう楡の皮を)我ら・水に漬ける・川」ででもあったろうか。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.262 より引用)
chi-woro-pet で「我ら・うるかす・川」では無いかとのこと。「北海道地名誌」(1975) にも次のように記されていました。

アイヌ語で「チ・ウオㇽ・ペッ」(われわれのうるかす川)かと思う。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.669 より引用)
あー、やはり……。

「神が作った川」!?

なんとなく chi-woro-pet で決まりかなー……という雰囲気になってきましたが、「午手控」(1858) には次のように記されていました。

チョロベツ
 是も神が来りて作りし川なるよし。川上に水有て川に下らざりし処のよし。今は川に成る
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.340 より引用)
いきなり「是も」と言われると「???」ですが、西隣(「昆布森トンネル」を抜けるとすぐのところ)に「アチョロベツ川」が流れていて、その地名解に詳細が記されていました。

アッチョロベツ
 昔痘瘡の (さい)神様此処え来り××、此処えかくれし時、土人水が無故にアッチョロベと呼しかば、神が来りて此川を作りしと。アツと云(は)半分と云事。神より半分もらひしと云儀なり
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.339 より引用)
うーん。更に訳がわからなくなった感が……(汗)。

「砂の下を通る川」?

加賀家文書「クスリ地名解」(1832) には次のように記されていました。

チョロヘツ チョロ・ヘツ 下・川
 此所之川浪にて尻を留め居候節、砂の下水通(す)を名附由。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.260 より引用)
「チョロ」は「下」だと言うのですが、そんな語があったかな……と思って辞書を見てみると……

corpoki 【位名】[所](概は corpok) ……の底、下。
(釧路アイヌ語の会・編「釧路地方のアイヌ語語彙集」藤田印刷エクセレントブックス p.20 より引用)
ありました(汗)。「チョロ」ではなく「チョㇽポキ」ですが、「ポキ」が略されたと考えることも可能でしょう。

萱野さんの辞書にも次のような記載がありました。

チョㇿポッケ クㇱ 【corpokke kus】
 くぐる :下を通る.
萱野茂萱野茂のアイヌ語辞典」三省堂 p.318 より引用)
むむむ……。クスリ地名解には「此所之川浪にて尻を留め居候」とありますが、これは沿岸流によって砂が流されて河口が塞いだ……と読めます。そして「砂の下水通す」とありますが、このことを指して chorpokke-kus-pet で「下を・通る・川」と呼んだ……というのも、個人的には納得感の高い仮説です。

そして「午手控」の記述を振り返ってみると、「川上に水有て川に下らざりし処」というのは「此所之川浪にて尻を留め居候」と符合するようにも思えます。ただ「午手控」には「今は川に成る」とあり、河口部の伏流は解消されたと読めます。

「神が来りて作りし川」と言うのは、どこかのタイミングで河口部の伏流が解消されて、そのことを形容した……ということかもしれません。

自らをうるかす川

ちょいと余談ですが、河口部に伏流があったということならば、chi-woro-pet で「自ら・うるかす・川」じゃないか……とも考えてみました。室蘭の「地球岬」を chi-kere-p で「自ら・削らせる・もの」と解する流儀がありましたが、それと似たようなものではないか、と。

チョロベツ川が河口を塞ぐ砂をうるかし続けて、ついに流路を確保した……というストーリーで、実はこれを一押しに考えていたのですが、どう考えても chorpokke と比べると分が悪そうなので、「余談」に回ってもらいました。

持文内(もちぶんない)

o-mo-chep-un-nay?
河口・小さな・魚・入る・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2023年10月28日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1083) 「節古籠・昆布森」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

節古籠(ふしこもり)

husko-{kompu-moy}
古い・{昆布森}
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
昆布森と幌内の間の海岸部の地名です。地理院地図には伏古ふしこと表示されていますが、Google マップでは「節古籠」と表示されています。なんとなく読めそうな感じもありますが、字のセンスを考えると「釧路町の難読地名コレクション」その 13 ……と言えそうでしょうか(#1「重蘭窮」、#2「知方学」、#3「老者舞」、#4「分遣瀬」、#5「賤夫向」、#6「入境学」、#7「初無敵」、#8「冬窓床」、#9「跡永賀」、#10「浦雲泊」、#11「十町瀬」、#12「来止臥」)。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) にはそれらしい地名が描かれていませんが、代わりに「チヨロヘツ」(=チョロベツ川)の東に「ホンコンフイ」と「コンフイ」が描かれています。現在の昆布森はチョロベツ川の東西に広がっていますが、古い記録を見るとどれも「チョロヘツ」よりも「コンフムヰ」のほうが東側にあるように記されています。

陸軍図には「フシモリ」と描かれていました。……あれ、地理院地図には「伏古」とあり、この時点で「古籠」だったのだとしたら、いつどの段階で「古籠」になったんでしょう……?

更科さんの「アイヌ語地名解」(1982) には次のように記されていました。

 伏古籠(ふしこもり)
 昆布森の岬のかげにある部落。フシコ・コンプ・モイのなまったもので、昔の昆布湾の意。現在は伏古(ふしこ)とだけ表記している。
こちらも「古籠」ですね。不思議なことに「古籠」という記録がとても乏しい印象があるのですが、「運輸局住所コード」には何故か「昆布森村字古篭」と「昆布森村字古篭」の両方が設定されていました。

釧路町史には次のように記されていました。

 フシコ(伏古) 古い村
 この地名はフシコ(古くある・もとの)でフシココタン(元の村)コンブムイを指しているものと思われる。古文書には、マタイトキ・シュクトクナイ・アチョロベツ・チョロベツ・コンブムイ・ポロナイとつづいてフシコはない。
(釧路町史編集委員会「釧路町史」釧路町役場 p.123 より引用)
そうなんですよね。陸軍図に「伏古籠」とあるのが最も古いか……とも思われたのですが、北海測量舎図に「フシュココㇺプモイ」と描かれていました。「モリ」の出処が若干謎だったのですが、本来は husko-{kompu-moy} で「古い・{昆布森}」だったのが、中間の「昆布」を略して「伏古籠」になった……と考えて良さそうです。

釧路町史には続きがあり、次のように記されていました。

昭和三〇年頃から海岸浸蝕によって浜は決壊し、住み家も不安となって、昭和五三年一〇月に昆布森市街に集落移転したので、ほんとうの意味の(元の村)となろう。
(釧路町史編集委員会「釧路町史」釧路町役場 p.123 より引用)
これによると、地形的な問題で移転を余儀なくされたように見えますね。ただここは明治の時点で既に「フシュココㇺプモイ」だったので、移転が始まったのは明治に入ってすぐの頃だったのかもしれません。

