2023年10月21日土曜日

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北海道のアイヌ語地名 (1081) 「浦雲泊・十町瀬」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

浦雲泊(ぽんとまり)

pon-tomari
小さな・泊地
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
跡永賀あとえかの 1.5 km ほど西のあたりの地名です。「釧路町の難読地名コレクション」その 10 ということになるでしょうか(#1「重蘭窮」、#2「知方学」、#3「老者舞」、#4「分遣瀬」、#5「賤夫向」、#6「入境学」、#7「初無敵」、#8「冬窓床」、#9「跡永賀」)。

「浦雲泊」はどこにあった?

この「浦雲泊」ですが、ちょっと不思議なのが「浦雲泊川」のあたりには家屋が見当たらず、山をひとつ西に越えた先の高台に集落があるという点です。ところが陸軍図では「浦雲泊川」の河口付近に「浦雲泊」と描かれていました。大正から昭和にかけて集落が移転した……ということなんでしょうか。

「東蝦夷日誌」(1863-1867) には次のように記されていました。

濱に出てヲヤウシワタラ(大岩)名義、山の如く海中に尖出する故になづく。此上を越てボントマリ〔浦雲泊〕(小沼)、ここえ下る沙原にして、甚奇麗也。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.318 より引用)
これは「トマチエナイ(小澤)」(=十町瀬)の続きで、「ヲヤウシワタラ」は現在の「タコ岩」のことだと考えられます。不思議なことに「ヲヤウシワタラ」から「ボントマリ」までの里程が記載されていません。

もう少し「東蝦夷日誌」を見てみましょうか。

(十三丁十五間)ウシユンクユシ(岩岬)本名ヘシウトウリシにして、兩方山有、其間より川が下る號くと。(七丁廿問)アトエカ〔跡永賀〕(小川、小休所、人家三軒)、此岬に大崩岩有。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.318 より引用)
跡永賀から「七丁廿問」(≒ 800 m)西には、現在「浦雲泊川」と呼ばれる川が流れています。「岩岬」というのが若干謎ですが、河口の東側の地形を「岬」と呼んだ……ということでしょうか?

そして「東蝦夷日誌」によると「ウシユンクユシ(岩岬)」の「十三丁十五間」(≒ 1,445 m)西に「ボントマリ」があった……と読めます。仮にこの里程が正しいとすれば、「ヲヤウシワタラ」(=タコ岩)のすぐ東側に「ボントマリ」があった……ということになっちゃうんですよね。

ただ「初航蝦夷日誌」(1850) には次のように記されていました。

     幷而
ヲヤウシワラより凡五、六丁也
     ホントマリ
小沼有。沼の上を通る。小高き山有。玫瑰、柏木等有り。
(松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.378 より引用)
「ヲヤウシワラ」は「ヲヤウシワラ」のことで、そこから「凡五、六丁」の場所、つまり現在の「浦雲泊」集落の西のほうに「沼」があった……ということになりますね。ただ、よく見てみると……

     ホントマリ
小沼有。沼の上を通る。小高き山有。玫瑰、柏木等有り。しばし行小流有る也。幷而
     ウシユンクシ
又此処より左右二通り有。左り山道にして馬を通ず。右は海岸。歩行道有る也。
(松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.378 より引用)
とあるので、「ホントマリ」の「小高き山」は集落と川の間の山のことかもしれません。とりあえず「浦雲泊」については「東蝦夷日誌」の里程は参考にならないということと、「浦雲泊」の位置は松浦武四郎が訪れた頃と大きく変わっていない……と言えそうです。散々文字数を使ってこの結論、申し訳ないです……。

閑話休題それはさておき

釧路町史」には次のように記されていました。

 ポントマリ(浦雲泊) 舟がかりができる小さな入江
 ポン(小さい)トマリ(停泊港)を意味しており、直訳すると小さい舟がかりの澗となるが、ここは沖合の岩場で波が沈み、渚はおだやかな舟がかりの澗になっており、舟の出入りも出来ることから「ポントマリ」と名付けられたと解する。
(釧路町史編集委員会「釧路町史」釧路町役場 p.125 より引用)
そんなところなのでしょうね。pon-tomari で「小さな・泊地」と見て良さそうです。

十町瀬(とまちせ)

tuyma-chise-ne-p?
遠い・家・のような・もの
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
浦雲泊ぽんとまりの 1.3 km ほど西の地名で、同名の川も流れています。あまりに普通の当て字なので、毎度おなじみ「釧路町の難読地名コレクション」その 11 ……と言っていいのか、ちょっと不安も(#1「重蘭窮」、#2「知方学」、#3「老者舞」、#4「分遣瀬」、#5「賤夫向」、#6「入境学」、#7「初無敵」、#8「冬窓床」、#9「跡永賀」、#10「浦雲泊」)。

「向こうの家」説

加賀家文書の「クスリ地名解」(1832) には次のように記されていました。

トマチセ トウ・チセ 向う・家
  此所少し沖に家のよふな岩有を名附由。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.261 より引用)
to-oma-chise で「沼・そこにある・家」と考えたのでしょうか。ただ「家のある沼」なら理解できるものの、「沼のある家」というのはちょっと理解に苦しみます。

「遠くからトドの声が聞こえる」説

「東蝦夷日誌」(1863-1867) には次のように記されていました。

トマチセ(小岩)本名トイマチヌフ、名義、遠くより海獱トド(あしか)の聲を聞と云由。岬を廻りて嶋一ツ有。また廻りて(一丁五十間)トマチエナイ(小澤)、此處え山道より下るなり。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.317 より引用)
む……。「トマチセ(小岩)」こと「トイマチヌフ」と「トマチエナイ(小澤)」が存在する、と言うのですね?

