(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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ヲクトスベ
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
釧路町古番屋(かつての仙鳳趾)の 0.6 km ほど南東にある地名です。例によって地理院地図には記載がありませんが、Google Map や Mapion などには記載されています。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「ヲークトシベ」と描かれていました。古番屋(かつての仙鳳趾)から先は海沿いを進むと(尻羽岬経由)明らかに遠回りになるため、山道をショートカットして
ヲークトシヘ ツヲホ・トシ・ヘツ 深・縄・川
極小川に候得共、磯より少し引上り深く縄のよふに長きを名附由。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.263 より引用)
ooho-tus-pet で「深い・縄・川」と解したのでしょうか。tus は「縄」を意味しますが、同時に「蛇」の忌み言葉でもあるので、あるいは蛇が良く出る川だった……という可能性もあるかもしれませんね。やや珍妙な解にも思えますが、「ヲークトシヘ」と「ヲークトシベ」がそっくりなところが気になります。また「東蝦夷日誌」(1863-1867) には次のように記されていました。
(五丁廿四問)ヲトクトシベ(大岩)名義、岩岬段々になるを以て號く。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.320 より引用)
永田地名解 (1891) には次のように記された箇所があります。これが「ヲクトスベ」のことでしょうか?O-kut ush pet オクッ ウシュ ペッ 層瀑川 段々ニナリタル瀧川ニ名クト云フ明治時代の地形図にも「オクッウシュペツ」と描かれていました。あ、伊能忠敬の「大日本沿海輿地図 (1821) 」にも「ヲクトシベ」と描かれていますね。今更ですが表にしてみるとこんな感じです。
大日本沿海輿地図 (1821) | ヲクトシベ |
---|---|
加賀家文書「クスリ地名解」 (1832) | ヲークトシヘ |
初航蝦夷日誌 (1850) | - |
竹四郎廻浦日記 (1856) | - |
東西蝦夷山川地理取調図 (1859) | ヲークトシベ |
東蝦夷日誌 (1863-1867) | ヲトクトシベ |
永田地名解 (1891) | オクッ ウシュ ペッ |
明治時代の地形図 (1897 頃?) | オクッウシュペツ |
Google Map | ヲクトスベ |
この表を見ると、「東蝦夷日誌」の「ヲトクトシベ」が若干ノイズっぽい感じで、あとはほぼ似たような表記になっています。kut は「帯状に岩のあらわれている崖」なので、o-kut-us-pet は「河口・帯状に岩のあらわれている崖・ついている・川」と見て良さそうな感じですね。
ポンタラウシ
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
ヲクトスベから 1 km ほど南東にある海沿いの地名です。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) にはそれらしい地名が見当たりません。辞書には、tara は「俵」を意味する日本語からの借用語彙とあります。なんとなく地名にはなりそうに無い感じでしょうか。
地名でちょくちょく見かける語としては taor があり、「地名アイヌ語小辞典」(1956) には次のように記されています。
taor, -i/-o タおㇽ ①川岸の高所。②【ビホロ】[<ra-or(低・所)]。沢の中;低い所。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.128 より引用)
この taor、「高い所」なのか「低い所」なのか今ひとつ釈然としないところもあるのですが、現地の地形を見た感じでは「川岸の高所」と見たほうがしっくり来るでしょうか。pon-taor-us-i で「小さな・川岸の高所・ついている・もの(川)」で、「別尺泊2号川」の流域を指したのかな……と想像してみました。「アザラシが多い」説?
ちょっと気になる点として、加賀家文書「クスリ地名解」(1832) は「ヲークトシヘ」(=ヲクトスベ)の東隣の地名として次のように記しています。トカリヱシユヘツ トカリ・ウシ・イショ・ベツ あざらし・居・名の ・川
此所に滝有。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.263 より引用)
これは tukar-us-iso-pet で「アザラシ・多くいる・水中の水かぶり岩・川」と読めるのですが、tukar-us だと「トゥカルシ」で「タラウシ」と似ているような、そうでもないような……(どっちだ)。「トカリヱシユヘツ」は「ヲクトスベ」と「別尺泊」の間に記録されているので、「ポンタラウシ」と同じ、あるいは極めて近い場所だった可能性があるので、「トゥカルシ」が「タラウシ」に化けた……のかも?
別尺泊(べつしゃくどまり)
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
ポンタラウシと尻羽岬(シリッパ岬)の間の地名で、地理院地図にも記載がありますが、何故か Google Map の「ポンタラウシ」の位置に「別尺泊」の文字があります。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「ヘツシヤクトマリ」と描かれています。明治時代の地形図には「ペシヤクトマリ」とあり、陸軍図には「別尺泊」とあります。
「川の乾く船着場」説
「北海道地名誌」(1975) には次のように記されていました。別尺泊(ぺっしゃくどまり)厚岸湾に面した小漁村。アイヌ語「ペッ・サㇰ・トマリ」で,川の乾く舟着場の意。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.670 より引用)※ 原文ママ
一般的には「乾く」は sat で、pet-sak-tomari だと「川・持たない・泊地」になりそうですが、これは意訳したということでしょうか。「水際の崖の傍の船着場」説
鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」(1995) には、次のように記されていました。ぺㇱヤクトマリ
別尺泊(地理院 営林署図)
尻羽岬から厚岸湾に向かう、海岸線1.5キロ付近の地名である。
ベㇲサㇺ・トマリ「pes-sam-tomari 断崖のそばの、船着場(入江)」の意である。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.284 より引用)※ 原文ママ
ふむふむ。確かに pes-sam-tomari で「水際の崖・傍・泊地」と読めますね。ボンサー泊???
「東蝦夷日誌」(1863-1867) には次のように記されていました。(一丁五十間)サクシヽエト(岬)名義、夏分喰料を取に行義なりと。(四丁五十問)チエクベツ、(一丁四十間)ボンサクシヽ、(三丁廿間)ボンサー泊〔別尺泊〕(大平)、大岩峨々、質に天下の奇観也。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.320 より引用)
「ボンサー泊」が「別尺泊」だと言うのですが……これは一体……?「水を持たない泊地」説
幸いなことに「クスリ地名解」(1832) に答らしきものがありました。ホンサートマリ ベ・サ ・トマリ 水・無・澗
此所小澗御座候得共、汐干に相成候節は岡 同様に相成故右名附由。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.263 より引用)
小さな泊地があるものの、どうやら水深が比較的浅かったようで、干潮の際には陸のようになる……とありますね。実はそっくりの記述が「午手控」(1858) にもありました。ヘシヤクトマリ
本 ベーシャクトマリ。水無澗也と云
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.342 より引用)
どうやら pe-sak-tomari で「水・持たない・泊地」と考えられそうですね。pes-sam-tomari も違和感のない解ではありますが、古い記録が軒並み「シヤク」なのがやや不利に働くでしょうか。まさかの「鍋無し泊」説
ということで、どうやら pe-sak-tomari でいいんじゃないか……という雰囲気になってきましたが、永田地名解 (1891) にはこんな解が記されていました。Shu satk tomari シュウ サック トマリ 鍋ナシ泊
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.333 より引用)
あの……、もしもし? どうやら「東西蝦夷──」にある「サクシヽ」をSak shu ushi サㇰ シュウ ウシ 夏鍋
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.333 より引用)
と考えたらしく、そこからの類推なんだと思われますが、そもそも「夏鍋」自体が限りなく意味不明なのが……。この調子だと「尻羽岬」も「ジンパ」(ジンギスカンパーティ)になりそうで、続報が待たれますね(ぉぃ)。www.bojan.net
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