昆布森(こんぶもり)

kompu-moy
昆布・湾
(記録あり、類型あり)

2023年10月27日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (129) 「行き止り」

道道 1051 号「湧洞線」を終点(正式には起点)に向かいます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

道路の南東側は太平洋です。砂浜がある筈ですが、道道からは殆ど見えないですね。

2023年10月26日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (128) 「砂州の上の一本道」

道道 1051 号「湧洞線」を南東に向かいます。8 号沢川を渡りますが、この橋は「リンドウ橋」とのこと。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ほどなく今度は「アヤメ橋」という橋を渡ります。よく見ると橋名標識にイラストが入っていますね。

2023年10月25日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (127) 「歩行者!」

国道 336 号に戻ってきました。相変わらずどんよりした写真ですが、これでも……手は尽くしているのです(汗)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

長節川」を「長節橋」で渡ります。この川の下流側に「長節ちょうぶし湖」があるのですが、今回はスルーします。静かで良いところなんですが、以前にも行ったことがあるので……。

2023年10月24日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (126) 「国道 336 号旧道」

旅来たびこらい渡船記念の碑」は道道 320 号「旅来豊頃停車場線」沿いにあるのですが、記念碑の向こう側に十勝川に向かうスロープが見えています。このスロープを登った先で渡船が発着していた……ということですよね?
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ということで、スロープを登ってみることにしました。

2023年10月23日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (125) 「旅来渡船記念の碑」

「十勝河口橋」で十勝川を渡って、豊頃町に入りました。
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すぐ先で道道 911 号「大津旅来線」と交叉するようです。

2023年10月22日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1082) 「来止臥・幌内」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

来止臥(きとうし)

kito-us-i
行者ニンニクの球根・多くある・ところ
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
十町瀬とまちせの 3 km ほど西のあたりの地名です。かつて存在した跡永賀村の地名ではなく、当初から昆布森村の地名でした。めちゃくちゃ難読では無いですが、「釧路町の難読地名コレクション」その 12 ……と言っていいですよね?(#1「重蘭窮」、#2「知方学」、#3「老者舞」、#4「分遣瀬」、#5「賤夫向」、#6「入境学」、#7「初無敵」、#8「冬窓床」、#9「跡永賀」、#10「浦雲泊」、#11「十町瀬」)。

北海道地形図」(1896) には「キト゚ウシ」と描かれています。kito は「キト」なので、何故「キト゚」なのか……?(kitu?) ただ「改正北海道全図」(1887) には普通に「キトウシ」と描かれていました。

不思議なことに「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) にも「チトフシ」と描かれています。またしても不穏な感じがしてきたので、表にまとめましょうか。

クスリ地名解 (1832)-
初航蝦夷日誌 (1850)-
竹四郎廻浦日記 (1856)(テ)(ウ)
辰手控 (1856)-
午手控 (1858)チトブシ細き竹が有
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)チトフシ
東蝦夷日誌 (1863-1867)キトウシ(小川)茖葱ブクシヤ多き
改正北海道全図 (1887)キトウシ
永田地名解 (1891)キト゚ ウシ韮多き處
北海道地形図 (1896)キト゚ウシ
北海測量舎図キト゚ウシ
三角点名(1920) 起止臥きとうし
陸軍図 (1925 頃)-
地理院地図来止臥きとうし

とりあえず「キト゚」については永田方正さんのやらかし案件と見て良さそうですね(「北海道地形図」と「北海測量舎図」は永田地名解の謎表記に引きずられた……ということでしょう)。問題は「東西蝦夷──」の「チトフシ」で、ネタ元と思われる「午手控」には次のように記されています。

チトブシ
 細き竹が有、其名也
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.340 より引用)
確かに top で「竹」を意味するのですが、「チ」を「小さい」とは解釈できないような気が……。松浦武四郎も「東蝦夷日誌」を著すにあたって「あれはキトウシだよなぁ」と気がついた、というオチかもしれません。

釧路町史(「昆布森沿岸の地名考」がネタ元だと思われます)にも次のように記されていました。

 キトウシ(来止臥) きと(祈祷)ビルの群生しているところ
 三方を山や崖に囲まれ砂浜になっている所で、暖い南風を受け、昆布森沿岸でも早く春が訪れる。キト(ギョージヤニンニクの球根)ウシ(そこに群生する・群居する)から名づけられる。
(釧路町史編集委員会「釧路町史」釧路町役場 p.124 より引用)
やはり kito-us-i で「行者ニンニクの球根・多くある・ところ」と見て良さそうですね。松浦武四郎は解釈面で、そして永田方正は語の記録面でそれぞれお手つきがあった、と言ったところでしょうか。

幌内(ほろない)

poru-un-nay?
岩窟・ある・川
poro-onne-nay?
親である・大きな・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2023年10月21日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1081) 「浦雲泊・十町瀬」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

浦雲泊(ぽんとまり)

pon-tomari
小さな・泊地
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
跡永賀あとえかの 1.5 km ほど西のあたりの地名です。「釧路町の難読地名コレクション」その 10 ということになるでしょうか(#1「重蘭窮」、#2「知方学」、#3「老者舞」、#4「分遣瀬」、#5「賤夫向」、#6「入境学」、#7「初無敵」、#8「冬窓床」、#9「跡永賀」)。

「浦雲泊」はどこにあった?

この「浦雲泊」ですが、ちょっと不思議なのが「浦雲泊川」のあたりには家屋が見当たらず、山をひとつ西に越えた先の高台に集落があるという点です。ところが陸軍図では「浦雲泊川」の河口付近に「浦雲泊」と描かれていました。大正から昭和にかけて集落が移転した……ということなんでしょうか。

「東蝦夷日誌」(1863-1867) には次のように記されていました。

濱に出てヲヤウシワタラ(大岩)名義、山の如く海中に尖出する故になづく。此上を越てボントマリ〔浦雲泊〕(小沼)、ここえ下る沙原にして、甚奇麗也。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.318 より引用)
これは「トマチエナイ(小澤)」(=十町瀬)の続きで、「ヲヤウシワタラ」は現在の「タコ岩」のことだと考えられます。不思議なことに「ヲヤウシワタラ」から「ボントマリ」までの里程が記載されていません。

もう少し「東蝦夷日誌」を見てみましょうか。

(十三丁十五間)ウシユンクユシ(岩岬)本名ヘシウトウリシにして、兩方山有、其間より川が下る號くと。(七丁廿問)アトエカ〔跡永賀〕(小川、小休所、人家三軒)、此岬に大崩岩有。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.318 より引用)
跡永賀から「七丁廿問」(≒ 800 m)西には、現在「浦雲泊川」と呼ばれる川が流れています。「岩岬」というのが若干謎ですが、河口の東側の地形を「岬」と呼んだ……ということでしょうか?