「トマチセ」は二つあった?

ちょっと不穏な感じがしてきたので、表にまとめてみましょうか。

クスリ地名解 (1832)ア子ワタラトマチセ
初航蝦夷日誌 (1850)ア子ワタラトマチヱ
竹四郎廻浦日記 (1856)アン子ワタラトマチセ子ツフトマチセ
辰手控 (1856)-トマチセ
午手控 (1858)アン子ワタラトマツエヌフ(トヰマチヌフ)
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)トマチエナイア子ワタラトマチエヌフ
東蝦夷日誌 (1863-1867)アネワタラ(大岩)トマチセ(小岩)トマチエナイ(小澤)
改正北海道全図 (1887)アネハタラ--
永田地名解 (1891)アネ ワタラトマ チエ ヌㇷ゚
北海道地形図 (1896)ア子ワタラトド島トマチェヌㇷ゚
北海測量舎図ア子ワタラトト嶋トマチエヌプ
陸軍図 (1925 頃)立岩トド岩十町?
地理院地図立岩トド岩十町瀬

とりあえず「東西蝦夷山川地理取調図」の信頼性が低そうだ……と言って良さそうでしょうか。記録された地名は似て非なるものが多いのですが、気になったのが「竹四郎廻浦日記」と「東蝦夷日誌」の記録です。

「竹四郎廻浦日記」は「トマチセ子ツフ」と「トマチセ」という地名を記録しているのですが、この「トマチセ子ツフ」は tuyma-chise-ne-p で「遠い・家・のような・もの」と読めます。「トド岩」はどことなくタープに似た形をしているので、「家のようなもの」と呼んだとしても不思議は無さそうだなぁ、と。

そして「東蝦夷日誌」は現在の「十町瀬」のあたりに「トマチエナイ」という川の存在を記しています。こちらは toma-chi-e-nay で「エゾエンゴサクの根・我ら・食べる・川」と読めそうな気がします。

両者は関係あり? それとも偶然似ただけ?

問題はここからで、果たしてこの至近距離にある地名が「派生地名」なのか、それとも全く無関係の「似た地名」なのか、という点です。

「トマチセ」と「トマチエナイ」という酷似した地名がたまたま並んだというのは俄に信じがたいですが、仮に「トド岩」が「トマチセ子ツフ」で、そこから「トマチエナイ」という川名に派生した……というのも疑わしく思えます。

と言うのも、「十町瀬川」の河口のすぐ近くに「ヲヤウシワタラ」(現在の「タコ岩」)があるので、わざわざ 440 m ほど離れた「トド岩」から川名を拝借する必要も無いんじゃないか……と思えるのですね。

更科さんの「アイヌ語地名解」(1982) には次のように記されていました。

この地名もアイヌ語のトマ・チエ・ヌㇷ゚(……の野)に漢字を当てたという。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.267 より引用)
どうやら toma-chi-e-nu-p で「エゾエンゴサクの根・我ら・食べる・原野」ではないか……ということですね?

チエは吾々が食うという意であるが、えんごさくと野の間にこの言葉が入るのはおかしい。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.267 より引用)
そうなんですよね。もちろん今とは異なる語順で会話していた時代があった可能性もゼロでは無いのですが、toma-chi-e- の類例が思い出せないのです。ついでに言えば toma-ta-kar(どちらも「掘る」「刈る」と言った意味)で受けるのが一般的で、「エゾエンゴサクの根をその場で食う原野」というのは変な感じがします。

「関係あり」と考えてみました

興味深いことに、「タコ岩」と「トド岩」はサイズが異なるものの、どちらも似たような形をしています。「タコ岩」は陸繋島のようになっているので o-ya-us-watara で「尻・陸・つけている・岩」と記録されていますが、chise-ne-p で「家・のような・もの」と呼んだとしても不思議はない形です。

ついでに言えば、tuyma-chise-ne-p(=「トド岩」)は chise-ne-p が存在したが故に tuyma- を冠する必要があった、とも言えるかもしれません。

「トマチセ」という地名が、すぐ傍にある「タコ岩」ではなく、やや離れた沖合にある「トド岩」に由来するというのは変じゃないか……という話に戻ってしまうのですが、「トド岩」(= tuyma-chise-ne-p で「遠い家のようなもの(岩)」)が舟行の際のランドマークとして重宝された……とかかなぁ、と想像してみました。

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