2023年9月3日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1069) 「茶々古丹・ヤワコタン」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

茶々古丹(ちゃちゃこたん)

sa(-wa-an)-sak-kotan?
浜のほう(・に・ある)・夏・村
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
尾幌分水の南、釧路仙鳳趾の北の海沿いに位置する地名です。こんな地名があったのか……と驚いているのですが、Google マップでも表示されているんですよね。

トドマツの枝?

伊能大図 (1821) には「フツテキコタン」という村が描かれていました。どうやら huptek で「トドマツの枝」を意味するとのこと。知里さんの「植物編」(1976) にも次のように記されています。

(3) huptek(húp-tek)「ふㇷ゚テㇰ」[hup(トドマツの)tek(手)]枝《北海道各地》
  注 4. ──北海道北東部(十勝・釧路・北見)でわ húttek と發昔する人が次第に多くなっている。
(知里真志保「知里真志保著作集 (1973) 別巻 I『分類アイヌ語辞典 植物編』」平凡社 p.234 より引用)※ 原文ママ

おじいちゃんの村?

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) にはそれらしい地名が見当たりませんが、「午手控」(1858) には次のように記されていました。

チャチャコタン むかし土人住居のよし
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 五」北海道出版企画センター p.232 より引用)
また「東蝦夷日誌」(1863-1867) にも次のように記されていました。

チヤチヤコタン(小川)老人村の義。此邊波静なる故、老人共多く殘り、漁をする故此名有と。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.322 より引用)
国後島の「爺爺ちゃちゃ岳」と同様に、chacha-kotan で「老爺・村」ではないか……ということですね。「地名アイヌ語小辞典」(1956) にも次のように記されていました。

chácha ちゃチャ もと老爺の意。地名では onne(年老いた,古い)の意を表わすらしい。~-kotan【C】[じじい・村](大昔から住み親しんで来た村)。~ -nupuri【C(クナシリ島); H 北(シレトコ半島)】[じじい・山](大昔から崇拝して親しんで来た山)。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.13 より引用)
どうやら chachaonne と同義だと見て良さそうな感じですね。

浜の方にある夏の村?

ところが、明治時代の地形図には「ササココタン」と描かれていました。「サココタン」であれば sak-kotan で「夏・村」と解釈できますし、sa-wa-an-sak-kotan で「浜のほう・に・ある・夏・村」だったものが -wa-an が略されて、sa-sak-kotan で「浜のほう・夏・村」になった……とも考えられます。

面白いことに、「茶々古丹」の「茶」の字は「ちゃ」とも「さ」とも読むことができます。元は「茶々古丹」を「ささこたん」と読ませていた……と考えたりもしたのですが、そうすると松浦武四郎が「チャチャコタン」と記録していたことと整合性が取れなくなる……ので却下、ですね。

更にややこしいことに、cha は「枝」を意味する名詞で、また「切る」を意味する動詞でもあります。(そもそもそういう表現があり得るのかはさておき)cha-cha で「枝・切る」と解釈できそうな感じもするのですが、そう言えば伊能大図には「フツテキコタン」とあり、これは「トドマツの枝・村」じゃないか……という話もありました。

これらの解は全てリンクしている……と言うよりは、言葉遊びというか洒落っ気が感じられるような気もします。「トドマツの枝の村」か、それとも「老爺の村」か、あるいは「浜のほうにある夏の村」か……という話になるのですが、諸事情を鑑み(ぉぃ)「浜のほうにある夏の村」が本命かなぁと考えています。

「トドマツの枝の村」については「茶々古丹」と同一の場所を指していたか確証が持てないということで、已む無く棄却しました。

ヤワコタン

ya-wa-an-kotan?
陸のほう・に・ある・村
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
釧路町仙鳳趾の北部、茶々古丹の西に位置する地名です。明治時代の地形図には描かれていませんが、「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「ヤコタン」という地名が描かれています。

「初航蝦夷日誌」(1850) には次のように記されていました。

行ことしばしニ而
     チフランケウシ
少しの岩岬有るなり。越而
     トウロ
幷而
     ヤウコタン
漁小屋有。浜形正東向にし而波なくし而漁。事よろし。
(松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.381 より引用)
この「トウロ」は標茶の「塘路」とはおそらく無関係で、現時点では謎の地名なのですが、それはさておき。「ヤウコタン」に「漁小屋有」としているところも気になりますが、これはもしかしたら「チャチャコタン」こと「ササココタン」のことを「ヤウコタン」として記録している可能性もありそうでしょうか。

「竹四郎廻浦日記」(1856) には次のように記されていました。

並てワツコタン(クスリ領)、トウロ、チフランケウシ、ヘツフト、スサンマイ、マクラン等廻り来りてセンホウシ番屋元へ出る也。
(松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 下」北海道出版企画センター p.439 より引用)
ここでは「ワツコタン(クスリ領)」となっていますね。

「午手控」(1858) には次のように記されていました。

チフランケウシ 船を出したるよし
ヒヤウコタンケシ むかし番屋無処、一番始に番屋が有しによって号
チャチャコタン むかし土人住居のよし
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 五」北海道出版企画センター p.232 より引用)
これは「ヒヤウコタンケシ」が「ヤワコタン」に相当するでしょうか。

「東蝦夷日誌」(1863-1867) にも次のように記されていました。

(四丁十問)ヤウコタンケシ(番屋、板蔵)、是久摺場所番屋建初の處なり。又東の村の端と云と。此處迄一里計の間、漁や續きなれば其名有もむべ也。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.322 より引用)

陸のほうにある村?

今更感がありますが、表にまとめておきましょうか。

初航蝦夷日誌 (1850)ヤウコタンチフランケウシ
竹四郎廻浦日記 (1856)ワツコタンチフランケウシ
午手控 (1858)チャチャコタンヒヤウコタンケシチプランケウシ
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)ヤツコタンチフランケウシ
東蝦夷日誌 (1863-1867)チヤチヤコタン
(小川)
ヤウコタンケシ
(番屋)
チフランケウシ
永田地名解 (1891)--チㇷ゚ ランケ ウシ
明治時代の地形図 (1897 頃?)サヽココタン--
現在の地名茶々古丹ヤワコタン重蘭窮ちぷらんけうし

ということで、「ヤワコタン」あるいは「ヤウコタン」をどう解釈するかなんですが、ya-wa-an-kotan で「陸のほう・に・ある・村」あるいは ya-o-kotan で「陸のほう・にある・村」だったのでは、と考えてみました。

「コタン(村)が陸のほうにあるのは当たり前やないかい、責任者出てこい!」という話ですが(またか)、要はこのあたりの住民は、夏場は浜辺のコタン(=ササココタン)で過ごし、短い夏が終わると内陸側のコタン(=ヤワコタン)に戻っていたのではないか……という話です。

改めて表を見てみると、「茶々古丹」と「ヤワコタン」をしっかり区別して記しているケースが意外と少ないことがわかるのですが、この二つのコタンは半ば同然に見られていたからではないか……とも考えたくなります。

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