そして「東蝦夷日誌」によると「ウシユンクユシ(岩岬)」の「十三丁十五間」(≒ 1,445 m)西に「ボントマリ」があった……と読めます。仮にこの里程が正しいとすれば、「ヲヤウシワタラ」(=タコ岩)のすぐ東側に「ボントマリ」があった……ということになっちゃうんですよね。

ただ「初航蝦夷日誌」(1850) には次のように記されていました。

     幷而
ヲヤウシワラより凡五、六丁也
     ホントマリ
小沼有。沼の上を通る。小高き山有。玫瑰、柏木等有り。
(松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.378 より引用)
「ヲヤウシワラ」は「ヲヤウシワラ」のことで、そこから「凡五、六丁」の場所、つまり現在の「浦雲泊」集落の西のほうに「沼」があった……ということになりますね。ただ、よく見てみると……

     ホントマリ
小沼有。沼の上を通る。小高き山有。玫瑰、柏木等有り。しばし行小流有る也。幷而
     ウシユンクシ
又此処より左右二通り有。左り山道にして馬を通ず。右は海岸。歩行道有る也。
(松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.378 より引用)
とあるので、「ホントマリ」の「小高き山」は集落と川の間の山のことかもしれません。とりあえず「浦雲泊」については「東蝦夷日誌」の里程は参考にならないということと、「浦雲泊」の位置は松浦武四郎が訪れた頃と大きく変わっていない……と言えそうです。散々文字数を使ってこの結論、申し訳ないです……。

閑話休題それはさておき

釧路町史」には次のように記されていました。

 ポントマリ(浦雲泊) 舟がかりができる小さな入江
 ポン(小さい)トマリ(停泊港)を意味しており、直訳すると小さい舟がかりの澗となるが、ここは沖合の岩場で波が沈み、渚はおだやかな舟がかりの澗になっており、舟の出入りも出来ることから「ポントマリ」と名付けられたと解する。
(釧路町史編集委員会「釧路町史」釧路町役場 p.125 より引用)
そんなところなのでしょうね。pon-tomari で「小さな・泊地」と見て良さそうです。

十町瀬(とまちせ)

tuyma-chise-ne-p?
遠い・家・のような・もの
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2023年10月20日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (124) 「十勝河口橋」

「トイトッキ浜トーチカ」を一通りグルっと眺め終わったので……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

車に戻ることにしましょう。よく見ると車の向こうにブイ?のようなものが見えますが……

2023年10月19日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (123) 「トイトッキ浜トーチカ」

「トイトッキ浜」にやってきました。鳥居と社殿?の後ろに見える巨大なコンクリートの塊が、もしかして御神体……?
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

このコンクリートの塊ですが、太平洋戦争中に軍が建設したトーチカの跡とのこと。南西側に小さな穴が見えますが、ここから銃を発射する想定だったのでしょうか……? ちょっと不思議なのが、海は南東にあるので、舟艇で上陸した歩兵は南東からやってくる筈なのですが……

2023年10月18日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (122) 「突然の牛」

浦幌十勝導水門」(Google マップでは「幌岡導水門」となっていますね)のあたりを一通り見て回ったので、車に戻ります。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

神社のところまで戻ってきました。再び南下して「浦幌十勝川導水路」を渡ります。

2023年10月17日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (121) 「浦幌十勝導水路」

浦幌愛牛にやってきました。前方に橋が見えてきましたが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ピクセル等倍の限界写真で失礼します。この川は「浦幌十勝導水路」とのこと。「放水路」ではなく「導水路」なんですね。

2023年10月16日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (120) 「すべる」

道道 1038 号「直別共栄線」を西に向かいます。道道 1038 号は起点と終点で国道 38 号と接続していて、浦幌を経由する国道 38 号が「山線」だとすれば、厚内を経由する道道 1038 号は「海線」と言えるでしょうか(番号も似ていますが、これはきっと意図的なものですよね)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

道道 1038 号は「海線」と言いながら「霧止峠」を経由することになりますが、先程の交叉点を左折して十勝太に迎えば「霧止峠」を回避することもできます。ちなみにこの交叉点、2014 年のストリートビューではこのように見えていますが……


2023 年のストリートビューでは交叉点の位置が変わっていました。浦幌町静内から十勝太に向かう場合に鋭角過ぎたのを改良したっぽいですね。

すべる

引き続き道道 1038 号の終点に向かいます。ここは舗装を完全にやり直したのでしょうか。まるで新しい道路のようです。

2023年10月15日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1080) 「冬窓床・跡永賀」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

冬窓床(ぶゆま)

puy-oma-i
穴・そこにある・もの
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
入境学の 3 km ほど西の沖合に「ローソク岩」という岩があります。冬窓床(ぶゆま)はローソク岩の 300 m ほど北、跡永賀(あとえか)の 700 m ほど東南東の地名です。「釧路町の難読地名コレクション」その 8 ……と言えるでしょうか(#1「重蘭窮」、#2「知方学」、#3「老者舞」、#4「分遣瀬」、#5「賤夫向」、#6「入境学」、#7「初無敵」)。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) ではちょいと妙なことになっていて、「アトイカ」(=跡永賀)の東に「ワツカナイ」があり、その東に「フヨニ」と「フヨマアトカ」があります。

「プユモイ」と「フヨマアトイカ」

ちゃちゃっと表にまとめたほうが良さそうな感じですね。

大日本沿海輿地図 (1821)アトヲカ--
クスリ地名解 (1832)アトヱカフヱマブヱマアトエカ
初航蝦夷日誌 (1850)アトイカフヱマフヱマトユカ
竹四郎廻浦日記 (1856)アトイカ--
辰手控 (1856)アトイカフイマアトイカ
午手控 (1858)アトヱヲカフヱマアトヱヲカ
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)アトイカフヨニフヨマアトエカ
東蝦夷日誌 (1863-1867)アトエカ(小川)フイマアトエカ
(岩穴)
ブイマユカ(岬)
改正北海道全図 (1887)-フユモイ
永田地名解 (1891)アト゚イ オカケプヨマ アト゚イカ
北海道地形図 (1896)アト゚イオカケプユモイ
北海測量舎図アトイオカケフヨマアトイカプユモイ
陸軍図 (1925 頃)アト--
地理院地図跡永賀あとえか冬窓床ぶゆま-

