2023年10月22日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1082) 「来止臥・幌内」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

来止臥(きとうし)

kito-us-i
行者ニンニクの球根・多くある・ところ
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
十町瀬とまちせの 3 km ほど西のあたりの地名です。かつて存在した跡永賀村の地名ではなく、当初から昆布森村の地名でした。めちゃくちゃ難読では無いですが、「釧路町の難読地名コレクション」その 12 ……と言っていいですよね?(#1「重蘭窮」、#2「知方学」、#3「老者舞」、#4「分遣瀬」、#5「賤夫向」、#6「入境学」、#7「初無敵」、#8「冬窓床」、#9「跡永賀」、#10「浦雲泊」、#11「十町瀬」)。

北海道地形図」(1896) には「キト゚ウシ」と描かれています。kito は「キト」なので、何故「キト゚」なのか……?(kitu?) ただ「改正北海道全図」(1887) には普通に「キトウシ」と描かれていました。

不思議なことに「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) にも「チトフシ」と描かれています。またしても不穏な感じがしてきたので、表にまとめましょうか。

クスリ地名解 (1832)-
初航蝦夷日誌 (1850)-
竹四郎廻浦日記 (1856)(テ)(ウ)
辰手控 (1856)-
午手控 (1858)チトブシ細き竹が有
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)チトフシ
東蝦夷日誌 (1863-1867)キトウシ(小川)茖葱ブクシヤ多き
改正北海道全図 (1887)キトウシ
永田地名解 (1891)キト゚ ウシ韮多き處
北海道地形図 (1896)キト゚ウシ
北海測量舎図キト゚ウシ
三角点名(1920) 起止臥きとうし
陸軍図 (1925 頃)-
地理院地図来止臥きとうし

とりあえず「キト゚」については永田方正さんのやらかし案件と見て良さそうですね(「北海道地形図」と「北海測量舎図」は永田地名解の謎表記に引きずられた……ということでしょう)。問題は「東西蝦夷──」の「チトフシ」で、ネタ元と思われる「午手控」には次のように記されています。

チトブシ
 細き竹が有、其名也
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.340 より引用)
確かに top で「竹」を意味するのですが、「チ」を「小さい」とは解釈できないような気が……。松浦武四郎も「東蝦夷日誌」を著すにあたって「あれはキトウシだよなぁ」と気がついた、というオチかもしれません。

釧路町史(「昆布森沿岸の地名考」がネタ元だと思われます)にも次のように記されていました。

 キトウシ(来止臥) きと(祈祷)ビルの群生しているところ
 三方を山や崖に囲まれ砂浜になっている所で、暖い南風を受け、昆布森沿岸でも早く春が訪れる。キト(ギョージヤニンニクの球根)ウシ(そこに群生する・群居する)から名づけられる。
(釧路町史編集委員会「釧路町史」釧路町役場 p.124 より引用)
やはり kito-us-i で「行者ニンニクの球根・多くある・ところ」と見て良さそうですね。松浦武四郎は解釈面で、そして永田方正は語の記録面でそれぞれお手つきがあった、と言ったところでしょうか。

幌内(ほろない)

poru-un-nay?
岩窟・ある・川
poro-onne-nay?
親である・大きな・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
来止臥の西隣の海岸部の地名で、同名の川も流れています。重蘭窮ちぷらんけうし、あるいは知方学ちっぽまないから全力で飛ばしてきた感のある「釧路町の難読地名コレクション」ですが、ここに来てめちゃくちゃ普通な地名が出てきましたね……。

「大きな川」説

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「ホロナイ」と描かれていて、永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Poro nai   ポロ ナイ   大川 小川ニシテ魚類ラ亦無シ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.331 より引用)
まるで「中華料理専門 韓国」のような佇まいの感じられる文章ですが、まぁ普通に poro-nay で「大きな・川」だと見て良さそうな感じですね。

実は少数派だった「ホロナイ」

ところが、他の記録を眺めてみると、面白いくらいにブレがあるのです。

クスリ地名解 (1832)ホロヲンナヱホロ・ヲン子・ナヱ
初航蝦夷日誌 (1850)ホロヲンナイ
竹四郎廻浦日記 (1856)ホールンナイ山道此処に下る。
辰手控 (1856)-
午手控 (1858)ホルウシナイ大なる穴が有りし処
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)ホロナイ
東蝦夷日誌 (1863-1867) ポロヲンナイ(大穴岩有)此邊種々の奇岩怪石
改正北海道全図 (1887)ホルンナイ
永田地名解 (1891)ポロ ナイ大川
小川にして魚類もまったく無し
北海道地形図 (1896)ポロシナイ
北海測量舎図ホロシ?ナイ
陸軍図 (1925 頃)幌内
三角点名(1985) 幌内ほろない
地理院地図幌内

