2023年10月9日月曜日

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「日本奥地紀行」を読む (153) 小繋(能代市) (1878/7/28(日))

 

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十六信」(初版では「第三十一信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

船頭溺れる(続き)

米代川の左右に山が迫る難所があるため、切石(能代市二ツ井町)から小繋までは舟行を余儀なくされたイザベラ一行。悪天候にも関わらず小繋に戻る舟を無理やり捕まえて乗り込んだものの、近くにいた屋形船が制御不能に陥り、船を捨てて脱出を試みた船頭が次々と川に流される……という惨劇を目にしたイザベラでしたが……

 船の形は、河川によっていろいろと異なっている。この川では二つの型がある。私たちの船は小型で、平底船である。長さ二五フィート、幅は二フィート半。水面上がたいそう低く、両舷が少し内側に曲がっている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.287 より引用)
これはまた、いきなり何事も無かったかのように解説が始まりましたね(汗)。どうやら最悪の事態は脱したということなのか、あと少しで小繋(能代市二ツ井町)に到着するようです。

 夕闇が迫ると、霧雨も晴れて、絵のように美しい姿をした地方が見えてきた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.287 より引用)
日頃は「みすぼらしい村」とか「見ばえが悪くみじめなところ」などと舌鋒の鋭いイザベラ姐さんですが、今回は「絵のように美しい」と来ましたか。これもある種の「吊り橋効果」なんでしょうか……?

川を渡るためには、目指す地点の上流ヘ一マイルたっぷり行かねばならなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.288 より引用)
ちょっとこの意味を取りかねていたのですが、イザベラ一行の乗った舟は現在の「琴音橋」の近くで小繋の集落を見て、そこから 1 マイル(約 1.6 km)ほど遡って小繋に向かった……ということでしょうか?

そこから大至急で数分かかって向こう岸の船着き場に着いた。そこは暗い森の中の深くて骨の折れる泥水で、私たちはそこのひどい道を手さぐりで進み、やっと宿屋に来た。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.288 より引用)
「深くて骨の折れる泥水」という表現がちょっと気になったのですが、原文では a deep, tough quagmire とのこと。quagmire は「泥沼」や「湿地」を意味し、比喩的には「苦境」や「窮地」を意味するみたいです。暗い森の中を移動していたのであれば、実際に「泥沼」や「湿地」だった可能性が高そうです。

一見みすぼらしい宿、でも実際は

一歩間違えれば遭難の可能性もあった中、ほうほうの体で宿屋に辿り着いたイザベラでしたが……

暗いは、足首まで深いぬかるみであった。台所ダイドコロは天井がなく、屋根や垂木はすすで黒かった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.288 より引用)
まぁ、お世辞にも「感じのいい宿」では無さそうな感じでしょうか。ただ土間がぬかるんでいたのは折からの長雨の影響だと思われるので、ある程度は差し引いて考えるべきなのかも……?

の燃えている火を囲んで、十五人の男や女、子どもが、暗く灯っている行灯アンドンの灯火の傍で何することもなく横になっていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.288 より引用)
どことなく白黒映画のワンカットのようですね。「何することもなく横になっていた」とありますが、もしかしたら長雨による渡河禁止命令で足止めを食らっていた、ということかもしれません。例によってイザベラはハードモードな宿に泊まる羽目になったのか……と思わせたのですが……

ここはたしかに絵のように美しかった。奥の方の暗くぼんやりしたところにりっぱなフスマが出されると、大名ダイミヨーの座敷が現われたようで、私は充分に満足な気持ちになった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.288 より引用)
あれ、どうやら宿には上客向けの部屋があったようで、イザベラの印象も随分と良いものだったようです。

夜の騒ぎ

相変わらず雨が降り続く中、イザベラはこの日の唯一の「収穫」だった「百合の花」を宿の主人に贈ったところ……

それを宿の主人にあげたら、朝になると神棚カミダナの貴重な古薩摩サツマ焼の小さな花瓶の中で咲いていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.288 より引用)
ちゃんと花瓶も用意されていたりするあたり、この宿屋はなかなか裕福な家だったっぽいですね。

首相暗殺!?