北海測量舎の地図によると、ローソク岩のあるあたりが「プユモイ」で、現在「冬窓床ぶゆま」と呼ばれるあたりが「フヨマアトイカ」だったようです。

東蝦夷日誌では「アトエカ(小川)」と「フイマアトエカ(岩穴)」の間に「ワツカナイ(小川)」とあるのですが、これが現在「冬窓床川」と呼ばれる川なのかもしれません(里程が実際の距離よりも短く記録されているという問題はあるのですが)。

また、「東西蝦夷──」以前は「フヱマ」と「ブヱマアトエカ」の順で並んでいて、これは北海測量舎図とは逆になっています。「フヱマ」と「ブヱマアトエカ」はほぼ同一の場所にあったのかもしれません。ここで問題となるのが「東蝦夷日誌」の里程ですが、

(二丁)フイマアトエカ(岩穴)此穴より則通る故號く。此處また岩の上越て、(八丁廿間)ブイマユカ(岬)、ホンソウ(瀧)過て、(十三丁廿間)リトイ平(平)名義、つづら高き土平と云儀なり。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.318 より引用)
これを「フイマアトエカ(岩穴)」と「ブイマユカ(岬)」の間が「八丁廿間」と解釈したのですが、「ブイマユカ(岬)」と「ホンソウ(滝)」の間が「八丁廿間」だった可能性もあるかな……と(この考え方は北海測量舎図の記録とも近いものです)。

あ……。「冬窓床」で「ぶゆま」と読ませるのは相当無理があると思っていたのですが、「東蝦夷日誌」の「ブイマユカ」に対して「冬窓床」という字を当てた可能性がありますね。

「穴・岩」?

「冬窓床」の元となった「フヱマ」あるいは「プユモイ」は、どうやら「ローソク岩」の近くの岬のあたりを指していたらしい……というところまで見えてきましたが、加賀家文書「クスリ地名解」には次のように記されていました。

フヱマ ブヨ・マ 穴・岩
  近年迄此所に穴有し岩有之候得共、此所は此頃砂多く飛砂下に相成、相見得不申候。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.261 より引用)
puy は確かに「穴」なのですが、「マ」が「岩」かと言うと……。

「穴・入江」?

更科さんの「アイヌ語地名解」(1982) には次のように記されていました。

 冬窓床(ぷゆま)
 跡永賀部落の岬の蠟燭岩が、昔は鍋鉉のように穴のある岩であったのが、一方が欠けてしまったという。この岬のかげをプイ・モイ(穴の入江)といったのに当字をしたもの。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.267 より引用)※ 原文ママ
ふむふむ。沖合の「ローソク岩」がかつては奥尻の「鍋釣岩」のような、巨大な穴のあいた岩だったのにちなむ……ということですね。puy-moy で「穴・入江」ではないかということですが、これは明治時代の「プユモイ」という記録に近そうでしょうか。

「穴・そこにある・もの」?

ただ「プユモイ」であれば puy-oma-i で「穴・そこにある・もの」と考えたほうが良さそうな気もします。「ローソク岩」そのものを「プユモイ」と呼んだのではないかな……と。

夢のある余談

そして少し夢のある、あるいは逆に夢を壊すかもしれない余談なのですが、永田地名解には次のように記されていました。

Puyoma atuika   プヨマ アト゚イカ   穴アル立岩 和俗蠟燭岩ト云フ、大岩海中ニ兀立シテ穴アリ往時二岩並立セシガ今ハ一岩アルノミ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.331 より引用)
この注釈は更科さんの文章とも一致する内容ですが、よく見ると加賀伝蔵も「近年迄此所に穴有し岩有之候得共」と記していて、永田地名解よりも 60 年近く古い加賀伝蔵の時代で既に伝聞だったことがわかります。

ところが、東蝦夷日誌には「フイマアトエカ(岩穴)此穴より則通る故號く」と記されていました。仮に奥尻島の「鍋釣岩」のような形の岩だったとすると、わざわざ舟がその穴の中を通る必要性があるのか疑問です。

もしかしたら「ローソク岩」と岬の間の「海峡」を「穴」に見立てて、「穴のあるところ」と呼んだんじゃないかな……と。これを「穴なんて無かった」と捉えると夢のない話ですが、「ローソク岩と岬の間に(想像上の)『巨大な穴』が存在する」と考えると、なかなか夢のある話に思えませんか……?

跡永賀(あとえか)

atuy-ka
海・の上
(記録あり、類型あり)

2023年10月14日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1079) 「初無敵」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

初無敵(そむてき)

so-un-tuk?
水中のかくれ岩・そこに入る(ある)・小山
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2023年10月13日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (119) 「霧止峠」

「厚内トンネル」を抜けると、道道 1038 号「直別共栄線」は右にカーブして内陸側に向かいます。正面に見えている山の頂上近くに「昆布刈石こぶかりいし展望台」があるとのこと。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

道道 1038 号は「昆布刈石小川」を避けるように右にカーブしています。こういった緩やかなカーブが続く道というのも、走っていて楽しいので良いですよね。

2023年10月12日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (118) 「厚内トンネル」

道道 1038 号「直別共栄線」で厚内から昆布刈石こぶかりいし方面に向かいます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

浜厚内(通称)を過ぎ、木がほとんど見当たらない山が前方に近づいてきました。右側には何故か「駐車場」がありますが……線形改良で場所が余った、とかですかね……?

2023年10月11日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (117) 「海沿いをゆく」

道道 1038 号「直別共栄線」で海沿いを走ります。いやー、この景色とカーブ、素晴らしいですよね!
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

右側に JR 根室本線が近づいてきました。国道 38 号は直別から上厚内まで山側をショートカットしていますが、鉄道はやはり急勾配を避けたかったか(あるいはトンネルを少なくしたかったか)、海側を迂回するルートです。

2023年10月10日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (116) 「道道 1038 号『直別共栄線』」

浦幌町にやってきました。あ、ここから先は「十勝総合振興局」エリアということになりますね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

釧路市(旧・音別町)と浦幌町の境界にかかる「直別橋」で直別川を渡ります。実にストレートなネーミングですが、川の名前からして「別川」ですからね。

2023年10月9日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (153) 小繋(能代市) (1878/7/28(日))

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十六信」(初版では「第三十一信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

船頭溺れる(続き)

米代川の左右に山が迫る難所があるため、切石(能代市二ツ井町)から小繋までは舟行を余儀なくされたイザベラ一行。悪天候にも関わらず小繋に戻る舟を無理やり捕まえて乗り込んだものの、近くにいた屋形船が制御不能に陥り、船を捨てて脱出を試みた船頭が次々と川に流される……という惨劇を目にしたイザベラでしたが……

 船の形は、河川によっていろいろと異なっている。この川では二つの型がある。私たちの船は小型で、平底船である。長さ二五フィート、幅は二フィート半。水面上がたいそう低く、両舷が少し内側に曲がっている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.287 より引用)
これはまた、いきなり何事も無かったかのように解説が始まりましたね(汗)。どうやら最悪の事態は脱したということなのか、あと少しで小繋(能代市二ツ井町)に到着するようです。

 夕闇が迫ると、霧雨も晴れて、絵のように美しい姿をした地方が見えてきた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.287 より引用)
日頃は「みすぼらしい村」とか「見ばえが悪くみじめなところ」などと舌鋒の鋭いイザベラ姐さんですが、今回は「絵のように美しい」と来ましたか。これもある種の「吊り橋効果」なんでしょうか……?

