(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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節古籠(ふしこもり)
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
昆布森と幌内の間の海岸部の地名です。地理院地図には「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) にはそれらしい地名が描かれていませんが、代わりに「チヨロヘツ」(=チョロベツ川)の東に「ホンコンフイ」と「コンフイ」が描かれています。現在の昆布森はチョロベツ川の東西に広がっていますが、古い記録を見るとどれも「チョロヘツ」よりも「コンフムヰ」のほうが東側にあるように記されています。
陸軍図には「
更科さんの「アイヌ語地名解」(1982) には次のように記されていました。
伏古籠(ふしこもり)
昆布森の岬のかげにある部落。フシコ・コンプ・モイのなまったもので、昔の昆布湾の意。現在は伏古(ふしこ)とだけ表記している。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.267 より引用)
こちらも「釧路町史には次のように記されていました。
フシコ(伏古) 古い村
この地名はフシコ(古くある・もとの)でフシココタン(元の村)コンブムイを指しているものと思われる。古文書には、マタイトキ・シュクトクナイ・アチョロベツ・チョロベツ・コンブムイ・ポロナイとつづいてフシコはない。
(釧路町史編集委員会「釧路町史」釧路町役場 p.123 より引用)
そうなんですよね。陸軍図に「伏古籠」とあるのが最も古いか……とも思われたのですが、北海測量舎図に「フシュココㇺプモイ」と描かれていました。「モリ」の出処が若干謎だったのですが、本来は husko-{kompu-moy} で「古い・{昆布森}」だったのが、中間の「昆布」を略して「伏古籠」になった……と考えて良さそうです。釧路町史には続きがあり、次のように記されていました。
昭和三〇年頃から海岸浸蝕によって浜は決壊し、住み家も不安となって、昭和五三年一〇月に昆布森市街に集落移転したので、ほんとうの意味の(元の村)となろう。
(釧路町史編集委員会「釧路町史」釧路町役場 p.123 より引用)
これによると、地形的な問題で移転を余儀なくされたように見えますね。ただここは明治の時点で既に「フシュココㇺプモイ」だったので、移転が始まったのは明治に入ってすぐの頃だったのかもしれません。昆布森(こんぶもり)
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
チョロベツ川の河口のあたりの地名で、明治 5 年に「コンブモリ村」が成立。明治 8 年に「昆布森村」となり、昭和 30 年に釧路町に合併されるまで存続していました。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「チヨロヘツ」の東に「ホンコンフイ」と「コンフイ」が描かれています。ただ北海測量舎図では「チヨロペツ」(川)の西に「コプモイ」とあり、河口部一帯の地名として定着しつつあったことが確認できます。
加賀家文書「クスリ地名解」(1832) には次のように記されていて、
コンフムヰ コンフ・ムヰ 昆布・わ ど
此所に少々の輪 ど合有レ之、其所え昆布沢山に寄上るを名附由。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.260 より引用)
頭註には次のように記されていました。モイ・ムイ
湾・入江
「わど」は方言
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.260 より引用)
はい、どう見ても kompu-moy で「昆布・湾」ですよねありがとうございました……となりそうなところですが、「初航蝦夷日誌」(1850) には妙なことが記されていました。コンブモヱ。訳而水気宜処と云儀か……??? ただ「午手控」(1858) には次のように記されていました。
コンフモイ
昔し此処こんぶ無りしが、時化の時此モイえよりしより号るとかや
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.340 より引用)
「昔は昆布は無かったが、時化の時に昆布が寄ってきたので」とありますね。時化うんぬんの話が本当にあったかどうかはさておき、やはり「昆布・湾」と考えて良さそうに思えます。www.bojan.net
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1 件のコメント:
伏古(伏古籠)についての補足です。
1980年に町が発行した町の広報冊子に、移転前の伏古地区の鳥瞰カラー写真が載っています。
合わせて載っているイメージ図からすると、昆布森小学校の北側周辺に13全戸が移転したようです。
写真では現在の砂浜よりも数十mは奥行きがあり、漁船もそれなりの数が砂浜に引き上げられています。
漁の作業小屋と住居の区別はパッと見では分かりませんが、恐らくは家屋が隣接して建ち並んでいる所が住居だったのだと思います。
ちなみに航空写真からも分かる通り、居住者は居ませんが干場としては現役で、時期になると結構車が出入りしているので完全な廃集落というわけでは無いです。
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