2023年9月16日土曜日

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北海道のアイヌ語地名 (1072) 「ユキラナイ・ショシャモナイ」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ユキラナイ

yuk-ru-e-ran-i
鹿・道・そこで・降りる・ところ
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
釧路仙鳳趾と古番屋(移転前の仙鳳趾)の間の地名で、地理院地図には記入がありませんが、何故か Google Map や Mapion には記載されていたりします。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「ユクルエラン」と描かれているので、古くからある地名と見て良さそうですね。「初航蝦夷日誌」(1850) には「ユルクルヱラニ」とあり、「東蝦夷日誌」(1863-1867) にも「ユクルイラン」とあります。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Yuk eran ushi   ユㇰ エラン ウシ   鹿下リ來ル處
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.333 より引用)
また加賀家文書の「クスリ地名解」(1832) には次のように記されていました。

ユクルヱラニ ユク・ルヱ・ラン 鹿・道・下り
  先年此所え鹿追下しを斯名附由。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.263 より引用)
うーん。加賀家文書「クスリ地名解」は 1832()年で、永田地名解よりも 60 年近く古いんですが、「クスリ地名解」のほうがより正確に見えてしまいますね。加賀伝蔵はアイヌ語通辞(通訳)から身を立てた人物なので、当然といえば当然なのかもしれませんが……。

「ユキラナイ」は yuk-ru-e-ran-i で「鹿・道・そこで・降りる・ところ」と見て良さそうです。「ユクルエラニ」が転訛に転訛を重ねて「ユキラナイ」に化けてしまった……ということなんでしょうね。

ショシャモナイ

usam-oma-i??
互いのそば・そこにある・もの(崖?)
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
Google Map や Mapion ではユキラナイの南東隣の地名として描かれています。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には見当たらないので困ったな……と思っていたのですが、いくつかの文献でそれらしい地名を見かけました。例によってささっと表にしてしまいましょうか。

大日本沿海輿地図 (1821)-ベツフツ?ホンセンホウシ
加賀家文書「クスリ地名解」 (1832)シュサモヲマエユクルヱラニセンホウシ
初航蝦夷日誌 (1850)ユルクルヱラニゼンホウジ
竹四郎廻浦日記 (1856)スサンマイ?マクラン?センホウシ
手控 午第六番 (1858)シユシヤモマイユフケラニセンホウシ
手控 午外第一番 (1858)シュサモマイユクレラニセンホウシ
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)ユクルエランセンホウシ
東蝦夷日誌 (1863-1867)シユサモマイユクルイランセンポウジ
永田地名解 (1891)ユㇰ エラン ウシチェㇷ゚ ポオチ
明治時代の地形図 (1897 頃?)--元仙鳳趾
Google Mapユキラナイショシャモナイ古番屋/フルセンポウチ

「ショシャモナイ」は「加賀家文書」の「シュサモヲマエ」、「竹四郎廻浦日記」の「スサンマイ」、「午手控」(1858) の「シユシヤモマイ」、「東蝦夷日誌」の「シユサモマイ」に相当するように思えます。

表にすると一目瞭然ですが、加賀伝蔵も松浦武四郎も「ユキラナイ」と「ショシャモナイ」の位置関係を逆に記しています(「ショシャモナイ」のほうが北西側にあると記録している)。

「ししゃものいる所」説

加賀家文書「クスリ地名解」(1832) には次のように記されていました。

シュサモヲマヱ シユサモ・マヱ シュサモ・有所
  此所に小川有、シュサモと申さかな有を名附由。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.264 より引用)
susam-oma-i で「シシャモ・そこにいる・ところ(川)」と解したようですね。

「並んでいる所」説

ところが「手控 午外第一番」には次のように記されていました。

シュサモマイ
 此岬のかげ(蔭)の事也。本名ウシヤモマイ。ウシヤムは并びて有ると云
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.342 より引用)
「東蝦夷日誌」にも同様の解が記されていました。

ならびて(二丁三十六問)シュサモマイ、本名ウシヤモマイにて、ならびて有との儀也。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.322 より引用)
usamu-sam)で「互いのそば」を意味するので、usam-oma-i で「互いのそば・そこにある・ところ」と解した……ということなんでしょうね。