川を渡るためには、目指す地点の上流ヘ一マイルたっぷり行かねばならなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.288 より引用)
ちょっとこの意味を取りかねていたのですが、イザベラ一行の乗った舟は現在の「琴音橋」の近くで小繋の集落を見て、そこから 1 マイル(約 1.6 km)ほど遡って小繋に向かった……ということでしょうか?

そこから大至急で数分かかって向こう岸の船着き場に着いた。そこは暗い森の中の深くて骨の折れる泥水で、私たちはそこのひどい道を手さぐりで進み、やっと宿屋に来た。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.288 より引用)
「深くて骨の折れる泥水」という表現がちょっと気になったのですが、原文では a deep, tough quagmire とのこと。quagmire は「泥沼」や「湿地」を意味し、比喩的には「苦境」や「窮地」を意味するみたいです。暗い森の中を移動していたのであれば、実際に「泥沼」や「湿地」だった可能性が高そうです。

一見みすぼらしい宿、でも実際は

一歩間違えれば遭難の可能性もあった中、ほうほうの体で宿屋に辿り着いたイザベラでしたが……

暗いは、足首まで深いぬかるみであった。台所ダイドコロは天井がなく、屋根や垂木はすすで黒かった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.288 より引用)
まぁ、お世辞にも「感じのいい宿」では無さそうな感じでしょうか。ただ土間がぬかるんでいたのは折からの長雨の影響だと思われるので、ある程度は差し引いて考えるべきなのかも……?

の燃えている火を囲んで、十五人の男や女、子どもが、暗く灯っている行灯アンドンの灯火の傍で何することもなく横になっていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.288 より引用)
どことなく白黒映画のワンカットのようですね。「何することもなく横になっていた」とありますが、もしかしたら長雨による渡河禁止命令で足止めを食らっていた、ということかもしれません。例によってイザベラはハードモードな宿に泊まる羽目になったのか……と思わせたのですが……

ここはたしかに絵のように美しかった。奥の方の暗くぼんやりしたところにりっぱなフスマが出されると、大名ダイミヨーの座敷が現われたようで、私は充分に満足な気持ちになった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.288 より引用)
あれ、どうやら宿には上客向けの部屋があったようで、イザベラの印象も随分と良いものだったようです。

夜の騒ぎ

相変わらず雨が降り続く中、イザベラはこの日の唯一の「収穫」だった「百合の花」を宿の主人に贈ったところ……

それを宿の主人にあげたら、朝になると神棚カミダナの貴重な古薩摩サツマ焼の小さな花瓶の中で咲いていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.288 より引用)
ちゃんと花瓶も用意されていたりするあたり、この宿屋はなかなか裕福な家だったっぽいですね。

首相暗殺!?

身も心も疲れ切っていたであろうイザベラが寝入っていたところ、いきなり伊藤がやってきてイザベラを起こすという事態が発生しました。伊藤は旅行者からただならぬ噂を耳にしたため、それをイザベラに告げに来たようです。

首相が暗殺され、五十人の警官が殺されたという。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.288 より引用)
イザベラが北海道に向かっていたのは 1878(明治 11)年ですが、これは西南戦争の翌年なんですよね。まだまだ明治新政府に反感を持つ層が少なくなかった時代なので、首相が暗殺されても不思議はない情勢だったとも言えます。ただイザベラは伊藤の「速報」を一笑に付した……かどうかはわかりませんが……

《後に私が北海道に着いたときに知ったのだが、近衛部隊の一部が反乱したのを、誤って伝えたものであろう》。このように都から遠く離れたところでは、実にばかげた政治的伝聞が広まるのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.288 より引用)
さすがイザベラ姐さん、肝が据わっていますね。

この十年間の政治的大変動や、最近の首相の暗殺の後は、農民たちが現在の政治体制を信用していないとしてもふしぎではない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.288-289 より引用)
「この十年間の政治的大変動」は「明治維新」のことですが、「最近の首相の暗殺」が何を意味するのか……? 比較のため時岡敬子さんの訳を確認したところ、こちらは「内務大臣暗殺」となっていました。

原文は次のようになっていました。

Very wild political rumours are in the air in these outlandish regions, and it is not very wonderful that the peasantry lack confidence in the existing order of things after the changes of the last ten years, and the recent assassination of the Home Minister.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
あ……。the recent assassination of the Home Minister. とありますね。Prime Minister では無いので、これは高梨さんがやらかしたかな……?

ちなみにこの the recent assassination of the Home Minister は内務卿だった大久保利通が暗殺された「紀尾井坂の変」のことだそうです。「紀尾井坂の変」は 1878(明治 11)年 5 月 14 日の出来事で、イザベラが日本に上陸する一週間ほど前の出来事だったことになります。

謎の「近衛部隊の反乱」

ちょっと気になるのが、イザベラが「近衛部隊の一部が反乱した」と記した事件についてです。これは「竹橋事件」のことである可能性があるのですが、「竹橋事件」は 1878(明治 11)年 8 月 23 日に発生しているので、イザベラが秋田県にいた 1878(明治 11)年 7 月 29 日の時点では未発生なのですね。となると伊藤が掴まされた「噂」とは一体何だったのか……という疑問が出てきます。

イザベラは伊藤が持ち込んだ「噂」を信用しなかったものの、やはり不安は隠せなかったようです。そんな中、数時間後に、今度はこめかみから出血した伊藤がイザベラの元に現れます。またしても政変の噂が駆け巡る中、伊藤の身に果たして一体何が起こったのか……!?