身も心も疲れ切っていたであろうイザベラが寝入っていたところ、いきなり伊藤がやってきてイザベラを起こすという事態が発生しました。伊藤は旅行者からただならぬ噂を耳にしたため、それをイザベラに告げに来たようです。

首相が暗殺され、五十人の警官が殺されたという。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.288 より引用)
イザベラが北海道に向かっていたのは 1878(明治 11)年ですが、これは西南戦争の翌年なんですよね。まだまだ明治新政府に反感を持つ層が少なくなかった時代なので、首相が暗殺されても不思議はない情勢だったとも言えます。ただイザベラは伊藤の「速報」を一笑に付した……かどうかはわかりませんが……

《後に私が北海道に着いたときに知ったのだが、近衛部隊の一部が反乱したのを、誤って伝えたものであろう》。このように都から遠く離れたところでは、実にばかげた政治的伝聞が広まるのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.288 より引用)
さすがイザベラ姐さん、肝が据わっていますね。

この十年間の政治的大変動や、最近の首相の暗殺の後は、農民たちが現在の政治体制を信用していないとしてもふしぎではない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.288-289 より引用)
「この十年間の政治的大変動」は「明治維新」のことですが、「最近の首相の暗殺」が何を意味するのか……? 比較のため時岡敬子さんの訳を確認したところ、こちらは「内務大臣暗殺」となっていました。

原文は次のようになっていました。

Very wild political rumours are in the air in these outlandish regions, and it is not very wonderful that the peasantry lack confidence in the existing order of things after the changes of the last ten years, and the recent assassination of the Home Minister.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
あ……。the recent assassination of the Home Minister. とありますね。Prime Minister では無いので、これは高梨さんがやらかしたかな……?

ちなみにこの the recent assassination of the Home Minister は内務卿だった大久保利通が暗殺された「紀尾井坂の変」のことだそうです。「紀尾井坂の変」は 1878(明治 11)年 5 月 14 日の出来事で、イザベラが日本に上陸する一週間ほど前の出来事だったことになります。

謎の「近衛部隊の反乱」

ちょっと気になるのが、イザベラが「近衛部隊の一部が反乱した」と記した事件についてです。これは「竹橋事件」のことである可能性があるのですが、「竹橋事件」は 1878(明治 11)年 8 月 23 日に発生しているので、イザベラが秋田県にいた 1878(明治 11)年 7 月 29 日の時点では未発生なのですね。となると伊藤が掴まされた「噂」とは一体何だったのか……という疑問が出てきます。

イザベラは伊藤が持ち込んだ「噂」を信用しなかったものの、やはり不安は隠せなかったようです。そんな中、数時間後に、今度はこめかみから出血した伊藤がイザベラの元に現れます。またしても政変の噂が駆け巡る中、伊藤の身に果たして一体何が起こったのか……!?

日本人の夜分の悪い習慣だが、煙管キセルに火をつけようとして火鉢の端に頭を打ったという。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.289 より引用)
……。

私は非常の場合に備えて、いつも日本の着物をつけて眠るから、すぐさま彼の頭に包帯をしてやり、また眠ったが、翌朝早く豪雨の音で眼がさめた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.289 より引用)
イザベラは伊藤の「ご主人さま」であり、伊藤はイザベラのアシスタントの筈ですが、夜中にご主人さまに包帯を巻かせるとか、何やってんですか伊藤……。

子どもたちの教育

さて、ここからは「普及版」でカットされた部分です。イザベラは、学校の無い地域では子どもが教育を受けられずにいる……という認識だったものの、その認識が間違いだったことに気づいたようです。

小繋コツナギでは、私が滞在した他の幾つかの小村と同様に、村の最も主だった住民たちが、自分たちの子どもたちの教育をしてくれる一人の若い青年を確保して、彼に対して、衣服を提供したり、また食事や住居を提供したりする。比較的貧しい者は月謝を払い、最も貧しいものは無償で彼らの子どもに教育を与えることが出来るように取り計らってやる。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.111-112 より引用)
どうやら「寺小屋」と「小学校」の間にも、コミュニティベースで提供された「私塾」が存在していた、ということのようです。

これはどこででも見られる習慣のようである。小繋では私を泊めている家の主人は先生に食事と住居を提供し、30人の勉強好きの子どもたちが台所ダイドコロの一部で教育を受けていた。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.112 より引用)
今の日本では「子ども食堂」が増加の一途を辿っていて、これは政府の無為無策を民間レベルでフォローした結果であるにもかかわらず、当の政府には全く問題意識が無いという悪い冗談のような話になっています。明治初頭の日本でも、初等教育が行き届いていない状態を、民間の有志がフォローしていた、ということになりそうですね。

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