「シュサモマイ」は何処に

加賀伝蔵は「ししゃもがいる川」とし、松浦武四郎は「並んだ川」とした……と思ったのですが、地形図を見た限りでは川が並んでいるようには見えません(「古番屋」の「古番屋川」の東隣に名称不詳の川が流れていますが、場所が合わないので)。

ただ、よく見ると松浦武四郎は「並んでいる」とだけ記していて、何が並んでいるのかは言及していません。「シュサモマイ」の位置ですが、「東蝦夷日誌」によると次のように里程が記されていました。

ベツブト(川幅五六間)別太川河口?
十丁廿四間≒ 1,134.54 m
シユサモマイ-
二丁三十六間≒ 283.64 m
チエベシ(小川)-
三丁四十間≒ 400 m
ヲツカケシチクシ(崖)-
四丁四十間≒ 509.09 m
ユクルイラン(小瀧)-
六丁四十間≒ 727.27 m
センポウジ(番屋)フルセンポウチ

里程のメートルへの変換は https://keisan.casio.jp/exec/system/1315358108 で行いました。これは参考に過ぎないものですが、「センポウジ」から「ベツブト」までの里程を合算すると 3,054.54 m となり、かなりリアリティのある数字になっています(実際には 3.3 km ちょい?)。

上記の里程に従い「センポウジ」(=フルセンポウチ)から場所を推定していくと、「ユクルイラン」は「古番屋」の北西 720 m のあたりを流れる名称不詳の河川に相当する可能性が出てきます(現在の「ユキラナイ」とは位置が異なります)。

「ユクルイラン」の可能性がある川から 909.09 m ほど北に進んだ崖の上には「古番屋」四等三角点(標高 99.9 m)があります。「東蝦夷日誌」はここに「チエベシ」という「小川」があるとしていますが、川が存在しそうな場所ではありません。

「チエベシ」というネーミングは川のようには思えないのですが、「午手控」(午外第一番)を見てみたところ……

リヘシ
 善法寺の向の岩の(さき)の上の山の名也
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.342 より引用)
どうやら ri-pes で「高い・水際の崖」のようなので、やはり「小川」ではなく「崖」と見るべきでしょう。

松浦武四郎は「チエベシ(小川)、幷て(二丁三十六間)シユサモマイ」と記していて、「シユサモマイ」の「属性」については特に触れていませんが、「チエベシリヘシ」は小川ではなく崖の可能性が高いので、「シユサモマイ」が「小川」だったと考えると実際の地形にも合致します。

また「シユサモマイ」が「小川」(地理院地図では川ではなく谷として描かれている)だとした場合、十丁廿四間(≒ 1,134.54 m)先に「別太川」河口が存在することになり、これも里程とおおよそ一致します。

崖が並んでいた?

面白いことに、Google Map には「シユサモマイ」だったと思しき場所に「ユキラナイ」とあり、「チエベシ」だったと思しき崖に「ショシャモナイ」とあります。「川が並んでいる」とは言えない地形ですが、「崖が並んでいる」とは言えそうな気もします。

加賀伝蔵が記した susam-oma-i で「シシャモ・そこにいる・ところ(川)」という解は、文法的には違和感の少ないものですし、広域的なシシャモの分布からも違和感の無いものです。ただ、この谷にシシャモが遡上したと考えるのは、生態を考慮するとちょっと厳しそうに思えます。

となると、やはり「崖が並んでいる」ことを形容して usam-oma-i で「互いのそば・そこにある・もの(崖)」と呼んだ……とすべきなのでしょうか。類例が無さそうな上に「ウ」が「シュ」に転訛したことになるので、これはこれで色々と疑問が残るのですが……。

シュサモマイに異国人はいたか

ついでに言えば、{si-sam}-oma-i で「{隣国人}・そこにいる・ところ」とも読めそうな気がするのですが、そういった話が全く出てこないのもちょっと不思議な感じがしますね。

si-sam は「日本人」を意味することが多いですが、場所が場所だけに日本人以外の「異国人」が流れついた可能性もゼロでは無いかもしれませんし……。

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