日本人の夜分の悪い習慣だが、煙管キセルに火をつけようとして火鉢の端に頭を打ったという。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.289 より引用)
……。

私は非常の場合に備えて、いつも日本の着物をつけて眠るから、すぐさま彼の頭に包帯をしてやり、また眠ったが、翌朝早く豪雨の音で眼がさめた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.289 より引用)
イザベラは伊藤の「ご主人さま」であり、伊藤はイザベラのアシスタントの筈ですが、夜中にご主人さまに包帯を巻かせるとか、何やってんですか伊藤……。

子どもたちの教育

さて、ここからは「普及版」でカットされた部分です。イザベラは、学校の無い地域では子どもが教育を受けられずにいる……という認識だったものの、その認識が間違いだったことに気づいたようです。

小繋コツナギでは、私が滞在した他の幾つかの小村と同様に、村の最も主だった住民たちが、自分たちの子どもたちの教育をしてくれる一人の若い青年を確保して、彼に対して、衣服を提供したり、また食事や住居を提供したりする。比較的貧しい者は月謝を払い、最も貧しいものは無償で彼らの子どもに教育を与えることが出来るように取り計らってやる。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.111-112 より引用)
どうやら「寺小屋」と「小学校」の間にも、コミュニティベースで提供された「私塾」が存在していた、ということのようです。

これはどこででも見られる習慣のようである。小繋では私を泊めている家の主人は先生に食事と住居を提供し、30人の勉強好きの子どもたちが台所ダイドコロの一部で教育を受けていた。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.112 より引用)
今の日本では「子ども食堂」が増加の一途を辿っていて、これは政府の無為無策を民間レベルでフォローした結果であるにもかかわらず、当の政府には全く問題意識が無いという悪い冗談のような話になっています。明治初頭の日本でも、初等教育が行き届いていない状態を、民間の有志がフォローしていた、ということになりそうですね。

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2023年10月8日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1078) 「入境学」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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入境学(にこまない)

not-ke-oma-nay?
崎・の所・そこにある・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
賤夫向せきねっぷの 1.3 km ほど西に位置する地名です。「釧路町の難読地名コレクション」その 6 ……ということになりそうですね(#1「重蘭窮」、#2「知方学」、#3「老者舞」、#4「分遣瀬」、#5「賤夫向」)。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「ニヲケヲマナイ」と描かれています。ありゃー、いきなり結構な違いがありますね……。「改正北海道全図」(1887) には記入がありませんが、「北海道地形図」(1896) には「ニオッケオマイ」と描かれています。

陸軍図には「マナイ」とあるので、「入境学にこまない」という地名表記は明治後期から大正にかけて確立した……ということでしょうか?

入境内?

釧路町史(「昆布森沿岸の地名考」がネタ元のようです)には次のように記されています。

 ニコマナイ(入境内) 川尻に流木の集まる川
 この地名には二つの説がある。蝦夷地名解では、ニオッケ・オマ・ナイ(桶・小川に桶あるを見て)名づくとあり、アイヌ語地名解では(昔、桶が流れついたところから名付けた)とあるが、アイヌ語辞典から考えると、「ニ(流木・より木)コ(……に向って)オ(川尻)マ(泳ぐ)ナイ(川)」と解釈すると、川尻に流木の集まる川となる。
(釧路町史編集委員会「釧路町史」釧路町役場 p.126-127 より引用)
色々と不思議な文章なので、真っ先に引用してみました。まずそもそもの地名から「入境学」ではなく「入境内」となっていますが、そういう流儀もあったのか、それとも単なる誤字なのか……?

そして「二つの説がある」としながら前者は「ニオッケ・オマ・ナイ」(≒ニオッケオマイ)を解釈したもので、後者は「ニ・コ・オ・マ・ナイ」(≒入境学)を解釈したものです。これは二通りの言い回しがずっと共存していたのであれば問題ないのですが、もし「ニオッケオマイ」が時を経て「ニコマナイ」に転訛したのであれば、後者の地名解は全く意味をなさないことになります。

更に言うと、ni-ko-o-ma-nay という解釈は珍妙な感じがするものです。おそらく文法的にもおかしいのでは、と思わせます。

まさかの「荷桶のある川」説

「初航蝦夷日誌」(1850) には「ニヨケヲマナイ」と記されていました。また「午手控」(1858) にも次のように記されていました。

ニヲケヲマナイ
 大古始て樽と云もの三ツ此処え寄り上りし時、始て見て何ともしれず悦びて此名をつけしと云
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.341 より引用)
……。これ、もしかして「荷桶」が流れ着いたから「荷桶のある川」だ、という説だったりしませんか……? つまり永田方正更科源蔵の各氏のみならず、松浦武四郎も「荷桶」説ということに……?

「流木が絡みつく川」?

鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」(1995) には、永田地名解 (1891) と「昆布森地名考」の解を紹介した上で、次のように記されていました。

 ニ・オッケ・オマ・ナィ「ni-otke-oma-nay 木(流木)・からみつく・(そこ)にある・川」と解したい。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.282 より引用)
あー、だいたいそんなところでしょうね。ただ otke は一般的には「突き刺す」と解釈されるので、ni-otke というのはちょっと妙な感じがします。

「木が放屁する川」??

otke ではなく opke という可能性は無いかな……と考えてみました。opke は「屁をする」という意味なのですが(汗)、「植物編」(1976) によると「キタコブシ」の木を opke-ni で「放屁する・木」と呼ぶケースがあるとのこと。「萱野茂のアイヌ語辞典」(2010) には次のように記されていました。

オㇷ゚ケニ【opke-ni】
 コブシ,キタコブシ.▷オㇷ゚ケ=屁 二=木→枝を折ると臭いので屁をする木と名づけた
萱野茂「萱野茂のアイヌ語辞典」三省堂 p.179 より引用)
ということで、{opke-ni}-oma-nay であれば「キタコブシ・そこにある・川」となる可能性が出てくるのですが、「オㇷ゚ケニオマナイ」ではなく「ニヲケヲマナイ」なんですよね……。だとすると ni-opke-oma-nay で「木・屁をする・そこにある・川」か……と思ったのですが、良く考えると oma の前に動詞が来るのはおかしいですよね。

となるとやはり opke-ni ではなく ni-opke と呼ぶ流儀があった……と考えるしか無いのですが……(苦しい)。

「岬のところにある川」?