これを見ると、20 世紀に入ってからは「幌内」で統一されているのですが、19 世紀の記録では「ホロナイ」はむしろ少数派で、「ホロヲンナイ」あるいは「ホールンナイ」と呼ばれていたように見えます。

「親である大きな川」説

加賀家文書「クスリ地名解」には次のように記されていました。

ホロヲンナヱ ホロ・ヲン子・ナヱ 大(層)に・大き・沢
  尤も、此所に沢有候得共、格別大きと申事にも無御座候得共、此辺の内の大き所を名附。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.260 より引用)
poro-nayonne-nay も、どちらも「大きな・川」を意味するので、果たして poro-onne-nay はあり得るのか……という疑問も湧いてくるのですが、「地名アイヌ語小辞典」(1956) には次のように記されていました。

③川では支流に対して本流をさすことがある。「ポロ・オンネペッ」(親の・オンネペッ)/「ポン・オンネペッ」(子の・オンネペッ)〔地名解,347〕。
知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.101 より引用)
これは永田地名解がネタ元のようですが、少なくとも知里さんは poro-onne-nay で「親である・大きな・川」という考え方は「アリ」と考えていた……と言えそうですね。

「穴のある川」説

一方で、「午手控」には次のように記されていました。

コンフモイ
 昔し此処こんぶ無りしが、時化の時此モイえよりしより号るとかや
チトブシ
 細き竹が有、其名也
ホルウシナイ
 大なる穴が有りし処也
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.340 より引用)
面白いことに、「午手控」は「チトブシ」(=来止臥か?)の東に「ホルウシナイ」を記録しています。そしてこの「ホルウシナイ」ですが、poru-us-nay で「岩窟・ある・川」だと考えられます。「竹四郎廻浦日記」が記録した「ホールンナイ」や「東蝦夷日誌」の「ポロヲンナイ」も、同様に poru-un-nay で「岩窟・ある・川」と読めそうです。

幌内のあたりは、地形的に海食崖があっても不思議は無さそうな感じなので、「岩窟のある川」あるいは「岩窟のあるところの川」があったのではないか……と考えたくなります。逆に「東西蝦夷山川地理取調図」だけが「ホロナイ」としていて、どうしてそうなった……と問い詰めたくなりますね。

やっぱり「大きな川」説

釧路町史」には次のように記されていました。

ポロ(大きい・多い)ナイ(川・谷川・沢)となるがこの地名は道内各地にある。あきれるほど小さい小さい川である場合もある。これは地形によって解釈が異なっており、周辺の小さなナイと比較して、その中では大きいという意味をもさしている。従って、ここでは、地形から判断してポロ(奥深い)ナイ(谷川)と解いた。
(釧路町史編集委員会「釧路町史」釧路町役場 p.124 より引用)
この解は「竹四郎廻浦日記」に「ホールンナイ」という記録があることを先述した上でのものなので、poru-un-nay 説を否定して poro-nay なのだ、と断定していることになります。

「岩窟のある川」は幻だったのか

ただ、「北海道地形図」が「ポロシナイ」とし、また「北海測量舎図」も「ホロシナイ」あるいは「ホロンナイ」としている点は注目に値します。「来止臥」の項で作成した表も見ていただきたいのですが、「北海道地形図」や「北海測量舎図」は永田地名解の影響が色濃く見られるものです。

ところが今回に限っては永田地名解の「ポロナイ」になびいていないのですね。これは地元の人が永田地名解の「ポロナイ」という解を「違う、そうじゃない」としたからでは無いだろうか……と思うのです。

合理的か否かで地名解を語るのもどこか間違っているような気もするのですが、poru-un-nay で「岩窟・ある・川」という考え方も捨てがたいと思っています。

ただ「岩窟のある川」という解釈が、「クスリ地名解」が示した poro-onne-nay で「親である・大きな・川」から転訛に転訛を重ねた結果である可能性も否定できません。「昆布森沿岸の地名考」の著者が「岩窟のある川」説を捨てているように見えるのも重い事実です。

誤謬に基づく *誤った* 解釈が長きに亘って広く人口に膾炙していた場合に、それを「誤り」だとして切り捨てるのが果たして適切なのかどうか、難しいところです。たとえ誤謬だったとしても、「そのような誤解が広く信じられていた時代があった」という史実を否定してはいけないような気もするのですね。

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