あるいは……という仮説ですが、not-ke-oma-nay で「崎・の所・そこにある・川」という考え方もできるんですよね。入境学の海岸には丸くカーブした崖状の地形があるので、これを「岬」と呼んだとしても違和感はありません。

「老者舞」が「河口の岩の傍の川」だったとしたら、「入境学」が「岬のところの川」だったとしても不思議はない……というか、むしろ合理的なんですよね。ただ「ノッケオマナイ」が「ニコマナイ」になるには「ノ」が「ニ」に化ける必要があり、これもちょっと厳しいのですが……。

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2023年10月7日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1077) 「分遣瀬・賤夫向」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
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分遣瀬(わかちゃらせ)

wakka-charse
水(飲水)・細い滝をなしてすべり落ちている
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
老者舞おしゃまっぷの 1.5 km ほど西側の地名で、本来は海沿いの地名だと思われます。「釧路町の難読地名コレクション」その 4、ということになりそうでしょうか(#1「重蘭窮」、#2「知方学」、#3「老者舞」)。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) にはそれらしい地名は見当たりません。「改正北海道全図」(1887) にも記入がありませんが、「北海道地形図」(1896) には「ワㇰカチャラセ」と描かれています。陸軍図にもカタカナで「ワカチャラセ」と描かれています。

加賀家文書の「クスリ地名解」(1832) には次のように記されていました。

ベチャラセ ヘツ・チャラセ 川・早ひ
  小さひ滝川有るを斯名附由。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.262 より引用)
「初航蝦夷日誌」(1850) には「マチヤラセ」とあり、「東蝦夷日誌」(1863-1867) には「ヘチヤラセエト(小岬)」とあります。永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。

Pecharase   ペチヤラセ   瀧
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.332 より引用)
相変わらずざっくりした解が記されていますが、pe-charse で「水・すべり落ちている」と言ったところでしょうか。charse は「細い滝をなして滑り落ちている」という意味なので、わざわざ pe(水)を冠したのは何故だろう……という疑問も出てくるのですが……。

釧路町史」には次のように記されていました。

蝦夷地名解では、ペチャラセ(滝)と解いているが、明治三〇年の五万分の一図には、ワッカチャラセとしている。
(釧路町史編集委員会「釧路町史」釧路町役場 p.127 より引用)
ということで、やはり「ペチャラセ」=「ワッカチャラセ」と見て良さそうです。

pe と wakka

どこかのタイミング(おそらく明治中期)で pewakka が化けたことになりそうですが、そもそも pewakka は完全互換なのか、それとも……? という疑問が出てきます。

アイヌ語地名解では、ペもワッカも「水」である。
(釧路町史編集委員会「釧路町史」釧路町役場 p.127 より引用)
pewakka も「水」を意味するというのはその通りで、pe は単なる水で wakka は「飲水」だ、という説を聞いたことがあります。ジョン・バチェラーの「蝦和英三對辭書」(1889) には pe"Water, principally undrinkable water." と記されていました。

アイヌ語沙流方言辞典」(1996) には pe は「水分」や「水気」、「しずく」などを意味するとし、wakka が「物質としての水」を指す……とあります。ただ wakka は「飲用でないものも含む」とあるため、必ずしも wakka=「飲水」では限らない……ということになりそうですね。

また「アイヌ語千歳方言辞典」(1995) によると「ワッカは水一般および飲料水を指すが、ペ pe は飲料水として認められないような液体を指す場合が多い」とあります。これはバチェラーの辞書とほぼ同じ解釈のように思えます。

なんとなく pewakka の違いが薄っすらと見えてきた感がありますが、若干もやもやした感じも残るような……。知里さんの「地名アイヌ語小辞典」(1956) には次のように記されていました。

──pe は多く合成語の中で用いられ,単独で水と言うときは wakka(H). waxka(K)がふつうに用いられる。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.86 より引用)
ふむふむ。まだ続きがありまして……

wakka-ke-p(「水を・かく・もの」「舟のアカをかき出す道具」),wakka-ta-ru(水を・くむ・路)なども古くは pe-ke-p, pe-ta-ru と言った。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.86 より引用)
あー! そう、pe-ta-ru で「水・汲む・路」という地名を見たことがあったので、「pe は飲料水として認められないような液体を指す場合が多い」とは言えないよなぁ……と思っていたのですね。なるほど、飲水を pe と表現するのは比較的古い表現だったのかもしれませんね。

閑話休題

「釧路町史」に戻りますが、「ワカチャラセ(分ママ瀬)」の項の最後に次のように記されていました。

チャラセ(小川が山の斜面を急流をなして、飛沫をなしてすべり落ちる)で、飲水が散らばり落ちると解する。昔は人家が七〜八戸あって滝水を飲料水としていたが、今は人家が滝の上にある。
(釧路町史編集委員会「釧路町史」釧路町役場 p.127 より引用)
「分遣瀬」は wakka-charse で「水・細い滝をなしてすべり落ちている」だと考えられるのですが、わざわざ wakka- を冠したのは「飲水」を意味した……と見て良さそうですね。

賤夫向(せきねっぷ)

sep-nanke-p
広い・削れた・もの(ところ)
(記録あり、類型あり)

2023年10月6日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (115) 「尺別駅があった頃」

音別駅前にやってきました(「音別駅前」というバス停が立っていますね)。この先の交叉点を左折すると音別駅なのですが、青看板には完全に無視されてしまっていますね……。
ちょっとメタ的な内容で恐縮ですが、この写真の左上(全体の 1/4 程度)に、おそらくはフロントガラスに映り込んだ何かがそのまま記録されちゃってるんですよね……。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

交叉点の角には「大地みらい信用金庫」の看板が見えます。この辺ではちょくちょく見かけるなーと思うくらいで詳細を知らなかったのですが、「根室信用金庫」と「厚岸信用金庫」が対等合併してできた信用金庫なんですね。

2023年10月5日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (114) 「経口補水液 OS-1」

白糠町を抜けて釧路市に入ります。かつての音別町ですが、2005 年 10 月に釧路市と合併して、釧路市にとっては巨大な飛び地となりました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

市町界には橋がかかっていますが、この橋は海跡湖である「馬主来ぱしくる沼」を渡るものです。「馬主来」もなかなか傑作な当て字ですよね。

2023年10月4日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (113) 「落橋のため」

国道 392 号が分岐する交叉点にやってきました。かつての国鉄白糠線沿いの路線で、本別足寄方面への最短ルートでしか無かったのですが、道東道の白糠 IC が開通したことで、今や帯広・千歳・札幌への最短ルートになってしまいました。
緑地の「道東道」の文字は小さいですが……きっと後付けなのでしょうがない、ということなんでしょうね。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

引き続き国道 38 号(国道 336 号との重複区間)を西に向かいます。コープさっぽろの看板が見えますが、確か少し前に閉店したと聞いたような……。

2023年10月3日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (112) 「謎の緑看板」

庶路の市街地に入りました。左側にはすずらん型?の街灯が並びます。ここからは市街地なので、制限速度にも要注意です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

右側の空き地の向こうには JR 根室本線の庶路駅があるのですが、駅と国道の間の謎の空き地が気になりますね。

2023年10月2日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (111) 「ボートピア釧路(跡)」

白糠町に入りました。ピクセル等倍にトリミングした写真に対してギットギトに(コッテコテでは済まないレベル)補正をかけてみたのですが……
さすがにこのレベルで補正するには JPEG ではなく RAW のほうが良いのかも……と思わせますね。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ちなみに元の写真がこちらです。ところでこのカントリーサインですが、……何が描かれているんでしょう?

2023年10月1日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1076) 「老者舞・ヲタモエ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

老者舞(おしゃまっぷ)

o-e-sam-oma-p??
河口・頭(岩)・傍・そこにある・もの(川)
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
知方学の 2.4 km ほど西方に位置する地名で、「釧路町の難読地名コレクション」その 3、ということになりそうですね(#1「重蘭窮」、#2「知方学」)。

北海道地形図」(1896) には「オエサマㇷ゚」と描かれています。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「ヲコシヤシヤマフ」と描かれているものが該当するでしょうか……? 地理院地図には「おしゃまっぷ」とルビが振られていますが、Mapion では「おしゃまっぽ」となっています。「舞」は「まい」あるいは「まう」なので「っぽ」というのは奇妙な感じもしますが……。

不分明に候

加賀家文書「クスリ地名解」(1832) には次のように記されていました。

ヲヱシャムマム 不分明に候。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.262 より引用)
え……。そ、そんなぁ……。

「初航蝦夷日誌」(1850) にも「ヲヱシヤムマヱ」と記録されていますが、残念ながら地名解は記されていません。

ふとももが横に……?

「午手控」(1858) には次のように記されていました。

ヲヱサマフ
 本名ヲミサマフ。ヲミは尻を云、サマフは横に臥たると云事。昔し鯨がよりし時神様多くより、よこに伏したと云り
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.341 より引用)
「ヲミは尻を云」というのは少々謎ですが、改めて「地名アイヌ語小辞典」(1956) を眺めてみると om, -i で「ふともも」を意味するとのこと。sama は「横になる」なので、「ふとももが横になったところ」と解釈できたり……するのでしょうか?(誰に聞いている

サケ・マスの産卵場?

山田秀三さんの「北海道の地名」(1994) には次のように記されていました。

老者舞 おしやまっぼ
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.260 より引用)
おっと、いきなり「っぽ」で来ました。やはりと言うべきか、昔は「おしゃまっぽ」という読みが一般的だった可能性が出てきましたね。

東蝦夷日誌はヲエチヤンマフ, 明治 30 年 5 万分図はオエサマㇷ゚と書いたが,解の記録は見ない。形だけからだとオ・イチャン・オマ・ㇷ゚「川尻に・鮭鱒産卵場・ある・もの(川)」とも聞こえるが,訛った形らしいので,うっかり解がつけられない。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.260 より引用)
ふむふむ。「東蝦夷日誌」(1863-1867) の記録をもとに o-ichan-oma-p と考えたようですが……。

河口が横になっている?

更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」(1982) には次のように記されていました。

 老者舞(おしゃまっぶ)
 釧路町海岸。思わず噴き出したくなる当て字である。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.268 より引用)
吹き出したくなるのは……とても良くわかります。もちろん続きがありまして……

近くの小川の名で、アイヌ語オ・サマッキ・プで川尻の横になっている川の意。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.268 より引用)
ほー。これはまた随分と穏当な解が出てきましたね。河口が沿岸流によって堆積した砂に捻じ曲げられるのは良くある話で、そういった川を o-samatki-p で「河口・横になっている・もの」と呼んだ……という可能性も十分に考えられます。

倉の形をした岩山!?

ただ、釧路町史には更に異なる解釈が出ていました。

 オシャマップ(老者舞) 川尻に倉の形をした岩山があるところ
(釧路町史編集委員会「釧路町史」釧路町役場 p.128 より引用)
今度は「えー」と口走りたくなる解ですが……

アイヌ語で解釈すると「オ(川尻)サマッキ(横たわっている。)プ(倉<のような形>)となり、シュマ(岩)マップ(倉のような山)」と解すことになり、川尻に倉のような形をした岩山のある所と表記する。
(釧路町史編集委員会「釧路町史」釧路町役場 p.128 より引用)
えー……(結局口走ったな)。それはそうと、この文章、よく読んでみると意味が良くわからないような……。特に「マップ(倉のような山)」については意味不明な感じが……。

河口に岩山がある川?

鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」(1995) では、山田秀三さんの「オ・イチャン・オマ・ㇷ゚」という解を引用した上で……

川は砂利層で鮭鱒が産卵に入りそうな川ではある。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.283 より引用)
……と肯定的なフォローをしつつ、次のように続けていました。

 昆布森地名考は「老者舞(オシャマップ)川尻の倉のような岩のある所、オ(川尻)シュマ(岩)マㇷ゚(をもつ所)となるが語尾をマップにすれば(倉のような山)を意味するもので表記の解釈をとった」と書いた。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.283 より引用)
この「昆布森地名考」は、昆布森漁業組合編「昆布森海岸の地名考」(1973) とのこと。「釧路町史」の引用文献には「郷土史地名考(昆布森沿岸の地名考) 佐藤清八」とありますが、これは同一のものか、あるいは内容を引き継いだものかもしれません。

更に続きがありまして……

確かに川尻には大黒岩と呼ばれている大きな岩がある。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.283 より引用)
この「大黒岩」は地理院地図にも描かれているのですが、河口のすぐ脇に立派な岩が鎮座しています。鎌田さんの著書には写真も掲載されているのですが、これは「地名にならないほうがおかしい」と思えるレベルでインパクトのあるものです。

松浦東蝦夷日誌は「ヲエチヤンマフとして(岩)」をさしている。オ・エ・サン・オマ・プ「川尻に・頭が・浜に出ている・もの(岩)」の意でなかろうか。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.283 より引用)
あー、これは肯定せざるを得ない解ですね。o-{e-san}-oma-p で「河口・{岬}・そこにある・もの」と読めそうです。「地名アイヌ語小辞典」は e-san が「頭が・浜へ出ている」であるとしているので、鎌田さんは「小辞典」の解釈を流用したようにも見えます。

河口が岩の傍にある川??

いや、もしかすると o-e-sam-oma-p で「河口・頭(岩)・傍・そこにある・もの(川)」なのかもしれません。文法的にこういった解釈が可能かどうか不安もありますが……。

改めて「午手控」の「本名ヲミサマフ。ヲミは尻を云、サマフは横に臥たると云事」という解を検討してみると、「ヲミ」は o-mu で「河口・塞がっている」だった可能性も考えられるでしょうか。

ただそれだと sam が繋がらないような気がするので、o-mu-sa-oma-p で「河口・塞がっている・浜・そこにある・もの」、即ち現在の「大黒岩」そのものをそう呼んだ……と考えてみましたが、うーん、ちょっと無理があるかも。

ヲタモエ

ota-moy
砂浜・波静かな海
(記録あり、類型あり)